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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 先週末、TC定例三語に久しぶりに参加しましたので、推敲したぶんのログを流しておきます。(もとはこちら→http://www.totalcreators.jp/cgi-bin/sango/read.cgi?no=62&l=1-)


 暗い話です。苦手な方はご注意ください。

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 なにか、ふきのとうの話がなかったっけ。教科書に……。

 ほとんどうわごとのように、哲哉がいった。
「あったね、たしか。低学年のころじゃなかったかな」
 わたしがそういうと、哲哉はいっとき黙り込んだ。それから、床の上であおむけに転がったまま、つぶやいた。「どんな話だったか、思い出せないんだ」
 いっとき記憶をたぐろうとして、わたしは部屋の天井を見つめた。手抜き工事の産物か、天井板がひずんで、細く隙間が見えている。小さい子どもがこの部屋で寝たなら、さぞ怖い空想に悩まされることだろう。
 たっぷり一分は考えこんだと思うけれど、物語の断片さえ、よみがえってはこなかった。
「さあ。教科書なんて、とっくにまとめて捨ててしまったもの。テツのお母さんなら、どこかにしまってるんじゃない? 几帳面そうだし」
 わたしがそういうのを、哲哉はまるで聞いていないようだった。酔っているのだ。寂しげに、ただただ繰り返した。どうしても思い出せないんだ。
 その声の語尾が、部屋の湿った空気に溶けそびれてわだかまっているのを、わたしはじっと見詰めた。それからふっと、ため息をついた。
「一度、帰ったら?」
 そうだね、といって、哲哉はまた黙り込んだ。


 かえりたい。一度だけ、哲哉がいったことがある。
 帰る? あの町へ? わたしは口に出しては何も返事をしなかったけれど、沈黙は言葉よりもなお雄弁だっただろう。
 小さな漁港の町だった。日本海側の海は波が高くて、いつでも暗く、寒々した色をしていた。町のどこにいても、生臭いにおいばかりがただよっていた。魚か、そうでなければ、昼から酒をくらっている酔っ払いの、息のにおいが。
 わたしは二度と、あの場所に戻るつもりはない。何があっても。いつか親が死んだら、ここでひとり祝杯をあげるだろう、この都会のせまく薄暗い、アパートのなかで。
 あの町を、故郷なんて美しい言葉で語りたくはない。いい思い出なんて、ひとつもない場所だ。辛気臭く、うらぶれていて、通りをほっつき歩く野良犬でさえ、誰のことも信じないという眼をしている。
 スローライフ、なんていう優雅な言葉で語られうる田舎は、いったいこの日本のどこかに、実在しているものなのだろうか? ひとはよく都会の孤独をうたうけれど、田舎には孤独がないとでも思っているのだろうか。
 たしかに小さな集落では、誰もが互いの何もかもをよく知っている。内緒ではない内緒話は、あふれる水のようにまんべんなく人々の足元に浸透し、世話を焼くふりをして詮索の目を向ける人々は、異分子をめざとく見咎める。悪いうわさが立てば、けしてそれは忘れられず、十年経とうが、五十年経とうが、繰り返し繰り返し、飽かず語られつづける。共同体の輪を乱すものは嫌われ、穢れたものは排除されるか、そうでなければ見て見ぬ振りをされる。たとえば実の父親とのあいだに子を産んだ、わたしの母親のように。


 一緒に、ここを出よう。この町にいたら、佑子はだめになる。
 いつか哲哉がそういった。あのとき、まさにあの瞬間まで、わたしには町を出るという発想はなかった。ちらりと頭の隅をかすめるようなことさえしなかった。なぜだろう。わたしこそ真っ先に、それを考えついてもいいはずだったのに。
 哲哉は間違っていた、と思う。わたしはだめになろうとしていたんじゃなくて、とっくにだめだったのだ。
 わかっているのに、二人で見ないふりをした。
 町を出て、都会にしがみつくように暮らしはじめた。借りたアパートは古く、狭く、隙間風がした。早足の雑踏にはいつも気分が悪くなったけれど、あの場所に戻ることにくらべれば、なんでもなかった。
 知らない人ばかりの中で、不安がなかったといったら、嘘になるかもしれない。ちっともおいしくない高いばかりの食べ物、嘘くさいぴかぴかした建物と服と革靴、人々のよそよそしい言葉づかい。狭苦しい田舎町で息をひそめてくらしていたわたしは、まるでものを知らなくて、人にそのことを笑われても、それを些細なこととして受け流すことができなかった。ちっぽけなくだらないことで、はげしい羞恥心に焼かれることが、日に何度もあった。
 だけど、自由だった。
 その自由を孤独と呼ぶ都会の人間に、どうしてもなじめなくても、そんなことはかまわなかった。わたしは名前のない一人になりたかった。
 そこにいてもどこにもいないのと同じ、いてもいなくても変わらない、消えても数日後には忘れられる影になりたかった。


