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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 べつの小説を書いている途中で、ものすごく発作的に現実逃避の落書きをしました。落書きですので推敲もざっとしかしてません。
 そんなもんでも暇つぶしに読んでやるかという方がいらっしゃいましたら、「つづきを読む」からどうぞ。  後半は明日の夜あたりにUPします。

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 照れた顔がオカメインコに似ている、と彼女にいったら、平手打ちを往復で喰らった挙句に連絡が取れなくなった。
 可愛いと思ったのに、何がいけなかったんだろう。

 ……という相談を自称宇宙人の同僚から受けてわたしが頭を抱えたのは、月曜日の昼下がりのことだった。
 喫茶店は空いていた。ほかには主婦らしき女たちの集団がひと組と、じいさんが二人と、営業途中で涼んでいるらしいサラリーマンがひとりいるだけ。わたしたちのように図書館員でなくても、平日休みという人はたくさんいるだろうに、平日の昼間にうろついている勤労者層の姿がやたらと少ないのは、いったいどういうわけなんだろう。
 ここが地方だからか。あるいはわたしが思っているよりも、世間では土日休みの人間が圧倒的多数を占めているのか。それとも平日の昼間に出歩くことに、みんななんとなく後ろめたさでもあるんだろうか。
 同僚はいかにも悄然としたふうに肩を落としているけれど、その顔はまったくの無表情だ。ジェスチャーはともかく、地球人の表情を模倣するのはなかなか骨が折れることなのだと、いつだったか真面目な調子で話していた。どこまで本気かはわからない。いや、本気は本気なんだろう。少なくとも本人にとっては。
「そのとき彼女、泣いてなかった?」
「もしかしたら」
 そうでしょうね、とため息を落とすと、同僚は顔を上げて、じっとわたしの目を見た。表情らしい表情がないにも関わらず、それが教えを請う生徒のまなざしだということは、なんとなく見分けがつくようになってしまった。長いつきあいというのは、しばしば不本意なものだ。
「あのね」
 言葉を探す数十秒の沈黙のあとに、わたしは口を開いた。同僚はうんうんと熱心そうにうなずいている。いつもどおりの、無表情のままで。
「覚えておきなさい。日本の女性に、オカメは禁句」
 そういうと、同僚は首をかしげた。何か訊きたいことがあるけれど、質問していいのだろうかと躊躇しているのだ。
 何? と顎でうながすと、自称異星人は背筋を伸ばした。
「オカメと、オカメインコは違うと思っていたのだが」
 思わずため息をもうひとつ。前髪をかきあげて、いった。
「違うけど、それでも禁句。OK?」
「……OK」
 うん、とうなずき返して、冷めてしまったコーヒーを一口すする。悪くない。冷めても美味しいコーヒーというのは、なかなか貴重なんじゃないだろうか。
 ガラス越しの外を見る。まだ七月上旬だっていうのに、真夏めいた強烈な陽射し。アスファルトの上には陽炎が立っている。これからの長い夏が思いやられるような光景だ。
「もうひとつ、質問しても?」
 同僚が顔を上げて、気真面目にそう問いかけてくる。目線でうなずくと、彼は真剣そのものの口調でいった。
「オカメインコは可愛いと思うのだが、その感覚は地球人とそんなにかけ離れているだろうか?」
 ああ、もう、なんていったらいいのか。
 肩を落として、空のカップをテーブルに置いた。スプーンが陶器に触れて、思いがけず澄んだ音が響く。窓の外に顔を向けると、老夫人がひとり、きれいな模様の日傘を傾けて、通り過ぎていった。
 視線を戻して、真面目くさった同僚の顔を見る。何度目かのため息が漏れる。宇宙人と付き合うのは、難しい。


 この向こうから来たんだ、といいながら同僚が指さしたのは、職場にあった星座の本の中ほどのページで、その指の下にあったのは、ヴェガだった。こと座の中で燦然と輝く、いわゆる織姫星だ。地球からは、二十五光年ほど離れている。
 さらにその向こうからやってきたと、彼はいう。
 その頃わたしは、折悪しく、当時の恋人とこじれて別れるかどうかという瀬戸際だった。間の悪いことにその日は生理前でいらいらしてもいて、仕事でも面白くないことが続いて、まあ要するに、ちょうど誰かに八つ当たりしたい気分だったのだ。だから、いつもだったら適当に聞き流すようなこの男のホラに、反応してしまった。
「光速で飛んでも二十五年以上かかるところから、どうやってきたわけ。超光速航法でも見つけた? 地球のすぐ近くに出てくるワームホールでもあった?」
 自分でもびっくりするくらい、意地の悪い口調だった。
 口から飛び出した毒に、自分で中てられて動揺するわたしに向かって、彼はいつもの真面目な顔で、真面目に答えた。
「まさか。最新式の船でも、光の速さの半分も出ないよ。だから自慢の宇宙船ではるばる七十年かけて、やってきたんだ」
 目もそらさなかった。まるで当たり前のことをいうような、普通の調子だった。
「……あんた、いったい何歳なわけ」
 思わずツッコんだ声からは、もうさっきまでの毒は抜けていた。
「僕らの星の数え方では、もうじき百八十二歳になる。地球換算では……何歳だったかな」
 僕らは不老不死みたいなものなんだと、同僚はいった。そこだけなぜか、小声だった。
 あ、そう。間の抜けた声で、わたしはそれだけいった。


