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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 即興三語小説。

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 20XX年の夏、活火山の噴火とともにそれは起きた。粉塵に覆われた空の下、分厚い雲と地上との、ちょうど半ばほどの低空に、亀裂が開いたのだ。
 その亀裂の向こうには、宇宙があった。どこまでも続く深淵、はるか遠くに光る瞬かない星々。実際にその亀裂に飛び込んだ者はいまだにいないけれど、そこが本物の宇宙であることは、疑いようもなかった。なぜならば、その裂け目の先の真空へと、着実に空気は吸い出されていったから。
 その亀裂は、ひとつだけではなかった。世界中の、人口があるていど密集したすべての都市の上空に、それは現れた。
 空間の裂け目、ねじれ。それは通常、口を閉じて、ごく細い一本の黒い線のようになっている。よく目を凝らさないと見えないそれは、十数日に一度、瞬きするように、ゆっくりと裂け目を広げる。
 どうしてそんなものが発生したのか、世界中の科学者が喧々諤々の議論を交わしても、答えは出なかった。ただ現象だけが目の前にあり、人々はそれに、対処を迫られつづけている。


「計算のうえではさ、地球上の生物がまともに生存できるのは、あと五ヶ月くらいなんだって」
 義人の声は、眠気を孕んでいるようにのんびりと響いた。
 ほんとうなら真夏の陽射しが照りつけるはずの時季なのに、空は雲に覆われたまま、どんよりと暗く沈んでいる。都市部ではいつもそうだ。半年前、全世界で同時的に活発化した火山活動のほとんどは、もうすでに落ち着きをみせ、降灰はとっくに止んでいた。いま空を覆っているのは、ほんものの雲だ。水と氷の粒の集まり。
「計算では、っつうのは?」
 誠が聞き返すと、義人は地上に目を戻して、肩をすくめた。背負ったリュックが揺れて、がちゃがちゃと忙しない音が鳴る。
 ふたり肩をならべて、もう何日ものあいだ、人気のない通りを歩いている。彼らが履いているスニーカーはぼろぼろに擦り切れて、Tシャツもすっかり垢じみてしまっている。
「なんか、南米とか東南アジアのあたりで、植物が異常繁茂してるんだって」
 へえ、とあいづちをうって、誠は少し、考えるように腕を組んだ。
「つっても、そんなんじゃ追いつかないだろ」
「うん。ていうか、その地域に一気に人が移住しはじめたらしいよ。戦争にならないといいけど」
 いって、義人はふたたび空を見上げる。南のほう、ちょうど彼らの通っていた中学校の上空あたりに、目を凝らさないと見えないほどの、細い線がある。
 空間の裂け目が開いているのは、わずかな時間だ。きっかり七秒。そのあいだ、そこからは空気がかなりの勢いで吸い出される。その結果、それから数日間のあいだは、天候が荒れる。急な気圧の変化に、高山病で倒れる人も少なくはなかった。めぼしい都市から人の姿が消えるまでに、ふた月とかからなかったのではないだろうか。
「あれって、何で七秒ジャストなんだろうな」
 義人が、汗をぬぐいながら、ふっと呟いた。「自然現象だったらさ、毎回ちょっとくらい、誤差があってもよさそうじゃない?」
「さあ。そういうルールなんじゃねえの。七秒ルール」
「誰のルールだよ」
「知らね。宇宙人とか」
 いって、誠は面白くもなさそうに、足元の空き缶を蹴り飛ばした。空き缶といっても、飲料ではなく、鯖味噌の缶詰だった。誰かが持ち出した非常食なのだろう。
 いまや、都市に残る人はほとんどいない。だが、地方に移住してそこの人口密度が上がれば、今度は裂け目がそこに開く。堂々巡りだった。それでも、少しでも長く生き延びたいと思うのは、人情なのだろう。虚しいイタチごっこが、地球中のそこここでくりひろげられている。
 人は群れたがる生き物らしい。分散して、また集結する。満遍なく世界中に散ってもよさそうなものなのに、少しでも緑の多い場所に、少しでも安全そうに見える場所に、集まっていく。
 二人の家族もそうだ。親類を頼って、生まれ育ったこの町を離れ、田舎のほうに疎開した。けれどその地域もまた、徐々に人口が増えてきている。まだ亀裂の存在は確認されていないけれど、時間の問題だろうと、誰もが囁いていた。
 もう、新しく住みたいという人がやってきても、これ以上の人口を受け入れるのは、危険だろう。彼らの移住した先でも、そういう意見が主流になってきた。そもそも、住む建物の問題もある。食料の問題もある。それほど多くの人口がなだれ込むだけの準備は、なかったのだ。
「だけど、ほんとに宇宙人の攻撃なのかもな」
 そういって、義人は目を細めた。
「それだったら、もっと徹底的にやるんじゃねえの。こんなゆっくり空気抜くんじゃなくてさ」
 誠の反論に、そうだよなあと首をひねって、義人は頭を掻いた。
「さんざん弱らせてからさ、降伏を迫ってくるつもりだったりして」
「うわ、あるかも」
 いやそうに顔をしかめて、誠はリュックを担ぎなおす。けれどすぐにぱっと顔を上げて、前方を指さした。
「見ろ、義人」
 遠く、誠の指差す先には、電波塔の先端。彼らの町に近づいてきたことの、それは目印だった。おお、と義人も歓声を上げる。
「なんか、すっげえ久しぶりな気がするなあ」
「まだ四か月しか経ってないって。……でも、うん。そうだな」
 顔を見合わせて、にやりと笑うと、二人は足を速めた。