 だけど哲哉は違う。
 わたしを助け出そうと手を引くくらいだ。他人との距離が近く、底抜けに人のいい哲哉。困っている人を見れば手をさしのばさずにはいられず、人を好くことも、自分が傷つくこともためらわない。そんなひとにとって、都会の喧騒は、毒だった。
 わたしはそれを知っていた。はじめから、知っていたように思う。だけど気付かないふりをした。そのほうが都合がよかったからだ。
 一度帰ったら、きっと哲哉は、もうこっちには戻ってこないだろう。予感があった。哲哉は誰からも愛されていた。愛されている。両親からも、お兄さんからも、親戚や、友達や、後輩たちや、近所の子どもらからも。
 哲哉のお兄さんが、少し前に足を悪くして、漁に出なくなった。酒量が増えて、荒れているようだった。わたしはそれを、漏れ聞こえてくる電話の声と、言葉すくなに答える哲哉の抑揚で知った。
 心配なら、一度、戻ったら。わたしはそういったけれど、自分のその言葉が嘘だということに、とっくに気付いていた。
 そうだね、一度と、哲哉はいった。それもまた、わかりやすい嘘だった。


 窓の外を見下ろすと、夜も遅いというのに、人通りが多かった。携帯を握りしめる若い男の子、危なっかしく自転車を走らせる青年、ハンドバッグを抱いて足早に歩く女、背広にしわの寄ったサラリーマン、塾帰りの生真面目そうな女子高校生。見分けのつかない、誰ともしれない大勢の人々。
 わたしは名もなきものになりたい。ひっそりと死んでも誰からも顧みられず、三日後には忘れられて、名前ものぼらないものになりたい。
 だからわたしに、哲哉は必要ない。上京した初めのころはともかく、いまなら一人で働いても、自分の食べていくだけならなんとかできる。いまの会社の給料はあまりよくはないけれど、余分なものを欲しがらず、家族を持とうとさえ思わなければ、人はあんがい少ないお金で暮らしてゆけるものだ。
 そこに哲哉は、いなくていい。いないほうがいい。そのほうがよほど気楽だ、こうやって鬱々と顔を突き合わせているくらいなら。お互いに気遣いあうふりをして、それでかえって傷ついたりしているよりは、ひとりきりでいるほうが、ずっといい。
 嘘ばっかりだ。


 哲哉は眠ってしまった。鼾の音を数えながら、電気を消す。今日は月明かりだけでも、部屋の中がよく見える。暗くよどんだ雨の日よりも、よく晴れて月の明るい晩のほうが寂しくなるのはなぜだろう。
 わたしはとっくにだめだったんだよ。胸のうちではもう何百も、何千も繰り返してきたそのつぶやきを、哲哉に向かっていったことはない。悲しい顔をさせるだけだから。だけど哲哉も、ほんとうはわかっている。わかっていて、気付かないふりをしている。
 哲哉は帰ったほうがいい。
 だってあなたがいると、わたしはいつも、あの場所のことを忘れられない。生まれた土地で自分がどんなふうに見られていたか、人の噂にどんな形でのぼり、どう避けられてきたか、口に出さなくても、意識の表層に上らせなくても、ずっとそのことから逃げられない。
 わたしはひとりがいい。もしも孤独に耐えられなくなって、また誰かと一緒に過ごすことがあるとしたら、その相手は、わたしのことを知らない人がいい。わたしの心の奥のふかいところなんて、何一つ知ろうともしない人のほうがいい。いつも嘘ばかりだけど、本当はちゃんとわかっている。
 今度はわたしがいう番だ。
 テツ、帰りなよ。一緒にいたら、わたしたちは、だめになる。
 たったその一言を、わたしはいつも呑みこんで、押し黙ってしまう。
 けれどいつまでも、そうしてはいられない。わかっている。だからいまは、じっと勇気をたくわえている。この古くて狭い部屋のなかで、月明かりの下で。


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お題:「ふきのとう」「革靴」「内緒」

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 あけましておめでとうございます!

 一度くらい、年始にあわせて何かしてみたかったので、ヤマもオチもないようなごく短いきれっぱしですが、ひっそりおいておきます。お時間のある方は、お暇つぶし程度にどうぞ。「夜明けを告げる風」と、書きかけの「火の国より来たる者」の間をつなぐ、番外編的なものになります。

 本年もなにとぞよろしくお願いいたします!

