小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。暗い話が苦手な方はご注意ねがいます。
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火災現場に出たのは、それが初めてのことではなかったが、幼いころに出入りしていた家屋が燃えているのを見るのは、やはり普段以上に胸苦しかった。
ものの燃える匂いというのは、どうしてあれほどまでに不安を誘うのか。天井や柱が焼け落ちる音、赤く染まる視界。炎に飲まれる白い外壁に、いつだったか自分たちがクレヨンで書いた的当ての円を垣間見たのが、あとあとまで印象に残った。
火の勢いは強く、熱い風が渦巻いていた。ごうごうと唸る風の音を聞きながら、隣戸と距離があるのがせめてもの幸いだと、頭の片隅で考えていた。その感想が、我ながらどうにも薄情なような気がして、忙しなく突入の準備を整えながら、罪悪感がちりちりと胸を焦がした。
燃える家屋の中には、叔母が取り残されているのが分かっていた。
準備が整い、先輩方のあとに続いて屋内に突入しようとした、そのときだった。
家の前の路上で、従妹の美紗希が立ち尽くして、火に巻かれる生家を見上げているのが視界に入った。つい先ほどまで、同行していた女性隊員がひとり、彼女を気遣って何かしら声をかけていたのだが、このときはちょうど美紗希一人で、火の粉の舞い散る夜空を見上げていた。
白いワンピースの裾が、長く伸ばした黒髪が、風に煽られて翻っていた。その炎に照らし出される横顔に浮かんでいた感情は、不安でも恐怖でもなかった。先ほどまではたしかに、茫然自失といったようすで青ざめていた美紗希の横顔に、しかし、いま浮かんでいるのは、場違いなほどに晴れやかに澄んだ微笑だった。
子どもたちのはしゃいだ声が、窓の外から飛び込んでくる。ちょうど小学校から帰宅する時分らしい。目を開けると、カーテンの隙間から西日が差し込んでいた。
年季の入った宿舎の、染みの目立つ天井を、万年床に横たわったままぼんやりと見上げる。夢の中で見たらしい炎の色が、まだ瞼の裏でちらついていた。
消防士の勤務時間は、その地域でまちまちだと聞くが、俺の勤める署では当番の日には二十四時間勤務で、その明けの日が丸々非番になる。朝の十時前に帰宅して、目が覚めたらすでに夕方だった。そんな不規則な生活にも、何年も続ければいいかげんに慣れて、この頃ではなんとも思わなくなってきた。
顎をなでると、伸びかけた髭が音を立てた。いつもなら、のんびりと二度寝をむさぼろうかという時間だが、今日はそろそろ身支度をしなくてはならない。大学のときの同輩から、強引な誘いを受けていた。まさか三十もすぎて、いまだに合コンの人数あわせに借り出されるとは思っていなかったが、義理があって断りづらかった。
起き上がって伸びをすると、窓の外で、子どもたちがアスファルトを蹴って駆けていく足音が遠ざかっていった。
欠伸を噛み殺しながら、指定された居酒屋の戸をくぐると、懐かしい顔が奥のテーブルから手を振ってきた。
「久しぶりだな、荻嶋。非番の日に無理いって、悪い」
そう顔の前に手を立てる野瀬と会うのは、ほとんど二年ぶりになる。同じ三十代前半にもかかわらず、早々にどことなくくたびれてきた自分とは違って、野瀬は若々しい。顔や髪型も、服装も。
「まあ、どうせ暇だからな」
答えて見渡すと、テーブルに集まっていた男たちには、知らない顔が多かった。かろうじて記憶に残る、同じ大学出身の後輩と思われる連中が二、三人、懐かしそうに声をかけあっている。おっとり女子が好みなんだよなあだとか、今日来てる女の子たち、レベル高くないかとか、好き勝手なことをささやきあっているようだった。
「それはいいが……そろそろ合コンっていう年でもないだろうに」
「そう言うなよ。公務員のくせに、いつまでも独身でいるお前が悪い」
肩をすくめると、野瀬は笑って入り口を降り返った。
