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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 即興三語小説。異世界ファンタジー。時間大幅オーバーしたので、あとで微修正しました。

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 蒼い月が威厳を湛えて荒野の中天を統べるのを、男は隻眼で振り仰いだ。緑ゆたかな故郷の空に見なれた穏やかな月とは、大きさから色味から、まるで違うものに見えた。
 男は顔をしかめて低く呻くと、眼帯をした目の上を、手のひらで強く押さえた。苦痛の声が、その口から漏れる。
 やがて男は手を離し、歩みを再開した。
 男の吐く息が白い。夜も更けると、草木の生えない荒野ではひどく気温がさがる。
 隣国からはるばると街道の途切れる地域に踏み入り、広大な砂の海を渡り、赤い大地と鋭くえぐるような岸壁が支配する荒野の辺縁に、ようようたどりついたあたりで、雇った案内人が追いはぎに化けた。それをかろうじて返り討ちにしたあとは、ほかにどうする術もなく、頭の中にある曖昧な地図だけをたよりに、ひとり歩いている。隊列を組んでいく連中でさえ、魔術師の同行なしには旅をしたがらないような場所だ。
 沈鬱な表情を貼り付けたまま、隻眼の男は歩き続ける。水も食料も潤沢ではないが、一人分が不要になっただけ、まだ余裕はある。それだけが救いといえば、救いだった。
 男はときおり足を止めて、背後を振り返った。満月の近いおかげで、夜だというのに驚くほど視界はいい。砂漠では夜に旅をするものだと初めて聞いたときには、なんとも奇妙な習慣だと思ったが、いざ荒野の只中を歩いてみれば、その意味は男にもよくわかった。昼間の灼熱の中を歩いて体力を消耗するよりも、夜の極端な寒さの中で、身体を温めながら歩くほうが得策だ。それに、砂漠の生き物には夜行性のものが多い。狼やジャッカルが怖ければ、夜に寝こけていないほうがいくらか安心だった。
 どれほど歩いただろうか。話に聞いていたのとよく似た形の断崖が、遠くに見えた。
 男は空を見上げ、星の形を見比べて安堵の息をもらした。目的地に間違いなさそうだった。
 亀裂のような岸壁の隙間を縫う道。かつてはここに川が流れていたのだと、昔語りにいう。今はそんな気配は露ほどもなく、とても信じられる話ではなかった。
 そそり立つ断崖の威圧感に生唾を飲み込んで、男は思い切って足を踏み入れた。
 五、六歩も崖の内側に踏み入っただろうか。空中を、鋭い音が奔った。男のほんの鼻先で、一本の矢が風を切り、地面に垂直に突き立つ。
 息を呑んで立ち止まった男が、頭上を仰ぐと、ほっそりと引き締まった人影がひとつ、蒼く大きな月を背負って、次の矢をつがえていた。
「何者だ」
 低い、女の声だった。感情をよく抑えた声でもあった。男は息を呑み、それから我に返ったように膝を折って、拳を地面につけた。恭順の姿勢だった。それを見た崖上の人物が、訝しげに沈黙した。男は顔を地に伏せたまま声を張り上げる。
「私は、ディトカのバドという。そちらの部族の魔術師殿に、取次ぎを願いたい」
 女は少しの間、沈黙した。それから背後を振り返り、同行していたらしい仲間と、何事か言葉を交わした。それは男には耳になじみのない言語で、どうやら彼らの母語らしかった。
 やがて女の背後から、のっそりと大男のシルエットが現れた。崖下の男に向けて、弓を引き絞る。その姿勢で、ぴたりと身動きを止めた。牽制らしかった。
 女が、弓を背負ったまま崖を駆けるようにして降りてきたことに、まずバドは驚かされた。褐色の肌を持つ女は、呼吸ひとつ乱さず、うまく壁面を蹴って、バドから少し離れた地上に、きれいに着地した。豹のような身のこなしだった。
「ディトカの男が、いったい何の用だ」
 女の目の縁を彩る刺青に、バドは目当ての一族を見つけたことを確信した。
「涸れ谷の一族には、凄腕の魔術師がいるときいた。医術に明るいとも」
「そうとも。だが、あれを頼ってわざわざここまでやってくるものはめったにいない。命が惜しいからな」
「よその魔術師や医師に頼っても、どうにもならなかった。ほかにもう頼るすべがない。できるだけの謝礼はする。どうか、取り次いでもらえないだろうか」
 女は長いこと、バドを見定めるように目を眇めていた。浅黒い肌と漆黒の瞳の間で、白眼だけがひどく白く、月明かりを弾いている。バドは無言で、それを見つめ返していた。
