小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 寄子の場合、他のクルーに比べれば、決断はいくらか簡単だった。
 その理由はいくらもあるが、要約すれば、彼女の父親が清掃局の人間で、中でも最も人々が好まない仕事、つまりは死体の処理や殺処分に関する部署に配属されていたためということになる。
 彼らが地球で暮らしていた頃ならば、そういう余人がやりたがらない仕事というのは、それなりの報酬を保障されるものだったが、月コロニーでは事情が違っていた。もう少し正確に言えば、衰退が約束されたあとの小さな世界では、ということだ。もはや滅びは避けられず、ただそれまでに残された時間を、混乱と絶望の渦に投げ込むよりは、静かに秩序を持って幕を閉じようという、ただそれだけが望まれる社会の中では、需要と供給のバランスなどというものは、まともに働くわけがなかったのだ。
 つまるところ寄子の父は無能力者と見なされ、あるいは彼を嫌う管理局の人々からそういうことにさせられて、その結果、負担ばかりが大きく報いの少ない仕事に就いたということだ。
 寄子はそういうコロニーの現実に、この上なくうんざりしていた。だから月社会を捨てて夢想に飛び込むことに、少しもためらう必要がなかった。
 とはいえ建前として、親の職業と子供の進路との間には何の関係もないこととされているのだし、寄子はスクールの成績も非常によかった。まともに――論理的にということだが――考えるなら、彼女には父とは全く質の異なる人生を送ることを、期待してもよいはずだった。
 だが現実に、管理局は彼女を、その能力にふさわしい職責に就かせることなど、これっぽっちも考えていないのだ。寄子はあらかじめそのことを知っていた。
 それは何も、管理局の顔ぶれが、蛙の子は蛙だというような古くさい偏見に捕まっているからというわけではない。もっと実際的な理由によるものだ。つまり、自分たちは彼女の親をさんざんに苛めてきたのだから、その娘が自分たちを恨んでいないはずがない、というわけだ。そのような相手に下手な力など与えようものなら、その刃が自分たちに向けられるに相違ないと、彼らは考えていた。
 そして寄子は、それが単なる下衆の勘ぐりなどではないことを知っていた。もしも手段と機会さえ与えられていたなら、自分は間違いなく彼らを追い落としただろう。
 だが実際に寄子がとった行動といえば、身の危険を厭わずに父の不遇への復讐を企むことではなく、父の手を引いて、くだらない苛めっ子どものテリトリーから遠ざかることだった。
 尻尾を巻いて逃げた、とは、彼女は思っていない。程度の低い相手と同じ土俵で戦うことに、彼女は心底うんざりしていたのだった。
 それがつまりは寄子・スガヤが月コロニーの格納庫から宇宙船を略奪して、遥かな外宇宙を目指す死出の旅に迷わず身を投じた、その理由だった。


 セキュリティをごまかすのには、若輩者でありながら、寄子はけっこうな役割を果たした。プログラミングの授業のような、子供だましの生ぬるいセキュリティを出し抜くことぐらい、彼女には何でもないことだった。彼女のハッキングの技術は、父親直伝のものだ。
 他に何の仕事もできない無能者と呼ばれて、自らもそのように振る舞って見せていた揚一朗・スガヤは、その昔、地球に存在していた某国の情報舞台に所属していた、腕利きのハッカーだった。サイバー空間を跳梁跋扈して、任務と大義名分にあぐらをかき、ゲームのつもりで多くの人々の人生を狂わせてきた。そういう己の生き方に、あるとき突然うんざりして、自分で自分の牙を折った。そういう男だった。牙は二度と獲物に突き立てられることはなかったが、何を思ったのか、彼は己の技術を娘に受け継がせた。
 いまや月にはそういう分野でのプロフェッショナルが、呆れるほどに不足していた。寄子はセキュリティの突破に大きな力を振るい、同志の喝采を浴びたが、もちろんその他のこと――寄子が入手した図面をもとに侵入経路を決定し、武器を入手し、宇宙船の起動手順を踏んでクルーを宇宙に送り出したのは、彼女以外の大人たちだった。
 外宇宙船が不法に出航したとき、船上には総勢二十人あまりの男女がいた。現実的に船内を切り回し、数年から、最大で数十年の宇宙生活を送るために、多すぎず少なすぎない、それが、ぎりぎりの人数だった。船に装備された小規模の食糧プラントでは、それ以上の人数をまかなうことは不可能だったし、それより少ないクルーでは、船内生活を円滑かつ文化的に切り回すには、労働力が足らなかっただろう。冷凍睡眠カプセルを稼働させればもっと多くの人を運べたかもしれなかったが、そもそも信頼のおける同志の数はそこまで多くなかった。
 寄子はその二十二名の中の、最年少のクルーだった。
 大人たちの愚かしい側面を、この上なくあからさまに見せつけられて育ってきたこの少女にとって、当初、大人ばかりに囲まれての閉鎖環境は、不安要素に満ちているように感じられた。だが、幸いにしてクルーの面々は、良く言えば大人の厭らしさとは縁遠く、悪く言えば夢見がちで政治下手な、つまり子供じみた連中だった。おかげで寄子は大人の汚さに辟易させられる機会よりも、むしろ、肝心の大人たちよりもよほど鬱屈した自分の、大人びて政治的な思考回路のほうを憎まなくてはならなかった。
 そういう危なっかしい顔ぶれによって運営されているにしては、宇宙船クラーク号は、奇跡的に順調な航路を取っていた。小惑星帯を余裕をもってクリアし、木星のスイングバイをぴったり〇・一度の狂いもなく果たして、出航後五日にして太陽系外まで残りわずか三日という位置につけた。
 じきに、望んでも月コロニーとの交信など不可能な領域に入るだろう。残してきた多くのものに、思った以上に未練の湧かない己の心の裡を、寄子は皮肉っぽくのぞきこんだ。少しばかりためらったあとに、友人のひとりにあてて短い通信文を送ったが、それを自分が感傷のために実行したのか、それとも常識だとか倫理観だとか、そういう外部から押しつけられた固定観念に押されての行動だったのか、自分でも判別できなかった。
 寄子にとっては、うんざりするような日常からの脱出にすぎなかった船上生活は、実際に、月コロニーでの生活よりも、よほど上等の暮らしに感じられた。しいていうなら船内プラントには、コロニー本土にあるような、本物そっくりに代用食料品を加工するだけの、高機能の機器は付属していないから、船暮らしに不満があったとすれば、少しばかり食事が味気ないとか、それくらいのことだった。
 だが案外、そういうささやかな欲求のほうが、しだいに耐えがたく思われだすものなのかもしれなかった。旧世界の映画に、地球時代のフルコース料理が映り込んでいるのをうっかり見てしまったときなどには特に。


