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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 夜の水辺を渡る風は、冷たく湿っている。
 月明かりをぬらりと弾いて光る運河、その黒々とした水面を、白いものが流れてくる。それは奇妙に丸く、いびつな形をしていたけれど、それでも私はひと目みるなり、ああ、花だ、と思ったのだった。弔いの、白い花。
 水はさぞ、冷たいだろう。手を差し入れれば、痺れて使い物にならないほどに。足を滑らせて落ちれば、心の臓も止まるほどに。
 その冷たい運河の底には、貴女が眠っている。
 永遠に溶けることのない、まがいものの氷の棺に閉じ込められて、貴女はそっと目を閉じている。ちらりとでも足元に目を向ければ、見えないはずのその光景が、くっきりとこの瞼の裏に浮かぶ。ゆるく波打つ黒髪も、胸元で律儀に組み合わされた手指の細さも、整然とそろった長い睫毛まで。
 ときどき、吼えたくなる。こんなふうに月が冴えて、水の冷たい夜には。
 貴女がいないこの世界で、生きるということ。生きている、ということ。貴女の犠牲の上に永らえた誰かが、安穏としているということ。貴女はもう二度とその瞼を開いて、私に笑いかけたりはしないということ。
 そんなことは間違っている。
 野良犬が哀切な声で吼える。夜の静寂を引き裂くように、鳥が甲高く啼く。誰かがステッキをついて歩くのが、時を刻む針の音のように、正確に夜を切り刻んでいく。まばらに灯る窓の明かりは温かそうで、とても温かそうで、その温度に、何もかもが間違っている、と思う。
 運河は凍りつきそうに冷たいけれど、けしてほんとうに凍ってしまうことはない。静かな流れは、よく目を凝らさないと、流れていることさえわからないほどの緩やかさだ。けれどあの日、吼え猛る獣のような音を立てて、その上を劫火が走るのを、私はこの目で見た。冷たく静かなはずの流れが、気の狂ったように炎を吹き上げるところを見た。あの夜、何かが焦げる臭いが、ひっきりなしに立ち込めていた。
 あれは油だ。上流にとどまる軍の士気を削ごうと、敵方の将が弄した策だ。あれっぽっちの炎が、神の怒りなどであるものか。
 だが目の前で炎に嘗められて、人々の理性は脆く砕けた。
 運河を引いたことが、神の怒りに触れたのだなどと、どうして思うのだ。愚かな民衆の迷信を、私は憎む。彼女を沈めた翌日から、河が燃えることがなくなったのは、貴女という人柱のためではなく、ただ単に、油が尽きたからだった。その偶然、そんなふうに悪意に満ちた偶然。もし神が飢えているとすれば、それは生贄にではなく、人の愚かさが生み出す喜劇と悲劇にだろう。あの夜にかぎって私が貴女のそばを離れていた、それも偶然だろうか。
 貴女を聖女に祭り上げて、尊い犠牲に涙を流したきり、あとは口を拭って温かい灯をともし、夜の帳の下に安穏としている人々。思い出したように運河に白い花を流して、目を閉じて悲痛そうに祈り、さも気の毒そうなことをいいながら、いざ自分が次の人柱に選ばれでもしたら、顔色を変えて逃げ惑うに違いない、名も知らぬ河岸の乙女を、私は憎む。
 石畳の上を、足音が通り過ぎる。まばらに道を歩く人の、ひどく痩せた影がたわんで戻る。帰りを急いでいるのは、誰か家族が待っているからだろうか。近づいてようやく分かったのは、それが年老いた男だということだけだった。
 この老人の枯れた手もまた、彼女を死へと追いやったのだ。河岸で祈る乙女のたおやかな手が、いまその家の中で暖炉の火を掻きたてているのだろう女のあかぎれた手が、その隣戸の扉の奥で恋人の頬を包んでいる青年の手が。彼らの手という手が、そろって彼女を棺に押し込め、あの冷たい水の底に放したのだ。
 鞘を払い、音を立てずに歩き出す。ステッキを持った影を追って、滑るように闇の底を這う。
 言葉はいらない。彼らに悔い改めて欲しいなどと、いまさら望んではいない。復讐はむなしく愚かしい、だがそれは黒々とした運河の水よりも冷たく、速やかに私の胸を冷やすだろう。
 斬りつけようとする手の中で、柄が痺れるように冷たい。
 音を立てなくとも、なにかの気配は感じたのだろう。老人は足を止め、私を振り仰いだ。月に照らされる、小さい顔。皺ぶかいその目元には、どうしたわけか、ちらりとも恐怖が覗かない。そのことになぜか意表をつかれて、手が止まった。
 老人は何もいわず、じっと私を振り仰いでいる。状況を理解できずに戸惑っているのでも、恐怖に縛り付けられているのでも、狼藉者に怒りを向けているのでもない。その瞳は、昏かった。夜の運河の底を覗き込むよりも、なお暗かった。
 その暗がりの中に、一瞬、炎がちらついた。それはあの夜、運河を舐めた、あの劫火だった。わけもなくそう思ったときには、刃を振り下ろす気力が萎えていた。
 老人は何もいわず、それどころか、じろりと私を睨みつけた。どうしてやめたのかとでも、いわんばかりに。
 頭上で鳥が一声、嗤うように鳴く。遠くでどこかの母親が、宵っ張りの子を叱っている。
 老人はいっとき無言で私の手元を見つめていたが、やがて私に殺意を奮い起こす様子がないことを、ようやく諦めたというように、ふっと視線をそらした。そうして元のとおり、杖をつきながら歩き出す。夜を切り刻みながら。
 ただその影が遠ざかってゆくのを、見送っていた。
 歩き出すこともできず、座り込む気力もないまま、ただ立ち尽くしていた。
 運河を見下ろせば、また新しく白い花が、水面を流れてくる。静かに、滑るように。


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お題:「運河」「明かりに誘われて、ノコノコ出てきた貴方が悪いんですよ」「飢えている」「生きるということ」「世界が回っていることに気がついた、酔っ払い」 の中からみっつ
制限:60分(後日、微修正)
 

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