 それで何を見極めたのか知らないが、女はやがて唇を小さくゆがめた。
「いいだろう。腰のものをよこしな。谷を出るまで預かる」
 バドは剣を腰からはずして女に手渡し、彼女のあとについて歩きながら、女の背の弓を、じっと見つめていた。それは、巨大な獣の肋骨を削ってつくられているように見えた。それだけの素朴な弓で、あれほどの鋭い矢が放てるのか。そのことへの驚きを、バドは顔の下に押し込めた。


 断崖の隙間を縫うような道を歩くうちに、開けた場所に出た。
 周囲四方を高い岸壁に遮られた窪地の中心には、満々と水をたたえた湖が、黒い水面に月を映しこんでいた。涸れ谷どころか、そこは乾いた大地に命を育むゆりかご、延々と続く広大な荒野が嘘のような、豊かなオアシスだった。
「こんなところが……」
 バドが思わず漏らした声に、女は肩をすくめた。
「外の連中に、ここのことを言うんじゃないよ」
 女が言うのを聞いて、バドははっとして頷いた。周囲の部族のいずれも、これほどの規模のオアシスは持っていないだろう。知られれば、途方もない争いの種になるのかもしれなかった。
 女について歩くと、湖をぐるりと囲むように道が続いているのが分かった。その周辺には、獣の骨と蝋引きの布を組み立てた天幕と、素朴なレンガの壁で作られた建物とが、半々ほどの割合で混在していた。
「簡単に中に入れたことに、驚かないんだね」
 女は顔だけで振り向くと、例の感情を殺した声で問いかけてきた。バドは女の黒々とした目を、じっと見つめかえした。
「信頼できない相手だと判断すれば、ここから帰さず殺す。そういうことか」
「分かってるならいいさ」
 女はあっさりと言って、天幕のひとつに向かって声を張り上げた。その天幕は、豪奢な銀糸の装飾に彩られ、バドの目には、ほかのものよりも何段も上等そうに見えた。彼女の声に反応して、天幕の中から、いかにも屈強そうな引き締まった肉体の男たちが、続々と出てくる。
「おまえが、イェジナに会いに来たという男か」
 中の一人に、たどたどしい公用語で話しかけられて、バドは頷いた。魔術師の名は知らなかったが、目当ての相手に違いなかった。
「彼女は、会うと言っている。だが、二人では会わせられない。わかるな」
「承知した」
 バドは言って、感謝の印に膝をついて掌を合わせ、礼をとった。砂漠に棲む者たちならばどこの部族でも、優秀な魔術師はひとりでも多く身内に抱えたがるものだ。風を読んで砂嵐を避け、砂漠の魔物を祓い、部族を正しい道に誘導できるのは、指導力のある族長でも、歴戦の戦士でもなく、ただ優れた魔術師だけだからだ。そして、砂漠の地下から掘り出される宝石を、隊商を組んで売りに行かないことには、この荒野での暮らしはなりゆかない。魔術師の身を守るために、よそものを警戒するのは、しごく当然のことだった。
 男は小さく頷くと、天幕の中に顎をしゃくって、自分が先に立って中に入った。ついてこいという意味らしかった。
「わたしは戻る。あとは任せた」
 女は公用語で言って、もう興味を失ったというように、きびすを返した。
「姉御、いいんですか」
 男たちの中から声が上がるが、女は肩をすくめて、振り返りもしなかった。そのまま足音もなく、去っていく。
「彼女が、あんたたちの族長なのか」驚きを隠さずにバドが聞くと、男たちはそれぞれに、表情の読めない顔をバドに向けてきた。
「お前には関係のないことだ」
 バドは反発することもなく頷いて、あとは黙って男の後ろについて歩いた。
 天幕に入ると、中は意外なほどに暖かかった。中央には白い陶器の火鉢が据えられ、隅に置かれた香炉から、どこか甘やかな香が立ち上っている。天幕の中ほどに、さらに天鵞絨の仕切り布が垂れ下がり、その向こうから、衣擦れのような気配がした。
「わたしに用があると聞いたが」
 玲瓏とした声だった。間違いなく女のものであり、そして先ほどの女族長のような感情を殺した声音ではないにもかかわらず、どこかひやりとするような声だった。
「ディトカは南、ヨタ族の裔の戦士、バドという。医術に明るい魔術師がいると、風の民の噂話で耳にした。あんたに頼みたいことがある」
 バドは言うなり、膝をついて頭を垂れた。周囲を取り囲む男たちから、嘲りのような気配が届いても、バドは少しも気にも留めず、額を床につけた。
「頼みというのは、その目のことか」
 女の声が、冷たく揶揄うような色を帯びた。バドははっとして顔を上げた。布の向こうから、まるで何もかも見えてでもいるかのように、女はバドの心中を当てた。