「彼女が僕を許してくれる可能性はあるだろうか?」
 その質問にすぐには答えずに、同僚の真面目くさった顔を、いっとき眺めていた。髪型と服装が微妙にダサくて、やや痩せすぎの感はあるけれど、ごく平均的な顔立ちだ。五人そこに女がいれば、一人くらいはちょっといい男だと評するだろう。
 オカメインコ呼ばわりされた女が、相手を許す気になる可能性は、何パーセントくらいだろう。真面目に考えてみる。難しい問題だ。彼女が自分の容姿に、どれくらいコンプレックスを持っているのか。どれくらい本気で、彼に対して恋愛感情を抱いていたのか。
 情報が足りなさ過ぎて、なんともいえない。連絡が取れないというからには、厳しいような気もするし、冷静になれば話を聞く気になる可能性も、ゼロとはいえない。なんせ堂々と日ごろから自分のことを宇宙人だという男だ。これと何か月か付き合っていたというのなら、突飛な言動には耐性があるだろう。
「まあ、あと一週間くらい連絡し続けてみて、それでも駄目だったら諦めたら?」
 返事がなかった。三秒待って、気の進まない説明を続けることにした。
「ストーカー規制法っていうのがあってね、相手が嫌がるのにしつこく連絡を取り続けたり、家のまわりをうろうろしたりすると、法律に触れちゃうの。わかる?」
 同僚は三秒考えて、わかった、君のいうようにしてみるといった。
 それきり同僚は口をつぐんで、ちびちびとお冷を飲みだした。
 体質的に、カフェインが苦手なのだそうだ。喫茶店に来て何も頼まないのはマナー違反だと教えたら、コーヒーを頼むだけ頼んで、自分の分までわたしに押し付けてくれた。おかげでわたしの胃はコーヒーでたぷたぷだ。どうせなら違うものを頼んだらいいのに。
「地球人の恋人を作ることに、意味があるわけ?」
 訊いたのは、なんとなくだった。前のときのような、意地悪な気持ちからの質問ではなくて、ほんとうになんとなく、その問いはぽろっと口からこぼれてきた。
 だって、不老不死とかいうし。それならせっかく恋人同士になったって、地球人なんかすぐに死んじゃうでしょうに――なんて、信じてもいないくせに、そんなことを考える。
 同僚は軽く首をかしげた。それから淡々としたいつもの調子で、答えを口にした。
「ひとが生きることに、意味があるというのなら」
 その言葉を聞いて、わたしは目をつぶった。三秒考える。考えて、それ以上考えるのをやめた。
 かわりにあいた頭のスペースで、別のことを検討してみる。オカメインコみたいだというその彼女が、この宇宙人を許す気にならなかったと仮定する。そのあとこの男がほかの恋人を探すつもりになったとして、そのときわたしがこの男に惚れるのは、ありかなしか。

 三十秒で答えが出た。なしだ。
 へんに興味を引かれているのは事実だけど、同僚としてならともかく、恋人には向かない。何をするにもいちいち気を揉みそうだし、それに第一、わたしまでオカメインコ呼ばわりされるのはまっぴらだ。
「さ。もう出ようか。ここ、奢ってくれるんでしょ」
 飲食店であまりに長居するのも、マナー違反になるんだよと教えると、同僚は二度瞬きをして、重々しくうなずいた。とても重要なことを教わった、とでもいいたげな仕草だった。
 その気真面目な態度を見ていて、ふと苦笑が漏れる。なしったら、なし。
 コーヒー代を払う同僚に背を向けて、先に店外に出る。陽射しがまぶしい。いやになるほど晴れている。
 そういえば、今日は七夕だった。
 夜には天体観測と洒落こもうかと考えながら、陽炎のたつ舗装を踏みしめる。

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 お題:「オカメインコ」「じいさん」「不老不死」

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 先日のミニイベントで書いた小品を、あとで手直ししたものです。話がオチていませんが、恥を承知で垂れ流しておきます。
 テーマは「人形」でした。