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『新年祭』


 イエトは手桶を石畳に置くと、顔を上げて、頭上で正円を描く月を仰いだ。ファナ・イビタルの夜を明るく照らす月は、じきに天頂にさしかかろうとしている。
 一年が終わろうとしている。今年は裏の年だったから、新たな年は、望月からはじまるのだ。習ったばかりの暦の数え方を、頭の中でたしかめながら、イエトは南の空に視線を転じた。
 いまごろ父は、遠い南の砂漠にいるはずだった。それは数年前から父に任されるようになった、たいせつなお役目だった。年の暮れからひと月以上のときをかけて、遥かな土地のオアシスをめぐってくる。父を含む選ばれた部族の男たちが、たくさんの駱駝をつれて旅立っていった日、その勇壮な光景を、イエトは瞼にしっかりと焼き付けた。
 ファナ・イビタルでは新年祭の準備で、みながそわそわと落ち着きなく浮かれていた。母もまた、邸の中を華やかに飾り付けて、妹と一緒に年がわりの祈りを捧げているころだ。男たちは広場に集まって酒を酌み交わし、女たちは家の中でそれぞれに、年の変わり目を祝う。それがならいだった。
 手桶を再び手にとって、イエトは厩舎へいそぐ。大人の手が足らないので、手伝いにかり出されていた。助っ人といっても驢馬の世話だ。イエトは父を手伝ったことが何度もあって、慣れていた。何も難しいことをするわけではないけれど、畏れ多くも族長の財である驢馬だ、間違いがあってはならない。
 自分がそのような役目をおおせつかったことを、少年は、誇りに思っていた。同い年の子どもらは、まだ遊ぶことで頭がいっぱいで、大事な手伝いをいいつけるにはどうにもあぶなっかしい。けれどイエトなら安心だと、大人たちの誰もがいい、それを少年は、誇らしく思っていた。そのせいで、仲間たちからやっかみを受けることも、ないではなかったけれど。
 それでも仲のいい連中は、イエトがけして大人への点数稼ぎなんかのためにいい子のふりをしているわけではないことを、ちゃんとわかってくれている。だから少年にとって、そんなことはなんでもなかった。
 角を曲がると、柵から顔を出して、驢馬が甘えるようにいなないた。手早く飲み水を変えてしまうと、大人たちがそうするのを真似て、驢馬の鼻面を撫でた。飼い葉はさっき足したし、糞も片付けた。これでひと段落だ。
 どうしようかと、イエトは空を仰いだ。遠くで笛の音がしている。この日のために楽士の卵たちが、ひと月近くも前から練習しているのだった。
 空には月と、そのすぐそばにあってさえ、かすまずに明るく輝く青白い星、セタ・サフィドラ《始まりの鐘》があった。
 何も手伝いの褒美というわけではないが、小遣いをもらっていた。広場にいけば新年を祝う男たちのために、そろそろ屋台が出ているはずだった。そのほとんどは酒か食い物を出すのだけれど、今日このときばかりは子どもらも夜更けの外出を許されるから、それを見込んで、菓子や冷やした果汁も一緒に並んでいる。
 そこにいって仲間たちの顔をさがし、珍しい砂糖菓子や飴を味わってみるのでもよかった。うまくすれば、ものわかりのいい大人を見つけて、酒もちょっとくらい舐めさせてもらえるかもしれない。
 けれど迷って、イエトはその場にとどまった。驢馬の鼻面をなでて、その優しい鼻息にくすぐられながら、空の星を数えた。父から教わった、数え切れないほどの星の呼び名と、そのそれぞれにまつわる話を。
 いつか――と、イエトは思う。いつか自分も父のように、砂漠じゅうを自在に渡る、りっぱな案内人になれるだろうか。
 誰かが笛の音を外して、どっと笑い声が上がった。
 流れ星がすうっと、空を滑ってゆく。天頂でひときわ輝くのがセタ・サフィドラ、その横の赤いのがナバ・ディハル、西のほうで二つ仲良く並んでいるうちの、大きいほうがヤ・ソトゥ。自分の父が、ほかのどの大人たちよりも星に詳しいということは、少年にとって、ひそかな誇りだった。族長から信頼を受けて、大事なお役目を賜り、隊商を率いてたびたび砂漠を渡る父。それが寂しくないとはいわないけれど……
 けれど、もうすぐ年は変わり、イエトはひとつ歳をとる。まだ成人までには三年のときがあるけれど、それでも大人について砂漠を旅することをはじめる年齢だ。
 年のわりに小さい自分の手を、イエトは見下ろした。
 イエトは同い年の少年らにくらべて背が低く、毎日のように力仕事を手伝っていても、くりかえし剣の素振りをしても、なかなか腕は太くなろうとしない。肩も胸も薄く、当然のように、けんかも弱い。
 弱いということは、部族の男の誰にとっても疑いようのない恥で、自分が父親に恥をかかせているのだという事実が、イエトにはいつもつらかった。けれど父は、そのことでイエトを責めたことがない。家にいるときは、頼めばいつでも剣の稽古につきあってくれて、声を荒げることもなく、ただ忍耐づよくひとつずつ、教えてくれる。内心では、もしかしたら呆れているのかもしれないけれど。
 それでも人一倍がんばれば、いつかは立派な戦士になれるだろうかと、つい最近まではずっと、どこかに淡い望みを持っていた。けれどどうやらその願いは、叶いそうにはない。ふたつ年下の少年にさえみっともなく転ばされた夜、こっそり隠れて泣きながら、イエトはようやく、その願いをあきらめる気になった。
 だからせめて、星を覚えよう。イエトは毎夜、弟妹たちの寝静まったあとに、空を仰ぐ。
 古い話を聞き集め、空を見て星を読み、砂漠を渡るための知識を身につけよう。砂漠の北方や西方の、こことは少し違う言葉を。危険な獣から身をさける術を、交易のための知恵を。体格に恵まれなかったかわりのように、物覚えは人よりもよかった。
 ずっとイエトの手に気持ちよさそうになでられていた驢馬は、とうとう眠くなったのか、ひとつ小さくいなないて、房の奥へひっこんでしまった。そうして変えたばかりの寝藁のうえで、ゆっくりと脚を折って横になった。
 いっしょになって寝転んだら、きっと気持ちいいだろうなとイエトは思ったけれど、考えただけでこらえた。なにせ、部族の驢馬はすべて族長の持ち物なのだから。
 柵にもたれて石畳に座り込んだまま、イエトは驢馬の寝息を聞いた。また星が流れる。どこか遠くで歓声が上がる……
 ふっと気づくと、イエトは父と二人で、夜の砂漠を歩いていた。
 頭上には満天の星。オアシスで見るよりも、もっとまばゆくきらめいている。行く手には、見渡すかぎり一面の砂の海。遠くに三角形をした砂丘が、しらじらと月明かりをはじいている。
 父は驢馬の手綱をひいていた。驢馬の背や腹には、たくさんの荷が括られている。重そうだな、イエトはと思ったけれど、驢馬はちっとも辛くなんかなさそうに、軽々とそれらを揺らして、ゆったり歩いている。
 父とイエトは、黙ったまま、ただ歩いていた。イエトはときおり、ちらちらと父の横顔を見上げた。面覆いの下から垣間見える父のまなざしは、まっすぐに前方を見つめている。
 いっとき、ただゆったりとしたリズムにのって、黙々と足を動かしていた。砂が、かすかに軋むような音を立てる。ときどき、びょうと風が吹き付けて、砂が舞う。
 ――見ろ。
 ずいぶんと歩いたあとで、唐突に父がそういった。イエトは足をとめた。気づけば驢馬も立ち止まっている。父は振り返って、背後を向いていた。
 父の指さす先の地平には、かすかな光の点があった。
 ――あれは、なに?
 イエトが問うと、父は目を細めた。
 ――あの光が、ファナ・イビタルだ。
 いわれて、イエトはその明かりを凝視した。それは小さな、ごく小さな光の点だった。ふと気をそらせば見えなくなるほどの、かすかな明かり。月があればその光に惑わされて見えなくなる、ちっぽけな暗い星よりも、その明かりはまだ儚かった。どこまでも広がる砂漠のなかの、小さな星くず。
 驢馬がいななき、はっとして、イエトはあたりを見回した。
 父はいない。当たり前だ、族長の命を受けて、いまごろ遥か南の砂漠を渡っているはずなのだから。
 どうやら柵にもたれているうちに、うとうとしてしまったらしい。痛くなった背中をこすって、イエトは伸びをした。広間では、まだ笛の音が続いている。
 気がつけば、満月はちょうど真上にあった。年がかわったのだ。いまこのとき、自分が十二になったことを、少年は知った。
 自分の頬が、知らずほころんでいることに、イエトは気がついた。
 少年は尻についた土ぼこりを払って、大きくひとつ、背伸びをした。広場へゆこう。みなと、新年を祝いあうために。

