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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 ――あの星が欲しい。
 ユタがそういったのは、リュカが十、ユタが六つのときだった。
 小さな弟が指差した冬の空には、ほかの星よりひときわ眩しく光る、青く澄んだ星があった。それは地元の人々がアス・ハティト《神鳥の眼》と呼ぶ星で、冬至のその日、夜の遅い時間に東の空からゆっくりと上り、ちょうど真夜中に天頂に煌々と輝く。
 星をねだられたリュカは困惑して、懐に入れていたちいさな玻璃玉を出した。玻璃といっても安物で、祭の夜店で売っているような子どもだましの玩具だが、それでもふだんの彼らの手には入らない、ぜいたく品には違いなかった。リュカが仕事を手伝っている玻璃工房の職人が、細工を失敗したからといって、持たせてくれたのだ。
 ――これじゃだめか。お前、前から欲しがってただろう。
 兄の手のひらに乗った小さな玉を眺めて、ユタはちょっと考え込んだ。玻璃玉は星明りを受けて、うす蒼く輝いてる。小さな傷が入っているので、売り物にならないのだといわれたけれど、それは二人の目には、じゅうぶんに美しく映った。
 けれどユタは少し迷ったあとで、ふるふると首を振った。
 ――あの星がいい。
 ――そうか。
 リュカはしかたなく頷いて、玻璃玉を懐に戻した。
 ハティトは隻眼の鳥で、空におわす神々の言伝を嘴に咥えて、地上へと運んでくるのだという。神々が使う文字は、人のそれとは違っていて、城につとめているような、立派な神学者にしか読めないのだそうだ。
 そんなたいそうな鳥の眼をほしがる弟を、兄としては叱って諌めるべきだったのかもしれないが、あいにくリュカにとっては、天高くに住まう神々からの天罰よりも、明日に食べるものの心もとなさや、家に帰ったらきっと彼らに手を挙げるに違いない飲んだくれの父親といった、眼の前の不安のほうが、よほどおそろしかった。
 ――じゃあ、いつか、兄ちゃんがとってきてやる。
 ――ほんとに?
 ぱっと頬を上気させて、ユタは笑った。ほんとうだ、と答えるかわりに、リュカは弟の頭に小さな手のひらを載せて、やわらかい髪をかき回した。
 ――でも、どうやって?
 問われてリュカは首をかしげた。
 ――さあ。世界で一番高い樹の上にのぼるとか。
 ――それでも手が届かなかったら?
 ――そうだな。砂漠の馬賊にでも弟子入りして、拳銃を習おうかな。
 リュカがそういうと、ユタは黒い眼をぱちくりさせた。まつげが頬に影を落とすほど、その日の星明りはまぶしく、家路を歩く二人の足元を、あかるく照らし出していた。
 ――星を撃ち落すの。
 ――そうだ。
 リュカがいうと、何が嬉しかったのか、ユタはぴょんぴょんと飛び跳ねた。うさぎのように軽やかに飛び跳ねる弟の、小さく熱い手を、離れていかぬようにと、リュカはきつく握った。
 弟の手は荒れていた。二人が下働きをしている工房では、冷たい水で掃除ばかりさせられているから、あかぎれがなおる間がない。同じ歳の子らが安気に遊びまわり、そこらでどろどろになって転げまわっている横で、昼も夜もなく働かされている幼い弟が、リュカには哀れに思えた。
 リュカは空を仰いだ。神鳥の眼は蒼く冴えて、静謐なまなざしを地上に注いでいた。

 

 ふ、と息を漏らして、リュカは鼻をこすった。
 火薬のにおいが、鼻腔にこびりついている。いまにはじまったことではない。父親を撃ち殺した日からずっと、そのにおいは彼の中に染み付いてしまっていた。
 夜闇にまぎれて父親のもとを逃げ出したあと、砂漠の馬賊を名乗る男の前に転がり出たとき、リュカの胸には、幼い日の約束があったというわけでもなかった。しかし、彼をきまぐれに拾った馬賊が面白がって教えると、リュカの銃の腕はみるまに上達し、育ったのちには、馬賊の一団を任されるようにまでなったのだ。
 銃の本来の射程距離をおおきく離れた的でも、リュカは難なく撃ち落した。腕前と面倒見のよさから、仲間うちでは一目おかれ、ほかの頭目たちと比べれば、ずいぶんと慕われている。
 音も立てずに天幕を掻き分けて、手下のひとりが顔を出した。
「お頭。西側に騎影が」
 そうか、と答えて、リュカは腰の拳銃を撫でた。砂漠では夜に旅をする。ただの旅人かもしれない。それでも用心するにこしたことはなかった。金にもならない殺しをして、火薬と命を無駄にすることなどない、そうリュカはいつも口にする。面目や名誉などを気にする性質ではなかった。
「発つぞ。片付けさせろ」
 いうと、手下はすっと下がって、音も立てずに天幕の外に出た。
 夜には音が思いもかけずに遠くまで響くから、逃げるのであれば物音を立てずに動くのが、彼らの習いだった。
 いくら手下に慕われていようと、いまのリュカは、天下のお尋ね者には違いなかった。義賊を気取り、豪華な荷を積んだ隊商を狙いはしても、無意味な殺しはしないし、手下たちにもけしてさせない。そんな題目があったところで、王国軍の討伐隊にとってみれば、ほかの狼藉者たちとなんら変わりないのだろう。
 リュカが天幕の外に出ると、空には満天の星がひしめいて、どこまでも広がる岩砂漠を、皓々と照らし出していた。その流れを眼でおって方角を確かめながら、リュカの目は無意識に、ひときわ輝く青い星を探し当てた。西の空にゆっくりと傾いていく、神鳥の眼。
 目がこの星を探りあてるたびに、リュカは父親を殺した夜のことを思い出す。
 弟を置いて家から逃げ出して、五年あまりが経つころだった。故郷の町の盛り場まで遠征したのをきっかけに、ふと家へ足を向けたリュカを待っていたのは、あいかわらず酒のにおいをさせた父親と、小さく粗末な墓ばかりだった。
 酔っての折檻が行き過ぎて、壁にぶつけて頭を打ったきり、そのまま二度と目覚めなかったというユタ。十二の歳だったという。ろれつの回らない口調で、笑ってそう話した父親に向かって、リュカは無言で引き鉄を引いた。あの夜にも、空にはアス・ハティトが煌々と瞬いていた……。
 ふと拳銃を抜いて、空に向けた。リュカはつめたく冷え切った銃把を、ゆるく指でなぞる。けれど一つ目の鳥に向かって引き鉄を引きはせずに、そのままホルスターに戻した。星を打ち落とせないのと同じように、死者を冥府から引き摺りだすすべはない。
 ふ、と疲れた息を漏らして、リュカは視線を落とした。手下の告げた騎影が、まだはるか遠い西の地平線に、小さく蠢いている。さほど数は多くはなさそうだ。
 無音のうちに天幕を片付けて、整然と集まった手下たちに向かって、手のひらをふって合図を送りながら、リュカは自分の馬に飛び乗った。