 彼らの船旅は結果的に、三年あまりで終わりを告げた。
 それでも長くもった方なのかもしれない。何を目指すという目的もない逃避行だったにしては。
 太陽系内や、その近くを飛んでいたうちはよかった。見慣れた星座が進行方向にきらめき、振り返ればすっかり他の星々に紛れて見えなくなった地球の残骸と月が、少なくともその方向にあるはずだということくらいは実感できたし、行く手にはニアミスする軌道の天体があって、その回避のために対処を取らねばならなかった。
 だが一旦、星々の密集するエリアを離れてしまえば、あとは延々と虚空が代わり映えもせず周囲を押し包み、次に何らかの天体に接近するのは、どんなに早くても十数年後であるとはっきりする頃には、誰もが先のない旅にうんざりしはじめていた。
 先が見えない、のであれば、まだよかったのだ。明日には何が起こるか判らないのであれば、まだしも日々を生き抜くことに集中できる。だがそういうスリルを味わいながら暮らすには、クラーク号はいささか優秀すぎる船だった。メンテナンスのための機材はじゅうぶんすぎるほど積まれ、それらを指揮するAIもバックアップも万全で、目下のところ不安材料はなかった。
 いつまで生き延びられるかもわからない不安に満ちた生活に飛び込む勇気があることと、何も起こらないと知っていながら退屈とつきあえる度量があることは、並立しがたい資質なのかもしれなかった。
 最初に参ったのは、料理人兼航海士補のジェラルドだった。変化に乏しい航海食を、いかに工夫して皆を飽きさせないかという命題は、少なくとも二年ばかりの間、彼の生活にやりがいとメリハリを与えていた。しかしプラントで生成できる材料では、味付けや調理法のバリエーションにも限界があった。マンネリ化が進み、乗組員たちが新鮮な驚きと賛美をもってジェラルドを称えることもなくなった。終わりの見えない単調な雑務は、彼の気を滅入らせた。
 ジェラルドが鬱状態に陥り、船内の食事が単なる栄養食のそっけないかたまりになってしばらく経つと、気象予報士兼美容師のアミーリアがあとに続いた。
 彼女の場合、恋人関係だったジャックとの間がうまくゆかなくなりはじめてから変調を来たし、それからの三ヶ月で二回の自殺未遂と一回の傷害事件のあとに、とうとう三回目で自殺に成功してしまった。
 三人目はジャックだ。アミーリアを失ったあと、後悔の念と罪悪感に苛まれ、カウンセリングを頑なに拒否して、合成アルコールに手を出すようになった。次第に言動に一貫性がなくなっていったあげく、一ヶ月後には他のクルーに危害を加えかけて拘禁された。その後、ジャックは冷凍睡眠カプセルに強制収容されて、クラーク号と運命をともにすることとなった。
 一人、また一人と欠けてゆく中、寄子の父親は、かなり遅くまでもったほうだった。彼のようにシステム周りのメンテナンスを担当していたスタッフや、生活用機器の修理をしていた技術者たちは、ともかく目の前に日々の仕事があったことが、精神衛生上好もしい作用を及ぼしたのだろうと推測される。
 最後に残ったのは寄子だった。
 彼女はたったひとりきりになってから、皆の棺となった冷凍睡眠装置の後始末をつけると、自らの生命維持装置に時限作動するバグを忍び込ませて間接的に命を絶つまでの三ヶ月と十二日の間に、ひとつのプログラムを書いた。宇宙船の通信装置を利用した、それは、まだ見ぬ誰かにあてた、メッセージだった。
 さまざまな音声と文字、記号、図解、それらの意味データをくくりつけて辞書として機能するように梱包された、その膨大な分量のデータと出力装置が、ひどく手間暇をかけて作られたわりに、納められた肝心のメッセージ自体は、ごくわずかなものだった。
 わたしたちは、ここにいた。
 いまは失われた青い惑星で発生して、殖え、夥しい数の命を見送り、生きて、死んだ。
 たったそれだけのメッセージだった。自分たちがどのような形質の生きもので、どういう文化を持っていたとか、故郷の風土や光景がどうであったとか、その惑星がどの座標にあったとか、そういう情報はひとつも添付されていなかった。
 どういうつもりで寄子がそんな意味の無いプログラムを書いたのか、知るものはもうどこにもいない。

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 猫の王様は働かない。なぜというなら王様だからだし、猫だからだ。
 面倒くさい仕事はすべて臣下に丸投げするし、それほど面倒くさくない仕事でも、まあたいていは押しつける。王様のすることといえば、どうしても王様自身がしなくてはならないことだけだ。すなわち寝ることと、食事を摂ることと、グラ・エジュパを狩ること。


 グラ・エジュパは宙飛ぶ船に居座る怪物だ。図体こそ小さいが、死病の種を運び、食糧を食い荒らし、人の眠りに滑り込んで悪夢の種を植え付けて、乗組員たちの心を惑わす。この化け物に支配された船では、船乗りたちは仕事をしなくなる。怠け、妬み、互いを見下し、ささいなことで口を極めてののしりあう。被害の半分くらいはねずみのしわざに似ていることと、目撃情報からするとある種のネズミと同じくらいの大きさと推定されることから、宇宙ねずみと呼ぶ者もいる。
 人間たちの心から魔法が去り、かわりに科学技術が幅を利かせるようになってから、ずいぶん長い年月がたって、とうとう人類が自由に宇宙を旅して回るようになったころ、忘れ去られたはずの魔法の逆襲が始まった。科学では説明のつかない怪奇現象が、大宇宙時代の人々を襲ったのだ。
 グラ・エジュパの存在も、そのひとつだ。
 そんなものはただのおとぎ話だ、人間の精神が見せる幻覚だと言う者もいる。集団心理が作り上げた都市伝説だと。
 だがこの怪物はセンサーに捉えられる。実体があるのだ。生身のくせして隔壁の、格納庫の、食料保存庫の、厳重すぎるほど厳重な警備を突破して、どんな場所にでも入り込む。それでいて、退治されればその場で幻のように消失し、何の痕跡も残さない。しかも記録映像に残そうとすれば、なんだかよくわからないあいまいな靄になってしまう。実はどこかの国の軍事兵器で、電磁的迷彩がほどこされているのではないかという説もある。だがどのような科学技術をもってすれば、何ら化学物質を残すことなく消失してのけるのか、説明できた者はいない。
 だから宇宙船乗りたちは、この魔法の鼠の存在を、ひどく恐れ続けてきた。手のひらに乗るほどの大きさのくせに、宇宙船一隻に暮らす幾十人、幾百人もの人々を、悪くすればわずか数日で根絶やしにしてしまう、おそろしい怪物を。
 鼠退治には猫の力を借りるものだ。それは人類が宇宙に飛び出すよりも、ずっとずっと昔からの、変わらない約束。
 かくして宇宙船には猫が乗るのが定法となった。何人も、猫を載せずして外宇宙を旅してはならない。たとえ猫アレルギーの乗組員がいようとも。どんなに猫の毛が機器類に入り込んで、故障の原因になろうとも。


