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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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 ブログ、またえらい放置してしまいました……小説書けてないとここで何を書くにも言い訳しか出てこないような気がして腰がひけるっていうだけなのですが。
 何も書けてないというか、ここしばらくは手書きでちょっと草稿めいたものを書いています。最終的にちゃんと公開できそうな形に仕上がるかどうかとか、いつ何が出せそうとか、そういうことを何か語れるようなレベルではないのですが、今年前半は本当に小説を書くということに向き合うの自体が、しんどくて考えられないような日が多かったので、少しはましな状態になってきたのかなと思っています。
 まだ時間がかかるかもしれないけれども、書くことに戻ってくる意思だけはある。その程度のことしか宣言できないのが、なんとも不甲斐なくはあります。
 でも不甲斐ないとか思って焦るとまたループにハマるので、淡々とリハビリします。

 書けなくなった最初の発端は焦りとか、書くことへのモチベーションを疑ったりとか、そういう普段から陥りがちな不調からはじまっていたようなのですが。途中からは、仕事での消耗が主な原因だった気がします。残業量が多かったのは5月くらいまでだったんですが、残業以外のストレス要因が重なって、せっかく早く帰れるようになっても、もう生きるために必要な最低限のことと休養すること以外は何も考えたくないモードの日も多くて、無気力でした。

 何かを書こうとすると、面白くなければ小説を書く意味がないとか、まともなものを仕上げなくてはならないとか、意識的にも無意識的にもそういう「ねばならない」感覚に捕まってしまいます。それは平常時には大事な感覚なのですが、気持ちが磨り減っているときには、何かをしなくてはならないこと自体がひたすら苦痛で、「書くこと」を直視するのがもうつらくて思考停止する。そういうループだったんだと思います。

 本当はただ楽しんで書いて、それがいい具合に現実逃避になって仕事の気分転換になる、そういうループをつくれたら理想的なんだろうと思うのですが。何かひとつ気合い入れていいものを書いてやるぞというだけの気力がないときには、自分が楽しむためだけのものを、本当にひたすら自分のためだけに書くような。
 楽しむために書こうというのは、途中で何度か思った気がするのですが、もう何を書いたら楽しいのかもよくわからなくて、「こういうものを書いたら面白いかな」などとぼんやり思っても、出力しようとするとすぐにわからなくなって霧散することが続いていました。

 いまはとにかく「ねばならない」をいったん全部保留にして、書き上がるかどうかもわからない、ただぽろりと自分の中から出てきた話を、毎日少しずつ出力することだけ、とにかく続けています。
 なので、いま書いているものが最終的に小説として自分が納得して外に出せる体裁になるかどうか、自分でちっともわかっていないのですが、あえてつきつめて考えないようにしています。

 恥ずかしながらいまだにそんな段階ですので、何もご報告することがなくてブログを放置していたのですが、今日「かれの声」に拍手コメントをいただいたのが嬉しくなって、筆を取りました。

 拍手そのものはこの数か月も、複数の過去作にぽつぽついただいていました。何分にもこんな調子だったので、お礼もTwitterで書いたり書かなかったりしていましたが……。
 自分が小説を書く人間だったこと自体が、なんだかもう信じられないような気がする日もあったので、拍手が来るとはっとします。自分が書いたものを読んで、誰かが喜んでくれるかもしれないということを思い出して、戻ってきたいというモチベーションになっています。ありがとうございます。

 拍手コメントをきっかけに「かれの声」を、久しぶりに自分で読み返して、佐波はいい子だなあとしみじみしました。
 この話を書いた最初のきっかけは、ものすごく印象に残っています。車通勤をしていた8年前、どこのコンビニの前の交差点で信号停止しているときに思いついたということまではっきり覚えています。耳の奥で「おれはおれが気持ち悪い」って呟く、甘くて掠れた男の子の声が響きました。
 断っておかないと誤解されそうな言い回しですが、幻聴じゃないです。ちょうどいまとは真逆で、三語とか長編とか色々意欲的に挑戦していた時期で、空想脳がしっかり仕事をしていたんだと思います。この声の持ち主はどんな子なんだろう、なんでそんなふうに言うんだろう、っていうところからいっぺんに話が膨らんで、運転している意識の片隅でずっと展開していって、20分後に帰宅したときにはもう骨格があらかた出来ていました。自分が大学進学しなかったので、大学生の生態がよくわかっていないのが気に掛かりながらも、佐波がしゃべりはじめたのをひたすら書き留めていったら書き終わった、くらいの勢いでした。

紫鱗に透ける」もそうでしたが、わたしにとっては、なんというか、さずかりもののような話です。それが8年ごしにこうやって自分を励ましてくれるのが不思議な気がします。

 そういえば、TCと個人サイトにしか置いていない話でもあります。「かれの声」に限らず、たまにサイトの隅っこにそっとしまってある旧作に拍手をいただくことがあるのですが、サイトまで足を運んで小説を読んでくださる方がおられることが、有難いなあと思います。
 ……また戻ってくるよ! 時間かかっても!