 バドが絶句していると、衣擦れの音が大きくなった。さらりと垂れ布が掻き分けられて、その間から、白い絹布のかかった寝台と、その上にしな垂れかかる女が見える。背後で男たちがざわめき、声を上げたが、女はゆったりと腕を振り、それだけで男たちを黙らせた。
「診せてみるといい」
 女に言われ、バドは操られるように立ち上がった。事実、操られているのかもしれなかった。自分のものとも思えない、蹌踉とした足取りで、バドは女に近づいた。
 女の浅黒く滑らかな肌から、その美貌から、目が離せなくなった。漆黒の瞳の奥には、底知れない光が瞬いている。
「痛みがひどい。それが少しずつ、夜毎に奥の方に食い込んでいく」バドは言って、首を地位さく振った。「それに、痛むだけじゃない。傷から入ってくるものが、頭の中をのっとろうとしているのが分かるんだ」
「ふうん」
 女魔術師は面白がるように言って、くすくすと笑った。
「なかなか手の込んだ呪詛だ。相当な恨みを買ったな」
 ほっそりとしたしなやかな指先で、女魔術師は、無造作にバドの眼帯をまくった。
 そこには落ち窪んだ瞼にふさがれて、ただ空洞があるはずだった。女はためらいもなくバドの瞼をこじ開けて、その奥を覗き込んだ。
「そうだな、治せると思うが」
 女魔術師は歌うように言って、しかし、唇を引き結んだ。条件を吟味しているのだろうかと、バドは思ったが、しかし、次の瞬きの間には、声が女の指から体内に滑り込んできた。
 ――声を出すな。頷く必要もない。頭の中で思うだけでいい。
 女の唇は動いていなかった。これも魔術なのか、周囲の男たちには、女魔術師の言うことは、聞こえていないようだった。
 バドは喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。女はすぐ眼前で、楽しげに笑っている。
 ――条件がある。部族の女をひとり、連れ出してやってほしい。
 思わず声が出そうになった。しかし女魔術師が、指の腹で軽くバドの頬を押すと、凍りついたように舌が動かなくなった。
 ――なぜだ。
 ――よくある話だ。血族の事情が絡んで、族長が婚姻の許しをださない。当人たちは、互いと結ばれるのでなければ、命を絶たんばかりの覚悟さ。なんとか逃がしてやりたい。
 声なき声は、魔術師の指先から直接、眼窩に流れ込んでくるように、バドには思われた。
 その奇異な話法はともかくとして、話の内容は、バドにも理解の及ぶところだった。砂漠の部族はどこもそれぞれに結束が固く、掟に逆らえば即座に死罪、族長への反逆もまた同様というところが多いと聞いていた。
 ――連れ合いが先に逃げ出して、東の谷に隠れている。抜け道を通って、涸れ谷の外に出るところまでは、本人がやる。そこから東の谷を通って、近くの町まで、連れて行ってやってくれないか。
 ――あんたが自分でやったほうが、確実なんじゃないか。
 ――わたしは監視が厳しい。部族の導き手のなんのといって持ち上げられて、水も食事も、上等の服も飾りも、ほかの誰より優先して与えられるが、所詮は籠の鳥なのさ。
 女魔術師は、くすりと笑った。そしてバドの瞼から手を離し、今度は声に出して言った。
「まあ、このくらいなら造作もない。砂金一袋も出すなら、治してやってもいい。視力までは戻せないが、それでいいか」
 我に返ったバドが頷くと、女魔術師は男たちに指図し、銀盆を天幕に運ばせた。そこに汲まれた清水で指を洗い清め、先ほどまでとは異なる香を焚き染める。なにやら手順があるらしかった。
 女魔術師が銀細工の宝石箱から取り出したのは、小降りな水晶の玉だった。よく磨き上げられたそれは、ちょうど人間の眼球ほどの大きさで、バドは思わず、魅入られたようにその輝きをじっと見つめた。なんだこれは。まるであつらえたようではないか。バドが今夜ここを訪ねてくることも、魔術師はとうに承知していたかのように思えて仕方がなかった。
 女魔術師の指が、瞼をもう一度こじ開けるのを、されるがままに、バドは水晶の輝きをじっと見つめていた。


「イェジナは用件を引き受けたらしいな」
 天幕を出るなり、女族長にそう話しかけられて、バドは無言で頷いた。眼窩に押し込めたばかりの水晶の義眼が、まだ少し違和感があった。それでも、先からの突き刺すような痛みは、もうどこにもなかった。
「用が済んだのなら、すぐに立ち去って、この里のことは忘れることだな。食料と水くらいは分けてやろう」
 族長がそう言って顎で示した先で、男が背負える程度の荷を持ってきた。礼を言って受け取ると、族長は先に立って歩き出した。その態度からは、抱える魔術師の裏切りなど、少しも気づいていないように、バドの目には見えた。