 

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 脊椎反射で書いたせいでいろいろ意味不明なことになっている童話風ファンタジー掌編。
 竜と村の青年Aの話です。

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 竜のねぐらは硫黄のにおいがするといったのは、だれだっただろう。けわしい山道を歩きながら、ノノは思いだそうとした。いじのわるい二番目の兄だろうか、となりの家に住むひねくれものの三男坊だったか。それとも小さいからノノをいじめてばかりいた、村長のむすこのデグラスだっただろうか。
 せなかを丸めて、ノノは歩く。空をとぶ鳥が、ノノのみっともないすがたを笑うように、けんけんと鳴いている。あたりの岩はどこもかしこもするどくとがって、灰色のはだの中に、ぎらぎらとにぶい鉄の色をかくしている。足元にはばらばらの大きさをした砂利があって、ノノの足のうらは、すぐに痛くなってしまった。
 朝早くに家を出てから、ずっと歩きどおしで、いまや太陽は、ほとんど彼の頭の真上にある。ノノはくたくただった。それでなくてもけわしい道なのに、腰に下げたなれない剣のせいで、ノノはよけいに疲れきっていた。

「お前はばかだなあ、なぜ本当に行くなんていったんだ」ノノが家を出るとき、二番目の兄は、にやにやしながらそういった。「ほんとうにノノ兄さんはばかなんだから」末の妹はそっぽを向いた。ほかのきょうだいたちはわら布団の中で、まだぐっすりねむっていた。母さんはとなり町で出かせぎのさいちゅうで、まだこのことを知らない。

 ぎらぎら光る太陽にてらされて、ノノは顔じゅうに汗をかいていた。わきも、背中も、びっしょりとぬれている。熱い砂利の上を歩きつづけた足のうらは、燃えるように熱かった。それなのに、ノノはぶるりとふるえた。さむけがしたのだった。
 おれはばかだ。ノノは思った。とんでもないばかだ。おれが帰らなかったら、おさななじみのミーアは、おれのために泣いてくれるだろうか。泣くかもしれない。だけどひと月もすれば、そのこともすっかりわすれてしまって、あのいけすかない婚約者のところに嫁いでゆくだろう。
 ノノは足元の砂利をけった。がらがらといやな音がして、ますます足が痛くなった。

 つんと、鼻をさすにおいがした。ノノはぎくりとして足を止めた。鼻をくんくん鳴らすと、卵のくさったようなにおいがして、目の奥が痛くなった。ノノの心の中で、自分そっくりの声がした。さあ、もう気が済んだだろう。引き返せよ。みんなからばかにされるだろうけど、どうせこれまでも、そうだっただろう。
 けれどノノは、引き返さなかった。けわしい岩の道を、そのまま進んだ。
 少し歩くと、ノノの背たけと同じくらいの、ごつごつした崖があった。岩にはたくさんのでこぼこや、さけ目があった。そのさけ目につま先をつっこんで、ノノは崖をのりこえようとした。
 その崖が、きゅうに動いた。ノノはひっくりかえって、尻から地面に落ちた。その下には、とがった砂利がたくさん落ちていた。ぎゃっと悲鳴をあげて、ノノはあたりをみわたした。このあたりではときどき、山が火をふいて、地ゆれがする。それで崖が動いたのかと、ノノは思った。
 だが、そうではなかった。ノノが崖だと思っていたものは、ぐらぐらとゆれた。それからゆっくりと高く持ち上がって、きゅうにぱたんと落ちた。よくみれば、崖にはとげがたくさん生えていた。
 それは、崖ではなくて、竜のしっぽだった。岩のさけ目だと思ったのは、うろこだったのだ。
 ノノは腰をぬかしたまま、地面から、竜の巨大なしっぽを見上げた。口をぽかんと開けていたので、ぱらぱらと細かい石ころが落ちてきて、口の中に入った。ぺっぺっと唾を吐き出して、ノノはくしゃみをした。
「やれやれ、ちかごろでは、静かに寝かせておいてもらえもしない」ごろごろと、岩の転がるような声がした。それがあまりに低く、あまりに大きな音だったので、ノノははじめ、まわりでがけ崩れが起きているのかと思った。けれどそうではなくて、それは、竜の声だった。