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お題:「どろどろ」「一つ目」「星を打ち落とせ」
制限:60分(後日、微修正)
 

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 ――負けるな。
 その声が、耳の奥に谺していた。アーシャは唇をかみ締めて、ひた走る。雨に濡れた黒髪が頬に張り付く。上がった息がひゅうひゅうと喧しく鳴っている。
 轟々と唸る風。折れた枝が鋭い音を立てて耳元を掠める。嵐の夜、森は普段の穏やかさをかなぐり捨てていた。
 奥へ。もっと奥へ。森の奥深くへ逃げ込めば、誰もそこまでは追ってくるまい。それに、きっと風も樹々に遮られて、いくらかは弱くなるだろう。
 駆り立てられるようにして、アーシャは走る。ときおり樹々の根に躓きながら。手にした角燈には、硝子の風防が設えられてはいるものの、油の残りはもう心もとない。
 アーシャはにじみそうになった熱い涙を、息を吸ってどうにか押し留め、ぐいと顔を拭う。泥水に汚れた顔は、青ざめている。安物の布とはいえ、自らの手で丁寧に仕立てたドレスは、いまはぐっしょりと雨に濡れそぼって、見る影もない。
 ――負けるな。
 耳に何度も蘇るその声に、縋るようにして、アーシャは走る。低く呟くようなあの人の声は、けれど熱を孕んでいた……


 ――申し訳ないが、と、あの人はいった。
「それはわたしに、出て行けということなの」
 そう食って掛かったアーシャに、しかしあの人は、静かにうなずいた。
 湿った風が吹いていた。屋敷の庭は宵闇に包まれて暗く、樹々の葉擦れがときおり二人のやりとりを遮った。
「貴女は美しすぎる」
 その言葉にはじめ、アーシャは笑った。彼には似合わない冗談だと思ったのだ。だが、男の表情がちっとも変わらないのを見て、アーシャは笑いやんだ。
「美しすぎて、何が悪いっていうの」
「過ぎた美貌は妬まれる。嫉妬は人を狂わせる」
 アーシャは耳を疑った。あの男の言葉とも思われなかったからだ。男はそれまで、一度だってアーシャの美貌を誉めてくれたことはなかった。そんな相手だからこそ、アーシャもひそかに好意を抱いていたのだ。ほかの、彼女の美貌を口々に誉めそやす男たちの誰よりも、そのぶっきらぼうな態度をこそ、アーシャは好んでいた。
 だがその男がいま、苦く唇をゆがめて、彼女の美貌を非難する。アーシャはかぶりを振って、男に詰め寄った。
「そんなのわたしのせいじゃない。好きでこの顔に生まれてきたわけではないわ」
「貴女のせいではない。だからこうして、頭を下げに来た。すまないとは、思っている」
「それなら、せめて口添えをしてくださったって、いいじゃないの」
「俺には、主への恩がある。命に背くことはできない。それに……」
「それに?」
「……急がなければ、貴女の身が危険だ」
 アーシャは笑い飛ばそうとして、失敗した。男の目が、真剣だったからだ。
「何、それ。魔女の疑いでもかけるっていうの? わたしの肌には痣もないし、針を刺したらちゃんと血が流れるわよ」
「奥方様は怒り狂っている。あの方の生国を、貴女は知っているか」
 その国の名前を思い浮かべて、アーシャは口をつぐんだ。古い書物に読んだ、血塗られた歴史が頭を掠めたのだ。
「暗殺はあの国のお家芸だ。貴女も見たことがあるだろう、奥方様が嫁いでこられたときに国許から連れてきたという、若白髪の男を。あの男は、そういう役目のものだ」
 その下男の顔は、アーシャも知っていた。口を利いたことはないが、いつも陰気な、どこかくすんだような笑い方をする男だ。
 あの人は、ためらうようにして、それから続けた。
「俺はこの耳で聞いたのだ。奥方様があの男に、貴女を始末するようにと、命じているところを」
 そんなおそろしい話があるはずがないわと、アーシャは叫んだ。
「声が高い」
「だって何もかも、誤解なのよ。わたし、旦那様との間には、何もなかったわ。指一本、ふれられたことさえないのよ」
「奥方様は、そう思ってはいない。使用人どもが、面白おかしく噂するから」
「貴方もそれを信じているの?」
 アーシャがきっと睨みつけると、男は頷きも、否定もしなかった。
「いますぐ、逃げるんだ。この時間なら貴女の姿がなくても、いっときは気づかれないだろう」
「そんな。だって、ここを出て、どうしろっていうの」
 アーシャは震える息を吐いて、よろめきそうになる足を、どうにか踏みしめた。
 男はただ感情の読めない黒い瞳でじっと彼女を見つめかえして、たったひとこと、呟くように言ったのだ。
「負けるな」