「ああ、全員そろったかな」
最後にやってきたらしい人物のほうを、何気なくふりかえって、絶句した。
「美紗希、か?」
「え、隆ちゃん?」
目を丸くしていたのは、四年ぶりに会う従妹だった。
「なんだ、知り合いか?」
野瀬につつかれて頷きながらも、まだ美紗希から目を逸らせなかった。記憶の中と変わらない、白い肌と切れ長の瞳。昔からきれいな娘だった。清潔感のある服装は、合コンに来たというふうには、あまり見えない。
「いとこなんです」
明るい声を上げる美紗希に、注目が集まる。折れそうに細く可憐な容姿に、男の保護欲をかきたてるものがあるのか、この従妹は昔から異性にもてた。
「へえ、いとこ同士。偶然ってあるもんだね」
「ま、とにかく、飲み物注文しちゃおうか。ビールの人ー」
いい年をして浮き足立った調子で飲み物を頼む野瀬を横目に見ながら、上品に微笑んでいる美紗希から、俺はさりげなく目を逸らした。
「へえ、じゃあ荻嶋とはけっこう年も離れてるんだ」
野瀬が言いながら、いつにない爽やかな笑顔を浮かべる。年上キラーを自称していたような記憶があるが、会わないうちに宗旨替えしたということか。それも、自分たちの年齢を考えれば当然なのかもしれないが……
「美紗希はやめとけ」
会話の合間を縫って、周りに聞こえないように小声でそう忠告すると、野瀬はかえって好奇心に目を輝かせながら、にやにやと笑った。
「お、なんだ。可愛い従妹がよその男にとられるのは、抵抗があるのか」
「そういうんじゃない」
「なら、実は彼氏がいるとか?」
「……知らない。会ったのだって四年ぶりだ」
「なんだ。じゃあいいじゃないか」
野瀬はまるで気にするそぶりもなく、また美紗希に話しかけている。仕方なくビールを煽った。
独り身には違いないが、交代制勤務の不規則な暮らしを送っていると、他人と生活のペースがかみ合わないこともあって、このところは、あまり積極的に恋人を作ろうという気はしていなかった。それでもまがりなりにも合コンに参加しておいて、あまりに無愛想にしているのもはばかられた。野瀬の顔を立てるつもりで、どこかのOLだという女性に話しかけられるのに適当に答えていたら、会話の途切れた拍子に、背後から肩をつつかれた。
振り返ると、すぐ近くに美紗希の顔があった。その顔に浮かぶ微笑に、ぎくりとする。美紗希はこちらの不自然な態度を気にするでもなく、明るい声を出した。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
「ああ。お前は、少し痩せたんじゃないか」
そう言いながら、少しどころではないと思った。昔から細くはあったが、記憶にあるよりも一回り、痩せ細ったように見える。
「隆ちゃんも、そんな上手を言うようになったのね。意外」
「何言ってる。それより合コンなのに、親戚と喋ってたってしょうがないだろ」
言うと、美紗希は軽やかな笑い声を立てた。色白の頬が、かすかに上気している。酔っているのかもしれなかった。
「それじゃ、おとなしく退散します。……あっ」
歩き出した美紗希が、携帯で喋りながら席を立った男とぶつかって、よろめいた。とっさに腕を引いて支えたが、周りで息を呑む音が聞こえて、しまったと思った。美紗希の着てきた薄い水色のカーディガンの、袖口が少しめくれて、その隙間から引き攣れた火傷痕が見えていた。日焼けを知らないような白い肌にくっきりと際立つ痕は、見るだに痛々しかった。
「あ、見えちゃった? ごめんなさい」
美紗希はなんでもないように軽く謝って、微笑んだまま席に戻った。触れていいのかどうか、気まずく迷っていた周囲の何人かが、それでいくらかほっとしたような顔になった。
「火傷?」
「ええ。火事でね。もう何年も経つんだけど」
不幸自慢をするようにでも、つっけんどんにでもなく、美紗希がさらりと答えたことで、場の空気がいくらか和らいだ。女性陣からもかわいそう、だとか、痛かったでしょう? だとか、当たり障りのない言葉がかかるのに、美紗希は静かな微笑を浮かべたまま、なんでもないように答えていた。