 ノノの見ている前で、竜はゆっくりと体をひねった。尻尾が左に動いて、ノノから見て奥のほうへ、ゆっくり引っ込んでいく。その代わりに、とげのたくさん生えたかたまりが、右手のほうからまわってきた。そのかたまりには、ノノの体ほどの大きさの、金色に燃える、きれいな石が埋まっていた。
 大きな石の真ん中には、たてに一本、銀色の線が入っていた。その線が、ゆっくりと、細くなったり太くなったりした。それが竜の目であることに、ノノは気がついた。
「おや。こんどはまたずいぶん、細っこいのがきたものだ」
 もう一度、岩の声がした。
 ノノはまだ、立ち上がることもできなかった。声は、ねむたげな調子でいった。「それで、どうする気だね。細いの。その棒っきれで、わたしのうろこでもつついてみるかね」
 ノノはしゃっくりを飲み込むように、何度かのどをひきつらせた。そして思った。やっぱりおれは、とんでもないばかだった。

 だが竜は、動こうとしなかった。縦に長い瞳を、ゆっくりと開いたり閉じたりしながら、じっと首をかしげている。
 ノノはようやく、声をだした。「おれを、とってくわないのか」その声は、ふるえていた。竜はまばたきをして、ねむたげに答えた。「食べてほしいのかい、細いの」
 ノノはぶんぶんと首を横に振った。だが竜は、見ていないようだった。「あいにくいまは、腹がいっぱいだ。食べてほしいのなら、そこでわたしの腹がへるまで、そうだね、五年ばかし、昼寝でもして待っておいで」
「人間は五年も、昼寝なんかできないよ」いってから、ノノはあわてて、またぶんぶんと首を振った。「いや、そうじゃない。おれはべつに、食べられたくはない」
 竜は、ふんと鼻を鳴らした。その鼻息で、ノノは宙に浮きそうになって、あわてて地面にしがみついた。
「では何をしにきたのかね」竜にきかれて、ノノは言葉をのみこんだ。おれは何をしにきたんだろう。うつむいて、ノノはこぶしをにぎりしめた。
 竜は気が長いのか、ゆったりとノノの返事を待っていた。かと思ったら、それはノノが勝手にそう思っただけで、じっさいには竜はただ、うたた寝をしていたようだった。ぐう、と地鳴りのようないびきがして、ノノはひっくりかえりそうになった。
 いっしょうけんめい答えを考えていたノノは、おもわずかちんときて、竜を揺りおこそうかと思った。だがよくよく考えてみれば、竜がねむっているあいだに、さっさと逃げてしまえばよいのだった。いくら竜がゆだんしていても、こんなちっぽけな剣の一ふりで、やっつけられるわけがない。
 よし、逃げよう。ノノは思った。おれは逃げるぞ。

 しかしノノの足はうごかなかった。腰はもう抜けていなかった。立ち上がることはできた。けれどそこから立ち去ることが、ノノにはどうしてもできなかった。
 ノノはいった。「そうだ。おれは、食われにきたんだ」
 竜はもぞりとまぶたを持ち上げた。「ん、ああ。なにかいったかね、細いの」
「おれは食われにきたんだ」ノノはもう一度いった。ノノの顔は真っ赤で、手はぶるぶるとふるえていた。
 竜は首をかしげた。「さっきから、そういっているじゃないかね」ノノは自分の話している中身に夢中で、それを聞いていなかった。ノノはぶるぶるふるえる手を振って、大きな声でほえた。「だって、そういうことだろう。てんで腕っぷしの弱いおれに、こんななまくらの剣をおっつけて、竜をたおしてこいだなんて」
 竜はゆっくりとまばたきをして、それからいった。「さっきからきいていると、どうもよくわからないな。おまえさんは、わたしをやっつけにきたのかい。それとも、わたしにたべられにやってきたのかい」
「この剣を」なまくらの剣を地面に投げつけて、ノノはいった。「おれにわたして、竜をたおしてこいと、デグラスはそういったんだ。あいつは村長のむすこだし、おれはびんぼう農家の四男だ。あいつのいうことを、断れっこない。それを知っていて、デグラスはやれといったんだ」
 いいながら、ノノは涙がこみあげてくるのをこらえた。
「おれは腕っぷしもよわいし、知恵もない。読み書きもへただし、不器用で、大工しごともうまくない。村にいても、たいして人の役にもたたない。それにおれには兄弟がたくさんいるし」ノノはまくしたてた。「だからおまえがいけって、デグラスはいったんだ。それはつまり、お前なんか竜にくわれて死んじまえってことだろう」
 竜はふしぎそうに首をかしげたが、ノノはそれを見ていなかった。「おれを食べたら竜もはらがふくれて、いっときは大人しくしてるだろうからって、そういうことだろう。おまえみたいな役立たずは、せめて死んでみんなの役にたてって、そういう」
 ノノは言葉をきって、うつむいた。それから、おんおんと声を上げて泣いた。