 アーシャは泥だらけになった靴を脱ぎ捨てながら、熱い息を漏らす。堪えそこなった涙も、すぐに雨に混じって冷えきってしまう。
 彼は何に負けるなと言ったのだったろうか。美貌の女にまとわりつく偏見と悪意に? それとも奥方の放つ刺客の魔の手に?
 このまま、着の身着のままで逃げ出すのがいいと、男が示したとおりに、アーシャは逃げた。ほかにあてもなかったからだ。着替えを取りに戻る余裕もなかった。
 男に手渡された小さな荷、水の入った皮袋と、わずかな食料、角燈が一つ、それからいくばくかの銀貨。ただそれだけを持って、整備された道ではなく、森の小道を縫うようにして、アーシャは逃げた。夜闇に紛れて、まるで罪びとのように。
 何者かにあとをつけられていると気がついたのは、一刻もしてからだった。


 走っていると、頭に薄膜がかけられたように、思考がまとまらなかった。断片的な思いばかりが、浮かんでは、雨に剥ぎ取られるようにして流れ去っていく。はじめに思い浮かべていた小道ではなく、樹々の間を縫って、道なき道をアーシャは走る。
 奥へ。森の奥へ。もっと奥へ!
 嵐がおさまる気配はなく、樹々の天蓋を縫って落ちてくる大粒の雨が、アーシャの肌を冷やしていく。嵐を避けているのか、森に棲むはずの獣の気配が遠いことが、救いといえば救いだろうか。
 ひときわ太い根に足をとられて、アーシャは転んだ。とっさについた手のひらが擦りむけて、一拍おくれて血がにじむ。それも雨に打たれて、すぐに流されていく。
 アーシャはその場でうずくまった。樹の根元で、雨に打たれながら、ただドレスの裾の破れ目を見つめていた。
 遠く、雷鳴が鳴っている。雨がひときわ強く、森を殴りつけた。
 もう立ち上がれない。


 追っ手に腕を掴まれたのは、足音に気づいて走り出してから、半刻ほどのちのことだった。本当なら、もっと早くにつかまっていてもおかしくはなかったのだ。その男が自分の逃げ惑うようすを楽しんでいたことに、アーシャは地面に引き倒されたあとで、ようやく気がついた。
 引き倒された拍子に破れたドレスの裾に手をかけると、若白髪の男は、下卑た笑いを浮かべた。その血走った目に向かって、アーシャは鋭く叫んだ。
「わたしが何をしたというの」
「旦那様を誑かした魔女が、ずいぶんと立派な口を利くものだ」
 異国の訛りのある口調で、男は嘲笑した。
「誤解よ」
「奥方様がそういえば、それが真実なのさ。諦めな」
 男はいって、アーシャの濡れたドレスを引き剥がしにかかった。どうせ殺すなら、その前に楽しもうというわけか。血の上った頭でそう考えたのと同時に、アーシャは男の首筋に爪を立てていた。女の非力な指で、頚動脈を破れるはずもなく、爪はただ皮膚に小さなひっかき傷を作っただけだったが、男は怒号を上げて、アーシャの頬を張った。
 石にぶつけてくらくらする頭を揺らして、アーシャは笑った。開いた唇の中に、雨滴が落ちる。もうどうにでもなればいい。世界が悪意に満ちているのなら、わたしも悪意でそれに報いよう。


 樹の根元に座っていると、風雨はいくらか遮られて、上がっていた息も、徐々におさまってきた。それでもまだ上空では、風の渦巻く音が聞こえている。濡れた服が体温を奪って、アーシャは震えた。
 角燈の灯は、すでに消えていた。膝を抱えて、彼女は目を瞑る。その瞼の裏に、絶息した男の、泥に汚れた若白髪が浮かんだ。剥かれた目玉と青ざめた唇もまた、その視界に焼きついて、離れない。
 毒を塗っていた爪を指先で拭い、アーシャは震える息を吐く。そのとたん、心の表面を覆っていた薄膜の、最後の一枚を剥ぎ取られて、アーシャはけたたましい笑い声を上げた。
 魔女、魔女、魔女! ただ毒と薬のあつかいに長けるばかりの賢い女たちを、どうして世の人々はあれほど無闇に狩り立てようとするのか。彼女を長年苦しめてきたその疑問が、いまになっては皮肉だった。
 毒を使って人の命を奪ったのは、初めてのことだった。自分が震えているのが、寒さのためなのか、感情の高ぶりのためなのかわからず、アーシャはひっきりなしに声を立てて笑った。
 ――負けるな、と、記憶の中で男がいう。
 でも、何に?
 嵐の森でアーシャはむなしく男に呼びかけ続け、その端から、声は雨音に吸い込まれていった。


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必須お題:「負けるな」「美しすぎて、何が悪い」「最後の一枚」
任意お題:「美しすぎる罪で逮捕する」「菫の砂糖漬け」「木下闇」「ぽぽぽぽーん」「鼻からうどんを垂らす根性なし」 (使用できず)
 