 広大無辺の宇宙を旅する御殿のひとつ、連邦の技術の粋を集めて建造された外宇宙探査船キュロス号にも、お定めのとおり、王様がいる。
 ぱっと見には黒猫のようだが、被毛を掻き分ければ根元近くにゆくほど白くなる。もし五分刈りにすれば、きっと白猫に変身できるだろう。胸のところに一筋、三日月のような形をした白い模様がある。
 猫だというのにその体重は十五ポンドを超え、ボス猫にふさわしい大きな顔の中で、金色の目が鋭く光っている。なかなかの男ぶりである。
 今日も王様が通りかかったのを見て、整備主任が手を止め、帽子を脱いだ。「やあ、王様、今日もご機嫌ですね」
 宇宙船の中で帽子を被る必要がいったいどこにあるのかと思うようだが、これは抜け毛を機器の中に落とし込まないようにという整備士の知恵だ。しかしながら王様は帽子などという面倒なものは被らないので、猫の毛は容赦なく落ちる。だから整備士たちはいつでも大わらわである。それでも主任は王様に頭を下げる。ものの道理のわかった人間である。
 臣下のあいさつに鷹揚にうなずいて答えると、王様はぴんと尻尾を立ててパトロールを続行する。王様は船内のどこでも自由に歩き回ることができる。そうでなければグラ・エジュパを狩ることなどおぼつかない。なんせ相手は、船のどこにでも忽然と現れる魔法の生きものだ。
 王様の行く先々で、小さな自動ドアが、音も立てずに開いてゆく。彼専用の通路だ。王様の首のところには、目に見えない小さなチップが埋められていて、これが鍵代わりになっている。ところによっては機密の都合で二重扉になっているから、開ききるまでに時間がかかるのだが、王様は王様なので、慌てず騒がず、泰然と待っている。
 船内の多くの部署には、きちんと王様のための食事と水と、猫砂とが常設されている。その休憩所のひとつで、王様はおもむろに脚を止めると、掃除していた新米操縦士ににゃあと声を掛けた。「くるしゅうない」と言ったつもりである。
 新米は猫好きなのか、でれでれと表情を崩したが、王様には敬意を払うように教育されているので、我を忘れて撫で繰り回したりはしない。代わりにポケットから取り出したおやつを、うやうやしく差し出した。
 中には言いつけを破り、ろくすっぽ王様に敬意を払おうとしない無礼な連中もいるのだが、彼らの物言いについて、王様はすべて寛大に聞き流すことにしている。下々の者に悪口を言わせておくのも、王たるものの度量のうちだ。
 ほかにも二、三、忠実なる彼の臣下にねぎらいの声を掛け、ちょうど掃除の済んだばかりの猫砂で用を足して、味の異なるみっつのフードにそれぞれ鼻面を突っ込んだあとで、王様は船の最下層へと向かった。


 食料庫のとなり、よく空調の効いた、静かな部屋である。いや、静かと言っては語弊がある。部屋中を占拠するいくつもの機械がごんごんとうなりをあげて作動している。しかしその部屋には人がいないので、相対的に静かに感じられる。
 部屋の中央、いくつも並んだ箱がある。ちょうど人間ひとりが入るほどの大きさだ。箱は箱でも、頑丈なフタがされている。
 フタにはのぞき穴が空いている。王様はひょいと飛び乗って、そこから中をのぞき込んだ。きれいな長毛のサビ猫が、静かに眠っている。彼女の瞳がどんな色をしているのか、王様は知らない。
 この眠り姫が何者なのかというと、彼の次の王様候補である。雌だから、女王候補というのが正しいかもしれない。コールドスリープ装置の中で、寝息も立てていないから、まるで死んでいるかのように見える。しかしながら表情は穏やかで、ご機嫌でうたた寝をしているかのよう。
 猫というものは、人類の進出した惑星であればたいがいの土地にいるけれど、船の守護がつとまるほどの立派な猫は、そこらから簡単に集めてこられるわけではない。そして船旅はしばしば長い年月にわたる。だから探査船には、必ず、後継者が一緒に乗り込むきまりになっている。
 王様はにゃあと一声鳴き、いっとき待って、また鳴いた。それを何度か繰り返してから、少しばかり苛立ったように、爪で窓をひっかいた。コールドスリープ・カプセルはあいにくと、猫の爪で開けられるようなやわなつくりをしてはいない。
 あきらめて前脚を止め、ひとしきり眠れる美猫を見つめたあとで、王様は箱から降りた。
 王様は賢い猫なので、自分が生きているうちに彼女が目覚めることがないことを知っている。
 それでも王様は、毎日この部屋に通う。知っているのとあきらめがつくのは、べつのことなのである。


 日課のパトロールを終えて、王様は寝床に戻る。王様の寝床は船内いたるところに据え付けられているが、近頃のお気に入りは非常用脱出艇の格納庫だ。船橋や食堂はしじゅう騒がしくていけない。少し前までは女性クルーの私室にお邪魔していたのだが、最近彼女の恋人が出入りするようになって辟易しているのだった。
 寝床の箱の中で何度か姿勢を変えて、しっくりくる位置に納まると、王様は、ふんと鼻を鳴らして目を閉じた。
 グラ・エジュパは今日も出なかった。
 王様がキュロス号に乗り込んでから、はや一年あまりが経つが、王様はいまだに魔法のねずみに出会ったことがない。この船は規模のわりにおおむねクルー同士の仲が良く、人の目と清掃とが行き届いている。そういう船に、グラ・エジュパは居座りづらいのだという。
 平和である。何よりのことだ。
 だがしかし、と王様は思う。それならばなぜ、自分はここにいるのだろう。
 助力を請われ、彼なりに納得して就いた王様業ではあるものの、何ともつまらないものだ。軒下で暮らしていたときのほうが、よほど気楽であった。


 王様が王様になる前の名前を、ナツという。
 まだ王様でなかった在りし日のナツは、とある辺境惑星の温帯地方にいた。地方都市の裏路地で毎日尻尾を立てて闊歩する、由緒正しき野良であった。
 野良なのに名前があったのかと問うのは野暮である。野良であっても人間の友達はいる。
 夏生まれだからナツだった。彼が生まれたのは、古びた家の軒下だ。
 その家で暮らしていた人間の一家が食べ物を分けてくれなかったら、いまの彼はない。母は見事な毛並みの黒猫だったが、産後の肥立ちが悪く、彼と彼の兄弟を産んだ後、まもなく息を引き取った。彼には三匹の兄弟がいたのだが、生き延びたのは彼だけだ。
 生まれたその軒下を拠点とし、彼は日々熱心に、近所をパトロールしてまわった。ときにはほかの野良猫たちと雌やナワバリを争って戦い、その多くを実力で勝ち取ってきた。
 ハンターとしても、彼は優秀だった。ほんの仔猫だったころを別とすれば、たとえ食事を人間に頼ることがなかったとしても、さほど食うに困ることはなかったであろう。
 だがそれでも恩は恩、友達は友達である。母親を亡くした寄る辺なき子猫が、独り立ちするまでのいっときの間、食べ物を分け、名前をくれ、頭を撫でてくれた。喧嘩をして帰ってきたときに、傷口に強烈なにおいのする消毒薬を振りかけられたのだけは、少しばかり閉口したが。


 仔猫時代に世話になった人間への恩返しとして、あるいは友達への義理立てとして、いま、彼はここにいる。ねぐらにしていた家の長男が、いまや機関士となって、この船に乗り組んでいるからだ。
 猫は恩を知らぬと誰が言ったか、王様は知らぬ。
 ふつう船を守る猫というのは、専用の施設で生まれて、幼いうちからいつかそうなる日のために育てられることが多い。とはいえ、元野良につとまらない役目というわけではない。キュロス号の船長は、新米機関士に引き合わされたナツをひと目見るなり、いい顔つきをしているなと目を輝かせた。ボス猫というより、王様の貫禄だ。それにこの胸のところの白い模様も、強そうでいい。ツキノワグマみたいで頼もしいじゃないか。
 うーうにゃななにゃうにゃー、とナツは答えた。ナワバリを離れるのは本意ではないが、そこの背丈ばかりがひょろひょろと高いひ弱な我が友が、是非にと助力を請うならば、船に乗るのもやぶさかではない。なぜならばそのひょろ長いのに、私は恩があるからだ。
 だがその堂々たる口上を、船長はろくすっぽ聞いていなかった。はは、この猫なにか喋っているぞと、楽しそうに彼の口元をつついた。何とも無礼なことではある。
 人間というものは、いかにも鈍い。日ごろからなにやら賢しげなことばかりしているくせに、猫の言葉くらい理解してもよさそうなものだ。
 まあそれはいい。
 ともかくそういうわけで、王様は王様になり、ねぐらを小さな一軒家の軒下から、外洋探査船へと移す運びとなったのだ。