「おまえさんは細いわりに、まあ、よくよくうるさいなあ」竜はめんどうくさそうにいった。それからゆっくりと、かまくびをもたげた。「それに、じぶんでいうとおり、頭があまりよくないようだ。わかっているのなら、なんで正直に、ここまでやってくるんだね。逃げてしまえばよかったろうに」
 ノノは顔を上げた。土ぼこりでまっ黒になった顔に、涙のすじがたくさんついていた。「だって逃げたら、あいつは役立たずのうえにおくびょう者だって、そういわれるんだ。あいつの父さんも一番上の兄さんも、竜とたたかってりっぱに死んだのに、あいつひとりは、とんだ腰ぬけだって」
 ノノは大声でいって、また泣いた。それから涙をぬぐって、いった。「だからいいんだ。さあ、竜よ。さっさとおれをくってくれ。父さんも兄さんも、おまえがたべてしまったんだろう。おれはうらまないよ。おまえだって、腹がへるんだろうから」
 ノノはつよがって、胸をはりながら、そういった。

 竜はふんと鼻をならした。「さっきからなんべんもいっているとおり、わたしはいま、満腹なんだ。食べてほしいんなら、五年たってから出なおしておいで。それからできれば、それまでゆっくりわたしを寝かせておくれ」
 ノノはぽかんとした。「ほんとうに、五年もねむるのか」竜はすこしふきげんそうにいった。「ずっとそういっているじゃないか」
「じゃあ、おまえはいまから五年のあいだは、村をおそったりしないのか」ノノがいうと、竜は笑った。「お前さんらがあんまりうるさいと、気が変わるかもしれないよ。怒ると腹がへるからね」
 ノノはおそるおそる、かさねて聞いた。
「いいのか、ほんとうにおれを帰して。おれはこのことを、村のみんなに話すぞ」
「だったらどうなんだい」竜はうるさそうにしっぽをゆらした。ノノは考え考えしながら、いった。「五年をかけてしっかり用意をして、たくさんの兵士をつれて、ここにやってくるかもしれないぞ」
「おや、自分でいうよりは、すこしは頭が回るようじゃないか」竜は面白がるような顔をして、そういった。「まあ、好きにするといい。うまくいけば、わたしはたらふくごちそうにありつけるのだし、もしかなわなさそうだと思ったら、しっぽをまいて逃げだすさ」
「逃げるのか」ノノはびっくりして叫んだ。けれど竜は、あっさりうなずいた。「逃げるよ」
 竜のしっぽが、ずしんと地面に落ちて、もうもうと土ぼこりが舞いあがった。ノノはけほんこほんと咳き込んで、涙をにじませながらいった。「竜は誇り高いと聞いていた」

「誇りとは、何か」

 竜はきゅうにそれまでのねむたげな調子をあらためて、重々しくいった。ノノは息をのんで、立ちすくんだ。
 竜はまた、ねむたげな目にもどった。「まあ、五年もあれば、そのゆっくりしたおつむでも、答えがでるだろう。さあ、いいから寝かせておくれ。さっきからいっているように、わたしはいま、とてもねむたいんだ」そういうと、竜はまぶたを閉じた。それから、ごうごうと嵐のようないびきを立てはじめた。
 しばらくのあいだ、ノノはねむる竜の前で、ぼんやりと立ちつくしていた。けれど、やがて夕ぐれどきになり、雲が燃えるようなオレンジにそまるころになっても、竜はあいかわらずいびきをかいていた。
 ノノはゆっくりと背中を向けて、歩き出した。ずいぶん道を下ってから振りかえると、ねむる竜の体は、ごつごつした巨大な岩のようにしかみえなかった。

 砂利はもう、熱くはなかった。痛む足をひきずって、ノノは歩いた。とちゅうで、竜の足もとに剣をわすれてきたことに気がついたが、取りに戻るには疲れすぎていた。
 何ごともなく村に帰ったら、デグラスはなんというだろうと思うと、ノノは気が重かった。みんなはきっと、ノノのことをおくびょう者だといって笑うだろう。二番目の兄も、一緒になって笑うにちがいない。妹はやっぱり兄さんはばかだといって、ぷりぷり怒るだろう。
 ミーアも笑うだろうか。ノノは想像してみようとしたけれど、わからなかった。
 誇りとはなにか。ノノは竜のいった言葉を思い出して、疲れてぼうっとする頭で、いっしょうけんめい考えた。けれどやっぱり疲れきった頭では、いい考えはちっともうかんでこなかった。
 気づけばノノは、泣いていた。声もなく泣きながら、ノノは何度も、顔を手でぬぐった。ぬぐいながら、とがった砂利の山道を、歩き続けた。

 

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 夕立、祖母の記憶、猫。微妙な仕上がりになってしまった即興三語小説。どうかお時間のある方だけ、ひまつぶし程度に読んでいただければと思います。

