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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 ――負けるな。
 その声が、耳の奥に谺していた。アーシャは唇をかみ締めて、ひた走る。雨に濡れた黒髪が頬に張り付く。上がった息がひゅうひゅうと喧しく鳴っている。
 轟々と唸る風。折れた枝が鋭い音を立てて耳元を掠める。嵐の夜、森は普段の穏やかさをかなぐり捨てていた。
 奥へ。もっと奥へ。森の奥深くへ逃げ込めば、誰もそこまでは追ってくるまい。それに、きっと風も樹々に遮られて、いくらかは弱くなるだろう。
 駆り立てられるようにして、アーシャは走る。ときおり樹々の根に躓きながら。手にした角燈には、硝子の風防が設えられてはいるものの、油の残りはもう心もとない。
 アーシャはにじみそうになった熱い涙を、息を吸ってどうにか押し留め、ぐいと顔を拭う。泥水に汚れた顔は、青ざめている。安物の布とはいえ、自らの手で丁寧に仕立てたドレスは、いまはぐっしょりと雨に濡れそぼって、見る影もない。
 ――負けるな。
 耳に何度も蘇るその声に、縋るようにして、アーシャは走る。低く呟くようなあの人の声は、けれど熱を孕んでいた……


 ――申し訳ないが、と、あの人はいった。
「それはわたしに、出て行けということなの」
 そう食って掛かったアーシャに、しかしあの人は、静かにうなずいた。
 湿った風が吹いていた。屋敷の庭は宵闇に包まれて暗く、樹々の葉擦れがときおり二人のやりとりを遮った。
「貴女は美しすぎる」
 その言葉にはじめ、アーシャは笑った。彼には似合わない冗談だと思ったのだ。だが、男の表情がちっとも変わらないのを見て、アーシャは笑いやんだ。
「美しすぎて、何が悪いっていうの」
「過ぎた美貌は妬まれる。嫉妬は人を狂わせる」
 アーシャは耳を疑った。あの男の言葉とも思われなかったからだ。男はそれまで、一度だってアーシャの美貌を誉めてくれたことはなかった。そんな相手だからこそ、アーシャもひそかに好意を抱いていたのだ。ほかの、彼女の美貌を口々に誉めそやす男たちの誰よりも、そのぶっきらぼうな態度をこそ、アーシャは好んでいた。
 だがその男がいま、苦く唇をゆがめて、彼女の美貌を非難する。アーシャはかぶりを振って、男に詰め寄った。
「そんなのわたしのせいじゃない。好きでこの顔に生まれてきたわけではないわ」
「貴女のせいではない。だからこうして、頭を下げに来た。すまないとは、思っている」
「それなら、せめて口添えをしてくださったって、いいじゃないの」
「俺には、主への恩がある。命に背くことはできない。それに……」
「それに?」
「……急がなければ、貴女の身が危険だ」
 アーシャは笑い飛ばそうとして、失敗した。男の目が、真剣だったからだ。
「何、それ。魔女の疑いでもかけるっていうの? わたしの肌には痣もないし、針を刺したらちゃんと血が流れるわよ」
「奥方様は怒り狂っている。あの方の生国を、貴女は知っているか」
 その国の名前を思い浮かべて、アーシャは口をつぐんだ。古い書物に読んだ、血塗られた歴史が頭を掠めたのだ。
「暗殺はあの国のお家芸だ。貴女も見たことがあるだろう、奥方様が嫁いでこられたときに国許から連れてきたという、若白髪の男を。あの男は、そういう役目のものだ」
 その下男の顔は、アーシャも知っていた。口を利いたことはないが、いつも陰気な、どこかくすんだような笑い方をする男だ。
 あの人は、ためらうようにして、それから続けた。
「俺はこの耳で聞いたのだ。奥方様があの男に、貴女を始末するようにと、命じているところを」
 そんなおそろしい話があるはずがないわと、アーシャは叫んだ。
「声が高い」
「だって何もかも、誤解なのよ。わたし、旦那様との間には、何もなかったわ。指一本、ふれられたことさえないのよ」
「奥方様は、そう思ってはいない。使用人どもが、面白おかしく噂するから」
「貴方もそれを信じているの?」
 アーシャがきっと睨みつけると、男は頷きも、否定もしなかった。
「いますぐ、逃げるんだ。この時間なら貴女の姿がなくても、いっときは気づかれないだろう」
「そんな。だって、ここを出て、どうしろっていうの」
 アーシャは震える息を吐いて、よろめきそうになる足を、どうにか踏みしめた。
 男はただ感情の読めない黒い瞳でじっと彼女を見つめかえして、たったひとこと、呟くように言ったのだ。
「負けるな」