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 夜の水辺を渡る風は、冷たく湿っている。
 月明かりをぬらりと弾いて光る運河、その黒々とした水面を、白いものが流れてくる。それは奇妙に丸く、いびつな形をしていたけれど、それでも私はひと目みるなり、ああ、花だ、と思ったのだった。弔いの、白い花。
 水はさぞ、冷たいだろう。手を差し入れれば、痺れて使い物にならないほどに。足を滑らせて落ちれば、心の臓も止まるほどに。
 その冷たい運河の底には、貴女が眠っている。
 永遠に溶けることのない、まがいものの氷の棺に閉じ込められて、貴女はそっと目を閉じている。ちらりとでも足元に目を向ければ、見えないはずのその光景が、くっきりとこの瞼の裏に浮かぶ。ゆるく波打つ黒髪も、胸元で律儀に組み合わされた手指の細さも、整然とそろった長い睫毛まで。
 ときどき、吼えたくなる。こんなふうに月が冴えて、水の冷たい夜には。
 貴女がいないこの世界で、生きるということ。生きている、ということ。貴女の犠牲の上に永らえた誰かが、安穏としているということ。貴女はもう二度とその瞼を開いて、私に笑いかけたりはしないということ。
 そんなことは間違っている。
 野良犬が哀切な声で吼える。夜の静寂を引き裂くように、鳥が甲高く啼く。誰かがステッキをついて歩くのが、時を刻む針の音のように、正確に夜を切り刻んでいく。まばらに灯る窓の明かりは温かそうで、とても温かそうで、その温度に、何もかもが間違っている、と思う。
 運河は凍りつきそうに冷たいけれど、けしてほんとうに凍ってしまうことはない。静かな流れは、よく目を凝らさないと、流れていることさえわからないほどの緩やかさだ。けれどあの日、吼え猛る獣のような音を立てて、その上を劫火が走るのを、私はこの目で見た。冷たく静かなはずの流れが、気の狂ったように炎を吹き上げるところを見た。あの夜、何かが焦げる臭いが、ひっきりなしに立ち込めていた。
 あれは油だ。上流にとどまる軍の士気を削ごうと、敵方の将が弄した策だ。あれっぽっちの炎が、神の怒りなどであるものか。
 だが目の前で炎に嘗められて、人々の理性は脆く砕けた。
 運河を引いたことが、神の怒りに触れたのだなどと、どうして思うのだ。愚かな民衆の迷信を、私は憎む。彼女を沈めた翌日から、河が燃えることがなくなったのは、貴女という人柱のためではなく、ただ単に、油が尽きたからだった。その偶然、そんなふうに悪意に満ちた偶然。もし神が飢えているとすれば、それは生贄にではなく、人の愚かさが生み出す喜劇と悲劇にだろう。あの夜にかぎって私が貴女のそばを離れていた、それも偶然だろうか。
 貴女を聖女に祭り上げて、尊い犠牲に涙を流したきり、あとは口を拭って温かい灯をともし、夜の帳の下に安穏としている人々。思い出したように運河に白い花を流して、目を閉じて悲痛そうに祈り、さも気の毒そうなことをいいながら、いざ自分が次の人柱に選ばれでもしたら、顔色を変えて逃げ惑うに違いない、名も知らぬ河岸の乙女を、私は憎む。
 石畳の上を、足音が通り過ぎる。まばらに道を歩く人の、ひどく痩せた影がたわんで戻る。帰りを急いでいるのは、誰か家族が待っているからだろうか。近づいてようやく分かったのは、それが年老いた男だということだけだった。
 この老人の枯れた手もまた、彼女を死へと追いやったのだ。河岸で祈る乙女のたおやかな手が、いまその家の中で暖炉の火を掻きたてているのだろう女のあかぎれた手が、その隣戸の扉の奥で恋人の頬を包んでいる青年の手が。彼らの手という手が、そろって彼女を棺に押し込め、あの冷たい水の底に放したのだ。
 鞘を払い、音を立てずに歩き出す。ステッキを持った影を追って、滑るように闇の底を這う。
 言葉はいらない。彼らに悔い改めて欲しいなどと、いまさら望んではいない。復讐はむなしく愚かしい、だがそれは黒々とした運河の水よりも冷たく、速やかに私の胸を冷やすだろう。
 斬りつけようとする手の中で、柄が痺れるように冷たい。
 音を立てなくとも、なにかの気配は感じたのだろう。老人は足を止め、私を振り仰いだ。月に照らされる、小さい顔。皺ぶかいその目元には、どうしたわけか、ちらりとも恐怖が覗かない。そのことになぜか意表をつかれて、手が止まった。
 老人は何もいわず、じっと私を振り仰いでいる。状況を理解できずに戸惑っているのでも、恐怖に縛り付けられているのでも、狼藉者に怒りを向けているのでもない。その瞳は、昏かった。夜の運河の底を覗き込むよりも、なお暗かった。
 その暗がりの中に、一瞬、炎がちらついた。それはあの夜、運河を舐めた、あの劫火だった。わけもなくそう思ったときには、刃を振り下ろす気力が萎えていた。
 老人は何もいわず、それどころか、じろりと私を睨みつけた。どうしてやめたのかとでも、いわんばかりに。
 頭上で鳥が一声、嗤うように鳴く。遠くでどこかの母親が、宵っ張りの子を叱っている。
 老人はいっとき無言で私の手元を見つめていたが、やがて私に殺意を奮い起こす様子がないことを、ようやく諦めたというように、ふっと視線をそらした。そうして元のとおり、杖をつきながら歩き出す。夜を切り刻みながら。
 ただその影が遠ざかってゆくのを、見送っていた。
 歩き出すこともできず、座り込む気力もないまま、ただ立ち尽くしていた。
 運河を見下ろせば、また新しく白い花が、水面を流れてくる。静かに、滑るように。


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お題:「運河」「明かりに誘われて、ノコノコ出てきた貴方が悪いんですよ」「飢えている」「生きるということ」「世界が回っていることに気がついた、酔っ払い」 の中からみっつ
制限:60分(後日、微修正)
 

