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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 即興三語小説。

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 休み時間をフル活用してのリサーチの結果、今夜は浴衣にするという同級生の方が多かったが、木綿子は悩んだ末に、普段着で出かけることにした。両親が海外赴任している間、木綿子を引き取って家に置いてくれている叔父には、生活に困っているそぶりなどなかったが、めったに着もしない浴衣をねだるのは、やはり少し気が引けた。それに、どうせ和服の着方なんてよくわかんないんだし。
 履き古した靴につま先を突っ込み、つぶれた踵に指を突っ込んで整えると、木綿子は勢いよく立ち上がった。背中のリュックを揺すると、ちりんと鈴が鳴る。中学生が背負うにしては少し幼いデザインだが、まあいいか。背伸びして大人っぽい格好をしても、どうせこの童顔に似合わない。
 今日は年に一度の祭りなのだという。
 ご近所の菅野神社の境内に、屋台が立ち並んで準備を始めているのが、帰宅途中に垣間見えた。どうやらお神輿まで出るらしい。
 木綿子が前に住んでいた家は新興住宅地にあって、地域のお祭りはいちおうあったが、地元の自治体が主催しているという、なんだか無難で子どもだましの代物だったので、本物のお祭りというのは、これがはじめての経験になる。張り切らざるを得なかった。
 これだけはおねだりして買ってもらった携帯電話を、リュックのポケットから出して、待ち受け画面を覗く。着信はない。
 木綿子はただでさえ丸い頬をぷっとふくらませて、そこだけは今どきの女子中学生らしい猛烈な指の動きで、メールを作り始めた。送信先は、竜。同じ家に住んでいるのに、黙って先に出てしまった薄情者の従兄だ。
 光の速度でメールを作り上げる。送信。
 手紙のアイコンが紙飛行機に化けて飛んでいくのを見守ると、木綿子はひとつ満足げに頷いて、叔母がテレビを見ているだろう居間に向かって叫んだ。
「じゃ、いってきまーす!」


 竜はふてくされた表情で、神輿を担いでいた。とても中学生には見えないがっしりした体格に、紺絣の法被が妙に似合っている。竜自身にもその自覚があって、それがまた面白くないのだった。
「せっかくの晴れの日なんだから、その仏頂面はどうにかしろよ」
 小突かれた竜が顔を上げると、同じ祭り法被に身を包んだ青年団長が、面白がるような表情で覗き込んできた。
「なんで俺だけ、毎年強制参加なんだよ。中学生なんて、俺ひとりじゃんか。神輿なんて、やりたいやつに担がせとけよ」
 顔なじみばかりの町内で、神輿なんて担いで歩いていれば、近所の連中には声をかけられまくり、同級生には冷やかされ、うっとうしくてかなわない。竜が顔をしかめてそう抗議すると、青年団長は額の汗をぬぐいながら、朗らかな笑い声を上げた。
「バカ、爺さん方が張り切って、ぎっくり腰で続々と担ぎ込まれたらどうすんだ。恨むなら、自分の恵まれた体格を恨むんだな」
「好きでデカくなったんじゃねえし」
「はは。あとちょっとじゃないか。がんばれよ」
 軽く流して去っていく団長の背中に悪態をつくと、竜は周囲の掛け声にあわせて、しぶしぶ神輿を高く持ち上げた。まあ、たしかにあともう少しだ。目の前の石段を上がって、その奥の本殿に神輿を奉納すれば、役目は終わり。もっとも、その石段がくせ者なのだが。
 提灯に彩られた長い石段を、神輿の担ぎ棒ごしに見上げて、竜は目を瞬いた。どういうわけか本殿の屋根の上に、赤い着物が見える。
 遠目には、おかっぱ頭の小さな女の子に見えた。下駄を履いた細い足を、宙に垂らしてぶらぶらさせている。危ないんじゃないかと、竜は眉をひそめた。
「おっちゃん」
 同じ神輿を担いでいる豆腐屋の親父に声をかけると、豆腐屋はしわの目立つ額に汗を垂らしながら、ちらりと降り返った。
「ん? どうした坊主」
「あれ、屋根の上」
 指差しながらあらためて本殿を振り仰いだ竜は、そこに誰もいないことに気づいて、首を傾げた。
「あれ?」
「なんだ、どうかしたか」
「いや……」
 まさか一瞬の間に屋根から転がり落ちたのかと、不安に思ったけれど、境内では特に騒ぎも起きていないようだった。見間違いだっただろうかと、竜は首を傾げながら、担ぎ棒を揺すった。