拍手

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七月の雨」に拍手コメントをいただいていました。ありがとうございます! 末尾に返信がございますので、お心当たりの方はご確認いただけますと幸いです。
 また「いくつもの嘘と、隠しごと」にはあいかわらず不定期に拍手を頂戴しています。このごろちっとも小説を書けていないので、うっかりこのまま書き方を忘れて復活できないんじゃないかという弱気がさす日もあるんですが、こうして拍手をいただくと、また書いたら誰かに喜んでもらえるかもしれないということを思い出してはっとします。なかなかままならない日々ですが、焦らず腐らずまた小説を書く生活に戻ってきたいです。

 つづきは返信です。



拍手

 先日のセクシャリティの話に拍手コメントいただいていました。末尾にお名前伏せて返信させていただいていますので、お心当たりの方は「つづきを読む」からご確認いただけますと幸いです。

 人が自分と違うことを、「理解はできないが、受け容れる」ということ……というのは梨木香歩さんのエッセイから借りてきた言葉なんですが。セクシャリティの問題を扱っているわけではないけれど、梨木さんの小説やエッセイには繰り返しこのテーマが出てきます。価値観の衝突がない世界というのも寂しいし、ときには摩擦が起こるのは当たり前ではあるんですよね。
 でも人間はときに自分に理解できないものを存在しないこととしがちで、その傲慢さを自覚すること、みたいなことをよく思います。
 そういいつつ自分も知らずたくさんの偏見に捕まっていると思うし、まったく偏見を持たないことって、多分人間にはできないんですけど。

 何年も前に、誰にも恋をしたことのない女の小説を書いたことがあったんですが、そのときはまだアセクシュアルという言葉も聞いたことがなく、主人公を恋愛以前のこととして、根本的に他人とのあいだに距離を置いてしまうひととして書いていたんです。そして、他人を情熱的に求めるほかの人たちを、理解できないと言いながら心の中のどこかで羨んでいる人として。

 だけど、そう、その話自体に無意識の偏見がまだ入っているんじゃないかなと、いまごろになって自分でそんな気がしました。そもそも恋愛をしないことに原因らしい原因なんて思い当たらないという人もおられるだろうし、人間のことがけして嫌いなわけではないのにただ恋にはならないという人もおられるだろうなと思います。それが何かしらの内的要因に基づくものなのか、脳機能の問題なのか。同じ「アセクシュアル」というカテゴリで括っても、何か環境などに原因があるのかないのか、あるとしてどういう要因からやってくるのかは、きっとほんとうに千差万別なんだろうなと。
 なんかそういうの、いつかもうちょっとちゃんと書けたらいいなと思います。自分自身の問題にもう少し距離が出来てからのほうが書きやすいのかもしれないですが。


 つづきは返信です。



拍手

 セクシャリティの問題って本当に微妙な話で、昨日読んだ「彼女が好きなものはホモであって僕ではない」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881880612)では、主人公は自分がゲイになったことを父親の不在という環境要因のせいかもしれないと語っていたけれど、そういう性的嗜好がわかりやすいひとつだけの原因から成り立っていて、それが解決したら(解決できることだったとして)魔法のように反転するというものでもない。
 実際、この主人公も自分でさんざん悩んで迷って、はっきりした答えが見つからない。同性しか愛せない。だけど家庭がほしい。子どもがほしい。異性を愛せたらいいのにと思う。「病気だと言ってくれ。原因のある疾患なんだと、治療をすれば治る病なんだと言ってくれ。」そう言って泣く。
"摩擦をゼロにするな。空気抵抗を無視するな。"
 わかりやすいカテゴリに入れてレッテルを貼られることに、主人公は苦しむ。読んでいて本気で感情移入してしまって辛くなる。これこそ小説の力だと思う。自分とは違う誰かの人生を体験させる。自分とは違うのにその苦しみを、頭ではなく心に理解させる(完全にではないかもしれないけれど)。あるいは自分とは違う人のなかに自分と似た経験を見出して引き寄せさせる。他人事を他人事ではなくさせる。