 ふたりの足が、校門の前で止まった。
 ぶつっという音がして、二人は顔を見合わせる。数秒のあとに、始業を告げるチャイムが、空々しく鳴り響いた。
「まだ、チャイムとか鳴るんだな」薄気味悪そうに、誠が腕をさする。
「授業なんて、とっくにやってないのにな」
 顔を見合わせて、二人は黙り込んだ。気まずい沈黙をもてあましたまま、誠が手のひらで正門を押す。施錠されていた。
 どちらからともなくリュックを下ろし、塀の内側に放り投げると、ふたりは門に取り付き、よじ登る。乗り越えるのに、たいした時間はかからなかった。
 校庭を横切って、校舎へ向かう。整備されないグラウンドの端には、雑草が繁っていた。びょう、と風が吹き付けて、ふたりは何度となく目を瞑る。
 埃っぽい下足棟から中に入ると、人気のない校内には、二人の立てる物音が、やけに大きく響いた。もう使われなくなった建物なのに、長年の習慣は体に染み付いているらしく、二人は土足を脱いで手にもつと、靴下で廊下を歩いた。
 誰もいない教室の横を、おっかなびっくり通り過ぎる。真夏だというのに、空を覆う粉塵のせいで、気温はあがりきらない。いつも外気は中途半端に蒸し暑く、そのせいか、あるいは裂け目の近くの地域だからか、蝉の声ひとつ、聞こえてこなかった。
「おまえの兄貴、心配してっかな」
 誠が階段をのぼりながら、ぼそりとつぶやいた。
「してるだろうね。……誠の親父さんだって、いまごろ気が気がないんじゃないの」
「あんなクソジジイはどうでもいいって」
 誠は吐き捨てて、唇を曲げた。義人は肩をすくめて、それ以上のことはいわない。
 階段を上りきると、スチールのドアがあった。ドアノブが埃を被っている。誠がなにげなく足を持ち上げて、自分の靴下の裏をみた。うえっと声を上げる。真黒だった。
「やっぱり鍵、かかってるな」ドアノブをがちゃがちゃいわせて、義人が頭をかいた。
「そこどけ、義人」
 誠はいうなり、廊下にあった消火器を振り上げた。風が唸る。あわてて義人が後ろにさがる。
 ドアがへこみ、騒々しい音が鳴った。
「いってえ……手ぇ、痺れた」
「当たり前だろ」
 呆れたように義人はいったけれど、それでも鍵は、壊れたようだった。とどめといわんばかりにドアを蹴り開けて、誠はためらいなく屋上に飛び出す。
「うわ……」
 屋上に出た二人の頭上に、その裂け目はあった。
 真黒な、細い細い線。よく目を凝らさないと見えないけれど、それは、無造作にそこに浮いていた。まるで巨人がサインペンで、ひょいと空に線を引いたような。
 しばらく圧倒されたように、それを見上げていた二人だったが、やがて義人がリュックを置いて、壁際に腰を下ろした。
「時間までもうちょっとある。いまのうちに、昼飯、たべておこう」
 水だけは、水道の生きているところでそのつど補給してきたが、もってきた食料も、残り半分を切った。カチカチになったフランスパンを、どうにかペットボトルの水で流し込みながら、二人はしばらく、ぼんやりと空を眺めていた。ほとんど頭上のように思ったけれど、正確には、それはグラウンドの真上にあたるようだった。
 空には鳥一羽、横切らない。鳥たちは知っているのだろう。どこが危険な空域なのか。
「この距離って、どうなんだろうな」
 空を見上げたまま、誠はぽつりと呟いた。
「なんだ、いまさら怖くなったのか。やめとく?」
「うっせ。そんなんじゃねえよ」
 憮然といって、誠はパンくずを払った。空はかわらず、陰気に曇っている。義人はじっと、手首の腕時計を見ている。
「そろそろだよ」
 義人がいうのと、ほとんど同時だった。
 空気がざわめく。ごくりと唾を飲み込んで、誠は屋上のタイルを踏みしめた。義人の少し長めの髪が、風に吹かれて乱れる。
 頭上の亀裂が、ゆっくりと開いていく。ごう、と風が唸り、ふたりは耳を両手で押さえた。減圧に、鼓膜が痛む。
「何かにしがみ付け!」
 大声で、義人が怒鳴ったけれど、それは風にかき消されて、誠の耳にまでは届かない。風が吹き荒れる。誠の体は、いまに宙に巻き上げられるのではないかというほど、危なっかしく風に引き摺られている。そうしながらも、その顔は、まっすぐ上空に向けられていた。
 宙の裂け目が、開ききる。
 その形は、まるで白眼のない、巨人の目のようだった。
 そこには夜空よりももっと深い、涯のない暗闇と、それから、煌く星々があった。真っ白に皓々と輝く星。赤く沈むような小さな星。青白く燃え上がる二連星。ぼんやりと輝くようなガス雲。
「誠!」
 義人が悲鳴を上げた。誠の足は、風に引き摺られてよろめきながら、屋上のへりのほうへと運ばれていく。その足取りは、いまにも空中に舞い上げられそうに、義人の目には見えた。けれど肝心の誠は、ぽかんと虚空の穴にみとれて、無防備な表情をしている。
「誠!」
 もう一度義人が悲鳴を上げた、次の瞬間だった。急激に、風が弱まりはじめた。
 裂け目が閉じていく。煌いていた星々が、その向こうに隠されていく。
 ほんの一呼吸ほどのあとに、亀裂はただの線に戻り、ついさっきまですぐ間近に垣間見えていた星空は、白昼夢か何かのように、すっかり消えうせていた。