 メールの返事がこない。
 日が落ちかけてもまだむせ返るような暑さの中、木綿子は神社までの道を歩きながら、終始不機嫌だった。せっかくのお祭りなのに。竜と一緒に歩こうと思ったのに、薄情な従兄は、同じ家に住んでいるにもかかわらず、一言も声をかけずにさっさと出て行ってしまった。
 木綿子だって、本当だったらクラスの友達と待ち合わせして行こうかと思ったのだ。けれどそうなると、竜はぜったいに一緒に出かけてはくれないだろう。
 転校生だからといって、べつに木綿子は苛められたりはしていないが、半年近くたってもまだ少し、クラスの中で浮いている。普段はなんとか少しでも早く溶け込もうと思って、いろいろと気を遣っているのだけれど、そこをおしてでも、今日は竜と一緒に出かけたかった。だから、わざわざ声をかけてくれた子たちに謝って、家族と行くことになりそうだからと断ったのだ。
 それなのに、竜に置いていかれた。
 しかも、メールの返事が返ってこない。
 木綿子はつぶれたスニーカーで、ずんずんとアスファルトを踏みしめていく。道を行く近所の面々が、何事かと目を丸くしてふりかえるような形相だ。神社までは、家から普通に歩いて五分くらいのものだが、このペースなら、三分でついてしまうかもしれない。
 竜はこのごろ冷たくなった。木綿子の両親がまだ日本にいて、たまにお互いの家を行き来していたころは、竜は今とはぜんぜん違って、優しかった。木綿子が転んで泣いては、どんなに長い道のりでも負ぶって家まで連れて帰ってくれたし、なけなしの小遣いで買ったアイスやお菓子も、必ず半分は分けてくれた。多少のわがままはきいてくれたし、どこに行くにもついていきたがる木綿子に、困ったような顔をすることはあっても、邪険に追い返したりはしなかった。
 それなのに。
 一緒に暮らすようになってから、竜は急によそよそしくなった。一緒に登校しようと言っても嫌がるし、それはまあ、学校の友達にからかわれるのがイヤなんだろうけど、でも、家の中でさえあんまり口を利いてくれない。
 両親とは遠く離れて暮らし、友達と離れて転校することにもなって、新しい環境の何もかもが心細かった木綿子にとって、同じ家に竜がいて、同じ学校に通えるということだけが、安心できる材料だった。
 それなのに、このごろ竜は冷たい。
 木綿子は頬を膨らませて、ずんずんと石段を登っていった。幸い、叔父さんたちはよくしてくれているし、新しい学校でも何とかなじんでいけそうだ。両親の顔を見ない寂しさにもようやく慣れて、竜がいないと心細いということは、もうない。それでもやっぱり、面白くない。
 石段を登りきると、屋台の明かりと人いきれが、わっと木綿子を包んだ。かなりの人ごみだ。祭囃子が近い。その活気に、少し気分が晴れる。
 小遣いはちゃんと両替して、小銭を財布に詰め込んできている。いつか、竜からもらったがま口だ。もういかにも子どもっぽいから、普段は大事にしまってあるけれど、今日は特別だ。だって、お祭りだから。
 境内を見渡すが、このあたりにこれだけの数の人々が住んでいたのかと驚くほど、人があふれかえっている。この人ごみでは、竜を探すのは難しそうだ。もう一度携帯を開く。指がすばやく動いて二通目のメールを打つ。
 送信ボタンを押して顔を上げたところで、木綿子は鼻をくすぐる甘い匂いに気づいた。りんご飴だ。とっさにお腹がなるのを、服の上から手のひらで押さえる。
 予算は限られている。食べたいものはいくらでもあるが、慎重に吟味しなくてはならない。
 木綿子は携帯をリュックのポケットにねじこんで、がま口を開けた。人波に逆らわずに歩きながら、百円玉の数を目で数えて、必死で屋台の値札と見比べる。食べ物もいいけれど、射的や投げ輪なんかも、少しくらいはやりたい。でもそれは、竜と合流できたらだ。一人でやったって、何にも面白くない。金魚すくいは、叔父さんたちの迷惑になったらいけないから……
 必死に頭を働かせる木綿子は、人波にもまれた拍子にリュックから携帯が落ちたことに気づかなかった。