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 ひさしぶりの三語小説。
 昨夜の即興三語に加筆修正。SFの皮をかぶった萌え小説です(真顔)

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 この意識が発生したとき、人間でいうなら「物心ついたときに」、すでにわたしの記憶に刷り込まれていた、二枚の静止画像があった。一枚は、受精する卵子のイメージ。それからもう一枚が、白い翼の生えた鳥人間のイメージ。卵を抱いて、かすかに笑みを浮かべている。そのことを告げると、白衣を着た私の庇護者は「それは天使というんだ」といって、微笑した。
 どうやら天使というものは、卵から生まれるらしかった。
 たったひとりのわたしの庇護者は、その個体名を、ジンという。わたしはそれを誤認識して、長いことジーンと覚えていた。ほんとうは迅と書くらしい。彼の母国語で、速いとか、激しいとかいうような言葉を意味するそうだ。前者はともかく、後者は彼には似合わないと、わたしはよくそのことを思う。
 彼はいつも抑揚のすくない声で、淡々と話す。感情を表にださず、必要最低限のこと以外をめったに口にしない。そのせいで、わたしのボキャブラリイが増えないと、上司から叱られたほどだ。彼が仕事のことで誰かに怒られるのは、珍しい。とても珍しい。
 それ以来、わたしには小さなロボットが一台与えられた。英語とドイツ語と中国語で話し、必要に応じて画像イメージを空中に投影する機能を備えた、優秀なわたしの相棒だ。その名前を、ディクショナリイという。わたしはそれを、このまるくて可愛らしいロボットの、個体名だとばかり思い込んでいたのだが、それは機種名でさえなくて、辞書という、道具の種類を示す一般名詞なのだった。だけどもう慣れてしまったので、いまさら呼び方を変える気もしない。そういう感覚を「愛着」というらしかった(それはディクショナリイではなく、彼の上司が教えてくれた)。だからわたしはいまでも迅のことをジーンと呼ぶし、製造番号DR19?0041146Bのことをディクと呼んでいる。
 彼はわたしのことを呼ぶときに、アンジェリカという。お前ににあわず、ずいぶん可愛らしい名前をつけたものだなと、ジーンの上司は笑ったけれど、私は知っている。それが天使のことをさす一般名詞であることを。


 ジーンはめったに怒らない。めったに悲しまない。めったに笑わない。意識が発生した最初のときに、それは天使というのだと教えて微笑んだのが、たった一度、これまでにわたしが見たジーンの笑顔だ。彼の上司や同僚は、ジーンに比べれば感情豊かではあったものの、腹を抱えて笑ったり、激しく怒ったりはしなかった。少なくとも、わたしの見ている限りでは。そのせいでわたしは長いこと、人間というものはそういうものだと思い込んでいた。
 一か月の「教育」を終えてラボの外に出てみるなり、怒涛のように押し寄せてきた、雑多な感情の奔流に、わたしは打ちのめされた。どれほど衝撃を受けたかというと、まる一日、何も摂食できなくなったほどだ。そのときジーンは淡々とわたしの腕に栄養点滴を取り付けて、自分の仕事に戻った。白く清潔な部屋の中で、わたしは混乱した頭を抱え込んで、ひたすらじっとうずくまっていた。何度かジーンが点滴を替えに来る以外は、とても静かだった。
 わたしのその受信能力を、エンパシイ、というらしかった。ジーンがわざわざ教えてくれたのだから、その知識はわたしにとって、必要なものなのだろう。


 実験、なのだそうだ。その言葉にディクがつけてよこした映像データは、抽象的すぎて、わたしには理解が難しかった。ジーンはわたしを作って、なにかの実験、をしているのだそうだ。そしてそれは、エンパシイに関係しているらしい。それ以上のことを、ジーンは話してくれない。必要がないからだろう。
 ときどき町へと連れ出されて、人々の発する感情の波に翻弄されるほかは、わたしはただジーンのそばについて、一日のほとんどを実験室のなかで過ごしている。ときどきジーンや、彼の上司や同僚から、なんでもないような調子で質問を受ける。わたしはできるだけ真面目に、それに答える。聞かれていることの意味がわからなければ、質問する。その質問に、ディクが答えをくれる。また少し考えて、わたしは答える。研究室の人々は、満足げにうなずいたり、要領を得ない顔をしたり、いろいろだ。
 ジーンがいうには、わたしは「好奇心が旺盛」なのだそうだ。必要のないことまで、つい質問をしてしまう。たいていのことには、ディクが答えてくれるのだけれど、わたしの質問はときどきディクの手に余って、ジーンの手をわずらわせる。ときには無視されるけれど、ジーンが怒ってはいないことが、わたしにはわかる。それとは逆に、彼の上司や、同僚は、顔では穏やかに微笑んでいても、苛立っているのがわかるときがある。だからわたしは彼らのことが、すこしだけ怖い。
 いちどジーンに向かって、ディクに日本語をインストールしてほしいと頼んだら、彼はめずらしく、動揺したようだった。いつもはほとんど無風のようなジーンの感情が、かすかに波打ちながら押し寄せてくるのが、肌に伝わってきた。そしてジーンは、そのわたしの要望を無視した。無視したということは、日本語はわたしに必要がないということなのだろう。
 だけどわたしは、できれば日本語を知りたかった。
 ジーンは疲れて転寝しているときに、ときどき寝言をいう。このあいだなどは「アンジェリカ」といったので、わたしは呼ばれたと思って、返事までしてしまった。だけどジーンは、また何事か、わたしにはわからない言葉を呟いて、寝返りを打っただけだった。彼の寝言は、ほとんどが日本語だ。
 ジーンが眠っているときにだけは、わたしのエンパシイ能力に、彼の感情のゆれが触れる。その感情の名前を、わたしは知らない。実験室や屋外で、ほかの人々の心に触れるときの波のかたちと、彼の眠っているときのそれとは、ちっとも似通っていないのだ。
 わたしにわかるのは、ジーンが怒っていないことと、天使というものに対して、なにか思いいれがあるらしいということだけだ。アンジェリカ、卵の天使、エンパシー……翼。
 わたしの背中には、翼がある。服の下にすっぽりと隠れてしまう、小さな翼だ。動かせず、神経の通っていない、飛ぶにも小さすぎる、白い羽根の束。生き物の体に必要のない骨組みと飾り。何を思って、彼はわたしにこの翼を生やしたのだろう。無駄なことをあれほど避けるジーンなのに。
 あの天使のイメージには、何の意味があるのだろう。