 ※ 暗い話注意。
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 まあまあ、お人形さんのようね。そういわれるのは彼女にとって、まさしく日常茶飯事だった。それが、顔立ちの整ったかわいらしい少女に対する慣用句だということを、彼女は長じるまで知らなかった。いつでも言葉通りの意味として、彼女はその賛辞を受け取っていたし、もしかすると、それを誇らしく思ってさえいたかもしれない。
 まさしく彼女は、人形のようだった。いつでも上品に微笑んで、おとなしくじっと黙っている、愛らしい少女。手を引く母親のあとに従って歩き、座っているようにと命じられれば次の命令があるまで、何時間でも身じろぎせずに座っている。呼吸もするなといわれたら、そのようにしたかもしれない。
 幼い日々、それが彼女にとって日常であったし、身を守るための手段でもあったのだ。
 指示に従わなければ、叱責される。何かを要求すれば、うるさいといわれる。不機嫌な顔をしていれば、何が不満なのと怒られ、声を出して泣けば、癇癪とともに平手が飛んでくる。
 けれど人形のようにしてさえいれば、彼女の必要なものはきちんと与えられたし、彼女の母親は、とても優しかった。彼女をいつでもよく褒めて、頭を撫でて、可愛がった。ちょうど人形に対してそうするように。
 家のなかではほとんど、彼女は口を利かなかった。母親に何かを訊ねられれば、きちんと返事をしたけれど、そもそも彼女の母親が、彼女に何かを訊ねるということが、めったにないことだった。
 家の外でも、彼女の母親とともに出掛ける範囲の世界では、それでなにも問題がなかった。彼女は訊かれたことにはわかる範囲できちんと答えたし、意味がわからなければ、愛らしく小首を傾げれば、それでことたりた。大人しいお嬢さんね。そういわれると、どうも人見知りで、と母親は返す。おかげで人見知りという言葉の意味を、彼女は長らく誤解していた。
 彼女の母親は、どうやら親類と縁を切っていたらしいというのは、彼女が成人してからようやく知ったことで、子どもの頃の彼女は、そうしたことを、とくに疑問に思ったりもしなかった。そうした、よその家の子にはお父さんがいて、おじいちゃんとおばあちゃんが二人ずついるらしいけれど、どうして自分はそうではないのだろうというようなことは。いわれたこと以上の何かを考えるということは、苦痛をもたらすばかりの行為であると、彼女は人生の初期の段階で、明瞭に学習していた。
 小学校に上がるまでは、それで大きな問題はなかった。少なくとも、眼に見える範囲では。
 けれど、教室でたくさんの子どもたちに囲まれて、人から何を聞かれても言葉少なに返し、自分からはけして会話に加わろうとしない彼女は、子どもたちの中で、浮いた。
 誰かに話しかけようともせず、始業前にも、授業中も、昼休みにも、放課後になっても、ひとりでしずかに微笑んでいる少女。口がきけないわけでもないのに、話をしない少女。話しかけられれば肯き、首を振り、いっしょに遊びの輪に入るけれど、ただいわれたことだけを淡々とこなすばかりで、何かをうまくできても嬉しそうな顔をしない。誰かに怒られても、怯えて涙ぐむこともなければ、反発して怒り返すこともなく、ただ静かに、微笑んでいる。
 なにかおかしなものが自分たちの中に混じっているという違和感に、子どもたちはひどく敏感なものだ。徐々に、少女に話しかける子どもの数は減っていき、彼女はひとり、いつまでも、微笑んで椅子に座っているようになった。やがて何かがおかしいということに気付いた彼女の担任が、家庭訪問を決意するまでに、それほど長い時間はかからなかった。
 何かうちの子に、問題があったでしょうか。そう心配そうに教師に訊ねる母親のそばに、人形のように座って微笑んだまま、少女は神経を張り詰めさせていた。何が問題視されているのか、自分が何を失敗してしまったのか、彼女には知りようもなかったけれど、彼女の母親が発している怒り、対面して座っている担任の教師にはまるで感じ取れないらしいその匂いを、少女は敏感に嗅ぎつけていた。
 いいえ、問題というのではないんですよ。ただちょっと、そうですね、人見知りなんでしょうか、あまりほかの子たちとおしゃべりするのが好きじゃないみたいで。おうちではどんなふうですか。
 頭の上でかわされるやりとりに、少女はじっと耳をすませた。そして何がいけなかったのか、必死で学習しようとした。一時間あまりの面談を終えて教師が去っても、母親にしかられる前に、先回りして謝って、明日からはうまくやるというようなことをいったりは、彼女はしなかった。何も言われないうちから口を開くということは、そもそも彼女の選択肢にはなかった。
 どうしてちゃんとやれないの。彼女の母親が怒鳴ったとき、彼女は言葉を失った。訊かれたことに答えなければ、叱られる。けれどどう答えていいのかわからない。
 なにが「ちゃんとやる」ということなのか、そのときの彼女にはわからなかったし、どうしてと理由を聞かれても、もっとわからなかった。彼女はただ、家の中でそうするように、学校でも振る舞っていただけだった。
 けれどそれでは足りないのだということを、学校という場所、子どもたちの中では、それにふさわしい、求められる振る舞い方があるのだということを、彼女は新しい青あざとともに、体に刻んだ。そして、次の日からは、そのようにした。
 ほかの子どもたちの動向を観察して、それらしい、普通の子どもの平均的な反応というものを彼女が学習するまでには、それほど長い時間はかからなかった。心配した教師が家を訪問するようなことはなくなって、彼女はゆっくりと周囲に溶け込んでいった。可笑しくなくても笑い、悲しくなくても顔をゆがめ、小鳥が死んでいれば可哀相という顔をする。学習するということについて、それから、求められるように振る舞うということについて、少女は長けていた。その必要に、誰よりも切実に駆られていたからだった。
 誰からも嫌われないようにするということ、その困難さに、彼女は早い時点で気付いたけれど、誰からも暴力を振るわれなくて済む程度に、強い関心を持たれないということならば、注意を払ってさえいれば、おおむねうまくやれた。
 彼女が成人して、それなりに無難な就職を果たすと、なおそうしたことは容易になった。子どものころに比べれば、周囲にいる人間たちも、敏感に彼女の言動に対する違和感を察知するようなことも少なくなったし、求められる役割をさりげなく果たす彼女は、仕事の上でもそれなりに重宝された。大きな問題は起こらなかった。彼女が結婚するまでは。