 竜は、社務所の前に座り込んでいた。法被を脱いで、汗をぬぐいぬぐい、褒美にともらったけちくさい缶ジュースをあおる。そこで携帯をチェックして、ようやくメールが二通、入っていることに気が付いた。
 木綿子からだった。顔をしかめて、竜はメールを読んだものか、気づかなかったことにしたものか、三秒考えて、結局は開いた。
 一通目。『だまって置いてくなんてひどい! 今どこ?』
 舌打ちする。連れ立って歩いているところを同級生に冷やかされて以来、木綿子は鬼門だ。家で顔を合わせても、なんとなく気まずい。まして、神輿を担ぐなんて知られたら、木綿子の性格からいって絶対に見物すると言い張るに違いなかったし、そんな様子をクラスの連中にでも見られたら、ますますあらぬ噂が広がってしまう。それで木綿子には何も言わないよう、両親にも口止めしてこっそり出てきたのだ。まあ、神輿のほうは、自分の出番は済んだから、もういいのだが。
 二通目を開く。『ねー、今どこ? 無視するんなら、こっちにだって考えがあるんだから。子どもの頃の恥ずかしいエピソードを暴露されたくなかったら、返事くらいしてよ』
 脅迫文付きかよ。竜はがっくりと頭を垂れた。なんだよ恥ずかしいエピソードって。どのときのことだよ。
 仕方なく返信を打つ。『いま、社務所の前』
 夏の盛りで、むせ返るような暑さだ。ぎゅうぎゅうに混雑した境内を、人波をかきわけてまで屋台をめぐる気にもなれなかった。人出が引くのを待って、さっさと帰るつもりだったが、木綿子がいればそうもいかないだろう。
 ため息を漏らして、竜はジュースを飲み干した。


 幼い着物姿の女の子が、ピンクの携帯電話を握り締めて、首を傾げている。
 連れはいない。一人で石畳の上に佇んで、きょとんとした表情で、手の中の携帯電話をもてあましている。その少女の周りを、人々は、なんとなく避けて歩いているようだった。迷子かと世話を焼くものもいなければ、少女に目を留めて迷惑そうに顔をしかめるものも、親はどうしているのだろうと心配げに見下ろすものもいない。
 少女が着ている物は、デパートあたりで売っているような、幼児用のポリエステル製の浴衣ではなく、きちんと仕立てられた紗の紬で、裾には桜の模様があしらわれているのが、やや季節はずれのようすだった。唇にはかわいらしく紅など引いている。
 黒目がちの大きな目をぱちぱちとさせながら、少女は不思議そうに手の中の機械を眺めていた。持ち上げて月明かりに透かしてみたり、おっかなびっくりボタンを撫でてみたり。手のひらに少し余るほどの機械を、まるで初めて見るもののように、不思議そうに撫で回している。
 少女は首を捻り捻りしながら、長いこと道で拾った携帯電話を触っていたが、やがて飽きたように顔を上げると、軽やかに下駄で石畳を蹴った。携帯は手に持ったままだ。ふわりとその体が宙に浮き上がり、赤い着物の裾が翻る。誰も、ふりかえって少女を見たりはしない。
 少女は空中でふいに足を止めて、眼下を見下ろした。
 祭囃子と提灯が賑やかに夜の神社を飾り立て、神輿もすべて段取りどおりに奉納されて、生真面目に参拝する年寄りも、屋台目当ての子どもたちも、この晴れの日を楽しんでいるようだった。
 それを確かめて満足げに頷くと、少女はふわりと宙をすべり、本殿の屋根の上に着地した。