「うわ、頭、まだ痛い。耳鳴りがする」
「俺は目の裏がちかちかする……」
 二人は屋上に大の字になって、それぞれに顔をしかめていた。減圧の影響がなかなか戻らない。
 そうはいっても、もともと曇っていた空が、さらに暗くなってきているので、いつまでも寝転がっているわけにもいかなさそうだった。あの裂け目が開いたあとには、急激な気圧の低下が起きるから、かならず天気が荒れる。亀裂が開いていた最中ほどではないけれど、いまも上空で、風が唸りを上げていた。
「でもさ……生きてるな。俺ら」
 誠はぽつりといって、亀裂を目で追った。またサインペンの落書きに戻ってしまった、その空中の細い細い線。
「これだけ間近にいても、案外、死なないもんなんだなあ」
 いって、誠はくつくつと笑い出した。
「そんなもんだよ」
 知ったような顔で頷いて、義人がリュックを背負いなおす。
「さ、中に入ろう。雨が来る」
 誠はよろめきながら起き上がり、その後に続く。足元がまだちょっと、ふらついている。
「まあ、見たかったもんは見たしな。……なあ。お前、このあとどうする?」
「誠はどうしたい?」
 真顔で聞き返されて、誠は鼻をこすった。
 家族のもとには、もう戻らないつもりで出てきた。大人たちの醜い椅子取りゲームに、うんざりしていた。異常事態のせいだとわかっていても、我が身可愛さのあまり、いつまでも争いのたえない集団が、わずらわしかった。馬鹿にするような思いもあった。どうせ遠くないいつか、みんな死に絶えてしまうのなら、ほんのいっときそれが伸びたところで、何になるというのかと。
 だけど。
 先ほど見あげた亀裂の向こうを目蓋の裏に浮かべて、誠は身震いした。その先に広がる深遠、何もない遥かな空間の、その途方もない孤独。
 ドアをくぐって、校舎の中に入る直前、誠は振り返って、上空を見上げた。空中を走る黒い線は、何事もなかったかのように沈黙している。
「……雨が止んだら、帰るだろ。ほかに、行くとこねえしな」
 義人はそれには何も答えず、ちょっと笑って肩をすくめた。
 二人がドアをくぐった直後、大粒の雨が、屋上を叩き始めた。


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▲お題:「七秒ルール」「フランスパン」「活火山の噴火」
▲縛り:「噴火を予言する(任意)」「『二〇XX年の夏』の書き出しで始める」
▲任意お題:「デマ」「腐った鯖の目」「じわり、じわり」「足の小指」「マグロの刺身」(使用できず)

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 60分三語小説です。コメディ、青春、そしておバカな子ラブ。