 なにがいけなかったのだろう。
 彼女は途方に暮れる。夫が割った食器の破片を拾い集め、まき散らされた食べ残しを拭きながら、彼女はずっと、静かに考えていた。無意識に彼女がさする二の腕には、ほんの幼い子どものころによくそうだったように、青あざがいくつも重なっている。
 彼女は夫の言動のひとつひとつを思い返して、彼女の何が夫を怒らせたのか、どのように振る舞えば夫を苛立たせなくてすむのか、必死に探しだそうとしていた。彼女の夫は、彼女が無言で息をひそめていれば、辛気臭いといって怒り、彼女が口を開けば、中身のない言葉ばかりだといって、うんざりと顔をゆがめた。彼女が泣いて懇願してみせれば、お前は何もわかっていないといって苛立ち、彼女が黙って耐えれば、なにを考えているかわからないといって詰った。
 結婚したのは、夫に強く望まれてのことだった。出会ったばかりの頃、顔を合わせるたびに彼はたじろいだように眼をそらし、それから緊張したように彼女に話しかけてきた。最初のデートに誘われるまでに、実に一年あまりの月日を要し、それから手もめったに繋がない交際がさらに一年も続いて、結婚の申し込みがあるころには、出会ってから四年近くが経っていた。それだというのに、結婚生活に不協和音が生じるまでに、ひと月もかからなかったというのは、皮肉としかいいようがない。
 なにが、いけなかったのだろう。
 彼女は考える。自分のとった行動、選んだ表情、声の調子、そのときの夫の反応、ひとつひとつを思い出しながら、ずっと、考えている。どのように振る舞えばよかったのかを。
 痣は鈍く痛み、彼女が毎日ていねいに掃除しているはずの部屋は、見るも無残なありさまだった。わたしはこの光景を知っている、と彼女は思った。よく知っている。
 彼女はそこから、とっくに抜け出したはずだった。注意深く息をひそめ、大きな努力を払って。それなのにまた、二十年も前に抜け出したはずのその場所に、いまさらになって囚われている。
 よく気をつけていたつもりだった。彼女はいつだって、夫を不快にさせないようにふるまおうとしていた。言葉も、表情も、慎重に選んでいたし、家の中を整えることにも余念がなかった。夫が触れてほしくないといった、あるいはそのように態度で示した話題には触れず、夫が好む食べ物をつくり、夫がこのむ服を着た。彼女はいつだって、努力していた。その何が足りなかったというのだろう? 彼女はずっと、考えている。自分のふるまいの、なにが間違えていたのかと。
 ふるまいが間違えていたのではなく、そこに心のないことこそが、問題なのだということを、彼女は知らない。彼女は気付けない。夫が彼女に恋をしたことこそが、不幸の源泉であるのだということに。夫は彼女が従順にふるまってみせることではなく、彼女の心をこそ求めているのだという、その単純な事実に。
 もっとも、仮に気付いたところで、彼女に何が出来ただろう?
 掃除の手を止めて、飾り棚に置かれた人形を、彼女はふと手に取る。それは結婚祝いにと、知人から贈られたものだ。贈ったのは、彼と彼女との共通の知り合いの女性。きれいに着飾って微笑を浮かべる、愛らしい人形だ。お幸せにという言葉と、しずかな微笑みとともに贈られた、人形。
 どうしてあのひとは、お祝いに、これを選んだのだろう。
 それは、彼女が抱く疑問のなかでは、珍しい種類のものだった。何を思って、相手が、それをしたのかというようなことは。
 自分がどのようにふるまえば、相手がどんな行動を返すのか――刺激に対する反応――そういうものを洞察することには、彼女は長けていた。だから、たとえば、その人形を渡した知人の微笑が、まるで強引に顔に張り付けられたように、かすかにこわばっていたことや、お幸せに、という語尾がわずかに震えたことなどは、彼女も注意ぶかく見ていた。その言動が、あまり穏便ではないということは、彼女にも察された。だからそれ以来、彼女はその女性と、連絡をとっていない。しかし、どういう思いで相手がそのようにふるまったのかということ、そうしたことを考えるのに、彼女は慣れていなかった。
 だから、いまこのとき、彼女の頭のなかにその言葉が降ってきたのは、彼女自身が考えて答えを導き出したというよりは、なにか天啓のような、不思議な力が働いたものとしか思われなかった。
 ――皮肉なのだ。
 人形のような彼女への、あてこすりとして、彼女によく似た人形を、あの女は選んだのだ。お幸せにと、口ではいいながら。
 彼女は息を飲み、それから、自分の喉がたてたその音に、自分で驚いた。その唐突な考えが、いったい自分の中のどこからやってきたのか、彼女にはわからなかった。けれどそれは、おそらく本当のことだろうと、彼女は考えた。
 しかし、だからといって、なんだというのだろう?
 彼女は高く振り上げた自分の手を、驚いたように見つめた。その、こわばって関節の白くなった指を。彼女の手は、ほとんどひとりでに動いて、陶製の人形を、力一杯に振り下ろした。彼女は自分の手がすることを、茫然と見つめていた。
 壁紙にぶつかって、人形は、澄んだ音を立てて砕けた。するどい破片が飛び散り、彼女の夫が割った食器のかけらと混じりあった。酔いつぶれて寝室で眠っていたはずの夫が、驚いてベッドから下り、歩いて電気をつける物音が、彼女の耳に届いた。
 破片のひとつを、彼女は拾い上げた。それは人形の、微笑の浮かぶ口元をふくんだ、左半面だった。
 尖った割れ口は彼女の指を傷つけて、そこからは赤い血が滲みでた。それを不思議なもののように眺めて、彼女はゆっくりと、瞬きをした。
 彼女はほかの破片をかき集めて、それを両手で握りしめた。鈍い痛みが走って、手のひらに、いくつもの筋が出来る。
 そのようにしているあいだ、彼女はずっと、混乱を抱えていた。夫の足音が近づいてくるのを背中で聞きながら。
 困惑している彼女の心をよそごとのように、彼女の手は陶器の破片を、ますますきつく握りしめる。
 夫の足音が戸口のあたりで止まるのを、彼女は背中で聞いた。夫はなんというだろう。まだ酔いが残っているだろうか? 自分がいま、どのような表情を浮かべるべきなのか、夫にこの状況をどう説明するべきなのか、彼女は必死に考える。しかし、自分でもわかっていないことを、どう説明のしようがあるだろう?
 彼女の手のひらから流れた血が、カーペットを汚していく。手を放さなくてはならないと思うのに、指からは、どうしても力が抜けない。
 自分の体がなぜ自分の意思を無視して勝手に動いているのか、彼女にはどうしても、わからなかった。わからなかった。

 

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 一時間目標で書いた(そして制限時間をオーバーした)即興小説でした。いかにも即興だけのことはある微妙な仕上がりですが、ログ兼ねて垂れ流しておきます。


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 好きな色をひとつ選んでごらん、と魔法使いはいった。その手の中には、色とりどりの硝子玉。数をきちんと数えるには、わたしは幼すぎたけれど、おぼろげな記憶を信じるなら、少なくとも十はくだらなかった。
 ――ひとつだけ?
 ――そう、ひとつだけ。
 わたしはじっと魔法使いの差し出す手を見つめた。大きな手だった。節くれだった指、青い血管の透ける、皺だらけの手のひら。その上できらきらと光る、たくさんの硝子玉。
 ――これ。
 わたしが指さしたひとつを見て、魔法使いはゆっくりとうなずいた。それから静かに、抑揚のすくない声でいった。
 ――どうして、その色にしたんだい?
 ――おひさまの色だから。
 わたしが答えると、魔法使いはほんの少し、片目をすがめた。それから、思慮深げにゆっくりとまばたきをして、訊き返してきた。
 ――黄緑が?
 わたしは不安にかられながら、おずおずとうなずいた。なにかおかしなこと、間違えたことをいっただろうかと、心配になったのだ。けれど年老いた魔法使いは、怖がらなくていいというように、静かに首を振って、それからもう一度、わたしに説明を促した。
 その色は、わたしがいちばん好きな色だった。春の日の早朝、まだのぼったばかりの太陽、そのやわらかな金色の光を透かす、若葉の色。いまならばそんなふうにきちんと説明することができるけれど、まだ五つだったわたしは、いったいどんな言葉を使って、老魔法使いにそれを伝えたのだろう。はっきり覚えていないけれど、魔法使いの反応だけは、よく覚えている。
 笑ったのだ。目じりのしわを深めて、このうえなく嬉しそうに。
 ――それがお前の魔法だ。
 