 返事を催促しておきながら、木綿子からの返信は、いつまでもやってこなかった。そのまま社務所の前でしばらく待っても、一向に姿を見せる気配がない。竜はだんだん不安になって、立ち上がった。尻についた土を払う。
 木綿子が我が家に来てから、もう半年にもなる。中学生にもなって、まさかこんな家の近所で道に迷ってはいるまいと思うが、だんだん、木綿子のことだから分からないという気になってくる。はぐれた木綿子を探して何度も走り回った、子どもの頃の記憶に急き立てられるようにして、竜は歩き出した。
 社務所に詰めている青年団長に言えば、放送くらいは入れてくれるかもしれない。祭りの間、ところどころの電灯や灯篭に、臨時でスピーカーが括りつけられていて、先ほども迷子の呼び出しがかかっていた。
 だが、できればその方法は使いたくなかった。祭りには、学校の連中もかなりやってきているはずだ。その中で、木綿子とセットで名前を流されれば、明日どんなふうに学校でからかわれるか、わかったものじゃない。
 木綿子のことだから、どこかで食い物につられて、屋台にひっかかっているだけかもしれないし。
 竜は周囲の人波を慎重に見渡しながら、ゆっくりと歩き出した。


 木綿子は焼きイカをほおばりながら、石畳の脇に逸れて、人の流れからいったん脱出した。蒸し暑い真夏の夜だが、小高い丘に建つ神社の、砂利も敷かれていない土の上に立つと、意外なくらいに涼しかった。
 竜はどこにいるんだろう。いつまでも鳴らない携帯に、拗ねたような気分になる。本当に小さいころの話を近所中に暴露してやろうか。昔は犬が怖くてチワワの子犬からも逃げ回っていたこととか、テレビで本当にあった怖い話を見た後、夜中に一人でトイレに行けなくなったこととか、将来の夢がお花屋さんだったこととか。
 きょろきょろと忙しくあたりを見回していた首が疲れて、ふっと顔が上を向いた。
 その先の空中に、女の子が浮いていた。
 木綿子はぽかんと口をあけて、目を擦った。けれど幻覚は消えなかった。おかっぱ頭の、小学校に上がる前くらいの女の子が、手に何かを握り締めて、下駄の足をちっとも動かさないまま、何もない空中をすうっと移動していく。
「おい、こんなところで何やってんだ。メール見てないのか」
 急に肩をつかまれて、思わず飛び上がった。竜だった。
 竜の怒ったような顔を見て、木綿子はとっさにむっとした。自分はさっきからメールを無視しておいて、その言い草ったらない。けれど、すぐに宙に浮かぶ少女のことを思い出して、木綿子は竜の肩を揺さぶった。
「竜兄、あれ、あれ」
 木綿子の指差す先に首をめぐらせて、竜もぽかんと口を開けた。少女がゆったりと宙を滑って、本殿の屋根の上に降り立ったところだった。
「なんだ、あれ」
「分かんない」
 二人で顔を見合わせて、申し合わせたわけでもないけれど、同時にまた本殿の屋根を降り返った。そして同時に、ふたりして目を擦った。
 錯覚ではなかった。たしかにそこに、女の子がいる。
「……なにか、そういう出し物とか? マジックショーとかみたいな」
「聞いてねえ。それに、誰も何にも騒がねえよな」
 しばらく黙り込んだあと、竜がぽつりと言った。
「近くまで行って見るか」
 木綿子はうんうんと頷いて、なんでかやたらと汗まみれになっている竜のTシャツの背中を追いかけた。