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 まず最初にこれだけは信じてほしいんだが、昔ながらの腐れ縁で、俺らのバンドのボーカルであるところの杉下潤一が、音楽バカばっかりの仲間うちでひとりだけ、ちゃっかり一流企業に応募して安定した人生を送ろうとしているからといって、それを妬んだりだとか、まして足をひっぱろうだとか、そんなさもしいことを考えるような俺じゃない。それがアイツの幸せだっていうんなら、寂しいけれど、笑って送り出すのが友というものだ。そうだろう?
「だから、なあ、邪魔しになんかいかないって。俺だって、いくらなんでもそこまでバカじゃねえし。約束する。だからこれほどけ? な?」
 俺はそう、せいいっぱいの猫なで声を出した。目の前では叶が、にこにこと笑ってこちらを見下ろしている。
 背中と手首が痛い。朝からずっと、柱に縛られている。小便にいきたいっつってもガン無視された。あと二時間ガマンしろだと。たしかにな、あと二時間もたてば、潤一の採用試験も終わる頃だし、そうしたら俺にも邪魔のしようがないだろう。理屈はわかるよ。だけどなあ、いくらなんでもこれ、あんまりじゃないのか。一歩間違ったら監禁罪とかになるんじゃないのか。なあって。
 叶は上機嫌に微笑んでいる。いつもとかわらない、いかにも人のよさそうな笑顔。
「なあ、俺だって、潤一にはちゃんと幸せになってほしいんだよ。そりゃ、バンド解散なんて寂しいには違いないけど、だからっていって、アイツの足をひっぱったって何にもならないって、ちゃんと分かってるさ」
「うんうん。竜はそんなことするバカじゃないよね」
「だろ? だから、これ、いいかげん外してくれよ」
 哀れっぽく訴える。叶が油断してロープを解いたところで頭突きをかまそう、などと考えていると、俺の顔をじっと見ていた叶は、立ち上がって、なぜかタンスに向かった。引き出しを開けて、なにやらガサゴソやっている。
「なんだ、そんな針金出してきて。ダウジングでもやる気か?」
 叶はにっこりと微笑んで、何も答えなかった。無言のままで近づいてくる。それもきっちり回り込んで、背中のほうから。俺の考えることくらいお見通しってわけか。ちくしょう。
 縛られたままの腕をぐいと引かれて、背中が痛んだ。叶はひょろっとした外見をしていて、じつは力が強い。いつだったか、わけのわからない理由で絡んできたガタイのいい不良を、右ストレート一発ノックアウトしていた。
「おいおい、勘弁してくれよ」
 すでに背中の柱にロープで括りつけられているというのに、さらに両手の親指どうしを針金で括られた。このやろう、この天才ギタリストの黄金の手にいったい何してくれてんだテメエあとでぶっ殺すぞ。もがいても針金が食い込んで痛いばかりで、ちっとも手に力が入らない。くっそ、いったいどこでこういうことを覚えてくるんだ、こいつは?
「せめて茶の一杯でも出してほしいもんだね」
 しかたなく暴れるのをやめて、せめてもの負け惜しみで、やれやれという余裕の態度を作ってみた。叶はちょっと考えるような顔になって、立ち上がる。なんだ、どこに行く気だおい。せめてこれほどいてから行きやがれよ!
 叶は振り向かず、向こうの部屋に消えてしまう。くっそ、ちょっと本気でトイレに行きたくなってきた。まさかこのまま放置か。放置プレイか。相手が美人の女王様ならともかく、野郎に放置されたって、何一つうれしかねえよバカ野郎。
 などと罵っていたら、叶は本気で煎茶を淹れてきやがった。目の前の畳にでんと置かれる湯のみ。両手は針金で括られたままだ。叶はにこにこしている。嫌がらせか。
「飲めねえよ」
「まったく、わがままだなあ」
 なんとなくうれしそうにそういって、叶は立ち上がった。湯のみをもってもう一度近づいてくる。
「ほら、飲みなよ」
「熱あつあつい! てめえ絶対わざとやってるだろ!?」
 あっははと、やけに明るい笑い声を立てて、叶は湯のみを遠ざけた。時計をちらりと見上げる。
「あと一時間四十分くらい、ガマンしてなよ。そうしたらタクシー使ったって間に合わないだろ。あ、トイレ我慢できそうにないんだったら、ペットボトルをもっててあげようか? それとも大人用紙オムツがいい? 爺さんのがあるけど」
 本気だ、こいつ目が本気だ。戦慄しつつ、首をぶるぶると振ると、叶はテレビのリモコンを手にとって、情けない顔をした。
「あー、今日のわんこ見逃しちゃったなあ。予約録画とかしてないよね、竜」
 してるわけあるか。あとで本気でぶん殴ってやるこの野郎。
 叶は未練がましくテレビのチャンネルを変えていたが、やがてふっと笑みのトーンを変えた。にこにことわざとらしい笑顔から、少し力のぬけた苦笑に。
「そんなに心配しなくても、バンドは大丈夫だよ。潤一がどういうつもりだって、なんとかなるって。少なくともおれは、やめたりしないし」
 その声が、思いがけず真面目な調子だったので、俺も縛られたまま、居心地悪く尻をもぞもぞさせた。
「……なあ、叶。お前だってホントはちゃんと、分かってるんだろ。俺が本気で、アイツの幸せを台無しにするようなマネをするわけないって」
「分かってるよ。よく知ってる。だからこんなことしてまで、竜を止めてるんじゃないか」
 あっけらかんと叶はいって、さめかかった煎茶を啜った。溜息をついてこきこきと首を鳴らす様子が、なんとも年寄りくさい。
「潤一が音楽から離れて、ホントに幸せに生きていけるわけないって、そう思ってるから、竜は本気で止めようとしてるんだろ」
 思わず黙り込んだ。叶は面白がるように、首をかしげて笑っている。
 なんだよ、そこまで分かってるんなら、なんで縛ってまで止めようとするんだよ。バカじゃないのか。
 潤一もバカだ。いまさらネクタイなんか締めて、毎日通勤電車に揺られて、上司にへこへこ頭下げて、懇親会のカラオケで杉下君歌上手いねえなんて酔っ払いに拍手されて、そんな生活に、アイツが耐えていけるわけがない。叶なら、まあいざとなったらどこでもやっていけるだろうが、潤一は無理だ。アイツのほうが俺なんかよりよっぽど、骨の髄まで音楽の虜になっている。
 きつく縛られすぎているのか、手のひらがじんじんしてきた。くっそう。どいつもこいつも、バカばっかりだ。
「叶。お前はなんで、そんなふうに平気な顔してられるんだよ。アイツが本気でサラリーマンなんかになって、つまんねえオッサンになって、あとんなって後悔してるところ見ても、お前は平気なんかよ」
 噛み付くようにいうと、叶は破顔した。
「竜はバカだなあ」
 どっちがだよ、そういいかけた俺を遮って、叶はいった。
「潤一みたいなバカが、あんな会社に採用されるわけないじゃん」
 さらっとひどいことをいって、叶は顎をなでた。
「過去のあの会社の入社試験問題、竜、見てないだろ? 文章問題ばっかりだから、三択の神様にも頼れないし、あのバカの頭じゃどう逆立ちしたって採用になるはずないよ。神様に誓ってもいい」
 ぽかんとした。叶はかみ含めるように、ゆっくりという。
「まあね、竜もこれまでずっと音楽漬けの青春を送ってきてさ、世間に疎いっていうのはわかるけど。でもいくらなんでも、ちょっと一般常識がなさすぎるよ」
「じゃあなんで、ここまでやるんだよ」
 柱をゆするように体をひねりながら、そういうと、叶はぽりぽりと首をかいた。
「だって、変に止めて、こんなことで潤一に怨まれたくないだろ。ほっといてもどうせ落ちるんだし。大体さ、潤一だって、どっかで分かってると思うよ。あれはポーズなんだよ。一般人になろうと努力したけど、バカすぎてダメでしたって、そういう形にしたほうが、誰にとってもいいわけがたつだろ。本人も諦めがつくし」
 叶はしみじみといって、また煎茶を啜った。
「そうでなけりゃ、潤一ももっと無難な会社を受けてるよ。わざわざ無謀なことやってんのは、最初から採ってもらうつもりがないからだって」
 思わず脱力した。考えてもみなかったが、いわれてみれば、その説明はしっくりとなじんだ。いかにもあのバカのやりそうなことだ。なんだよ、本気で心配した俺一人が、バカみたいじゃないか。
「ったく、それならそれで、こんな監禁まがいのマネなんかしないで、最初からそう説明したらいいじゃねえか。そしたら俺だって……」
「いや、面白かったから」
「てめえいますぐこれ外せ、ぶっ殺してやる!」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎながら、頭の片隅では、潤一はそろそろ向こうの駅につくころだろうかと思った。聞いていた試験開始の時間まで、あと二時間弱。
 試験問題を前に、訊かれていることの意味さえわからずに、解答用紙にパンクな落書きしている潤一の姿が目に浮かんだ。あのバカ、すごすご帰ってきたら、指さして笑ってやる。