その様子をじっと見つめていたが、美紗希はもうその後は、一度もこちらを振り返らなかった。
燃え盛る火災現場の夢から目が覚めると、もう日が落ちかかっていた。窓からのぞく空は、見事な夕焼けだった。その赤い光線が、火事を想起させたのかもしれない。
仕事がら仕方がないのかもしれないが、よく火事の夢を見る。その中で俺は現実の通りの消防士だったり、炎にまかれる犠牲者だったりする。
夢覚めやらぬ寝床の中で、ぼんやりとしていると、ひび割れた音のインターフォンが鳴った。普段は来客の少ない部屋だが、驚きはしなかった。予感があった。
頭を掻いて、寝巻きのままドアに向かう。声もかけずに鍵をはずして、スチール製のドアを押すと、予想したとおりの顔があった。
「ごめん。もしかして、起こしちゃった?」
小首を傾げてそう訊く美紗希に首を振って、玄関に引っ込む。
「上がれよ」
「じゃ、遠慮なく。……急にきちゃったのに、驚かないんだね」
「なんとなく、な」
ふうんと相槌を打って、美紗希はきょろきょろと部屋を見渡した。その割には散らかっているとでも思っているのかもしれない。男の一人暮らしだし、子どもの頃にも散々汚い子ども部屋を見られた相手に、見栄を張ろうという気もしなかった。
「コーヒーでいいか。インスタントしかねえけど」
手にもっている手土産らしい箱に目を向けながら訊くと、美紗希は自分がやると言って、台所に向かった。
「久しぶりだね、この部屋に上げてもらうの。四……五年ぶり?」
「そんなになるか」
「こないだは、びっくりしちゃった。しばらく会わないうちに、隆ちゃん、すごく大人っぽくなったね。なんか精悍になった」
「そりゃ、三十も過ぎればな」
生返事を返しながら、万年床を二つに折って座る場所を作った。畳を埋める脱ぎ捨てた服や雑誌を、適当に隅におしやる。
「で、どうした」
訊くと、美紗希は不思議そうに首を捻った。
「何か、話があって来たんじゃないのか」
静かな微笑を浮かべて、美紗希は首を横に振った。その微笑みに、ちりりと胸を焼かれて、落ち着かない気分になる。
「ううん。ただちょっと、懐かしくなったから。ずいぶん会ってなかったし」
そう言って、自分で淹れたコーヒーを啜る美紗希の顔をじっと見たが、何の他意もなさそうに見えた。少し、拍子抜けしたような気分になる。
美紗希には特段の用はなくても、こちらには、訊きたいことがあった。何年も前から、ずっと胸に押し込めてきた疑問。
「なあ。どうしてあのとき」
訊きかけて、そこで言葉が出なくなった。美紗希は不思議そうに、言葉の続きを待っている。長い睫毛が、ゆっくりとした瞬きにあわせて、白い頬に影を落とす。
「……いや、なんでもない」
留められた言葉が、喉の奥でぐるぐると回っている。なあ、なんであのとき、笑っていたんだ。母親を焼く炎を前に、自分自身も火傷を負いながら、どうしてあんな風に、微笑んでいられたんだ――
放火の疑いがある火災では、消防と警察が合同で、かなり厳密な捜査を行う。美紗希の生家を焼いた炎は、天ぷら油が出火原因だった。不審な点も見当たらなかった。買い物に出ていたという美紗希の憔悴は激しかったし、キッチンドランカーだった美紗希の母親が、よく料理の途中で酔いつぶれていたという周囲の証言もあって、あのときの捜査は比較的簡単に行われたように思う。
伯母の葬儀のあとになって美紗希は、「あのときの隆ちゃん、カッコよかった」とはにかんだ。その目は赤く、泣きはらしたように見えた。それでも俺は、たびたび脳裏によぎるあの瞬間の光景を、少しも忘れられなかった。火に呑まれる生家を見上げながら、美紗希が浮かべていた透明な微笑。