 幼い日にはすなおに信じたその言葉を、いまは疑わずにはいられない。わたしは適当なことをいってあしらわれたのではないか。あんな子供だましの占いみたいなことで、いったいなにがわかるというんだろう。
 すぐれた魔法使いは、自分の魔法を使いこなすわざだけではなくて、他の人間の中に眠る魔法を見出すすべにも長けている。授業でそう習ってはいるけれど、それでも信じられない気がする。
 疑うのは、わたしがあのとき、ただ単に好きな色をひょいと選んだのであって、特別な予感のようなもの、たとえば老魔法使いの手の中にあったたくさんの硝子玉の中でたったひとつ、それに呼ばれたというような感触が、なにもなかったからだ。
 ……というようなことを、言葉を尽くして説明したのだけれど、先生はわたしの話を半分も聞いていなかった。「ばかなことをいっていないできちんと集中しなさい、ブリジット」
 ドロテ先生の眼鏡がきらりと光って、わたしは首をすくめる。思わず声が小さくなる。
「だって、できないものはできないんですよ。わたしに魔法の力なんて……」
「おだまりなさい、ブリジット」
 ぴしゃりといわれて、言葉の続きをぐっと飲み込む。ドロテ先生は、怒ると怖い。いつも怖いけれど、ほんとうに怒るとその百倍怖い。いまの声の調子は、もうひと押しで本当に怒りだしそうなかんじだった。
 わたしは口をつぐんで、もういちど、先生にいわれたことを試してみた。眼を閉じて、呼吸を整える。鼻から息を吸って、口から細く吐き出す。おなかに手をあてて、背筋を伸ばす。自分の体の中を流れている血を意識して、体の中をゆっくりと力が循環するイメージを描く。それから、それから……
 力の発露するような兆しは、なにもなかった。体の中にそれがあるという手ごたえも。いつもとちっとも変らない。眼を閉じればそこには暗闇があるだけだし、体の中に流れているのは血流だけだ。
 瞼を持ち上げると、おそるおそる先生を見上げた。ドロテ先生は眉間を指で押さえると、小さくため息をついた。
「信じなさい。老ベルトランが、あなたには太陽の加護があるといったのでしょう。それならば、あるのです」
「でも、だって、どんな偉人にだって間違いはあるって、先生も仰ったじゃないですか……」
「だってはいりません」先生は眉間のしわを深くして、鋭くいった。「あなたはわたくしの話を聞いていなかったのですか。魔法は信じる心から生まれるのです」
 わたしはちっとも納得していなかった。だって、先生のいうのは、本当かどうかわからないけれど、とにかく問答無用で信じておけってことだ。やれるかもしれない、やれないかもしれない、でもやれないと思ってやらなかったら絶対にできないんだからって、そういう理屈だ。正しいけれど、だからといって、わたしが魔法を使えると保証してくれるものではない。
 わたしは反論しなかったけれど、不満は顔に出ていたのだろう。ドロテ先生はため息をついて、杖を置いた。「今日はここまでにします。少し、頭を冷やしていらっしゃい」
 