 読んで色々考えたので、小説の感想というのとは少し違う自分の話になるのだけれど、書いておきたくなった。以前からTwitterなりこのブログなりに繰り返し書いてきた話題との重複がけっこうあるので、前からみてくださっていた方には、こいつまた同じ話してるよというところも多いかもしれないんだけど。

 わたしはいわゆるLGBTではないけれど、自分のセクシャリティの問題について悩んだことがまったくないわけではない。あまりに縁遠いので、ずっと孫孫うるさい両親がとうとう心配して「たとえ女の恋人を連れてきても受け止める」と口走ったくらいには恋愛が遠い。
 自分で遠ざけているのかと言われれば、たぶんそうだし、だからといって意固地になって一生誰のことも愛さないと言い張っているのかというと、それもどうだろうなというところ。ただできればひとりでいられたら、そっちのほうがいい。家族がほしいと思えない。ぶっちゃけると親のことさえ本当は捨てたい。
 本気で捨てられるとも思っていないけれど、それは情ではなく倫理観のためで、許されるなら捨てて忘れ去りたい程度には薄情だ。

 このまま一生誰のことも愛せないままだったらどうしよう、と思ったことがあるかというと、実はほとんどない。まったくではないかもしれない。ひとりが寂しかったことはあった。もうだいぶ遠い感情だけど。
 憧れとの境界があいまいな、淡い恋愛感情といっていいかどうか微妙なラインの好意さえ、他者に抱いたのは二十歳そこそこくらいが最後だった。タイミングを逸したといえばそうなんだけど、そのときだって、それこそ既婚者子持ち相手の仕事の出来る男に父性を見出して勝手にあこがれただけで、それから何かがどうにかなるようなものでもなかった。
 それこそ倫理観が邪魔したわけでもなんでもなくて、「好きになったんだからしかたないんです」とか言い張れるほど強く惹かれたわけでもなかったので。

 恋愛をしなくても結婚はできる。そりゃそうだろう。でもできることならこのまま一生ひとりでいたいし、そうできるのならそのほうが楽でいいと思っている。
 もし何かそれこそ運命の落とし穴のようなものがあって、いまさらうっかり人に好意を寄せることがあったなら、そのときは意固地になって頭からブロックするんじゃなくて、もうすこし真面目に悩んでみようかとは思う。思っている。というかここ十年くらい思ってはいたのだけれども、特にそういうことはなかった。出会いを自分で探しに行くわけでもないし。
 その「探しに行くわけでもない」に自分の問題があるのはわかっている。

 性欲がないのかというと、そういうわけでもない。恋っていいな、と思う瞬間がないかというと、これもそうでもない。昼休みに少女漫画の話で後輩と盛り上がっていたら、同性の先輩に「でもそういうの読んでたら現実の男に恋愛できなくならない?」と無邪気に言われて根に持っているくらいには、二次元に片足突っ込んで生きているんだけども……実際のところ少女漫画育ちのせいで男の理想が高いという側面が、一ミリもないとは言い切れないけれども、少女漫画に出てくるようないい男じゃないといやだと思っているわけでは別にない。
 ただまあたしかに、現実の男とかかわるのは面倒くさい。男性恐怖症とか男嫌いとか言い切ってしまうほど徹底的に嫌いかというと、そうでもない気はしてるんだけど。尊敬する男性の先輩はいっぱいいるし、可愛いなと思う後輩もいる。ただ、セクシャリティというなら、いきなり手を握られてもいやではない男性が、いまひとりでも思いつくかというと、正直にいうといない。
 同性ならちっとも嫌じゃないけど、生身の女性とスキンシップをとっていて性的興奮を覚えたことも(いまのところは)ないので、同性なら愛せるかもしれないという話でもないんだろうなと思う。

 男性にかぎらず、現実の人間がたぶんわたしには面倒くさい(少なくともオフラインでは)。面倒くさいの割合が正直八割くらい。これが十割になったら現実世界で生きていけなくなるので、むしろ二割の関心が自分に残っていることに感謝したい。
 でもそれは二次元のせいで恋愛ができなくなっているのかっていうと、そうじゃないと思う。二次元を与えられずに育っていたらいまわたしは生きていない。逃げ場があってよかったんだと思う。少なくとも大人になっても生きている。