あの日から、頭の片隅、意識と無意識の隙間のところで、ずっと居坐って離れない想像がある。厭な想像だ。その空想の中の映像では、あの全焼した懐かしい家の台所で、伯母が酔いつぶれて、ダイニングのテーブルに突っ伏している。その横で、美紗希がそっと台所に立ち、慣れた手つきで揚げ物の準備をする。水仕事のために捲り上げた腕には、いまあるものとは違う、小さな火傷の痕がいくつもついている。ずっと昔から美紗希の腕にあった、煙草を押し付けられた痕。伯母が美紗希に度々つけた傷跡だ。
想像の中の美紗希は、例の微笑を浮かべたまま、酔いつぶれた母親のかわりに、天ぷらの準備をする。油の温度が充分に上がったことを確認して、衣をつけた野菜を静かに油のなかに入れる。しゅわしゅわと衣が音を立てる。
買い忘れに気づいた美紗希は、財布を手にもって家を出る。酔いつぶれた母親をダイニングに残し、徒歩十分と少しのスーパーに向かい、天ぷらに使う麺つゆと、ついでに切らしていた調味料を買う。美紗希の会社はシフト制で、平日が休みだ。その日もちょうど休みだった。だから、夕方の早い時間に家に居た。
時間はちょうどタイムセールの頃だ。スーパーは混み合っていて、人波に押されながら、美紗希は買い物をする。
スーパーを出て少し歩いたところで、買い置きの洗剤を切らしていたことに気づいて、ちょっと迷いながら引き返す。二度目の会計を済ませて、今度こそ帰途につく。その途中で、消防車のサイレンの音を耳にする。不安のにじむ表情を浮かべながら、早足に帰路を歩いて、家に着くと、家の台所側の窓から、オレンジ色の炎が舌を覗かせている。
美紗希は母を呼びながら家に駆け込もうとして、消防隊員に引き止められる。その手を振り払って、家に飛び込もうとして、腕に火傷を負う。強引に引き離されて茫然自失を装いながらも、不安げな表情を作って、家を焼く炎を見上げている。
炎が爆ぜ、燃え上がる生家の、台所のあるあたりを除き見る一瞬、かくしきれない微笑みが、その頬に浮かぶ――
一部は実際に見た光景や美紗希からの聴取記録の内容に沿っているが、ほとんどは想像……いや、むしろ妄想のようなものだ。火事で美紗希が失ったものは、母親だけではなかった。家財もなにも失ったし、ひどく憔悴して、キッチンドランカーの母親をひとりにして買い物に出かけたことに、責任を感じているように見えた。
あの一瞬の微笑を、見てしまいさえしなければ、こんな妄想に取り付かれることもなかったのに。
「美紗希」
声をかけると、美紗希はコーヒーカップを両手で包んで、視線でなに、と問いかけてきた。
「いや。困ってないか。その、一人で」
「いまさらね。それに、それをいうなら隆ちゃんの方でしょう。冷蔵庫、からっぽじゃない」
くすりと笑う美紗希の横顔が、宵闇に包まれていこうとしている。部屋が暗くなっていることに気が付いて、ようやく電気をつけた。
美紗希がコーヒーカップを流しに運び、袖まくりをする。腕の火傷痕が見える。あのときの火傷に紛れて、伯母が押し付けた煙草のあとは、すっかり見えなくなった。
水音をぼんやりと聞いているうちに、あのときの微笑について問いただそうという気持ちは、どこかに影を潜めてしまった。
「さて、暗くなってきたし、帰ろうかな。またたまに、顔を見にくるね」
明るく言って、美紗希は手を拭いた。
「ああ。気をつけて帰れよ」
言ったあと、少し迷って、言葉を足した。
「元気でな」
美紗希はくしゃりと表情を崩して微笑んだ。それは何度も見た、静かな微笑ではなく、いまにも泣き出しそうな、どこか子どもじみた顔に見えた。
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必須お題:「日焼け」「キラー」「おっとり女子」
縛り:「小道具:『火の粉』 演出に使う」「人物:消防士または消防団員を登場させる」「文章:コミュニケーションは、直接面と向かって行うこと=電話、手紙、演説等のコミュニケーションはNG」
任意お題:「自覚はある」「いとこ」「トライアングル」「野火はいつの間にか鎮火しておる」