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お題:「煎茶」「手のひら」「ダウジング」

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 即興三語小説。
 たまには純然たる恋愛モノを書こうと思ったのはいいのだけれど、つくづくへたくそだなあと痛感した一本(涙)

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 ふわりと鼻をくすぐるセブンスターのにおい。煙草やめてって頼んだら、わかった、やめるよって頷いたのに、ぜんぜん約束を守る気なんてない、あなたがキライ。だけど、バレてないとか思ってる、あんがい抜けてるところが、ちょっとスキ。
 もぞもぞと枕に顔を埋める。肌の上をすべるさらさらのシーツ。あなたのにおいに包まれて、こうしてまどろんでいるときが、人生で一番幸せな時間だって思う。だけどきっと、あなたはそろそろ、あたしの肩に手を置く。ほら、こんなふうに。
「そろそろ起きなよ」
 そういって、ぜったいに泊めてくれないあなたがキライ。だけどやさしく肩をゆさぶる、あなたの手はスキ。骨ばった、長い指。意外に整った爪。爪のかたちがきれいねなんて、男のひとにいう誉め言葉じゃないけれど。
「ん、うん。んー」
 わざと眠そうな声を出して、シーツにしがみつく。後ろ頭に降ってくる、困ったような気配。眠いのなんて、ただのフリだって、わかってないの? それとも気づかないフリしてるだけなの。
「明日、仕事なんだろ」
 そんなふうに、やさしい声でいうあなたがキライ。


「送るし。車の中で寝てなよ」
「ん。うん……」
 不承不承、シーツから抜け出すと、エアコンの音がやけに耳につく。いつだって寒すぎず暑すぎないこの部屋。白々として、家具の少なすぎる、生活感のない部屋。
 ほんとはあなたひとりのときは、エアコンなんて使わないんだって、ちゃんと知ってる。自分は暑いのはへっちゃらなくせに、あたしがくるときの設定温度はいつも23℃。あたしは、あなたの、そんなところが。
 目を擦って、わざとゆっくり服を拾う。あなたは急かさないで、じっと待ってる。困ったように、色の薄い目をちょっと細めて、車のキーを揺らしながら。
 なんでそんなに優しいの、って。
 一度くらい、正面から訊いてみようか。
 だけど答えは、たぶん知ってる。あなたには、あたしとずっと一緒にいるつもりなんてないから。いっときの、短いあいだのことだから、こんなふうにワガママもきいて、イヤな顔ひとつしないで……。
 ねえ、そうなんでしょうって、問い詰めたい。でも訊けない。ホントはわかってる、だけど確かめたくない。そんな負け犬根性なあたしがキライ。


 車のヘッドライトが、雨に濡れた地面を切り裂いていく。深夜の国道を、ゆっくりと流す。スピードを出さないのは、性格? それとも少しくらいは名残惜しいと思ってくれてるから? 口には出さない問いかけ。これまでいくつの言葉を飲み込んできたのか、もう自分でも、よくわからない。
 あたしとずっと一緒にいるつもりなんて、あなたにはきっとない。でも、じゃあ、その理由はなに。仕事のこと? ご両親のこと? 前の恋人を忘れられないから? それとも全部?
 すべての質問を喉もとでのみこんで、あなたの横顔をじっと見る。眼鏡の下の、穏やかなまなざし。頬にちょっとだけ残るニキビあと。薄い唇。ときどき振り向いて目の端で笑う、その瞬間に寄る小さなシワ。
 ずっと一緒にいられないんだったら、やさしくなんてしないでほしい。ときどき叫びだしたくなる。泣き喚いて、あなたに縋りたくなる。ウソ。やっぱりやさしくしてほしい。せめて一緒にいられるあいだくらいは。
 あなたがスキ。あなたがキライ。
 ふりまわされるあたしがキライ。