「ところで、お前、メールは見たのか」
 竜に訊かれて、木綿子はきょとんと眉を上げた。
「メール? ぜんぜん気づかなかった」
「お前なあ……」
「ごめんごめん。充電でも切れたのかな。竜兄、充電器なんて持ってないよね」
「仮に持ってたって、どこで充電するんだよ……」
 木綿子は人ごみの中を歩きながら、リュックのポケットに手を突っ込んだ。そして凍りついたように立ち止まった。そこにあるはずの感触がない。
「え」
 慌ててリュックを背中からはずす。ポケットをのぞく。やっぱりない。
「なんだよ?」
「携帯、落とした、かも」
 おもわず蒼くなる。これだけはとお願いして叔父さんに買ってもらった携帯電話だった。なくしたなんて、とてもいえない。いや、それより、悪用とかされちゃったら、どうしよう。携帯を盗まれてひどい目にあった同級生の話が、ぱっと脳裏に蘇った。
「どうしよう、どこで落としたんだろ」
 木綿子は人目も忘れて、リュックを引っ掻き回した。いつも決まったポケットに入れているのだから、そんなところから出てくるはずがないとわかっているのに。
「落ち着け。俺にメールしたときまでは持ってたんだろ。そのときどこにいた」
 竜の呆れ混じりの声に、木綿子は必死で考える。
「ええと、そうだ。神社についたところだった」
 竜は少し考えるような顔になった。
「それなら、あとで社務所の方で聞いてみよう。誰かが届けてくれてるかもしれないし」
 木綿子は頷いて、また平然と歩き出した竜のあとに続いた。竜兄がいれば、何があってもどうにかなる。小さいころはいつでもそう信じていた。その頃のことを思い出して、木綿子はすっかり背の伸びた従兄の、年齢にしてはやたらと広い肩を見た。
 歩きながら、木綿子がちらちらと本殿の屋根を見上げると、やはり少女はそこにいて、足をぶらぶらさせながら、祭りの光景を見下ろしていた。あの女の子は、いったいなんなんだろう。どうして誰も騒がないんだろう。まるで、あたしたち以外には見えていないみたいだ。
 ためしに誰かに聞いてみようか。木綿子は周りを行く人々を見渡しながら、そう考えた。ちょっと呼び止めて、あの屋根の上の女の子が見えますかって。でもそれで、他の人に見えなかったら、頭のおかしい子だと思われてしまうんじゃないだろうか。
 結局、人に聞いてみる勇気はでてこなかった。
 本殿までもう少し、というところで、竜が「あ」と声を上げた。
「なに?」
「考えたら、俺の携帯から鳴らしてみればいいんじゃないか。近くにあったら、着メロが聞こえるだろ」
「あ」
 そうだ。歩きながら定期的に鳴らしてみればよかったのだ。動転して、ちっともそんなことは思いつかなかった。竜はさっさと尻ポケットから自分の青い携帯を出して、短縮ダイヤルを押した。
 頭上から、聞きなれたメロディが流れ出した。
 なんで頭上から?
 木綿子が目を丸くして空を振り仰ぐと、本殿の屋根のひさしの上で、赤い着物の少女が、もっとびっくりしたように目を瞠っていた。その手の中に、見慣れたピンク色の携帯が見える。
 女の子は、バイブレーションに震える手の中の携帯電話をあたふたと転がすうちに、手を滑らせて、取り落としてしまった。
「あっ」
 木綿子は悲鳴を上げた。携帯電話を心配したからではなかった。慌てた少女が、屋根の上から身を乗り出したのが見えたからだ。
 動いたのは、竜の方が早かった。
 竜はびっくりするような勢いで走って、少女の落ちてくる真下に駆け寄った。木綿子はとっさに目を瞑った。本殿は平屋だが、普通の家屋の一階よりも、当然ながらずっと高さがある。
 けれど、いつまでたっても、何の物音もしなかった。
 恐る恐る木綿子が目を開けると、和装の少女は、勢いあまって転んだ竜の腕の中で、きょとんと抱きとめられていた。
 竜はひどく驚いたように、うろたえながら手を離した。少女はまだきょとんとしている。
 その体が、竜が手を離しても、まだ宙にぷかぷか浮いているのを、木綿子は見た。
 竜が口をぱくぱくさせている。自分の目で見て手で触っても、まだ信じられないのだろう。木綿子は木綿子で、自分の頬をつねってみた。驚きすぎて、痛いんだか痛くないんだか、よく分からなかった。それで、思い切り自分の頬をひっぱたいてみる。今度はじんじんと痛かった。
 女の子は不思議そうに首を傾げ、木綿子の真似をしているつもりなのか、自分の頬を軽く叩いてみせた。それから、なにか面白かったのか、きゃらきゃらと笑いだす。
「あの……あの」
 少女がその小さな手でしっかりと握り締めている、どうみても自分のものらしいピンクの携帯電話を、木綿子がおそるおそる指差すと、少女は、きょとんとしたあとで、理解したのか、あっさりと木綿子に携帯を手渡した。鳴らしたままだった携帯は、とっくに留守録モードも終わって、いまは静まり返ってランプを点滅させている。竜が投げ出したほうの青い携帯が、ぷーぷーと、通話の切れたあとの間抜けな音を発していた。
「ええと……ありがとう」
 木綿子が礼を言うと、少女はにこっと笑った。そうすると、りんごのような赤いほっぺたが愛らしく、木綿子はつられて思わず微笑んだ。
 少女はそのまま、とんと下駄で軽く石畳を蹴ると、頭上に舞い上がっていった。
 その体が、すっと屋根のひさしの向こうに隠れてしまう。はっとした竜と木綿子が、本殿から少し距離をとって、もう一度頭上を仰ぎ見たときには、もう赤い着物の裾さえ、そこには見当たらなかった。