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火災現場に出たのは、それが初めてのことではなかったが、幼いころに出入りしていた家屋が燃えているのを見るのは、やはり普段以上に胸苦しかった。
ものの燃える匂いというのは、どうしてあれほどまでに不安を誘うのか。天井や柱が焼け落ちる音、赤く染まる視界。炎に飲まれる白い外壁に、いつだったか自分たちがクレヨンで書いた的当ての円を垣間見たのが、あとあとまで印象に残った。
火の勢いは強く、熱い風が渦巻いていた。ごうごうと唸る風の音を聞きながら、隣戸と距離があるのがせめてもの幸いだと、頭の片隅で考えていた。その感想が、我ながらどうにも薄情なような気がして、忙しなく突入の準備を整えながら、罪悪感がちりちりと胸を焦がした。
燃える家屋の中には、叔母が取り残されているのが分かっていた。
準備が整い、先輩方のあとに続いて屋内に突入しようとした、そのときだった。
家の前の路上で、従妹の美紗希が立ち尽くして、火に巻かれる生家を見上げているのが視界に入った。つい先ほどまで、同行していた女性隊員がひとり、彼女を気遣って何かしら声をかけていたのだが、このときはちょうど美紗希一人で、火の粉の舞い散る夜空を見上げていた。
白いワンピースの裾が、長く伸ばした黒髪が、風に煽られて翻っていた。その炎に照らし出される横顔に浮かんでいた感情は、不安でも恐怖でもなかった。先ほどまではたしかに、茫然自失といったようすで青ざめていた美紗希の横顔に、しかし、いま浮かんでいるのは、場違いなほどに晴れやかに澄んだ微笑だった。
子どもたちのはしゃいだ声が、窓の外から飛び込んでくる。ちょうど小学校から帰宅する時分らしい。目を開けると、カーテンの隙間から西日が差し込んでいた。
年季の入った宿舎の、染みの目立つ天井を、万年床に横たわったままぼんやりと見上げる。夢の中で見たらしい炎の色が、まだ瞼の裏でちらついていた。
消防士の勤務時間は、その地域でまちまちだと聞くが、俺の勤める署では当番の日には二十四時間勤務で、その明けの日が丸々非番になる。朝の十時前に帰宅して、目が覚めたらすでに夕方だった。そんな不規則な生活にも、何年も続ければいいかげんに慣れて、この頃ではなんとも思わなくなってきた。
顎をなでると、伸びかけた髭が音を立てた。いつもなら、のんびりと二度寝をむさぼろうかという時間だが、今日はそろそろ身支度をしなくてはならない。大学のときの同輩から、強引な誘いを受けていた。まさか三十もすぎて、いまだに合コンの人数あわせに借り出されるとは思っていなかったが、義理があって断りづらかった。
起き上がって伸びをすると、窓の外で、子どもたちがアスファルトを蹴って駆けていく足音が遠ざかっていった。
欠伸を噛み殺しながら、指定された居酒屋の戸をくぐると、懐かしい顔が奥のテーブルから手を振ってきた。
「久しぶりだな、荻嶋。非番の日に無理いって、悪い」
そう顔の前に手を立てる野瀬と会うのは、ほとんど二年ぶりになる。同じ三十代前半にもかかわらず、早々にどことなくくたびれてきた自分とは違って、野瀬は若々しい。顔や髪型も、服装も。
「まあ、どうせ暇だからな」
答えて見渡すと、テーブルに集まっていた男たちには、知らない顔が多かった。かろうじて記憶に残る、同じ大学出身の後輩と思われる連中が二、三人、懐かしそうに声をかけあっている。おっとり女子が好みなんだよなあだとか、今日来てる女の子たち、レベル高くないかとか、好き勝手なことをささやきあっているようだった。
「それはいいが……そろそろ合コンっていう年でもないだろうに」
「そう言うなよ。公務員のくせに、いつまでも独身でいるお前が悪い」
肩をすくめると、野瀬は笑って入り口を降り返った。
「ああ、全員そろったかな」
最後にやってきたらしい人物のほうを、何気なくふりかえって、絶句した。
「美紗希、か?」
「え、隆ちゃん?」