 この空飛ぶ御殿に移ってから、皆が王様と呼ぶから、彼はときどきうっかり自分の名前を忘れそうになる。
 ナツと呼ばれるのと王様と呼ばれるのと、どちらがより自分にとって、居心地のよいことだろうかと、半分眠りに落ちかかりながら、彼は思った。
 そんなことを考えながら眠ったせいか、王様はこの日、夢を見た。
 ネズミの夢だ。生まれ育ったあの街に、グラ・エジュパはいなかったが、小型犬ほどもあるドブネズミならわんさといた。ナツは優秀なハンターだった。住処のまわりで見かけたなら、自分の体より大きな相手にでも、ためらわず襲いかかり、確実に仕留めてきた。
 だがやつらは狡猾だった。
 夏の、夜のことだった。ナツはナワバリの公園をパトロールしていた。いつもはさっと見回るだけで済ますのに、その日に限って脚を止めたのは、異臭がしたからだ。
 いやな予感にかられて、彼は身を低くした。それから足音を殺して、そろそろと、においの元に忍び寄った。それは公園の端、低木の植えられた花壇のあたりからしていた。
 そこで彼は、悪い予感が当たったことを知った。
 茂みの中で、一匹のサビ猫が死んでいたのだ。その美しさで近所中の雄の心を奪い、熾烈な争いを巻き起こした雌猫。四月ほど前に彼の子を産んだ、猫だった。
 月の明るい夜だった。彼女の亡骸には、ネズミに囓られた跡がいくつもあった。持ち主の違う、何種類もの歯形にむしり取られた傷口。子どもを育てるのに力を使った雌猫が、よくそうなるように、前に見たときよりもずいぶん毛づやが悪くなり、痩せていた。
 動かなくなった彼女をじっと見つめたあと、ナツはそっと、その場を離れた。近づいて別れのあいさつをするような真似はしなかった。それが猫の流儀だからだ。死にかけている、あるいは死んだ仲間には、心のうちがどうであれ、素知らぬ顔をすることが。
 子猫は生き延びただろうかと、公園から遠ざかりながら、ナツは思った。
 近くに死体は見当たらず、もう独り立ちしていてもおかしくない月齢ではあったが、真相を確かめるすべはなかった。その後に彼が自分と同じにおいのする若猫に会うこともなかった。


 もしもその場面に間に合ったのなら、ナツは彼女に加勢して戦っただろう。相手がどんなに多勢でも、自らの命を引き替えにしてでも、彼女を護っただろう。だがこうなった以上、彼はもう、ドブネズミたちを恨むことはしなかった。
 自分もネズミをさんざん狩って血肉に変えてきた。彼もネズミも、生き延びようとした。そういうことの結果があるだけだ。
 だから船長の求めに応じてこの船に乗ったのは、何も、仇討ちのつもりというわけではなかった。街のドブネズミのかわりにグラ・エジュパを狩ろうとしたわけではなかったのだ。
 ナツはただ今度こそ、護ろうとしただけだった。彼の二本足の友人を。


 目を覚まして、王様はゆっくりと伸びをした。それから後ろ脚を長々とのばして、爪のあいだまで丹念に舐めた。そうしながら、心の隅に奇妙な不安が居座っているのを感じていた。だからこそ、かえって丁寧に毛繕いをした。自分の心を落ち着かせ、感覚を研ぎ澄ませるために。

 なぜあのような古い夢を見たのか。
 王様は考えた。考えて、ゆっくりと立ち上がった。夢の中からずっと、いやな臭いがしていた。初めて嗅ぐのに、よく知っているにおい。
 王様は昂然と顔を上げて、彼専用のドアへと向かった。慎重に、足音を殺しながら。慌てて走っても意味はなかった。どのみち自動扉はすぐには開かない。
 格納庫を出て、通路をずっとまっすぐに歩く。いつになく、空気が荒んでいた。行き交う乗組員たちの表情がどことなく暗く、硬い。道すがら、ささやくような抑えた声での口論が幾組も聞こえた。あるいは憮然とした沈黙の気配が、そこここからかぎ取れた。
 何がきっかけだったのかはわからない。おそらく、船の中にいる誰にもわからないだろう。苛立ちは伝染し、疑念を呼び、気がつけば誰もが、隣に立つ誰かをぎこちなく警戒している。
 彼の友達も、その中にいた。交替の時間なのだろう、見たこともないような暗い目をして、鈍い足取りで機関室に向かっている。王様は通りすがりにそのふくらはぎめがけてパンチを繰り出した。
 ――しっかりせい。
 小さく悲鳴が上がったのを聞けば、少々手加減が足りなかったかもしれないが、王様は特に反省しなかった。何するんだよ、ナツという声が背中から追いかけてきたが、それも聞き流した。
 通りかかった二人組の整備士のあとに続いて、王様はエレベータに飛び乗った。それまで何か言い争いをしていたらしい二人組は、あっけにとられて喧嘩を中止すると、ぽかんと王様の背中を見つめた。
 食料庫は最下層。下っぱ整備士が頻繁に備品を取りにゆかされる備品庫の、すぐ隣だ。身を低くして食料庫に向かう王様の背中を、整備士たちは不思議そうに見送ったが、彼は振り返らなかった。
 だが、いざ食料庫に飛び込もうとして、王様は脚を止めた。ここではない。
 グラ・エジュパは食料庫に出ることが多いという。船に積まれている食糧や水を汚染して、病を広げるのだと。どれほどセキュリティを高め、監視を厳しくしても、まるで湧いて出るかのように忽然と現れる。そういう話を聞き知っていたから、王様は、てっきりここだと思ってやってきた。
 だが嫌な臭いは、隣の部屋からしていた。
 次期女王の眠る、コールドスリープ・カプセル。彼がかつて愛した雌に少しだけ似ている、まだ一度も話したこともない猫の姿を、王様は思い浮かべて、表情をけわしくした。
 いまこそ彼女を護らねばならぬ。そうでなければ自分はいったい何のためにこの船にいるのか。


 王様は無音で自動扉に忍び寄った。瞳孔は縦に細く絞られ、尻の筋肉には力が溜められている。
 尻尾を振って、彼は、間合いを計った。自動扉が開くまであと三秒、二、一。
 扉の隙間を風のように走り抜けて、王様は、影に飛びかかった。
 背筋の凍るような悲鳴が上がる。街のドブネズミのような、キーキーと甲高い声ではない。もっと低く、重く、世界中のあらゆるものを呪う声だった。
 反射的に飛び離れながら、王様は負けじと唸った。気づかれないうちに襲いかかって一度で仕留めるのが上策。それが失敗した以上、気配を隠す意味はない。獲物をとらえたはずの爪に手応えはなく、つめたい霧のような、正体の知れない感触だけが残っていた。
 毛を逆立てて、低く、長く、彼は唸った。街での喧嘩を思い出して血を騒がせるような余裕は、どこにもなかった。
 非常灯の薄明かりでも、猫の目には室内のようすがよく見える。だがいまは、その中央、コールドスリープ・カプセルのすぐ傍に、闇が凝っていた。
 何かがそこにあることはわかる。だがその輪郭は、茫洋として知れぬ。じっと見つめれば不確かに揺らぐ。
 これがグラ・エジュパか。王様は頭を低くし、これ以上ないほど尻尾を膨らませて、再び間合いを計った。
 影はじっとしている。逃げだそうとする気配もなければ、こちらに襲いかかってくる様子もない。