 ものすごくシンプルに要約すると、面倒くさい。ひとりが気楽でいい。でもその要約だけを口にすると、たいていの「人生の先輩」は言う。ひとりは寂しい。いまはいいけど年を取ってからが。結婚してみれば考え方も変わるよ。もったいない。どんな出会いがあるかわからない。あなたに合ういい人がいるよ。
 いたらいいですね、と笑ってお茶を濁す。○○さんなんかどう、と職場でおなじくあぶれている独身男性を話のネタにされる。ネタだとわかっているから真に受けもしないで、相手にだって選ぶ権利はありますからね? と笑い飛ばす。あるいは善意でほんとうに紹介してくれようとする人もいる。善意だとわかっているから対処に困る。
 合う人、ね。探しにいけば、もしかしたらいるのかもしれない。たしかに贅沢を言わなければというか、贅沢を言えるようなご身分ではない。そりゃ譲れないところと譲れるところがあるけれど、譲ってもいいと思う相手を必死こいて探せば見つかるのかもしれない。
 問題はそれこそ、相手にも選ぶ権利があるということと、そこまでして探したいと一ミリも思っていない自分にある。どっかにいたとしても、できることなら出会わずに過ごしたい。

 何がそんなに面倒くさいのか、の内訳を職場や親類の人間関係のなかでいちいち説明する気になかなかならないだけで、羅列しようと思ったら実はできる。
 その1、父親が酒乱で、最近はすっかりなくなったけれど、一時期は酒瓶を振り上げたりものを壊したり母にぶつけて縫うような怪我をさせたりしていた。実家にかぎらず、家の内情まで知っているような親しい家庭は、びっくりするくらいどこも旦那が嫁か子を殴る。日常的にではないかもしれないが、それこそ一度や二度のことではなく。
 一度だけ職場で、同僚ふたりに結婚願望についてしつこく追及されて面倒になってその話をしたら、驚かれた。思わず本音が出て「殴らない男って本当に現実にいるんですかね?」と言ったら「いるよ。普通にいるよ……」と言われた。そうかいるのか、と思ったんだけど信じていいのかその話、みたいにまだ気持ちのどっかで思ってる。いやいるんだろう。だいじょうぶ頭ではわかってる人間不信になってるだけだということは。女を殴ったことなんか一度もない、そんなのと一緒にするなという男子諸兄にはたいへん申し訳ないことです。
 ともあれ一番ひどかった時期にはわたしは父親を刺し殺すことも考えたし、酔っているところを階段から突き落とすことも考えてた。いまは離れたので仲も改善したけれど。成人直後は自分も同じ酒乱の血を持っていたらと怖くて飲み過ぎることができなかった(杞憂とわかっていまはもうちょいセーブしろよと思うくらいには飲み過ぎる)。

 まだわたしもその気になれば妊娠可能な年齢ではあるわけだけど、うっかり子どもを作って遺伝していたら耐えられる気がしない、というのが理由のその2だろうか。家族だからこそ憎い、がわたしには理解できる。自分が殺したいほど自分の家族を憎まない自信はまったくない。憎まれない自信もない。
 子どもが出来て、その子が父に似ていたらつらいし、母に似ていてもつらい。自分に似ていても、それはそれで同族嫌悪で愛せない気がする。自分で自分のことが好きじゃないなんていうと、本当にいかにも子どものまま成長が止まっているなという感じがして、自分でもつい笑ってしまうけれども。
 わたしの父は母がわたしを妊娠したことがわかったときに堕ろせと言った。それは経済的に子どもを育てる余裕がないからだっただろうし、たしかめたことはないけど、たぶん父も自分の遺伝子を残すことにそのころは抵抗があったはずだ。わたしは父ととても性格が似ている。
 それでもいざ生まれてみたら可愛かった、らしい。わたしは自分が父に愛されなかったとも愛されていないとも、実は思っていない。でも子どものころにキレた父から蹴り飛ばされたことは忘れてない(勢いよく体が飛んで壁にぶつかった)。酔っ払って酒瓶を振り上げられたことも忘れていない。
 ちびのころ、高いところに登って降りられなくなって泣いていたら迎えにきて受け止めてくれたり、海で背中に乗せて泳いでくれたり、頭が痛くて伏せっていたら優しく髪を撫でてくれたり、そういう愛情の記憶もじつはしっかりある。あるからこそ単純に憎めないし、人が愛することとその相手に対する暴力の衝動をおさえられなくなることが、ひとりの人間のなかでけして矛盾していないことも知っている。
 まだ憎い憎い、死んでくれたらいいのにと思っていた時期の、ある朝唐突に夢を見た。夢のなかで父が急に倒れてそのまま死に、わたしは父の身体に縋り付いて号泣した。本当に胸が張り裂けるほど悲しくて、悲しくて、自分の嗚咽で目が覚めた。数秒が経って我に返り、夢だったと理解したとき呆然とした。わたしは父が死んだら悲しいんだろうか? それがわたしの本音なんだろうか? まさか?