目を丸くしていたのは、四年ぶりに会う従妹だった。
「なんだ、知り合いか?」
野瀬につつかれて頷きながらも、まだ美紗希から目を逸らせなかった。記憶の中と変わらない、白い肌と切れ長の瞳。昔からきれいな娘だった。清潔感のある服装は、合コンに来たというふうには、あまり見えない。
「いとこなんです」
明るい声を上げる美紗希に、注目が集まる。折れそうに細く可憐な容姿に、男の保護欲をかきたてるものがあるのか、この従妹は昔から異性にもてた。
「へえ、いとこ同士。偶然ってあるもんだね」
「ま、とにかく、飲み物注文しちゃおうか。ビールの人ー」
いい年をして浮き足立った調子で飲み物を頼む野瀬を横目に見ながら、上品に微笑んでいる美紗希から、俺はさりげなく目を逸らした。
「へえ、じゃあ荻嶋とはけっこう年も離れてるんだ」
野瀬が言いながら、いつにない爽やかな笑顔を浮かべる。年上キラーを自称していたような記憶があるが、会わないうちに宗旨替えしたということか。それも、自分たちの年齢を考えれば当然なのかもしれないが……
「美紗希はやめとけ」
会話の合間を縫って、周りに聞こえないように小声でそう忠告すると、野瀬はかえって好奇心に目を輝かせながら、にやにやと笑った。
「お、なんだ。可愛い従妹がよその男にとられるのは、抵抗があるのか」
「そういうんじゃない」
「なら、実は彼氏がいるとか?」
「……知らない。会ったのだって四年ぶりだ」
「なんだ。じゃあいいじゃないか」
野瀬はまるで気にするそぶりもなく、また美紗希に話しかけている。仕方なくビールを煽った。
独り身には違いないが、交代制勤務の不規則な暮らしを送っていると、他人と生活のペースがかみ合わないこともあって、このところは、あまり積極的に恋人を作ろうという気はしていなかった。それでもまがりなりにも合コンに参加しておいて、あまりに無愛想にしているのもはばかられた。野瀬の顔を立てるつもりで、どこかのOLだという女性に話しかけられるのに適当に答えていたら、会話の途切れた拍子に、背後から肩をつつかれた。
振り返ると、すぐ近くに美紗希の顔があった。その顔に浮かぶ微笑に、ぎくりとする。美紗希はこちらの不自然な態度を気にするでもなく、明るい声を出した。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
「ああ。お前は、少し痩せたんじゃないか」
そう言いながら、少しどころではないと思った。昔から細くはあったが、記憶にあるよりも一回り、痩せ細ったように見える。
「隆ちゃんも、そんな上手を言うようになったのね。意外」
「何言ってる。それより合コンなのに、親戚と喋ってたってしょうがないだろ」
言うと、美紗希は軽やかな笑い声を立てた。色白の頬が、かすかに上気している。酔っているのかもしれなかった。
「それじゃ、おとなしく退散します。……あっ」
歩き出した美紗希が、携帯で喋りながら席を立った男とぶつかって、よろめいた。とっさに腕を引いて支えたが、周りで息を呑む音が聞こえて、しまったと思った。美紗希の着てきた薄い水色のカーディガンの、袖口が少しめくれて、その隙間から引き攣れた火傷痕が見えていた。日焼けを知らないような白い肌にくっきりと際立つ痕は、見るだに痛々しかった。
「あ、見えちゃった? ごめんなさい」
美紗希はなんでもないように軽く謝って、微笑んだまま席に戻った。触れていいのかどうか、気まずく迷っていた周囲の何人かが、それでいくらかほっとしたような顔になった。
「火傷?」
「ええ。火事でね。もう何年も経つんだけど」
不幸自慢をするようにでも、つっけんどんにでもなく、美紗希がさらりと答えたことで、場の空気がいくらか和らいだ。女性陣からもかわいそう、だとか、痛かったでしょう? だとか、当たり障りのない言葉がかかるのに、美紗希は静かな微笑を浮かべたまま、なんでもないように答えていた。
その様子をじっと見つめていたが、美紗希はもうその後は、一度もこちらを振り返らなかった。