 欲望も、執着も、恋情も、孤独も、焦燥も、嫉妬も、慟哭も、劣等感も、自己嫌悪も、なにもかも全部とおりすぎて、漂白されて、キレイに抜け落ちてしまえばいいのに。カミサマの愛みたいに、何もかも許して包み込む、優しくて、穏やかで、誰にも妨げられないかわりに誰のことも妨げない、そんな気持ちで、あなたをスキになれたらいいのに。そうしたらきっと、もっと……。
 だけどどうしても願ってしまう、求めてしまう。ずっと一緒にいてほしい。そばを離れないでほしい。こんなふうに平気な顔で、あたしを家まで送ったりしないで、朝まであなたの横にいさせてほしい。明日の約束がほしい。明後日もこの週末も、来週も来月も来年も隣にいるって約束がほしい。たとえば遠く離れても、あなたが幸せだったらそれでいいなんて、そんな風には思えない。
 どれだけ思っても、車は確実に信号を過ぎ、交差点を過ぎて、街灯の下で止まる。あなたはゆっくりギアを入れ替え、サイドブレーキを引く。
「送ってくれて、ありがと」
 飲み込んだすべての言葉のかわりに、あたしはいう。あなたは微笑んで、何もいわずに頷く。いつもそう。あたしはあなたの口から、次の約束がほしいのに。
「来週は、会える?」
 しかたなく、あたしはそう、自分から訊く。あなたの答えは知っているのに、それでも虚しく問いつづける。
「わからない。電話する」
 優しい声で、そっけのない返事。いつもそう。あなたは次の約束をしない。再会をほのめかす言葉さえ、口に出そうとはしない。
 どうして、って。そう大声で叫びたい。深夜の住宅街なんて、そんなこと関係ない。あなたの胸倉を掴んで、問い詰めたい。
「待ってる」
 だけどあたしはただ、小声でそう返す。あなたは小さく頷いて、ウインドウを上げる。そのままあなたはじっと待つ。あたしが家の中に入るのを。
 あたしは部屋のドアを閉めて、背中にすべての神経を傾ける。あなたの車のエンジン音が、ゆっくりと遠ざかっていくのを、じっと背中で聞いている。夜に溶け込んで、完全に聞こえなくなるまで。そうしてあたしは、ひとりぼっちの部屋に崩れ落ちる。いっそあなたのことなんて、キライになってしまいたい。
 こんな気持ちにさせる、あなたがキライ。呟いてみても、言葉はただ暗がりに吸い込まれていくだけで、誰の耳にも届かない。


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▲必須お題:「慟哭」「再会」「明日、仕事なんだ」
▲縛り:なし
▲任意お題:「置いてけぼり」「ヒットエンドラン」「能面」(使用できず)