 両親はいまもわりと始終ぎすぎすしていて、もういっそ別れたらいいのにとは思う。まあそんな気はないというか、それこそここまできたらそれも面倒なんだろう。
 母は専業主婦をやってみたかったといって、わたしの就職後は家に籠もって稼ぎの少ない父の給料をぜんぶ使い込んでいる。無駄使いをして怒られるたびにストレスを溜めているようだが、パートにでも出たらいいのにと思う(どう言い方を変えて言っても聞く耳を持たないのでもう面倒になって放置している。父のほうが先に死んだときのために貯金と心の準備だけはしておこうと思う)。
 しかし親の介護問題を、結婚してその相手まで巻き込む気もしない。母の普段の行動原理を見ていれば、先々痴呆が入るのは確実そうだし、入ったらたちが悪そうな気がしてる。さらに相手の親の介護まで背負い込まされるようだったらそれこそやっていける気もしない。そこで腰がひけているところもある。それが理由の3つめかな。

 独り身のままだと年を取ってから寂しいよ、と言われるたびに、結婚してたって寂しいものは寂しいよ、と心の中だけでそっと呟く。
 いちばん近いところにある例がうまくいっていないからって、自分がうまくやれないかどうかはわからないんだけど。結婚してその相手と連れ添って、幸せな老後にたどりつくというのが、とても難しくて大変なことだという思いがあって、それはもしかしたら、自分が自然体で愛されるような性根の持ち合わせがあれば少しは簡単になるのかもしれないけれど、わたしは素のままだと面倒くさくていやなやつで、自分でも自分がいやになる。これがその4。
 努力せずに素のままの自分でも愛してくれる人。想像しようとして、鼻で笑ってしまう。家のなかでまでめちゃくちゃ自分を作るのはすごくしんどい。どうせ努力するなら、愛されるための努力より愛する努力をしたほうがいいとは思う。そこまでして愛したいと思える人に会えたならの話だけど。
 少しの愛もない家庭であっても、家庭がないよりはあったほうがいいのか? わたしはそれくらいならひとりのほうがいい。劇的な恋愛も、静かで深い愛も、そんなに理想的なものまでは求めていないけど、さして好きでもないたいして愛してもない相手と家庭を作って、そのストレスに自分が耐えられる気はしない。だからといって結婚してから愛する努力をするとか、考えただけでも気が遠くなる。

 その5。両親がもうずっと前から宗教にハマっている。いや少し違う。新興宗教に入信してお金を貢いでいるわけではない。教祖様になってお布施を集めているわけでもない。せめてもの幸いだ。が見よう見まねで勤行みたいなことをしていて、身内にはえらいこと電波な話をする。
 自分たちの先祖や親類の生き霊がどうの因縁がどうの業がどうの呪いがどうの。ぜんぶがぜんぶ電波な話ばかりかというと、ちょいちょいごく普通の仏教的道徳観念の話も混じってくるので、頭ごなしに全否定はしたくないが九割五分くらいはついていけない。やめてほしいと言っても聞かないし、もう長年の生きがいみたいなものになってるっぽいので、諦めきって放置しているけれど(諦めるまでには紆余曲折があったのだけれど、ちびのころ病弱だったわたしが健康体になったのは自分たちの行のおかげだと思い込んでいるので、その成功体験が説得の邪魔をする)、もしうっかりわたしが誰かと結婚したら間違いなく隠せない。同じ道に引きずりこむまではしないかもしれないが(親類に引きずりこんだり引きずりこもうとした相手が若干名いる)、少なくとも絶対にいらん話をする。
 それを隠して誰かと結婚できる気もしないし、わたしは本当にうっかり結婚を考える相手が出来た日には、真剣に親との絶縁を考えないといけない気がしてる。
 でも本当に絶縁できるかっていうと、一人っ子で親に貯金がなくて母の浪費癖は直らない。まず被さってくるだろうなと思っているし、本当の意味で完全に見捨てて関わらないことが自分にできるともあまり思ってない。ちなみにわたしが結婚しないのを因縁のせいにして修行でどうにかしたがってるようすもある。もう気の済むまでやって……