 学校の中庭で、わたしは寝そべって空を眺めていた。
 まだ日も出ていない。魔法は夜ふけから早朝、まだ日の出ないうちのほうが力が強い。それでも子どもが昼に寝て夜に動くのは、体のためによくないから、夜には早く寝て、うんと早起きして、わたしたちは魔法の練習をする。いま、ようやく空が明るみ始めて、端の方から群青色に染まりだしている。もう少ししたら、ほかの子たちも練習を一段落して、朝ごはんを食べに食堂に向かう頃だ。
 わたしは十四になったいまでも、まだ一度も魔法らしいものを発現させたことがない。同い年の子たちはとっくに、いくつもの魔法を使いこなすようになっていて、中には大人の魔法使いたちの手伝いで、助手として町に降りてゆくことだってあるくらいなのに。使えないのはわたしひとり。たったひとりだ。
 からかわれて悔しい思いをしていたのは、いつごろまでだっただろう。いまは悔しがるよりも、怖い。わたしはほんとうに、ここにいていいのだろうか。間違えて、自分のいるべきではない場所に紛れ込んでしまっただけではないのだろうか?
 魔法の素質のある子どものところには、その子が五つになる年に、魔法使いが迎えにやってくる。
 誰に素質があるかなんて、見ただけではわからない。知っているのは、魔法使いたちだけだ。彼らは星占で、魔法の加護のある子どもの出生を知る。それで、時期が来たらその家に子どもを迎えに来る。
 魔法の力は、遺伝とまったく関係がないわけではないらしいのだけれど、それまで魔法使いの出たことのない家にでも、とつぜん現れることがある。それは、うんと身分の高い人の子息だろうと、うんと貧しい小作農のせがれだろうと、関係がない。どんな家でも、魔法使いが迎えに来たら、子どもを差し出さなくてはならない。
 魔法使いたちは、魔法を持った子どもが生まれたら、その親のもとにまず一度姿を見せて、彼らに予告をする。五年後、子どもを迎えに来ると。親もそのつもりでその子を育てる。
 だけど、中には、どうしても子どもを手放したくない親だっている。子どもを連れて家を捨てて、遠い外国にまで逃げてしまうような親が。
 そんなことをしたって、魔法使いたちが追いかけてきて、見つかってしまうのが普通なのだけれど、ときにはうまく逃げおおせる人たちもいる。国外にさえ出てしまえば、魔法使いは追いかけてこない。国境を越えた場所で魔法を使うことは、法で禁じられているから。
「こんなところにいたの、ブリジット」
 先生の声がして、反射的に起き上がった。ドロテ先生は、長いスカートのすそをおさえて、わたしの隣に腰を下ろした。
「髪に草がついているわよ」
 先生の、手袋をした指が、わたしの前髪から草を取り払う。わたしが緊張して肩を縮めていることに気付いたのか、先生はふっと、目元をゆるめた。わたしはびっくりして、思わず瞬きをした。ドロテ先生が笑うのは、珍しい。
「あなたのように若い人にはぴんと来ないかもしれないけれど、老ベルトランは、本当に偉大な魔法使いでね」
 先生はいって、ぱたんと芝生の上に倒れた。わたしは眼を丸くしてまじまじと先生を見下ろした。いつもきちんとしていて、理知的なドロテ先生が、こんなふうに地面に寝転がることがあるなんて、いまのいままで考えたこともなかったのだった。
「あの方の仰ることに、間違いがあったためしはないの。どんなに重大なことも、どんなに些細なことでもね。……どんな気分かしらね、そんなふうな、大いなる力を体のうちに抱えているというのは」
 いつものお説教ではなくて、まるでただの世間話というように、先生はくだけた口調で話した。それでわたしは戸惑って、何度も瞬きをした。
「老ベルトランがはじめて魔法を使ったのは、二十歳をすぎてからだったというわ」
 先生はなぜか、悲しそうだった。わたしは黙って、膝を抱えた。なんとなく、背中のところがそわそわして、落ち着かないような気がした。
「あとで思えば、私は自分の中の力を恐れていたのだと思う――あの方がいつか、そんなことを仰った。無意識のうちに恐れて、押さえつけて、表に出てこないようにしていたのだと」
「そんなことが、できるんですか」
 思わず口を挟んでいた。自分がどうしてそんなことを訊いたのか、わたしにはわからなかった。だけど先生には、わかっているようだった。ドロテ先生は、わたしの眼を見て、やっぱりちょっと悲しそうな顔をした。
「できたのでしょうね」
 先生がなぜ悲しそうなのか、わたしにはわからなかった。先生はいっとき口をつぐんで、中庭を吹き抜ける風を眼で追うようにしていたけれど、やがてふっと短い息を吐いて、話を続けた。
「けれどあるとき抑えきれなくなって、老ベルトランの魔法は発現した。制御されない力は、あの方の周囲にいた人々を傷つけた。……眼を焼かれて、視力を失った魔法使いもいたそうよ。その人は、あのお方にとって、だいじな親友だったのですって」
 遠まわしにいさめられているのだと悟って、わたしは首を縮めた。だけど、わたしは偉大な魔法使いとは違う。なにも、わざと魔法をつかわないわけではないのだ。本当に、いわれたとおりにやってみようとしても、なにも起こらない。わたしは自分の中にある力の存在というものを、感じたことがない。
 黙っているわたしをどう思ったのか、ドロテ先生は眼を細めて、話をつづけた。
「あなたが魔法を使えないのは、あなたが心の奥で魔法を使いたくないと、そう思っているからではないかと、わたくしは考えています」
「そんなこと……」
「あなたは、自分が魔法のせいでご両親から捨てられたと思っている」
 わたしはとっさに息をのんだ。
 それはたしかに、わたしがいつからか、心の片隅でずっと考えていたことだった。あのとき、あの老魔法使いがわたしのところにやってきたのは、何かの間違いだったのではないのか。わたしは魔法になんて関係のない普通の女の子で、ほんとうだったら今頃は、両親のもとから普通の学校に通っていたはずではないのか。だけど、考え出せば悲しくなるから、わたしはそのことを、つとめて意識に登らせないようにしていた……
「だけど、ブリジット。そうではないのよ。制御されない魔法は、とても危ないの。誰だって幼い我が子を手放して、こんなところに預けたくなんかない。それでもそうするのは、結局、訓練されない魔法は自分自身を傷つけるからなのよ。……老ベルトランは、親友の眼から光を奪ったことで、ずっと苦しんでおられた。長い、長いあいだ」
 それがお前の魔法だといって微笑んだ、年老いた魔法使いの顔を、わたしは思い浮かべた。目じりの深い皺、澄んだグレーの瞳を細めて、ひどく嬉しそうに微笑んだ。偉大な老魔法使いは、どうしてあんなに嬉しそうだったのだろう?
「ブリジット、あなたは捨てられたわけではない。わかるわね?」
 わたしはうなずかなかった。眼を伏せて、先生の目を見ないようにして、きつくこぶしを握っていた。
「あなたのご両親は、欠かさず季節ごとに手紙を送ってくださっているでしょう? それが答えですよ」
 先生は起き上がると、スカートの裾についた草を払った。「朝食にしましょう」
 空はすっかり明るくなって、まだ低い位置にある太陽から、金色の光が中庭に差し込みかかっていた。
 歩きだしたドロテ先生のあとを、少し離れて追いかけながら、わたしは唇を噛んだ。
 先生はふと立ち止まって、振り返った。つられて立ち止まったわたしは、眼をしばたいて、先生の顔を見つめ返した。
「あなたの魔法を占ったとき、老ベルトランは喜んでおられた。――あの方の魔法も、太陽の魔法だったの。けれど、あなたは黄緑の水晶を選んだのですって?」
 肯くと、ドロテ先生はかすかに眼を細めた。
「おだやかな木漏れ日の色。きっとその力ならば、自分のように、人を傷つけることもないだろうと、あの方は仰った」
「だけど――」
 わたしはとっさに言い返した。「たったあれだけで、本当に、その人の魔法がどんなものか、わかるものなんですか。わたしはただ単に、好きな色を選んだだけなのに」
 ドロテ先生は重々しくうなずいた。もう、すっかりいつもどおりの先生だった。
「好きというのは、力なのよ」
 先生は踵を返し、いつものようにまっすぐに背筋を伸ばして、食堂に歩いて行った。わたしはいっときその場で立ち止まったまま、先生の足音を聞いていた。
 振り返ると、朝の陽射しが中庭の木々の梢に降り注いで、地面にやわらかな金色の光を落としていた。風に揺れる、透き通った影。幼い日々、木漏れ日のいろが好きだった。その気持ちを、わたしはいつのまにか忘れていなかっただろうか? いじけて、小さくなった心で。
 いっとき木々の落とす影を見つめたあと、わたしは顔をあげて、食堂に向かって走り出した。パンの焼ける、いい匂いがしている。
 こんなことを誰かにいったら、単純すぎると笑われてしまうだろうか? 近いうちに、魔法を使えるようになるのではないかと、そういう予感がしていた。