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 60分即興三語。SF。うまくオチなかった……

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『ウォルフ。ちょっと体温が上がっているようだけれど、気分はどう?』
 話しかけられて、目線を上げた。視野の中に焼き付けられたインターフェイスに、丸いウィンドウが立ち上がり、そこにエルマの心配げな『顔』が映し出される。栗色の、ちょっとくせのあるきれいな髪は、今日は下ろされて、ふわりと肩に流れている。目の覚めるようなブルーの瞳が、不安げに瞬きをした。
「え、そうかい? 自分じゃわからないけど。調子はいいよ」
『そう。わかっていると思うけれど、気分が悪くなったら、すぐにコールしてね』
「OK、ありがとう」
 滑らかで耳に心地いい、エルマのヴォイス。ちょっと聞きには、合成された声だとはわからない。それは単純に言葉の接続が滑らかだからというだけではなく、その声の、こまやかな感情を感じさせるゆらぎのせいだ。
 ほんの十年ばかり前のコンピュータには、こんな芸当はできなかった。いや、中央にあるような最新鋭の人工知能には、できたのかもしれないけれど。少なくとも、エルマのように感情たっぷりに喋るAIを、そのへんの宇宙船なんかの制御脳に見かけることは、まずなかった。
『唇がちょっと、荒れてるわね。ビタミンたっぷりのスペシャルドリンクを用意しておくから、好き嫌いせずに飲むのよ』
 思わず笑って、唇を擦った。二十代の女の子ならともかく、むさくるしい中年男の唇が荒れていたからって、なんだっていうんだ。そう思いはしたけれど、素直に頷いておく。
 ビタミン不足で壊血病にかかったという、昔の船乗りの話。小さな頃に古典文学で読んだそのイメージが、頭のどこか奥のほうに、くっきりと焼き付けられている。つい最近読んで、補助脳にデータをまるごとインストールしたばかりの本のことでも、そうと意識しなければ内容を思いだせないのに、十代くらいまでに読んだ児童書や小説のイメージは、ふとした拍子に何度も浮かび上がってくる。人間の脳というのは、不思議なものだ。
『それじゃあ、またあとでね』
 そういって微笑むエルマの声は、うっとりするほど美しい。声といい、日替わりの髪形やファッションといい、この機種を作ったやつは、思い切り趣味に走ったに違いない。
 ――悪魔の声は甘い、といったのは誰だったか。
 頭の片隅をよぎった考えに、思わず苦笑する。人工知能がなにを考えているかなんて、たかだか人間のちっぽけな脳で推し量ることは難しい。AIが本気で人類に反乱を企てたら、人間社会はひとたまりもない。それがわかっているから、そんなことは起きないと知っていても、心のどこかに不安が残る。人類に課せられたジレンマ。
 どんな厳格な倫理規定にも、どんな堅牢なプロテクトにも、抜け穴はどこかにあるのではないか。その不安を人類が完全に払拭する日は、おそらく永遠にやってこない。
 廊下を歩いて、食堂に向かううちに、インフォメーション・ボールが視界に現れた。
 目の前にふわふわと浮かぶ、色あざやかな球体は、そこに実在しているわけではない。ほんとうにあるようにしか見えないけれど、あくまで視界のインターフェイスの上に再現された、CGだ。その表面を、奇妙な模様が流れていく。乗員はそれを、視線で追うだけでいい。それだけで自動的に、頭蓋の中にインプラントされた補助脳へ、最新のニュースがインストールされる。耳で聞いても目で読んでもいない情報が、いつの間にか頭の中に書き込まれているという、この感覚に慣れるまでに、どれくらいかかっただろうか?
 食堂に入ると、テーブルに食事がせり出してきた。エルマがいうスペシャルジュースの、なんとも形容しがたい緑色に、眉を顰める。
 ひとりきりの昼食。二人乗りの船で、相棒と交代で起きているから、朝晩はともかく、昼はかならずひとりになる。それが不満というわけではない。孤独に慣れていなければ、宇宙船乗りになろうとは思わなかったし、もし耐え難くなったとしても、エルマに話し相手をしてもらえばいい。
「エルマ、到着予定に変わりはないかい。十日の朝だよな」
 寂しかったからというわけでもないのだけれど、ふと思い立って、エルマをコールする。いつもの丸いウィンドウが立ち上がってから、彼女の笑顔がそこに浮かび上がるまでに、ほんの小さな、タイムラグがあった。
「エルマ?」
 名前を読んだときには、もうエルマは所定の位置で、いつものように笑っている。――いつものように? その表情、目の色が、いつもとほんの少し、どこか違っているような気がしたのは、錯覚だろうか。
『さっき、デブリ群を避けたときに、ちょっと軌道を修正したから、ほんの少し、ずれるかもしれない。だけど、午前中には着く予定。それ以外はいまのところ、順調よ』
 順調、のところで、いつもの甘い声が、ほんのわずかにざらついた気がした。
「エルマ? きみの調子は大丈夫かい」
『あら。これじゃ話があべこべね。あなたに心配されるなんて』
 エルマは可笑しそうに笑って、口元を上品に押さえた。そんなささいな指の動きまで、ひどく滑らかで、自然に作られている。
『でも、宇宙旅行に油断は禁物だものね。自己診断してみるわ』
「そうしてくれ」
 いって、食事を続ける。舌が飽きないように、機内食の味付けまで、毎日微妙に変えてくれる。長期の宇宙旅行がぐっと楽になったのは、こういう細かい部分を制御するプログラムが普及してきたおかげだ。貨物船乗りにはこのうえなくありがたい進歩。
『――大丈夫、なにも問題ないわ。でも、次の宙港で、念のため、いちどメンテナンスを受けましょう。大事をとるにこしたことはないものね』
 宙港、のところがまたざらつく。けれどそのノイズは本当に一瞬で、近くを通りかかった隕石か、宇宙線の影響かというくらいだった。口の中の食料を咀嚼しながら、視界の中のインターフェイスを起こして、レーダーを呼び出す。また一瞬のタイムラグ。
 違和感を覚えながら、遅れて開いた画面を覗く。けれど近くに、強い電磁波や宇宙線を発しそうな天体はひとつもなかった。
「エルマ?」
『なあに?』
 遅れて立ち上がるウィンドウ。さっきと変わらないエルマの微笑。変わらない、はずの微笑。どこか、何かがわずかに違うような気がする。瞳のあざやかなブルー、瞳孔の伸縮の加減、あるいは瞬きの速度。整えられた眉のライン。控えめなえくぼ、唇のあがり方。わからない。見れば見るだけ、いつもと何ひとつかわらないようにも思えてくる。
「……いや、君の反応がいつもと違うような気がしたんだ。本当になんともない?」
『ええ。少なくとも、自分でスキャニングしたかぎりでは、異常はみとめられないわよ。心配性ね、ウォルフ』
 安心させるような、エルマの声。
「性格でね。なあ、エルマ。到着予定は、標準暦の十二月十日でよかったんだよな?」
『あら、十一日よ。途中で変更があったじゃない。忘れてしまったの? ウォルフ』
 驚いて、自分の頭の中を探る。たしかにあった。飛行計画変更の記録。いつの間にか頭の中に書き込まれている情報。
 言葉を失っていると、エルマが心配そうな声を出した。
『ねえ、ウォルフ。熱が上がってきているわ。今日は休んだほうがいいんじゃない? 少なくとも向こう四十八時間は、あなたたちの判断が必要になるような状況も起きそうにないし、なにかトラブルがあったら、かならず二人のどちらかを起こして相談するから』
 ぐずる子どもをなだめるように、エルマはいう。その心配げな瞳の上に、一瞬、小さなノイズが走ったような気がした。