 ――ナゼ人間ナドニ使ワレテイル。

 人間の言葉ではなかったし、もちろん猫の言葉でもなかった。これまでに聞いたことのない種類の言語。だがそれでも、王様には意味が分かった。
 目の前にいる小さな影。これが喋っているのだ。その事実を、王様は受け容れた。
 グラ・エジュパが口をきくなんていう話を、彼は聞いたことがなかった。だがそういうものかもしれない。彼がこの怪物について伝え聞いたのは、すべて人間たちの語る内容ばかりだった。人間はどうしようもなく鈍い。あの日、船長がナツの言葉を理解しなかったように、暗闇の底からわき出でた小さな怪物の言葉を、聞き取ることができなかったとしても無理はない。
 ――使われているわけではない。
 猫の言葉で、王様は答えた。グラ・エジュパには、それでも通じるだろうという予感があった。実際に、小さな怪物は不愉快そうに身じろぎをして、低く囁いた。
 ――イイヨウニ飼イ馴ラサレテイル。餌デ釣ラレ、肥エフトッテ。
 王様は鼻に皺を寄せて不快の念を示した。このごろ少々肥り気味なのは事実だったから、痛いところをつかれたと思ったのだ。だがそれ以外の点において、この悪い魔法の手先の言葉は、少しも彼の心を揺さぶらなかった。
 ――望んでここにいるのだ。己の意思で、護りたいものだけを護っている。誰も私に、ものごとを強いることはできぬ。猫とはそういうものだ。
 ――護リタイモノトハ、コノ猫ノコトカ。
 暗闇の中で、グラ・エジュパは嗤った。狡猾そうな笑みであった。それから、呪詛のような怨嗟のような暗く低い声で、滔々と続けた。
 ――モトヨリ我ラノ狙イハ人間ドモダ。オ前タチガホンノ数日、我々ノスルコトニ見ヌフリヲスルナラバ、オ前ニモコノ雌猫ニモ、手ハ出スマイ。
 悪い条件ではないだろうと、怪物は囁いた。
 ――彼女だけでは十分ではない。この船の人間にも、手は出させぬ。
 ――哀レダナ、愚カナ猫ヨ。護ル価値ノアル人間ナド、ドコニイル。連中ハ、航海中コソオ前ヲ持チ上ゲルカモシレナイガ、ヒトタビ船ヲ降リレバ、恩ナド忘レルゾ。
 王様はわずかにひげを揺らして笑った。
 ――そうなったら、そうなったときに考えればよい。猫は先のことなど考えぬ。
 口ではそう言いながらも、王様の表情には、動揺も疑念も、欠片ほどもなかった。
 ――大シタ信頼ダ。
 小さな怪物は吐き捨てて、暗くくすぶる熾火のような目をした。王様は油断なくひげを震わせながらも、少し考えて、言葉を足した。
 ――別に、人間を信じているわけではない。猫にも友情に値する猫とそうでない猫がいるように、人にも、つい助けてやりたくなる相手と、そうでない相手がいる。それだけだ。
 言いながら、王様は尻を震わせた。爪の手入れは十分だった。野生でなくなっても、爪も牙も、その鋭さは失われていない。
 ――眠っている猫にしか手を出せんような臆病者が。こざかしい理屈を捏ね回して、私の隙を突けるとでも思ったか。
 王様は爛々と金色の目を光らせた。彼は、そう、怒っていたのだった。
 ――恥を知れ。
 ひときわ大きな声で吼えて、王様は後ろ脚に力を込めた。
 勝負は一瞬だった。
 よく撓めた発条のように、王様は飛び出した。つんざくような悲鳴が上がった。世界の全てを呪うようなその声は、船内の空気を震わせ、室内にはいまさらのように、異常事態を知らせる警告ランプが点り、無線のスイッチが入って慌てた誰かの声がした。
『誰か、その部屋にいるのか。何があった?』
 にゃあ、と王様は答えた。ほかに答えようもなかったので。
 無線は沈黙し、代わりに誰かの足音が近づいてきた。


 人間たちの心から魔法が去って、ずいぶん久しい。科学では説明のつかない現象が、何度繰り返されたところで、信じない者は信じない。たとえ厳重なセキュリティに護られているはずの部屋で、防犯カメラに得体のしれない影が映っていようとも。奇妙なことに、そのタイミングで船中の乗組員が、同時に口論をはじめ、皆があとになって首を傾げていようとも。
 グラ・エジュパなんていうものは、ただのおとぎ話だと、彼らは言う。どこにでも怪談が好きな連中がいて、自分たちの信じたいように事実を曲解し、ねつ造して、面白おかしく語るのだと。
 もう少し柔軟な頭を持った人々は、センサーやカメラの記録を分析しながら、ひっきりなしに首を傾げている。
「やっぱりどう見ても、王様が飛びかかった直後には、煙のように消えているんだよなあ」
「ごみとか、虫とか、そういうものが映り込んでいる可能性は?」
「登録認証タグが埋め込まれていないかぎり、虫一匹だって、こんなところに入り込めはしないよ」
「王様が入るのと同時に、ぴったりくっついて猫用の通路から滑り込んだとか」
「それもない。真っ先に解析したよ」
 どう見ても、何もないところに忽然と出現したとしか考えられないと、分析斑が首を傾げている。
「実体がない?」
「いいや。重量センサーにはしっかり引っかかってるんだ。コールドスリープ装置のログにちゃんと残ってる。そうだな……ハツカネズミ一匹分くらいの体重かな」
 議論を聞き流しながら、王様は欠伸をした。騒々しくなってきたから、どこか静かな場所に移動しようかと、眠気のさした頭の半分で考えながら。残りの半分は、珍しく働いて疲れたので、このまま眠ってしまいたいと考えている。馴染みの整備士から豪華なおやつももらったので、腹はいっぱいだ。
「どこから入ったかは置いておいても、あとかたもなく消えたっていうのがなあ」
「王様が食っちまったんじゃないのか」
 にゃあにゃあと、王様は不機嫌な声を出した。猫を何だと思っているんだ。あんなまずいもの、食べちまったら腹を壊すだろうよ。と言ったつもり。
 だがやはり鈍い人間どもは、王様の言葉を理解しやしない。騒々しくて彼が機嫌を損ねたと思ったらしく、気を遣って、少しばかり声をひそめた。まあそれはそれで結果オーライだと、王様は思うことにした。
 彼の友達も、部屋の隅のほうで議論に耳を傾けていた。最初は話に加わっていたのだが、いっときすると見切りをつけたのか、ひとり輪から外れて、王様の寝床に近づいてきた。
 ひょろ長い新米機関士は、うとうとしかかった王様の傍にぺたりと座り込むと、彼の耳の後ろをひとしきり掻いて、
「やっぱりナツは頼りになるなあ」
 そう感慨深げに呟いた。
 にゃー、と王様は答えた。まあ、お前が分かっていれば、それでいいさ。
 どこまで彼の言葉を理解したかは知らないが、彼の友達はいっとき王様の喉を撫でたあとで、思いだしたように整備服の上からふくらはぎのあたりをさすって、小さく苦笑した。
「でも、さっきはちょっと痛かったよ」
 その言葉には、王様は、返事をせずにそっぽを向いた。
 議論は終わるそぶりを見せない。