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 古い蚊帳をみつけた。
 納戸を片付けているときだった。古いといっても、使っていたところを覚えている。それはわたしが物心ついたときには、まだ現役だったのだ。
 すぐ裏手が山になっているこの家では、蚊にせよほかの虫にせよ、家の中で姿を見ない日はない。わけても夏の夜には。いつの間にか、蚊帳を使うことがなくなって、蚊取り線香も姿を消した。かわりに電気式の、味気のない虫除けが幅を利かせている。
 広げてみれば、蚊帳にはいくつも穴があいてしまっていた。これではもう、使い物にならないだろう。
 猫が鳴いている。振り返ると、ミケが尻尾をくねらせて、部屋に入ってきたところだった。蚊帳の穴は、彼女が犯人なのかもしれなかった。
 にゃあ。納戸に飛び込んだミケは、止める間もなく、中にはいっていたガラクタを蹴落とした。古い蚊遣り豚が、畳に転がる。あわてて拾ってみれば、どうやら皹が入ったようすはなかった。
 ふっと、記憶が戻ってくる。
 夏の、蒸し暑い夜だ。
 蚊帳を吊るして、布団に入っていた。ふだんは寝つきのよかったわたしは、その日に限って、なかなか寝付けずにいた。この蚊遣り豚から、蚊取り線香の煙が細くたなびくのを、いつまでも目で追っていた。
 隣で祖母が、寝るそぶりもみせず、背を丸めている。なにか湯のみにはいった飲みもの、たぶん白湯を、音を立てて啜っている。そうして切れ切れに、低い声で、何か歌っている。単調な音階の、子守唄のようなものを。
 それが、自分のために歌われているわけではないことが、幼いわたしにはわかっていた。祖母が歌って聞かせていたのは……いたのは……。
 思い出せない。


 にゃあ、とミケが鳴く。
 その声に呼ばれるようにして、今年はじめての夕立が来た。梅雨のそれとは明らかに違う大粒の雨が、ぼたぼたと降りしきって、いっせいに青臭いにおいが立ち上る。
 埃がたつからと、クーラーを切って開け放していた戸口から、雨にうたれる庭木が見える。閉めるために立ち上がって、ついでに顔を出して空を仰いだ。降りのわりに、空は明るい。これならすぐにやむだろう。
 そういえばこの猫は、昔からよくこんなふうに、天気の変わり目や、異変を知らせることがあった。発情期というふうでもないのに、異常な声を上げて一晩じゅう唸っていたかと思えば、その翌日の朝、母が高熱を出して倒れた。
 そうだ。いつかの夏の夜にも、そうだった。
 今夜は妙に悲しげな声で鳴くといって、祖母も母も、落ち着かないふうに心配していた。普段はわたしか、そうでなければ母と一緒に眠ることの多かったミケは、その日に限って、一晩中、祖母の隣を離れなかった。祖母も、まるで幼い子どもをあやすように、ミケの背中をなでながら、低く子守唄を歌っていた。
 そうだ。あれはこの猫だったのだ。
 その翌日の昼、炎天下のなか祖母は倒れ、そのまま戻らぬ人になった。


 いまのいままで、そんなことがあったのも忘れていた。思わずまじまじと見下ろすと、人間くさく目を細めて、ミケは喉を鳴らした。顎を撫でろ、と甘えたそぶりで要求する姿は、いつもと少しも変わらない。
 そう。ちっとも変わらないのだった。
 いつからこの家で飼っているのか、あらためて訊いたことはない。ただ、少なくとも祖母が倒れたあの夏の日、すでにミケは成猫だった。
 もうじき祖母の十七回忌がくる。
 にゃあ、と促されて、我にかえった。雨音はもう聞こえない。
 立ち上がり、建て付けの悪い戸を開けた。眩しい光がさし、眼を細める。ミケに命じられて、夏への扉を開けたかのようだった。そんなことを考えて、それはあまりにメルヘンチックな発想ではないかと、思わず苦笑する。
 庭に出て行ったミケは、庭石を踏んで歩きながら、上機嫌に尻尾を揺らしている。立ち止まり、空をじっと見あげて、にゃあ、と一声鳴いた。

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お題:「蚊帳」「夏への扉」「白湯」
制限時間:60分(ちょっとオーバー)

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 即興三語小説。以前に書いた三語小説「夜に棲むもの」の続き……というか、過去話です。