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お題は「黄緑」をテーマorモチーフにした小説を書くこと、でした。

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 ――ツバメだ、と里香がいった。
「どこ」
 顔を上げても、それらしい姿は見当たらない。空には刷毛で掃いたような薄雲がひとすじ流れているだけで、ほかに動くものは見あたらなかった。
「あそこ」
 そういって里香が指さす先は、ずいぶん離れた場所の電線の上だ。じっと目を凝らすと、ようやくそれらしい小さなシルエットがわかった。
「よくわかったな」
「声がしたから」
 したっけ、と首をかしげて、記憶をたどってみる。したかもしれない。ツバメの声がどんなふうだかも、そういえばよく知らない。
 並んで座る土手は、まだ朝露に濡れている。見慣れない私服姿の里香は、服が汚れることなんて気にもしないようすで、そこに腰をおろしている。
「ツバメって、縁起がいいんだっけ」
「そう」
 肯いて、里香はじっと電線を見つめる。細い髪が風に煽られて、頬にかかる。川を渡ってくる風は、まだ冷たい。
「春を告げる鳥なんだよ」
 いっときして、里香がぽつりといった。
「へえ。なんか、いいな。そういうの」
 どういうの、とは里香は訊かない。ただ肯いて、ちらっと俺のほうを見る。色の薄い目が、午前の陽射しに透ける。目じりがほんのちょっと、よく見なければわからないくらいに、微笑んでいる。
 
「軒先に、ツバメが巣を作ったことがあって」
 いっときして、里香が話しだした。視線はまた空に戻っている。
「小学校の頃なんだけど。おじいちゃんが、ツバメは縁起がいいからって喜んで、そのままにしておきなさいって。でもお母さんが、糞が汚いからって、業者の人を呼んで。おじいちゃんが囲碁教室に出かけてる間に」
 川面が光を弾いて、目に眩しい。少し離れた川原から、掛け声が聞こえている。近くの学校の弓道部のようだった。日曜日の朝だっていうのに、気合いが入っている。うちの高校に弓道部はないから、知り合いに見つかってからかわれる心配はしていないけれど、どことなく後ろめたいような気はする。
「おじいちゃん、長いあいだ、軒を見上げてた。巣をどかした跡、よく見るとちょっとだけ壁に残ってて、そこのところを、じっと見てた。首が疲れたみたいに、顔をおろして、それで私と目が合って。怒られると思ったけど、おじいちゃん、何もいわなかった。小さくうなずいて、うちの中に入ってった。お母さんの性格、よく知ってたんだと思う。怒っても無駄だって。次の年からは、ツバメ、もう来なかった」
 自分も首が疲れたように、ふと顔をおろして、里香は川のほうを見る。その視線の先で、何か魚が水面で跳ねて、また水の中に戻った。
「あのツバメ、ずっと覚えてるのかな。あの家は危ないぞ、あそこには巣をかけるなよって、仲間同士で伝えあったりするのかな」
「まさか」
 首を振ってはみたけれど、その話を否定できるほど、自分が鳥のことを知らないことに気がついた。里香は反論しなかった。いっとき黙ったあとで、ぽつりといった。
「ツバメって、すごい遠くから渡ってくるんだって。フィリピンとか、ボルネオとか」
「ボルネオって、どこ」
 訊くと、里香は手で空中に地図を書こうとして、途中で止めた。「あとで自分で調べて」
「そうする」
 そういいはしたけれど、調べなくても、南の方の、とても遠い国だということはわかる。ツバメたちは何故こんなところまで、遥々やってくるんだろう。本能の声に呼ばれて? 小さな鳥たちが、海の上を渡る姿を、想像しようとしてみる。太陽を背にして、北へ、何日も、何日も、休む場所さえないところを、飛び続ける。どうしてそこまでするんだろう。ずっと南の温かい国で、そのまま暮らせばいいじゃないか。そのほうがきっと、生きやすいだろうに。
「ヒロキはさ」振り向くと、里香と目があった。「馬鹿にしないで聞いてくれるよね。こういう話」
 馬鹿にするようなところ、なかっただろ。そういいかけて、止めた。誰かが、たとえばクラスのやつらが、里香の話を聴いて馬鹿にするところが、想像できるような気がしたから。
 里香はふっと視線を上げた。
「どっか行っちゃったね」
 首をひねって電線を見ると、ツバメの姿はもうどこにも見当たらなかった。餌を捕まえて、巣に戻ったんだろうか。雛の待つ巣に。
 