 その6。子どもの頃、親は共働きのあげく、夕方から深夜まではその行めいたことをしていたので、鍵っ子一人っ子のわたしはかなりのあいだ家にひとりで放置されていた。
 学童にも塾にも行っていなかった(週2でそろばん塾に行っていた期間をのぞけば)。小学校に上がったくらいから、中断期間もあったけれど高校まで。学校が終わってから夜寝るまでひとりで留守番。夕飯は母が作って置いていくか出前かだった。
 従兄が来てくれるときもあったし、友達の家に遅くまでお邪魔しているときもあって(その節はご迷惑をおかけしました)、毎日ずっと寂しいばかりではなかったけれど、しかしとてもフリーダムだった。孤独に食い殺されそうな気持ちになる日もあったけれど、いつの間にか適応した。留守番の友達はおさがりのゲームと漫画と小説とラジオから録音した音楽。小学校高学年までずっと空想のお友達と遊んでいたのも、小説や絵を書いて架空の世界に飛び込むようになったのも、あとで振り返れば必然だったと思う。
 適応しすぎていまやひとりの時間がないと気が狂いそうになる。自分ひとりのときはものすごく気楽にくつろげるけれど、たとえば気心の知れた友達と一緒に居るとき、それがどんなに楽しくても連続数日が限界だなと思う。それ以上誰かと同じ空間で生活したらストレスで死んでしまう気がする。
 こないだまで何年か実家に戻ってたけど、大部分を自室に引きこもっていても、何か月かしたらもう息苦しかった。なぜならいまは母が仕事をやめて家にいるから……生活に干渉されるのがすごくストレスになる。もうさっさと寝なさい。早く食べちゃって。風呂もう入ってしまって。それだけでとてもストレス。子どもの頃は自分で風呂用意して自分で勝手に入りたいタイミングで入って眠くなったら好きに寝ていたのに。食事だって、用意してもらっていたのを(それだけでもありがたいと思わないわけじゃないが)、勝手に食べたいときに漫画読みながら食べてた。そのタイミングを自分で選べないだけで、もうめちゃくちゃ苛々する。ごはんは誰かと食べたほうが美味しいとも、実はあまり思っていない。人と食事をすること自体がいやなわけではないし、ときどきなら楽しいんだけど、それが毎食になると気詰まりになる。
 ひとり暮らしのほうが気楽になったのも、ずっとひとりでいいと思えてしまうのも、そういう育ち方をしているのだから当たり前と言えば当たり前で、だからわたしが結婚したいと思わない原因の半分は親にあると思う……孫の顔を見られなくて嘆いているのは自業自得と思ってあきらめてもらいたい。向こうからしたらお前が病気ばかりして死にそうだったから、自分たちの仕事もしんどかったのにつらい思いをしてまで必死に行をしたんじゃないかと言いたいだろう。うちの親はわたしのために自分たちの人生を犠牲にしたと思ってる。それがますます息苦しい。

 その7。わたしは母のようになりたくない。自分ひとりが食べていける分をどうにか自分で稼ぎたい。というかいまの仕事をやめたくない。労働意欲がとかぼやいているけれどこれでけっこういまの仕事好きなんだ。嫌いになる日もあるけど。
 だけど転勤族なので、それでも家庭を維持している先輩はたくさんいるけれど、そのための努力は、そうでない場合よりも大きくはある。これも面倒くさい。単身赴任に遠距離通勤。残業がひどい時期もある。覚悟があるかといわれたら正直ない。それでもがんばるか、あるいはやめるか、覚悟を決めていいような相手が、もしうっかりどこかにいたらそのとき考えたい。いたら……。

 その8。幼児期の性に関する嫌な思い出。そんなもん聞かされる方は気まずいばっかりで困るだろうと思うので、誰にも話したことはなかったし、詳細に語られたところで不愉快だろうからここにも細かくは書かないけれど、未就学期の性被害の経験がわたしには二度ばかりある。赤の他人が相手で、親や身内からとかではないのはとても幸いなことだし、暴力を伴わなかったのもまあ幸いといえば幸いで、実はそれほど怖い思いをしたわけではない(愉快ではなかったが)。なのでそういう経験をしたわりには、心の傷だトラウマだと力いっぱいいうほどの傷になってはいない。でも生身の自分の性欲に対する嫌悪感は長いことあった。現実の他人との性的接触にあまり積極的になれなかったのには、そのことが関係しているように思う。