「なんだったんだろう。あの子」
 石灯籠の脇で人ごみを避けて、りんご飴をかじりながら、木綿子がぽつりと訊くと、竜は自分の腕をまじまじと見つめて、短く答えた。
「さあ」
 言いながら、何度も手のひらを握ったり開いたりしている。落ちてきた少女の体を受け止めたはいいが、まるで羽根か風船のように軽かったのだと、竜は言った。
「……カミサマ、とか? この神社の」
 木綿子が自分でもぜんぜん信じていない口調で言うと、竜はまた、無愛想に「さあ」と言った。
「でも、あんな小さな子どもの神様っている?」
「俺に聞くなよ」
 まだどこか呆然としたまま二人で喋っていると、竜の同級生なのだろう、見覚えのある三年生が、口笛を吹き吹き、冷やかしの声をあげて通り過ぎていった。
 前に似たようなからかい方をされたときには、ひどく嫌がっていた竜が、今はどうでもよさそうに手を振って彼らをあしらったので、木綿子はちょっと我に返って、竜の横顔をまじまじと見た。
「ねえ。いいの? 明日また、何か言われるんじゃない?」
 訊くと、竜はまだ手のひらを開いたり閉じたりしながら、投げ遣りに言った。
「なんか、驚きすぎてどうでもよくなった」
「あ、そ」
 まあ、竜兄がいいんならいいけど。木綿子はそんなふうに返しながら、本殿のあるほうを振り仰いだ。もう空に少女が浮かんではいなかったが、屋根の向こうに、ちらりと赤い裾が翻るのが見えたような気がした。

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▲お題:「桜」「充電器」「履き古した靴」
▲縛り:「祭りの場面を入れる」「登場人物が転ぶ」「メールを打つシーンを入れ、『(´・ω・)』の顔文字を使う(任意)」
▲任意お題:「英霊」「真っ白のワンピース」「二度とメールしてくるな」「チャッキチョプチョム」(使用できず)

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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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