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 仔猫がやってきた。

 何も前から飼おうと思っていたとかそういうことじゃない。凛子が拾ってきたのだ。
 自分で飼えなくて人に押しつけるくらいなら拾ってくるなよ命に対して無責任だろ、というのが俺の弁。
 雄二なら絶対見捨てきれずに引き受けるってわかってたんだから何一つ無責任なんかじゃない、というのが凛子の弁。
 まあどちらに理があるかなんていうことはこの際どうでもいい。強いて言うなら、たった二週間前に自分が振ったばかりの元恋人のところに拾った猫を押しつけきれる凛子の神経が信じられないが、それもまあいい。餌代は半分が向こう持ち、そのことにも不服はない。
 どうしても割り切れないことがあるとするならたったひとつ、餌代の受け渡しを口実にこれからもたまに話くらいはできるかなんて、うっかりそんなことを考えてしまった自分の未練がましさだけだ。


 いきなりインターフォンが鳴ったのはよりにもよって午前零時半を回ったあたりで、そんな非常識な時間に連絡もなく家を訪ねてくるような相手を警戒しながらも、嫌な予感がしてチェーンをしたまま開けたドアの隙間に鼻水でぐちゃぐちゃになった凛子の顔が見えた瞬間、口から真っ先に飛び出した言葉は「こんな時間に女が出歩くなよ馬鹿か」だった。
 泣いているのかと勘違いしたのは最初の三秒だけで、チェーンを外して玄関に招きいれたとたんくしゃみの四連発、記憶にあるかぎり小学生のころにはすでに凛子はひどい猫アレルギーで、教室で猫を飼っているやつが隣の席に座っただけでも、目を真っ赤に腫らしてくしゃみを飛ばしていた。それだというのにあの馬鹿は、目やにで両目のふさがった生後何か月だかの白い仔猫を、わざわざ懐にしっかり抱きかかえていた。適当な箱でも探して放り込んでしまえばよかっただろうに。
 そんなことでほだされると思うなよ馬鹿が、と胸中で毒づいたのは単なる悔し紛れ以上の何物でもなくて、それもまた凛子の計算のうちだというのはよくわかっていた。そんな姿で現れれば俺が絶対に拒否しないと踏んでいたに違いないのだ。
「ね、ほんと申し訳ないんだけどさあ」
 ずびずび鼻水を啜りながらそんなふうに眉を下げてみせる一見殊勝そうな態度に、ガキのころから何度引っかかってきたと思っているのかとか、すまなさそうにしてみせるのは形だけで結局のところ十分後にはけろっとしているに違いないのだとか、腹を立てる要素ならもう数え切れないくらいあったわけだが、
「お前より図々しい女見たことない」
 結局のところその憎まれ口は敗北宣言で、猫の毛のついた服の着替えになりそうなTシャツを凛子に放り投げながら、頭の隅では最寄りの二十四時間営業のドラッグストアに猫ミルクが置いてあったかどうかを思い出そうとしていた。


 アパート暮らしだったならどうしたかわからないが、幸か不幸か死んだ祖母から相続した一戸建てで、動物嫌いというわけでもないし、そもそも子供の頃には実家で猫を飼っていた。
 この家に移ってきてから動物を飼っていなかったのは、まだ就職三年目で収入が心もとないからというくらいの消極的な理由で、だから猫を押しつけられたこと自体にはべつにかまわない。どうしようもなくなったら実家の両親にあずけてもいいし、そこまでしなくても職場も近いし。昼休みに戻ってきて様子を見るくらいのことはできる。仔猫は栄養不足で痩せてはいるが、どうやら生後三ヶ月かそれくらいは経っているようだった。猫ミルクも自力で舐めて、いまは部屋の隅においたタオルの上で丸くなって寝息を立てている。この調子なら放って置いてもじきに元気になるだろう。
 予防接種のことを考えれば財布に痛いがまあそれはいい、トイレだの爪研ぎだののしつけも手間だが、それもいい。どうしても納得がいかないのは、案の定ものの五分もせずにけろっとして洟をかみかみ猫ミルクの説明文なんか読んでいる目の前の女のことであって、
「お前なあ……」
「だって他に頼めそうな人思いつかなかったしさあ。あんた昔、猫飼ってたじゃん? 責任持ってあたしもご飯代半分だすし」
「そういうことじゃないだろ、」俺がこの二週間どんだけ、と勢い余って怒鳴りそうになって、ぎりぎりのところでプライドが邪魔して飲み込んだ。「――もういい。用事が済んだんならさっさと帰れよ」
 うん、と子供のようにうなずいてから、凛子が上目遣いで一瞬、何か言いかけるような顔をするのに、慌てて目を逸らした。
「ごめんね」
「もういいよ」
 つっけんどんな声になったのは仕方がない。と思う。
「じゃあ、悪いけどよろしく」
 そう言ってふらっと出て行こうとする背中を見ながら三秒迷って、
「――送る」
 結局は自分もスニーカーを履いた。
「べつにいいよ」
「女が一人で夜中に出歩くな」
 顔を見ずに言うと、凛子が笑う気配がした。
「あんたのそういうとこ、」
「うるさい黙れ」
「まだ何も言ってないじゃん」
 くすくす笑いながら弾みをつけて玄関を出る凛子の、街灯の光の下の薄い背中が、高校生のころとちっとも変わっていなくて、急におぼつかないような気持ちになった。


 ごめんねと、記憶の中の凛子が言った。あんたと居るのやっぱつらいわと。
 なんで、と食ってかかった声は、自分でもそうとわかるくらい力がなくて、返事を聴くまえから気持ちの半分では凛子の言い分を納得していた。
 あんたと居ると甘えちゃうもの。
 それの何が悪いんだよと、言い返したと思う。誰にだって甘えたいときくらいあるだろと。
 駄目なのよ。凛子は泣き笑いの顔になった。あたしが嫌なんだよ、際限なくあんたに甘えて寄っかかって、そういう自分が気持ち悪くてどうしても許せない。
 凛子の母親が凛子を捨ててどこかの男と消えてしまったのが、忘れもしない、俺たちが高一のときの春だった。父親のほうはとっくの昔に離婚してどっか遠い町で別の家の父親をやっていて、親戚同士の盛大な押し付け合いの果てに、凛子が折り合いの悪い叔母の家で嫌味を言われながら暮らしはじめたのも、それまでいつも人の輪の中にいるタイプだったのに、急に人が変わったみたいに友達の誰とも口をきかずにいつも醒めた目で前をにらんでばかりいるようになったのも、
 そういう凛子の背中をずっと見ていたのに、結局凛子がひとりで立ち直るまでぜんぜん何も出来なかったことも、
 全部まだ記憶に新しくて、
 あんたのそういう情にもろいところがさと、凛子は言ったのだった。弱ってる相手を見たらほっとけない、人の好いところがさ、あたしはさ。
 ごめんね雄二は悪くない、だけどもう無理だわと、妙に明るいサバサバした口調で笑って、ヒールの靴音を鳴らして出て行ったのが、
 その背中を何も出来ずに見送ることしかできなかったのが、
 たった二週間前のことだ。


「近いうちにこれ返しに来るね」
 Tシャツの裾をつまんで、凛子がくるりと振り返ったのが駅のすぐ前、終電がとっくに終わった時間になっても構内にはちらほら客待ちのタクシーが停まっていた。「あと猫のご飯代と」
「――餌代はいいよ」
 胸をよぎった未練がましさへの反動で、つっけんどんな声が出た。
「持ってくるよ。猫、見たいし」
 重ねて言われれば、もうそれ以上つっぱねる気にもならなくて、
「鼻水垂らしながらか」
 そんなふうに憎まれ口を叩くのが精々だった。
 またねと小さく手を振って駆けていく背中に、伸ばし損ねた手を握って拳を作った。
 悪いのは俺か。発進するタクシーを見送りながら、肩が落ちる。
 凛子は強い。多少のことではへこたれないし、人の中でもわりかしうまくやっていけるほうだし、ついでに言うならちゃっかりしていて図太い。つい先日別れた男のところに猫を押しつけて悪びれないくらいには。そんなことはわかっている。
 わかっているつもりで、わかっていなかったんだろうか。
 俺は凛子を弱い女のように扱っただろうか。