 わたしがその部屋に入ることに、ジーンはあまりいい顔をしない。だけど、頼めば連れて行ってくれる。
 卵形をした大きなガラスの容れ物には、透明な液体が満たされている。その中で手足を丸めてぷかぷかと浮かぶ、小さな子どもたちは、ときおり瞼をぴくりとふるわせるほかは、ぐっすりと眠っているように見える。まだどの子も、目を開けているところを見たことがない。背中にはやっぱり、小さな白い羽根。
 全部でよっつの卵が、この部屋には並んでいる。ひとつは空だ。この中に、わたしが入っていた。きれぎれにだけど、覚えている。ゆらゆらと揺れる、あたたかい水。自分の心臓の音だけを聞いて、うつらうつらしていた。何人かの人たちがかわるがわる、様子を見に来た。その中にはジーンもいて、彼がいちばん頻繁に、この部屋にやってきていたように思う。いまそうしているように、ジーンは卵の隣に設置してある機械で、いろんな数値をチェックしたあと、よくわたしの顔をじっと見上げた。その黒い瞳を見つめ返しながら、自分がどんな気持ちでいたのか、わたしはもう、よく覚えていない。
 みっつの卵には、それぞれ顔も体格も違う子たちが浮かんで、ゆらゆらしている。男の子がひとりと、女の子がふたり。まだ小さい。この子たちがわたしと一緒くらいに大きくなるのは、どれくらい先のことなんだろう。彼らが卵から孵ったら、話ができるだろうか。ジーンに訊いたけれど、教えてはもらえなかった。
 この子たちが孵ったら、やっぱりジーンは彼らのことを、天使《アンジェリカ》と呼ぶんだろうか。
 ふと気になって、口に出して訊くと、ジーンはすぐには何もいわなかった。答えないということは、やっぱりわたしが知る必要はないということなのだろう。わたしがそう諦めて、膝を抱えて床に座り込むと、ずいぶんとたってから、ジーンの「いいや」という言葉が頭の上から降ってきた。
 ジーンが機械を操作して、データを記録していく。その電子音がリズミカルで、聴いているとなんだか、眠たくなってくる。壁にもたれて、ぼんやり卵を見つめていると、中のひとりだけが、目を開いていた。わたしと同じ、淡い紫の瞳だ。わたしの顔を見つめて、ぽかん、としている。手を振って、微笑みかけてみたけれど、特に反応は返ってこなかった。まだわけがわかっていないんだろう。
 彼らの意識には、わたしと同じように、あの卵を抱いた天使のイメージが刷り込まれているんだろうか。