燃え盛る火災現場の夢から目が覚めると、もう日が落ちかかっていた。窓からのぞく空は、見事な夕焼けだった。その赤い光線が、火事を想起させたのかもしれない。
仕事がら仕方がないのかもしれないが、よく火事の夢を見る。その中で俺は現実の通りの消防士だったり、炎にまかれる犠牲者だったりする。
夢覚めやらぬ寝床の中で、ぼんやりとしていると、ひび割れた音のインターフォンが鳴った。普段は来客の少ない部屋だが、驚きはしなかった。予感があった。
頭を掻いて、寝巻きのままドアに向かう。声もかけずに鍵をはずして、スチール製のドアを押すと、予想したとおりの顔があった。
「ごめん。もしかして、起こしちゃった?」
小首を傾げてそう訊く美紗希に首を振って、玄関に引っ込む。
「上がれよ」
「じゃ、遠慮なく。……急にきちゃったのに、驚かないんだね」
「なんとなく、な」
ふうんと相槌を打って、美紗希はきょろきょろと部屋を見渡した。その割には散らかっているとでも思っているのかもしれない。男の一人暮らしだし、子どもの頃にも散々汚い子ども部屋を見られた相手に、見栄を張ろうという気もしなかった。
「コーヒーでいいか。インスタントしかねえけど」
手にもっている手土産らしい箱に目を向けながら訊くと、美紗希は自分がやると言って、台所に向かった。
「久しぶりだね、この部屋に上げてもらうの。四……五年ぶり?」
「そんなになるか」
「こないだは、びっくりしちゃった。しばらく会わないうちに、隆ちゃん、すごく大人っぽくなったね。なんか精悍になった」
「そりゃ、三十も過ぎればな」
生返事を返しながら、万年床を二つに折って座る場所を作った。畳を埋める脱ぎ捨てた服や雑誌を、適当に隅におしやる。
「で、どうした」
訊くと、美紗希は不思議そうに首を捻った。
「何か、話があって来たんじゃないのか」
静かな微笑を浮かべて、美紗希は首を横に振った。その微笑みに、ちりりと胸を焼かれて、落ち着かない気分になる。
「ううん。ただちょっと、懐かしくなったから。ずいぶん会ってなかったし」
そう言って、自分で淹れたコーヒーを啜る美紗希の顔をじっと見たが、何の他意もなさそうに見えた。少し、拍子抜けしたような気分になる。
美紗希には特段の用はなくても、こちらには、訊きたいことがあった。何年も前から、ずっと胸に押し込めてきた疑問。
「なあ。どうしてあのとき」
訊きかけて、そこで言葉が出なくなった。美紗希は不思議そうに、言葉の続きを待っている。長い睫毛が、ゆっくりとした瞬きにあわせて、白い頬に影を落とす。
「……いや、なんでもない」
留められた言葉が、喉の奥でぐるぐると回っている。なあ、なんであのとき、笑っていたんだ。母親を焼く炎を前に、自分自身も火傷を負いながら、どうしてあんな風に、微笑んでいられたんだ――
放火の疑いがある火災では、消防と警察が合同で、かなり厳密な捜査を行う。美紗希の生家を焼いた炎は、天ぷら油が出火原因だった。不審な点も見当たらなかった。買い物に出ていたという美紗希の憔悴は激しかったし、キッチンドランカーだった美紗希の母親が、よく料理の途中で酔いつぶれていたという周囲の証言もあって、あのときの捜査は比較的簡単に行われたように思う。
伯母の葬儀のあとになって美紗希は、「あのときの隆ちゃん、カッコよかった」とはにかんだ。その目は赤く、泣きはらしたように見えた。それでも俺は、たびたび脳裏によぎるあの瞬間の光景を、少しも忘れられなかった。火に呑まれる生家を見上げながら、美紗希が浮かべていた透明な微笑。
あの日から、頭の片隅、意識と無意識の隙間のところで、ずっと居坐って離れない想像がある。厭な想像だ。その空想の中の映像では、あの全焼した懐かしい家の台所で、伯母が酔いつぶれて、ダイニングのテーブルに突っ伏している。その横で、美紗希がそっと台所に立ち、慣れた手つきで揚げ物の準備をする。水仕事のために捲り上げた腕には、いまあるものとは違う、小さな火傷の痕がいくつもついている。ずっと昔から美紗希の腕にあった、煙草を押し付けられた痕。伯母が美紗希に度々つけた傷跡だ。