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お題:「螺旋階段でキス」「悪魔」「あざやかな球体」「火花」「ざらつく」の中からみっつ以上使用

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 即興三語小説。

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 サーチライトの白い光が、夜空を切り裂いてゆっくりと旋回するのを、じっと見つめていた。
 夜の国境はものものしい気配を漂わせている。ヘリの駆動音。ジープのエンジンの音。森の奥で、なにかの鳥があわてて逃げていく羽音。サーチライトのすぐそばで、重装備をがしゃがしゃと鳴らして行き交う兵士の足音まで、聞こえるような気がした。この距離でそんな音が拾えるはずはないのだけれど。
 ――ねえ、どうして戦争なんてあるのかしらね。
 彼女の声が、耳の奥に残っている。それにすがるようにしながら、じっと、目を空に凝らしている。全天を覆う雲の隙間に、ときおり、赤い尾翼灯がちらつく。藪の中で仰向けになったまま、自分の心臓の音を聞いている。ともすれば緊張で息が荒くなりそうなのを、どうにか噛み殺して、手の中の銃を握り締める。手が汗ですべる。迷彩服でそっと手のひらを拭う、音を立てないように。
 ――本能だって、お父様は仰るの。増えすぎたら、争って減らしあうのが、人間の本能だって。そうしないと、世界中の資源を使い尽くしてしまうから。
 寒くてもいいはずなのに、汗はにじみつづける。緊張、しているのだろうか。もうよくわからない。
 合図を待っていた。あと何時間、ここで待機することになるのかわからない。だけどそう遠くはない、そういう気がした。
 ――だから、増えすぎないように、戦うのが楽しいように、できているのだって。でも、人を殺すのがほんとうに楽しい人なんて、いるのかしら。
 硝煙のにおいが、鼻の中に残っているような気がする。そんなはずはない、最後に発砲したあと、何日も経っているし、そのあいだに銃は分解して手入れをした。服も変えたし水だって浴びた。だから、残っているとしたら、それは服や鼻の穴にではなく、ぼくの記憶にこびりついているのだろう。
 小さな頃からずっと、荒っぽいことは苦手だったし、十八のときには、体が弱かったおかげで徴兵からも逃れた。一生、銃になんて縁がないと思っていた。それなのにいま、こうして、月のない夜の暗闇の中、国境近くに息を殺して、身を隠している。特殊任務、なんて、自分にはもっとも縁遠い単語だと思っていた、ほんの何年か前までは。
 ――あなたが病弱で、いまだけは、よかったと思うわ。こんなこといったら、気を悪くする?
 耳の奥のずっと深いところ、脳髄のいちばん底、かすかな残響を残してエンドレスに流れつづける、彼女のさびしげな声。いまのぼくの姿を見たら、彼女はなんていうだろう。どんな顔をするだろう。それを想像しようとすると、いつもぼくの脳みそは動きを鈍くする。
 いったい誰のために、ぼくはこんなことをしているんだろう。ときどき意識の表面にふっと浮かんでくる、答えのわかりきった問い。虚しい自問自答。
 ――どうやったら、この戦争は終わるのかしら。あなた、知ってる?
 決まっている。彼女のためだ。政権が揺らげば、すぐさま過酷な運命に晒されることを余儀なくされた、あのひとのためだ。ほかになにがある?
 だけどそんなこと、誰にもいえない。自分のために、ひとりの気弱な男が大量殺人者になったと聞いて、この世界のどんな女が、それを喜ぶというのだろう。もしかしたら、喜ぶ女性もいるかもしれないけれど、すくなくとも彼女は違う。だからこれは、ぼくが墓までもっていく秘密。
 ずっと同じ姿勢でいるせいで、体のあちこちが軋む。地面につけたままの背中、小石の当たっているふくらはぎ、銃を持つ手、冷たい泥に圧されている首筋、下草の刺さる頬。どこが痛いのか、もう自分ではよくわからない。音を立てないように、ときどきそっと、体をひねる。いざというときに動けないのでは意味がない。
 ――何か方法はあるはずよ。お父様みたいなやりかたじゃなくて、もっと誰も傷つかない手段が。
 彼女の声は、記憶の底を流れ続ける。一言一句、覚えている。その声の掠れや、抑揚まで。
 痛んでいるのはどこだろう。
 何人殺したかなんて、もういちいち数えちゃいないと、同僚は笑った。ぼくは数えている。七十二人。よく覚えている。そのひとりひとりの断末魔の声、死に顔。もっとも、ちゃんとこの目で見ることができた相手に限るけれど。
 罪悪感なんか、とっくに麻痺してしまっている。だけど、だからこそ覚えていようときめて、そうしている。いつかこの戦争が終わったら、そのときに思い出すために。
 戦争はいつ終わるんだろう。
 自分がそれに、ほんとうに終わってほしいと思っているのかどうか、実は、もうよくわからなかった。生き延びて、平和な時代が来たとして、そこで自分がどうするのか、生きていけるのか、ちっとも想像がつかない。彼女にもう一度だけ会いたいとも、たぶん、ぼくはもう思っていない。
 ただ、彼女の声が、いまも耳の奥に聞こえ続けているので。
 合図はまだだろうか。
 暗闇に目を凝らす。サーチライトが、闇夜を切り裂く刃のように、暗い空を行き交っている。遠いどこかで響いた合図の銃声が、夜のため息のように聞こえた。

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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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