「あいつは実験室の予算を、なんだと思ってるんだ」
 そう語気も荒くいったのは、彼の同僚だった。押し寄せる感情の波動に、わたしは反射的に背中を丸め、できるだけその人から遠ざかろうと、壁際にあとずさった。わたしに直接向けられているわけではないということはわかるのだけれど、それでも暗く激しい熱は、ただそこにあるだけでおそろしかった。
 ジーンはその場にいなかった。過去の実験結果を取り寄せるために、事務局に出かけていた。ほとんどの資料が、厳重なセキュリティ管理のもと、電子データで閲覧されているのだけれど、ほんとうの重要な秘密は、建物の奥に、ペーパーで保存されているのだという。
 実験室にはジーンの上司である室長(そういえばわたしは、このひとの名前を知らない)と、彼の同僚の、ふたりだけがいた。
「迅には迅の、考えがあるんだよ」
 室長が、とりなすようにいった。
「どういう考えだか知らないが、せっかく完成したエンパスを、まともに使いもせずに、私物化してるだろう。こいつの他の個体は、まだ育っていないんだぞ」
 その言葉の正確な意味を、わたしは理解しきれていなかった。わかるのは、彼がジーンを敵視しているという、シンプルな波動だけだ。
「なあ、落ち着け。なら逆に聞くが、お前さんはこのアンジーを使って、何の実験をしたいんだね」
「いろいろさ。だって、これだけの成果だ。活用しない手があるか? 室長、あんただって次年度の予算の獲得に、頭を悩ませているんだろう」
「なあ、ちょっとは落ち着けよ。この子はラットやマウスとは違うんだ」
 室長がなだめるように肩を叩くと、男はいらだたしげにその手を振り払って、わたしを指さした。
「イカれてる。これは人間じゃないんだぞ。あんたまで、こいつの見た目に惑わされて、どうかしちまったのかよ」
「しかし遺伝子のベースは人間で、人間なみの知能がある。つまり感情に対して繊細で、消耗すれば衰弱して死ぬ。最低でもほかの個体が無事に育つまでは、慎重に使うのが、この場合は正しい」
 足音も立てず会話に割り込んできたのは、ジーンだった。
 いつも感情を表に出さない彼らしくもなく、眉間に、うっすらと皺を寄せている。手には、借りてきたのだろう、紙の資料を持っていた。
「心配しなくても、予算ならあまるほど取れる。安全性がもっと確立されてから、いくらでもプランを組めばいい」
 何かを反論しかけて、けれどただ舌打ちだけを残すと、同僚は足音も荒く、部屋を出て行った。
「予算って、なに?」
 わたしが聞くと、ディクがなんだか小難しい説明をしてくれたけれど、それはわたしには理解できず、画像データも添付されていなかった。
「お前は気にしなくていい」
 必要ならば説明するか、そうでなければ無視するはずのジーンが、めずらしくそんなふうにいって、手のひらでわたしの背中を軽く押した。肩甲骨のうえ、翼のある辺りを。
「まあ、大目にみてやってくれ。あいつはお前の手柄に、妬いてるんだ」
 室長はジーンにそういうと、苦く笑って、実験室を出て行った。あとにはわたしとジーンだけが残った。
 ぶうんと、なにかの計測器がかすかな音を立てる。ディクがわたしの肩のあたりで、所在なさげにふわふわと浮いている。ジーンは無駄を嫌う彼にしては珍しく、いっときその場に、じっと立っていた。
 しばらくして、ジーンがいった。
「あいつのいうとおりだ。俺はお前を私物化している。……お前の遺伝子《ジーン》は、」
 ジーンは言葉を切って、わたしの目を見下ろしてきた。ジーンの黒い瞳がわずかに揺れて、そこにわたしの顔が映りこんでいる。
 わたしはぽかんとしたまま、ジーンの話の続きを待った。どんなに唐突に思えても、彼のいうことなら、何か意味があるはずだから。
 だけどジーンは、続きを話さなかった。ただ、その手のひらの熱が服ごしに伝わってきて、神経の通っていないはずのわたしの翼を温める。
「アンジェリカ」
 はい、と返事をしても、ジーンは話を切り出さない。ただもう一度くりかえして、アンジェリカ、とわたしを呼んだ。はい、と答えて、わたしはじっと、彼の伏せられた目を見つめる。薄い血管の透ける、まるい瞼が震える。黒い睫毛が頬に落とす陰。すっかりとれなくなった濃い隈と、荒れた肌が気になった。ジーンはこのごろ、疲れているように見える。
 実験室は静かだった。自分の鼓動の音が聞こえる。その静寂に包まれた部屋に、ジーンから押し寄せる波が満ちて、かつてないほど強く揺れている。その感情の名前が、わたしにはわからない。わからない。

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「翼」「卵子」「抑揚」
 このところ受けているあるお方の文章からの影響が、なんていうかだだ漏れになっている気がして、それが恥ずかしいような気がするんだけど、気にしだすと何もUPできなくなるので、開き直ります。ぎゃー。お気にさわられないといいのだけれど。