 部屋に戻ってみればさっそく仔猫が粗相をしていて後始末に追われ、一息吐いて時計を見れば、とっくに二時を回っていた。明日も仕事だっていうのに。もうため息しか出ない。
 少しは申し訳ないと思うのか、それとも単純に心細いのか、俺が疲れて座り込んだとたん、その膝の上に仔猫がよちよちよじ登ってきた。目やにだらけの青い目で人の顔を見上げながら、声にならない声でにゃあと鳴く。なんだこいつ。可愛いじゃないかこのやろう。
 鼻先をつつくと、仔猫は一丁前に喉を鳴らして額を押しつけてきた。くそう。そんな殊勝な顔をしても騙されないぞ。猫なんてどうせ三日もすれば拾われた恩なんかきれいに忘れ去って、けろっとしているに違いないんだから。まして凛子の拾ってきた猫だ。あいつなみに図々しいに決まってる。
 ぶつくさこぼしてはみたものの、結局のところそれも、事実上の敗北宣言だった。

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 冬のはじめ、父が死んだ。
 規定通りの忌引きを貰うだけのつもりだったのだが、この際だから溜まった有給休暇を少しは消化しておいでと直属の上司が言ってくれたので、素直に甘えることにした。休みの間に席のなくなる心配をしなくていい勤務先というのは、有難いものだと思う。十日かそこら私がいなくても仕事は回る。十年早ければそのことを悔しがりもしただろうが、もうそれほど若くもなかったので、そもそも仕事というものはいつでも誰かに代わりの勤まるようにしておくのが理想的なのだということを、建前でなく信じられるようになっていた。
 不在中のことを簡単に引き継ぐと、急のことに備えて会社のロッカーに入れてあった喪服と黒ネクタイを引っ掴んで、慌ただしく新幹線に飛び乗った。
 実家に戻るのは、数えてみれば七年ぶりだった。盆も正月も、仕事が忙しいと嘘を吐いて、まるきり帰らずに済ませた。七年前に一度だけ、母が入院したというので、さすがに慌てて駆け付けたことがあった。その時にも、父とはほとんど会話を交さなかった。病院に持ってゆく母の着替えや何かについて、事務的な言葉をひとつふたつ口にしたきりではなかったかと思う。
 父は無口な男だった。ただ口下手なだけならば可愛げもあるが、たまに口を開いたかと思えば人を貶すようなことばかりを言うので、弟と私からはいつも煙たがられていた。本人もそれが厭だったのだろう、歳月を追うごとにますます口数は減っていった。口に出さなくなった分だけ、胸のうちではさらに毒を溜めていったのではないかと思うと、余計に父と話すのが嫌になった。
 対象的に母はとにかくよく喋る女で、人の話はろくに聞かず、自分の言いたいことばかりを捲し立てる性質だったから、父が毒舌を吐いても軽く聞き流してしまうようなところがあった。破れ鍋に綴蓋という言葉はまさしく彼らのような夫婦のためにあると、私と弟はよく言い合った。まあ、相性がよかったということなのだろう。
 母のことまで嫌っていたわけではなかったのだが、とにかく口うるさくて何のかのと口出しされるのが煩わしく、また気恥ずかしくもあり、父への反感を抑えてまで帰省しようというだけの意欲を見出すことはできなかった。母の方でも父子の不仲についてはとうの昔に諦めたという様子で、帰って来いと言う代わりに頻々自分のほうで上京してきて、兄弟それぞれの部屋を訪ねた。そうしてやれ生活がだらしないの、いい加減に結婚でもして親を安心させろのと、小うるさく嘴を突っ込んで帰っていった。


 七年ぶりの生家に足を踏み入れると、その母が別人のようにひっそりと黙り込んで、通夜の準備なのか、大量の皿だのコップだのを洗っていた。集まりだした親類や、父の遺体の前で神妙に座り込んでいる弟に話しかけることもしなかった。叔母がその腕を掴んで、姉さんこっちは私たちがするからと休ませようとしても、ただ無言で首を振って、黙々と手を動かしていた。
 田舎のことで、広さだけはそれなりにある家だったので、通夜も葬式も自宅でやると聞いていた。死んでしまった後にさえ父の傍に寄るのに気の進まなかった私が、いつまでも突っ立っていると、母がようやく気付いたように振り返って、瞬きをした。そして思い出したように「お帰り」と言った。普段の様子からは信じられないような小さな声、静かな口調だった。
 死んだ父にというよりも、気落ちしている母に対して、この期に及んで父子の確執を見せつけることのほうが悪いような気がして、ようやく遺体の脇に座った。納棺もまだで、ただ眠っているかのように、父は布団に横たえられていた。
 父は老いていた。記憶の中でさえすでに初老というような年ではあったが、それからの七年の間に、目を疑うほどの衰えを見せていた。
 少し前に病気をしたというのは母の口から聞いていたが、そんなに悪いとは知らなかった。言い訳のようにそういうと、急なことだったのよと叔母が教えてくれた。昨日の夜にはぴんぴんしていたのだと。
 まさか遺体を腐らせないために暖房をおさえているというわけでもなかったろうが、隙間風のする田舎家は、広さがあるだけによけい寒く、部屋のストーブの上では薬缶が鳴っているのにも関わらず、吐いた息がかすかに白んだ。母はいつまでも皿を洗っていた。