 この話、一生誰にも言えないだろうと実はずっと思っていた。べつに#MeTooの話が盛り上がったからというわけでもないけど、いまこうして書いてもいいかという気になったのは、実は「いくつもの嘘と、隠しごと」を書いたからだ。形を変えて小説にしたら、少しだけ自分から遠くなった。わたしはどうもそういうふうに、小説を書くことで自分のセラピーを兼ねているようなところがあって、そんなもんに付き合わされる読み手の方にはたまったもんじゃないんじゃないかと思う瞬間がわりとよくある……(すみません)
 あれを書くときに何にいちばん躊躇ったかって、性被害による心の傷はほんとうにひとそれぞれで、男性ならきっとなおのこと他人に言えなくて、それを安易に書いていいのかどうかということ。わたしの体験は押川のそれとはもちろん違う。自分の体験段をそのままリアルに書けるほどにはハートが強くなかったし、そもそも主人公と自分を重ねるタイプの書き手でもないし、ストーリー上での都合もある。だけどそれでも、ぼかしたところでこれを読んで不愉快になる人は、どこかにきっといるだろうと思った(というか女がBLを書く時点でそういう人はいるはずなんだけど)。
 だからもし、読んでくれた人の中に、自分の身に起こったいやなことを思い出して辛かったという人や、実際に性被害にあっていたら心の傷はこんなもんじゃないみたいに感じて腹が立った人がいたのなら、謝りたいといまでも思っている。そういう人はきっと名乗り出はしづらいだろうし、いまさらここに書いても見られないんだろうけど。もし見ておられたら、ほんとうに申し訳なかったです。

 脱線しましたが。
 現実の恋愛や結婚に対して腰がひけている理由、ぱっと思いつくのはこれくらい。どれも言い訳でしょ? 真剣にその気になってどうにかすればやりようはあるでしょ? もうこの年になって自分の不自由さを親や過去の体験のせいにしてばかりいてもしかたないでしょ?
 そうですね。そうなんですよ。ぜんぶそのとおり。だから、本気で自分が家族を持ちたかったら、いいかげん自力で努力する時期は来ているどころか、とっくに過ぎている。わかってる。よくわかってる。克服できない呪縛では多分どれもない。その気になれば。
 その気にならないんだよ……本気で家庭を持ちたいと思えないんです。面倒くさすぎて。だってこの問題ぜんぶ解決するの? いや、解決しないままでも勢いでどうにでもできることも、もちろんある。勢いが足りないだけで。

 面倒くさい、一人が気楽。要約すればたったそれだけ。でもその「それだけのこと」の内訳が、自分で把握しているだけでもこれだけある。自分でまだ気づいてない問題、目を逸らしている問題もまだあるかもしれない。

 わたしはそういう自分の心の内訳を、誰にも知られたくないとまでは言わないけれど(こうして書いてるくらいだし)、職場でこれからまだつきあいの続く相手に、いちいちぜんぶつまびらかに語るつもりはない。話して解決することでもない。聞いてもらって楽になりそうなら話してもいいし、そういう効用を否定するつもりもない。
 でも職場でそういう話を聞いてもらいたいとまで思うような人間関係を作ってはいないし、魔法使いとカボチャの馬車がどっかから現れて自分の問題を解決してくれたらいいとも思っていない。
 簡単には解決できないことも世の中にはある。そのまま放っておいても死にはしないし、時間が解決してくれるときもある。出産を望むならタイムリミットがあるし、すごく頑張って解決しようとしてみてもいいんだろうけど、子どもがほしいと思ったことがない。生んでみたら変わるよとみんないうし、きっとそれもそうなんだろうけど。自分がぜひそうしたいと思ってもいないのに、そうすべきだと言われても心が沿わない。

 だから善意でもできたらわたしに結婚や交際を勧めないでほしい。勧められれば笑って誤魔化すか嘘をつくか波風立てるかしなくてはいけなくなるし、どれを選んでもいちいち心が磨り減る。もうわたしにはその話をしないでほしいと伝えるために、こういう面倒くさい話の内訳をいちいち伝えたくもない。
 すればいいのかもしれないけど、そこで気まずく沈黙されても困る。慰められても困るし、解決しようと奮起されてももっと困る。お他人様からアドバイスされても、たぶん腹が立つと思う。そこらへんお子様なので(自覚はある)。身内からアドバイスをされたらもっとキレたくなる。

 だから恋愛だの結婚だの出産だのに対して、求めていない人に気軽にアドバイスをするというのが、セクシャルマイノリティの問題でなくても、そもそも微妙な問題だと思っている。結婚したくて努力している人、子どもがほしいのに出来ないでいる人だともっと微妙だろう。
 相談されたら聞いてあげたらいい。聞かれたら自分の経験を教えてあげたらいい。だけど自ら聞かれなければそっとしておいてほしい。でも自分もほかのジャンルの話題(仕事とか趣味とか)で逆のお節介をしていない自信はないし、そこはある程度、お互い様だと思うしかない。
 人は自分の体験に人の人生を重ねたがるし、自分がこうしてよかったということは、人にも勧めたくなる。それはそういう人間の性質で、いい働きをすることも多いし、むしろどちらかといえば善良だからこその発想だとも思う。感謝を強要されてもちょっと困るけど、まあ感謝してもいいくらいの話ではある。ありがた迷惑って悪い意味で使うけど、迷惑なんだけどしかし気持ちは有難いのはほんとうで、だからこそ対処に困るっていう話なんですよね。