 里香と別れて家に帰る途中、本屋にふと足が向いたのは、世界地図が置いてあるかと思ったからだった。世界史の教科書は学校に置きっぱなしで、明日になればもうそのまま忘れてしまいそうな気がした。
 ボルネオは、東南アジアだった。インドネシアやマレーシアのあるところだ。国名でいわれれば、まだなんとなく場所が浮かんだかもしれないけれど、島の名前なんか意識したことがなかった。それとも授業で習っただろうか。覚えていない。
 指で距離を測ってみる。ここから四千キロか、それくらいだろうか。その距離を、あの小さな鳥が、体一つで渡ってくるということが、うまく想像できない。
 世界地図の本を元の棚に戻して視線を上げると、図鑑類の並んでいる一角が目にとまった。とっさに背表紙を視線で追いかける。ツバメについての本なんか、置いてあるだろうか。
 そうした類の資料が置いてあるのは、ごく狭いスペースだった。ツバメというのがタイトルに入っている本は見つからなかったけれど、鳥の図鑑はいくつかあった。
 ツバメのページを開けると、カラフルな写真が目に飛び込んだ。ツバメって、こんな見た目なんだっけ。頭のところが青くて、喉が赤い。もっと地味な、白黒の鳥だと思い込んでいた。
 端のほうにコラムが載っている。ツバメの巣立ちまでの様子、それから、渡りのことも書いてあった。
 並ぶ本の背表紙で、鳥類保護連盟という団体名が目にとまる。ホゴレンメイ、と口の中で呟くと、なんだか座りの悪いものが胸に残った。
 日本野鳥の会、というのもあった。そういう団体があることは知っている。テレビなんかで、耳にしたことのある名前。
 野鳥の保護、ということを仕事にしている人たちがいる。バードウォッチングだとか、そういうことが好きで、鳥の姿が減っていることに、おそらくは本気で胸を痛めて、鳥を保護するために、仕事として、あるいはボランティアで、真剣に、何かしらの行動を起こしている人たちが。知識としては知っているけれど、そういう人たちが本当にいるということが、リアルに想像できなかった。
 誰か一人のこと、たとえば鳥が好きでときどき山に鳥の声を聞きに行くという年寄りのこと、あるいはテレビでインタビューを受けて、絶滅を心配されている鳥について熱く語っている人間のことなら、イメージできる。子どもの頃から鳥が好きだったんです、とかなんとか、マイクに向かってしゃべっている誰かのことなら。
 けれど、そういう人たちがたくさんいて、そういうことを仕事にする組織があって、よく知らない遠い熱帯の国からやってくる鳥たちのことを、毎日のように真剣に考えている、その人たちにとってはそういう日々が当たり前で――そういうのが、ぴんとこない。現実のものとして、リアルに想像できない。
 たとえば、クラスの誰かが、絶滅しそうになっている鳥のことを、熱を込めて話したとしたら? それならすぐ想像がつく。真面目だね、偉いよね。そういうやつもいるかもしれない。だけどそのあとで、本人のいないところで誰かがいう。あの子ちょっと、変わってるよね。その声に、たぶん俺は同意する。
 
 携帯が鳴った。メールが入っている。里香からだった。今日はありがとう。それだけのそっけないメール。
 つきあいはじめてから気付いたけれど、里香は、クラスで浮いている。特別に人より嫌われているわけではないけれど、ちょっと変わりものだと思われている。里香も、自分でそのことを知っている。そして多分、諦めている。
 返信を打ちながら、信号を渡る。どこかで鳥が鳴くのが聞こえて顔を上げるけれど、首を回しても、姿を見つけきれない。
 自分の暮らすこの町にも、鳥がいるということさえ、普段は意識することもない。そいつらのどれかが、あるいは全部が、絶滅しそうになっていて、南の国から渡ってくる数が年々減っている。そういうことは、知識としてはわかるけれど、リアルなものとしてイメージできない。
 そういうことは、教科書の中か、テレビの画面の向こうの話だ。友達に薦められてハマったゲームの進み具合のこと、クラスの誰が同じ大学を受けるつもりかということ、きのうの試験の出来がひどかったと頭を抱える誰かに、俺も悲惨だったと返すこと。数学の宿題に手をつけていないこと、コンビニで買い食いする食べ物を大人たちにジャンクフードと馬鹿にされて、それを馬鹿にしかえすこと。今日も人身事故で電車が遅れたらしいこと。そういうのがリアルな話題で、何千キロも海の上を飛んでくる鳥や、世界のどこかの国では今日食べるものも新鮮な飲み水もなく死にかけている人たちがごまんといて、そういう国を支援するために現地を飛び回っている団体があって、そこで働く人がいることは、現実感のない、自分とは関係のない、別の世界の出来事だと思っている。
 世界のどこかの国では、今でも本気で神様を信じている人たちがたくさんいて、毎日当たり前のように神様に祈っていて、そうしてれば何かいいことがあるって、心の底からそう思っていて、周りにいる人も皆がそうで、そういうことが、ちっともぴんと来ない。もし今、自分の周りにいる誰かが、神様について語り始めたら、深く関わらないほうがいい相手だと思うだろう。それが当たり前の反応だ。
 当たり前の。
 
 隣の家の前で、足が止まった。
 庇のところに、作りかけらしい巣があった。ぽかんとして見ていると、黒い小鳥が一話、どこか高いところから、すっと舞い降りてきた。喉が赤い。口に何か、枯れ草のようなものを加えている。巣材だろう。
 さっき図鑑で見たばかりの姿だった。
 人間が近くにいても、恐れるようすもなく、ツバメは巣を作るのに集中しているように見えた。こいつも海を渡って、やってきたんだろうか。何千キロも向こうの、南の国から。
 玄関のカギを回す音がして、我に返った。けれど、足が動かなかった。
「あら、やだ。こんなところに」
 出てきた隣の家の奥さんは、すぐに巣の存在に気付いたようだった。遅れて出てきた旦那さんが、お、ツバメか、珍しいなと、のんびりした声を上げる。
「ねえ、出来あがる前に、撤去してもらいましょうよ。卵が孵ってからだと、大変そうだし」
「あの」
 とっさに声が出て、自分でそのことに動揺する。奥さんは振り返って、愛想よく会釈を返してきた。
「あら、佐藤さんのところの。こんにちは」
「ちわ。……あの、ツバメ、縁起いいらしいですよ」
 俺は、何をいってるんだろう。よその家のことに口出しなんかして。へんな汗が出て、目が泳いだ。奥さんは首をかしげて、困ったように笑う。変な奴だと思われている。
「ああ、そうね。でも、ほら、糞とか、気になるのよねえ」
 すぐに引き下がるつもりだった。それなのに、口が勝手に開いた。
「巣立つまで、一か月くらいだって……」
 顔が熱くなった。本当に、俺は何をいってるんだろう。
 すいません、と言い捨てて、背を向けた。呆れられているのが、気配でわかった。
「そのままにしといても、いいんじゃないか」
 旦那さんの声が、ドアを占める直前にすべり込んできた。
 そういうけど、掃除は誰がすると思って……
 けど可哀相じゃないか、せっかく……
 ドアを閉めても、顔の熱が引かなかった。自分の部屋に入って、カーテンを引く。窓の外から誰が見ているわけでもないのに、いたたまれなかった。
 カーテンの向こうから、ツバメの鳴き声がする。
 携帯をポケットから出して、いっとき迷った。考えて、何度かやめようとして、それからようやく、里香あてのメールを作り始めた。


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お題「ツバメ」「新鮮」「ジャンクフード」

 

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プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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