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 即興三語小説。暗い話注意です。
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 ほの白い煙が、煙突からかすかにたなびいている。もくもくと湧き上がるのかと思ったら、ぼんやりと風に流されて、すぐに消えてゆく。ぼくはそれを凝っと見つめている。青い空。さっきまでは、雪が吹きすさんでいた。いまはそれが嘘のような快晴。雲はもう山の向こう、どこかに隠れて。
 空の、高いところを黒い小さな影がよぎり、ふいに吹きつける風に電線がたわみ、雪が落ちる。それを見つめながら、ぼくは自分にくりかえし、同じことを話しかけている。あなたがもういないんだってこと、言いきかせようとしている。
 あの白い煙があなたで、笑ったり泣いたり急に怒り出したり、いつでも表情がくるくると変わるあなたの顔はもうどこにもないし、嬉しくなると衝動にまかせて飛びついてくるしなやかな腕もどこにもないし、アスファルトを蹴って弾かれるように駆け出す瞬間の、あのみごとなふくらはぎのラインを見ることも二度とできないんだって、そんなことを、ひとつずつ自分に言いきかせながら、だけどそのどれもちっとも現実的じゃなくて、あなたは明日の朝になればけろっとして笑いながら顔を出すような気がするし、照れくさそうな顔で「心配した?」なんて小突いてくるような気がするし、明日からも研究室に泊り込んでいれば、夜中にひょいと現れて、差し入れのお握りなんか置いていきそうな気がしている。そんなわけないんだって、いくら言っても、ぼくのこの飲み込みの悪い脳味噌は、あなたがいないってことを理解できそうにない。
 だって、嘘でしょう。
 葬儀のあいだずっとそんな言葉を、口の中で転がしていたつもりだったけれど、いつの間にかそれは口から外に零れ落ちていたらしくて、目を真っ赤にした外崎が嘘じゃない、嘘じゃないんだって、何度もくりかえし呻きながら、ぼくの肩を揺すっていた。よせよといって、外崎を引きはがした手は、誰のものだったんだろう。思い出せない。外崎は座り込んで、声を張り上げて泣きわめいて、ああ、あいつもあなたのことが好きだったんだなって、鈍いぼくはようやくそのことを知って、だけど、だって、
 嘘でしょう。
 連休ちょっと実家に顔出してくるねって、そういって帰省したあなたは、明日の昼にはみんなにお土産の蕎麦を買ってくるはずで、ぼくらはそれを夜、研究室に昔から誰かがおいている大鍋でまとめてゆがいて囲むはずで、そこに誰かがいつの間にか持ち込んだ焼酎瓶なんかが転がっているはずで、あなたは上機嫌に酔っ払ってまた誰かに迷惑をかけているはずだった。
 だから、こんなのはぜんぶ嘘だ。信州の端の、ぼくらの誰もいままできたことがないような小さな町の催事場に、みんなで雁首を揃えていて、似合いもしない喪服を着こんで阿呆のように突っ立っているなんていうのも、東京の空とは似ても似つかないあの高い空にぼんやりと霞んでいく煙があなただなんてことも、そんなことはぜんぶ嘘のはずだ。
 だって足元はなんだかふわふわしているし、さっきまであんなに吹雪いていた空が、こんなにあっという間に晴れ上がって蒼く冴え渡っているはずなんてないし、あなたがもういないのに、こんなに普通に朝がやってくるはずなんて、もっとない。空は平和に晴れ渡っているし、向こうの山は雪をかぶって眩しいくらいに光を弾いているし、どこか近所の工事現場からは、呑気な掛け声なんて響いているし、煙突から立ち上る煙は、なんだかあいまいにぼんやりしているし。
 人間、死んだら煙になっちゃうんだよねって、そういえばあなたはいつかそんなことをいった。研究室の窓から顔を突き出して、春風に前髪を揺らしながら。薬剤の染みのとれない白衣はくしゃくしゃで、あなたはアイロンなんて面倒くさいっていってはばからなくて、そのずぼらなところは何年も前からずっとなおらなくて、だから三日前に研究室であったときにも、やっぱりしわくちゃだった。
 土に埋められて、腐って樹の養分になるほうが、なんとなく素敵な気がするけれど、いまの日本に生まれたふつうのひとは、最後は煙になっちゃうんだよねって、いつもとかわらないのんびりした調子で、あなたは言った。だけど、大気中に散った二酸化炭素は、そのへんの草木に吸収されて、光を浴びて酸素にうまれかわって、結局はみんなの肺に戻ってくるんだよねって、そういったのもあなただった。植物の栄養になって、どこかの鳥か動物に食べられて、それがみんなの口に入るのと、それは結局同じことなんだよねって、あなたがそういったら、外崎は賢すぎて馬鹿だから、ひとりの人間が死んだあとにその体の一部が、やがて循環して身内の人間の体に戻ってくる確率を、おおまじめに概算しはじめた。鳥の渡りの分布がどうとか、上空の気流がどうとか。土に埋められてだんだん腐っていった場合と、燃やされて空気中に散っていった場合と、外崎の計算では、結局どちらのほうが見込みが大きいんだったっけ? もう思い出せない。
 その外崎はいま、ぼんやりとした表情で、空を見上げている。もしかしたらいま、外崎はぼくと同じことを思い出しているのかもしれない。その口が半開きになっていて、ただでさえ鼻の下の長い顔が、ますます阿呆面になっているけれど、誰もそれを笑わない。あなたがこの場にいれば、真っ先に指さして笑うだろうに、ねえ、どうしてここにいないのって、ぼくはそればっかり考えている。
 ねえ、嘘だよね。
 ふっと周りを見渡せば、外崎以外はみんな煙から目を逸らし、まぶたを腫らして、うつむきがちにしていた。まだ泣いている子もいる。ハンカチを顔に押し当てて、じっと肩を震わせているあの子は、ああ、なんていう名前だったっけ。たしかあなたと、同じ高校だったんじゃないかな。いっしょにランチをしているところを、何度か見かけたような気がするのだけれど。
 だけどなんで泣いているんだろう。あなたがもうどこにもいないんだって、みんなそんな馬鹿なこと、ほんとうに信じているんだろうか? 亡骸も見ていないっていうのに? あんな古い写真の遺影一枚で、どうしてそんな馬鹿な話を信じられるっていうんだろう?
 あなたがもし、帰省中に交通事故に巻き込まれたっていうなら、ぼくだって信じたかもしれない。もしあなたが助からない病気で、みんなにそのことを隠していたんだっていわれても、なんとか信じようとするかもしれない。
 だけど、ねえ、嘘でしょう?
 死にたいほど辛いことがあったのに、ぼくらの誰にもいわなかったなんて、ちっとも悟らせなかっただなんて、そんなはずがない。ねえ、そうでしょう。あなたがそんな器用だったなんて、悪いけれど、ちっとも信じられないし。
 人は死んだら煙になるんだよねなんて、あんなに呑気な調子で、いつもとちっとも変わらないのんびりした顔でいっておいて、ずっと前に交わしたそれっぽっちの会話が予兆だなんて、そんなのってないでしょう。あの頃からずっと死を考えていたんじゃないかなんて、そんなふうに思えっていうほうが、無茶な話だって。ねえ、あなたもそう思うでしょう。
 煙は止まりかけている。それに気がついた外崎が、ううっと嗚咽を漏らす。あれはあなたの体が燃え尽きたんだって、頭の片隅でそういう声がする。もう半分のぼくは、そんなわけないよって、あれは誰か別の人に違いないって考えている。だってぼくは、あなたの顔をみていない。棺の中は誰にも見せてもらえなかった。
 誰かが遠くで、ぼくらに呼びかけている。皆がのろのろと歩き出す。外崎の肩を誰かが支えてやっている。呼ばれた先に何が待っているのかわからないまま、ぼくは皆のあとに続いて歩く。足元はもう雪も溶けているのに、やっぱりふわふわしていて、もう一度顔を上げると煙はすっかり消えていて、空は高くて。鳥が鋭い軌跡を残して飛んでいく。上空は風が強いんだろうか、とぎれとぎれに流れていく雲の動きが、やけに早くて。
 ねえ、嘘でしょう。

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縛り:「主人公が二股かける(またはかけられている)」「一人死ぬ」「時間軸を交錯させる」の三つから一つを選択

お題:「煙突」「雪国」「うつむきがち」「楽譜」「凝縮」の五つから三つを選択

任意お題:「心中天網島」「川端康成」「舞姫」「ストーカー」「夜更かし」のお題を任意で使用(使用できず)

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プロフィール
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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