 アーシャは泥だらけになった靴を脱ぎ捨てながら、熱い息を漏らす。堪えそこなった涙も、すぐに雨に混じって冷えきってしまう。
 彼は何に負けるなと言ったのだったろうか。美貌の女にまとわりつく偏見と悪意に? それとも奥方の放つ刺客の魔の手に?
 このまま、着の身着のままで逃げ出すのがいいと、男が示したとおりに、アーシャは逃げた。ほかにあてもなかったからだ。着替えを取りに戻る余裕もなかった。
 男に手渡された小さな荷、水の入った皮袋と、わずかな食料、角燈が一つ、それからいくばくかの銀貨。ただそれだけを持って、整備された道ではなく、森の小道を縫うようにして、アーシャは逃げた。夜闇に紛れて、まるで罪びとのように。
 何者かにあとをつけられていると気がついたのは、一刻もしてからだった。


 走っていると、頭に薄膜がかけられたように、思考がまとまらなかった。断片的な思いばかりが、浮かんでは、雨に剥ぎ取られるようにして流れ去っていく。はじめに思い浮かべていた小道ではなく、樹々の間を縫って、道なき道をアーシャは走る。
 奥へ。森の奥へ。もっと奥へ!
 嵐がおさまる気配はなく、樹々の天蓋を縫って落ちてくる大粒の雨が、アーシャの肌を冷やしていく。嵐を避けているのか、森に棲むはずの獣の気配が遠いことが、救いといえば救いだろうか。
 ひときわ太い根に足をとられて、アーシャは転んだ。とっさについた手のひらが擦りむけて、一拍おくれて血がにじむ。それも雨に打たれて、すぐに流されていく。
 アーシャはその場でうずくまった。樹の根元で、雨に打たれながら、ただドレスの裾の破れ目を見つめていた。
 遠く、雷鳴が鳴っている。雨がひときわ強く、森を殴りつけた。
 もう立ち上がれない。


 追っ手に腕を掴まれたのは、足音に気づいて走り出してから、半刻ほどのちのことだった。本当なら、もっと早くにつかまっていてもおかしくはなかったのだ。その男が自分の逃げ惑うようすを楽しんでいたことに、アーシャは地面に引き倒されたあとで、ようやく気がついた。
 引き倒された拍子に破れたドレスの裾に手をかけると、若白髪の男は、下卑た笑いを浮かべた。その血走った目に向かって、アーシャは鋭く叫んだ。
「わたしが何をしたというの」
「旦那様を誑かした魔女が、ずいぶんと立派な口を利くものだ」
 異国の訛りのある口調で、男は嘲笑した。
「誤解よ」
「奥方様がそういえば、それが真実なのさ。諦めな」
 男はいって、アーシャの濡れたドレスを引き剥がしにかかった。どうせ殺すなら、その前に楽しもうというわけか。血の上った頭でそう考えたのと同時に、アーシャは男の首筋に爪を立てていた。女の非力な指で、頚動脈を破れるはずもなく、爪はただ皮膚に小さなひっかき傷を作っただけだったが、男は怒号を上げて、アーシャの頬を張った。
 石にぶつけてくらくらする頭を揺らして、アーシャは笑った。開いた唇の中に、雨滴が落ちる。もうどうにでもなればいい。世界が悪意に満ちているのなら、わたしも悪意でそれに報いよう。


 樹の根元に座っていると、風雨はいくらか遮られて、上がっていた息も、徐々におさまってきた。それでもまだ上空では、風の渦巻く音が聞こえている。濡れた服が体温を奪って、アーシャは震えた。
 角燈の灯は、すでに消えていた。膝を抱えて、彼女は目を瞑る。その瞼の裏に、絶息した男の、泥に汚れた若白髪が浮かんだ。剥かれた目玉と青ざめた唇もまた、その視界に焼きついて、離れない。
 毒を塗っていた爪を指先で拭い、アーシャは震える息を吐く。そのとたん、心の表面を覆っていた薄膜の、最後の一枚を剥ぎ取られて、アーシャはけたたましい笑い声を上げた。
 魔女、魔女、魔女! ただ毒と薬のあつかいに長けるばかりの賢い女たちを、どうして世の人々はあれほど無闇に狩り立てようとするのか。彼女を長年苦しめてきたその疑問が、いまになっては皮肉だった。
 毒を使って人の命を奪ったのは、初めてのことだった。自分が震えているのが、寒さのためなのか、感情の高ぶりのためなのかわからず、アーシャはひっきりなしに声を立てて笑った。
 ――負けるな、と、記憶の中で男がいう。
 でも、何に?
 嵐の森でアーシャはむなしく男に呼びかけ続け、その端から、声は雨音に吸い込まれていった。


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必須お題:「負けるな」「美しすぎて、何が悪い」「最後の一枚」
任意お題:「美しすぎる罪で逮捕する」「菫の砂糖漬け」「木下闇」「ぽぽぽぽーん」「鼻からうどんを垂らす根性なし」 (使用できず)
 

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