 手続きだの葬儀の手配だのと、数日間は目まぐるしく過ぎて、ふっと途切れるように時間の空いたとき、糸の切れたようになっている母のことが、恐ろしくなった。それで、急ぎもしない遺品の整理を言いだした。薄情な息子だと言われても仕方のないことだが、何かしら手を動かさせていたほうがいいような気がしたのだ。
 ただの反射的な思いつきだったのだが、却って色々と思い出させて良くないかもしれないと考えついたときには、もう母はぼんやりとしたようすのまま、言われたとおりに作業を始めていた。
 父が書斎と読んでいた避難部屋を、母と私とで片付けにかかった。整理といっても、どのみちすぐに処分するような決心はつかないのだから、片付けると言うよりかは、ものを引っ張り出しては戻してみたり、あっちにあったものをこっちに入れ替えてみたりという、何とも益のないような作業だった。それでもともかく何もしないでじっと座って、葉の落ちた庭木を見つめてばかりいることだけは避けられた。
 母はまだ一度も泣いていなかった。悲しくなかったというわけではなく、まだ呆然としていて感情が現実に追いついていないのだと、ひと目でわかるような有り様だった。時折思い出したように目を赤くして鼻を啜っている弟よりも、泣かない母の方がよほど心配だった。
 私の方はというと、本当に悲しくなかった。さっさと死んでくれて良かったというほどまで憎み抜いていたつもりはなかったのだが、父が死んで悲しいというような感情は、ちっとも湧きあがってこなかった。いくら嫌っていたからといって実父が死んだというのに、薄情なものだとは自分でも思ったが、元気なうちにあれをしておいてやればよかったとか、顔くらいはもっと見せておけばよかったとか、そんなことは何一つ思いつかなかった。
「あら」と母が言って、机の引き出しの奥から、小ぶりな段ボールを引っ張り出した。「何かしら、これ」
 受け取ると、箱は存外に重かった。いつからそこにあったのか、ひどく古びていて、被った埃が貼りついて変色していた。
 隠すように置かれていたことが気にかかった。人目に触れさせたくないようなものなのだろうか。エロ本か何かだったらいい年をしてと笑い飛ばして済む話だが、何かしら母を苦しめるものが入っていはしまいかと、そのことが心配になった。例えば浮気の証拠だとか、心ない悪意に満ちた書きつけだとか、そういう始末の悪いものが。
 母の眼から少しでも遠ざけるように引き寄せて、封を開けた。古くなったガムテープは、何度か剥がして貼り直したものと見え、ほとんど粘着力を残していなかった。
 中にぎっしりと詰まっていたのは、古びた原稿用紙の束だった。
 不意をつかれて、私はその紙束をぼんやりと眺めた。父が書きものをするとは知らなかった。それもこんなに大量に、いったい何を書いていたのか。
 呆気にとられたまま、ともかく一番上になっていた束を取り出してみると、数十枚ほどが糸で几帳面に綴じられており、最初の一枚に太い筆跡の万年筆で、題のようなものが記されていた。
 ――名残りの雪。
 あら、と母が呟いた。これって、あれよね。茫洋とした口ぶりでそう言って、母は机の引き出しを開け、いっとき中を漁っていたが、やがて一本の万年筆を取り出した。飾り気のない、黒い万年筆だった。長いこと使っていたのか、軸には細かい傷が目立っていた。ものに愛着を抱いて大事にするようなところをあまり見せなかった父に、その傷は何だか、似合わないような気がした。
「親父、そんなもの持っていたか」
 言うと、母はふっと目を細めた。
「これ、結婚前に私がプレゼントしたのよ。失くしてしまったなんて言ってたのに」
 ぼんやりとした眼差しのまま、母は首をかしげた。「何で隠してたのかしら」
 その言葉の途中から、急に泣き声に変わったので、私は慌てた。母は立ち上がると、小走りに部屋を出て行ってしまった。私に泣き顔を見られるのが嫌だったのだろうか。こんなときだというのに。
 遠ざかる足音を聞きながら、私は床に座りなおして、原稿用紙を捲った。黒のインクで綴られたその文章は、口下手だった父に似つかわしくない、流麗な筆跡を見せた。
 仕事として文筆をやっていたのなら、母が知らなかったわけがないから、それは趣味の書きものだったのだろう。だがその筆致は素人目ながら、書きなれた巧みな文章と見えた。
 一番上になっていた束は、短い恋愛小説だった。
 読んでいる間、私はそれを書いたのが父だということを半ば忘れて、読みふけっていた。それでも読み終えてからあらためて振り返ってみれば、そこに書かれているのは、たしかに母のことだった。容姿や何かのことは変えてあったが、口癖の端々や仕草の描写に、母の気配が見え隠れしていた。
 箱の中を探ると、下の方にある原稿の方が紙がまだ白く、新しいようだった。どういうつもりで父がそんなふうに片付けておいたのかは知らないが、単純に最近書いたもののほうが、より人に読まれたくなかったということなのかもしれない。
 二つ目の話は、少年を主人公にした物語だった。幼いころの父がモデルなのかもしれない。とりたてて事件の起こるわけではない、ありふれた日々の一片を切り取ったようなごく短いものだったが、そこには胸の詰まるような郷愁が滲んでおり、読み終えたあとに何か、柔らかい感慨のようなものを胸に残した。
 これをあの口を開けば人の悪口しか言わないような父が書いたとは、とても思えなかった。そこには他者を見下して嘲るような視線はなかった。ただ周囲にあるものへの憧憬と愛情ばかりが綴られていた。
 三つ目の束を手に取ったとき、私は動揺した。題名のところに、私と弟の名前が書かれていたからだ。
 迷ったが、好奇心が勝った。疲れた目頭を揉むと、指を舐めて原稿用紙を捲った。
 その小説には、幼い兄弟が登場した。利かん気は強いが弟思いの兄と、その兄にべったりと甘えていてすぐ泣く弱虫だが、芯のところに強情さの見える弟。私小説ということになるのだろうか。実際にそこに書かれているエピソードのいくつかには、私の覚えていることが混じっていた。
 濃やかな情愛に満ちた眼差し、兄弟の成長を喜びつつも一抹の寂しさを感じている父親の心境が、自分の知る父の姿と、どうしても重ならなかった。理不尽なことで癇癪のように怒られたり、何かの賞をとって喜びながら家に帰っても鼻で笑って小馬鹿にされたり、そういう記憶しか、私にはなかった。
 最後まで読むことができずに、私は紙束から視線を外した。
 色あせた原稿用紙の束を発作的に破り捨てかけて、直前でどうにか思いとどまった。母や弟にも、これを読む権利はあるだろうという考えが、頭を過ったからだった。だがその考えは、余計に私をいらだたせた。
 二人がこれを読んで、驚いたり父を見直したりするところを想像すると、いっそ今すぐに箱ごと燃やしてしまいたいくらいだった。
 小説だ。後から振り返って文章に起こすのなら、いくらでもきれいごとを書ける。思い出を美しく装い、自分の都合のいいようにいじりまわすことができる。もし本当にここに書いてあるような情愛を、父が心に抱いていたというのなら、そのように振る舞っていたはずだ。口下手なりにも、態度の端々に何がしかの思いやりを滲ませていただろう。
 今さらこんなもので、事実を美しく歪めて自分の人生をきれいに纏めてしまおうだなんて、そんな都合のいい話があるものか。
 こんなものは読みたくなかった。怒りで頭のくらくらするのを感じながら、手の中で紙がよれて皺になったのを、箱の中に押し込むようにして戻した。
 弟が入ってきた。
「母さん、やっと泣いたな――あれ」
 弟は当惑したように入口で立ちつくし、それからばつの悪いような照れ笑いで鼻を掻いた。「何を見つけたの。兄貴までそんな顔して」
 言われて、自分が泣いていることにようやく気付いた。拳で乱暴に顔を拭いながら、この弟に対しても、私は腹を立てた。
 弟の人の好い顔には、やっぱり兄貴も父さんが死んで悲しいんだなというような、鈍感で善良な安堵が、はっきりと描きこまれていた。悲しいのではない、俺は腹を立てているのだ、これは悔し涙なのだと怒鳴りたいような気がしたが、私が実際にしたことといえば、黙って段ボールを丸ごと弟のほうに押しやっただけだった。
 原稿用紙の束を見て驚いたような顔をした弟が、父さんの字だ、としんみり呟いたので、私は自分だけが父の筆跡を知らなかったということに気付かされた。
「父さん、文章なんか書いたんだなあ。似合わない気もするけど、でも、そういうものなのかもしれないな。口下手な人間のほうがさ、書きものが巧かったりさ……」
 読みかかった弟に背を向けて、私は書斎を後にした。逃げ出したのだった。この人の好い弟が、父の小説を読み終わったときに、ちょっと涙ぐみながら「父さん、こんなふうに俺たちのこと、見てくれていたんだな」などと言うところが、くっきりと見てきたように想像されて、それがどうにもならないほど耐えがたかった。
 廊下に出ると、母のむせび泣くのが台所のほうから微かに響いていた。怒りを噛み潰そうとして巧くいかないまま、かつて自分の使っていた部屋に逃げ込もうとして二階に上ると、古くなった階段がいやに軋んだ。


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お題:「愛着」「古びた原稿用紙」「有給休暇」

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 昨日のらくがきの続きです。
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プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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