「自分も結婚なんて考えてなかったのに三十代も半ばをすぎてから思いがけずいまの旦那とぱったり出会った、結婚してみてよかったと思ってる」それだけの話だったら、おめでとうございますと言いたい。人の幸せを強く妬む心は、わたしにはじつはそれほどない(ゼロかどうかの確信は持てないけれど)。
 なぜならひとりでそこそこ幸せにやっているから。でもそこに欠けているものがあるでしょうと言われれば、そりゃないわけがない。でも無理に結婚しなくても、多少欠けたものがあっても、とりあえず生きていける時代に生まれてよかったと思っている。
 いまの自分の人生に不満がないとはいわないけれど、ともかく食い詰めずに済んでいるし、あとはそれなりに本や漫画が読めれば、もうそれでわたしはとりあえずそこそこ幸せに生きていける。ぜいたくを言えば、転勤族じゃなくて猫と暮らせたらもっと幸せだった。もう少し残業が少ないとなおいい……いいなほんとに。もっと際限なくぜいたくを言えば、働かずして不労所得でのんべんだらりと暮らしたい。無理か。
 あなたが家庭を持ったことでいまを幸せだと思うなら、それは素敵なことだと思う。だけどそれをわたしの人生に持ち込まれても困る。自分にあてはまったことが相手にもあてはまるとはかぎらないのだから、押しつけがましくならないようにしたいですねという、たったそれだけのことなんだけど。

 まあだんだん放っておいても世話を焼きづらい年になってきたので、前より世話を焼かれそうになる機会も減っている。もう五年か十年したら誰も突っつけなくなっているだろうと思う。または、つつかれたとしても自分が気楽に笑い飛ばせるようになっているだろう。仕事の責任とか介護問題とか増えたりはするので、将来のほうがいまより気楽とは言いがたいけど、それでも時間が解決することはある。

 昨日今日はじめて考えたようなことではないんですけど、ともかく、昨日「彼女が好きなものはホモであって僕ではない」を読んで、こういうことについてあらためてとても考えたので、人にものを考えさせたくなる小説というのはいい小説だなと思った次第でした(理屈っぽいとか小難しいっていう意味じゃないよ!)。
 この垂れ流し長文を最後まで読んでくださった方がおられるかわからないんですが、最後にもう一度おすすめしておきます。

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 とこしえの黄昏の国シリーズの短編「さいはての地」を掲載しました。長さが微妙だったので前後編にわけはしたものの、連載ではなくいっぺんに載せてしまっています。

 さいはての町(異世界ファンタジー/少年/旅)
 http://dabunnsouko.web.fc2.com/novels/vesper_09_01.html

 この町が人の生きる世界の終端、あの荒野の先は《死者の国》で、その先には何もないと、大人たちは口を揃える。だがノイはその言葉を信じなかった。世界の果ての、その先を求めて、少年はひとり夜の荒野を歩く。

 なろう版はこちら
 カクヨム版はこちら


 なろうもカクヨムも中身はもちろん一緒ですが、昨日の深夜にごそごそ手作業でルビを振っていたら、なろうとカクヨムで微妙にルビを振ったり振らなかったりする箇所がばらばらです。何やってんだ。ちゃんと冷静に作業できるときに掲載しなよ……(面倒くさいのでもう修正しません)サイト版にいたってはルビ振ってもいない……ルビタグと対応ブラウザっていまどうなってんの……?(調べる気なし)

 WEBでは初公開ですが、実は新作ではなく、過去に片桐さまのお誕生日祝いで送った短編を、数年ごしに改稿したものになります。今年はBL2本書いてムーンライトで連載したきり、自分のところの全年齢サイトに載せるものが何もなかったので、生存報告のかわりではないけれど、かけこみ掲載しました。
 2018年こそは……ファンタジー新作を書く……!
 ということで年末年始、お時間ございましたらのぞいてみてやってください。

 今年の更新はこれで最後です。みなさまよいお年をお過ごしください。
 来年もよろしくお願いいたします!

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プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
拍手コメントをいただいた場合は、お名前をださずにブログ記事内で返信させていただいております。もしも返信がご迷惑になる場合は、お手数ですがコメント中に一言書き添えていただければ幸いです。
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