想像の中の美紗希は、例の微笑を浮かべたまま、酔いつぶれた母親のかわりに、天ぷらの準備をする。油の温度が充分に上がったことを確認して、衣をつけた野菜を静かに油のなかに入れる。しゅわしゅわと衣が音を立てる。
買い忘れに気づいた美紗希は、財布を手にもって家を出る。酔いつぶれた母親をダイニングに残し、徒歩十分と少しのスーパーに向かい、天ぷらに使う麺つゆと、ついでに切らしていた調味料を買う。美紗希の会社はシフト制で、平日が休みだ。その日もちょうど休みだった。だから、夕方の早い時間に家に居た。
時間はちょうどタイムセールの頃だ。スーパーは混み合っていて、人波に押されながら、美紗希は買い物をする。
スーパーを出て少し歩いたところで、買い置きの洗剤を切らしていたことに気づいて、ちょっと迷いながら引き返す。二度目の会計を済ませて、今度こそ帰途につく。その途中で、消防車のサイレンの音を耳にする。不安のにじむ表情を浮かべながら、早足に帰路を歩いて、家に着くと、家の台所側の窓から、オレンジ色の炎が舌を覗かせている。
美紗希は母を呼びながら家に駆け込もうとして、消防隊員に引き止められる。その手を振り払って、家に飛び込もうとして、腕に火傷を負う。強引に引き離されて茫然自失を装いながらも、不安げな表情を作って、家を焼く炎を見上げている。
炎が爆ぜ、燃え上がる生家の、台所のあるあたりを除き見る一瞬、かくしきれない微笑みが、その頬に浮かぶ――
一部は実際に見た光景や美紗希からの聴取記録の内容に沿っているが、ほとんどは想像……いや、むしろ妄想のようなものだ。火事で美紗希が失ったものは、母親だけではなかった。家財もなにも失ったし、ひどく憔悴して、キッチンドランカーの母親をひとりにして買い物に出かけたことに、責任を感じているように見えた。
あの一瞬の微笑を、見てしまいさえしなければ、こんな妄想に取り付かれることもなかったのに。
「美紗希」
声をかけると、美紗希はコーヒーカップを両手で包んで、視線でなに、と問いかけてきた。
「いや。困ってないか。その、一人で」
「いまさらね。それに、それをいうなら隆ちゃんの方でしょう。冷蔵庫、からっぽじゃない」
くすりと笑う美紗希の横顔が、宵闇に包まれていこうとしている。部屋が暗くなっていることに気が付いて、ようやく電気をつけた。
美紗希がコーヒーカップを流しに運び、袖まくりをする。腕の火傷痕が見える。あのときの火傷に紛れて、伯母が押し付けた煙草のあとは、すっかり見えなくなった。
水音をぼんやりと聞いているうちに、あのときの微笑について問いただそうという気持ちは、どこかに影を潜めてしまった。
「さて、暗くなってきたし、帰ろうかな。またたまに、顔を見にくるね」
明るく言って、美紗希は手を拭いた。
「ああ。気をつけて帰れよ」
言ったあと、少し迷って、言葉を足した。
「元気でな」
美紗希はくしゃりと表情を崩して微笑んだ。それは何度も見た、静かな微笑ではなく、いまにも泣き出しそうな、どこか子どもじみた顔に見えた。
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必須お題:「日焼け」「キラー」「おっとり女子」
縛り:「小道具:『火の粉』 演出に使う」「人物:消防士または消防団員を登場させる」「文章:コミュニケーションは、直接面と向かって行うこと=電話、手紙、演説等のコミュニケーションはNG」
任意お題:「自覚はある」「いとこ」「トライアングル」「野火はいつの間にか鎮火しておる」
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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