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 湿った夜気を頬に受けて、惣一郎はふと空を仰いだ。
 先ほどまで冴え渡っていた月に、いつの間にか叢雲(むらくも)がさしている。さあっと音を立てて、桜の花びらが舞った。
 小さな社がひとつあるばかりの、古い神社だ。それでも氏子が丁寧に清めているのだろう、境内に荒んだようすはなかった。
 夜桜の下、女が立っている。
 黒い袷の背に、結わないままの髪を流している。朧な月明かりに照らされて、その頬が白い。何を思っているのか、顔を上げて、張り出した枝をじっと見つめている。
「そうしていると、幽霊画のようだな」
 声をかけると、女――あやめが振り返って、紅をさした唇をつりあげた。
「おぬしのような男でも、冗談をいうのだな」
「なんだ、それは」
 ふふ、と笑って、あやめは髪についた桜の花びらを、指でつまんだ。その爪は長く、鋭い。
「鬼に向かって、幽霊のようだもあるまいに」
 くくっと喉をならして、あやめは再び桜の枝を仰いだ。
「お前のような鬼女でも、桜は愛でるのだな」
 仕返しのようにそういうと、あやめはふっと真顔になった。
「呑気なことだ。一族の惣領息子ともあろうものが」
 なに、と訝った次の瞬間には、懐に手を入れていた。その手を引き出したときには、札を握っている。
 風もないのに、桜の影が揺れる。とっさに飛びのくと、音を立てずに、幼児ほどの小さなものが地面へと降り立った。札を叩きつけようとする惣一郎よりも早く、それは飛びのいて距離をとった。
 一本角の、小さな鬼だった。醜く引き攣れたような肌は青白く、手足が節くれだって、骨ばっている。黒々とした眼が瞬きもしらずに、じっと惣一郎を見上げた。
 祓わないでくれと、その目はいっているように見えた。
 惣一郎はたじろいだ。その隙をついて、小鬼は奔っていった。瞬きするほどの間に、闇に溶けて見えなくなる。あやめが、くつくつと喉を鳴らした。
「甘いことだ」
 うるさい、とふてくされて、惣一郎は札を懐に仕舞った。惣一郎が情に流されて小さな鬼を取り逃したのは、一度や二度のことではない。
 鬼どもの間に同族意識などというものはないらしく、惣一郎が鬼を仕留めようが見逃そうが、あやめはたいして気に留めもしない。それどころか、ときにはほかの鬼を殺して惣一郎の身を守りもする。式鬼として縛られているわけでもないというのに。
 雲が流れて、月が顔を出す。あやめの唇の紅いのが、いっそうくっきりと浮かび上がる。それを眺めながら、惣一郎は重い口を開いた。
「お前を探していた」
 あやめは答えず、手のひらの上の花びらに息を吹きかけて飛ばすと、空を見上げた。
 雲に巻かれた月が、その黒い瞳に映りこむのに、惣一郎は見惚れた。鬼の瞳にも、月は映るらしいと、何とはなしに驚きながら。
「赤紙が来た」
 その言葉の意味するところを、そういえばあやめは知っているだろうかと、惣一郎はふと思った。それほど、あやめの表情に変化がなかったからだ。
 だがあやめは、神木にもたせかけていた背をゆっくりと起こして、面白がるように目を細めた。
「それで、いわれるままにいくさ場へ行くのか」
「ああ」
 惣一郎が肯(うべな)うと、あやめは不思議なほど優しげに微笑んだ。
「何とでも逃れようはあろうに」
 その言葉も、あやめの表情も、ともに意外に思えて、惣一郎は眉を吊り上げた。
「鬼らしからぬ言い分だ」
「お前は、いくさは好かぬだろう」
 肯定も否定もせずに、惣一郎は肩をすくめた。風が枝を揺らし、桜吹雪が舞う。それに眩惑されるような思いで、惣一郎は鬼の微笑をみつめていた。
「まあ、そういう愚直なところが、お前らしいといえば、お前らしい」
 憮然とする惣一郎の目を、からかうように覗き込んで、あやめは唇を吊り上げる。そこにのぞく鋭い牙が、月明かりを弾く。
「それに、わたしにとっては好い知らせだ。これで当分は、飢えずに済むだろう」
 楽しげにいって、あやめは惣一郎の肩にもたれる。その長い爪の背が、からかうように惣一郎の首を撫でた。
「ついてくる気か」
「ついてゆかぬ理由が、なにかあるか」
 少し考えて、惣一郎は首を振った。鬼が戦場をきらう理由は、たしかになかった。体重のないようなあやめの腕に、されるがままにしながら、惣一郎は頼み込むような気持ちで口を開いた。
「喰うなら成る可く、敵方の兵隊か将校にしてくれ」
 ふ、と笑って、あやめは体を離した。背を向けて、音を立てずに歩き出す。鬼たちはいつも、滑るように夜を歩く。
「そうしよう。ほかならぬお前の頼みなら」
 その言葉を信じていいものか、心を決めかねながら、惣一郎は頷いた。人を喰らうおそろしい鬼であるはずなのに、ときおり妙に優しげな顔をする、妙な女の背を見つめながら。
「お前はいったい、冷酷なのか、それとも情け深いのか」
 いいながら、米兵ならば喰ってもよいという自分と、己が本能のままに人を喰らう鬼と、どちらが冷酷だろうかと、惣一郎は思った。
「それをわたしに訊くのか」
 あやめは足を止めて、くくっと喉を鳴らす。惣一郎は答えなかった。生ぬるい風が吹き、花びらが舞う。
「まったく、妙な人間もいたものだ」
 謡うような調子でそういって、あやめは惣一郎の腕を取った。
 鬼よりよほど陋劣(ろうれつ)な人間もいるのだから、人より情け深げな鬼がいても、別におかしくはなかろうよ。もっとも、鬼の情けが、人のそれと同じかどうかは、知らぬことだが。
 そう語るあやめの声は、春の宵闇を揺らす風のようだった。
 腕を組んで歩く二人の頭上に、桜の花弁が降りしきる。あやめがうるさそうに、花びらを払う、その指が白い。
 どこか遠くで、夜汽車の汽笛が響いている。

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▲必須お題:「愚直」「夜桜」「陋劣」
▲縛り:「登場人物が監禁されている(任意)」「足蹴にされて喜ぶ登場人物を出す(任意)」(使用できず)
▲任意お題:「たまゆら」「じゃがりこ」「円形脱毛症」(使用できず)

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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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