 里を出るところで、族長はバドの剣を無造作に返して、あとはもう興味をなくしたように、背を向けて去っていった。バドが信頼されたということか。それとも何か、用意があるのだろうか。たとえば追っ手を放って、どこぞで始末してしまおうというような。
 バドはかぶりをふった。いや、それならもっと早くに、なんとでも出来たはずだ。それとも、里の近くで彼を殺すことが、部族の女子どもの手前、望ましくなかった――ということもありえるだろうか。
 警戒の尾を引き摺りながら、バドは自然の要塞に隠されたオアシスに背を向けて、歩き出した。


 里から充分に離れたところで、バドは足の向きを変えた。大きく回りこんで、引き返す。ずいぶんな遠回りになるが、人目につかないように女を迎えに行かなくてはならなかった。砂漠の民は、常人からは考えられないほどの視力をもつとも聞く。念には念をいれて、かなりの距離を回り込んだ。
 涸れ谷を囲む岸壁の側面、里の入り口からはずいぶんと離れたところに、魔術師から告げられた窪みがあった。バドは足を速めた。急がなければ、男の方を迎えに行く前に夜が明けてしまう。
 窪みには、だれもいないように見えた。訝しく眉を寄せながら歩み寄ると、夜の闇に溶け込むように、黒い布を纏った影が、ふっと揺れた。
「魔術師に指図されて来た。あんたが花嫁か?」
 バドが声を潜めて聞くと、小柄な人影は、フードを僅かに持ち上げてみせた。その隙間に覗いた顔を見て、バドは思わず絶句した。
 駆け落ちしようというその女の顔立ちは、族長に瓜二つだった。


「あなたは?」
 涸れ谷からずいぶん離れたところで、女が潜めた声を出した。
「涸れ谷の魔術師に、頼みごとがあってやってきた。報酬のひとつとして、あんたたちの護衛をと」
 同じく押し殺した声で答えると、女は戸惑ったように頷いた。そのまま無言でしばらく、歩き続けた。月が明るいのが幸いして、足元は確かだったが、それが発見される危険と隣り合わせの幸運であることも、よく分かっていた。
 バドは時折振り返って、ついてくる女の造作を改めた。顔はそっくりだったが、身のこなしは、あの豹のような鋭さとは、似ても似つかない。別人であることは、間違いないと思われた。
「あんたは、族長とかかわりがあるのか」
 バドの問いかけに、女はうつむいて答えた。
「妹です」
 バドは頷いて、それ以上の問いは重ねなかった。血縁から婚姻を許せない事情があると魔術師は言っていたが、詮索する気にはなれなかった。
 女は振り返り、振り返りしながら歩き、そして、不安から気を紛らせるように、また口を開いた。
「イェジナさまへのお願いというのは、何だったのですか」
 遠く、どこかで砂狼の吼え声が聞こえて、女がびくりと肩をすくめた。
 隠す気分にもなれず、バドは自分の眼帯を捲くって、女に顔を向けた。女はひゅっと息を呑んだ。よじれた醜い古傷に覆われた瞼の下には、色のない水晶がはめ込まれているはずだ。
「この目だ。呪詛をかけられた。ほかに治せる人間を見つけられなかった」
 バドは眼帯を元通りに戻すと、足を速めた。導かれるような感触、おそらくは魔術師がかけた何かしらの術の気配があって、道に迷うという不安はなかったが、夜が明ける前には、なんとかして東の谷にたどりつきたかった。
 女も、長い距離を歩くことなどなさそうに見えるほっそりした足を、必死で動かしてついてくる。
「いったい、どうしてそんなひどいことを」
 女が恐る恐る吐き出した言葉に、バドは唇の端をゆがめた。
「恨まれていたからな」
 口を噤んで、恐れるような距離を半歩開けた女を、バドは振り返らなかった。足を緩めもしなかった。
「おれには兄貴がいた」
 ふと、話す気になった。誰かに聞いてほしかったのだろうか。あるいは、人から深い恨みを買うたぐいの人間に怯えて、それでも今はほかに頼れるもののいない女が、憐れなような気がしたからかもしれなかった。
「兄貴は昔から、腕っ節が弱かった」
 バドの出は、戦士の氏族だ。男であれば、幼いうちから、それこそ歩けるようになるが早いか小さな木剣を与えられ、周りの兄弟と取っ組み合って育つ。
「長男だ。親父殿の目は厳しかった。弟にも剣で負ける、お前のようなやつは家の恥だと、いつでも面と向かって兄貴を罵った」
 話すたびに息が白く凍って、夜の闇に溶けていく。遠くで砂狼の遠吠えが聞こえる。
「兄貴は頭がよかった。自分よりずっと愚かな弟に、腕っ節でだけはかなわなくて、それで人間の屑のように罵られるのに、我慢がならなかったんだろう。いつの間にか、どこぞで魔術を習い覚えていた。気が付いたら、近在の魔術師の誰にも解けないような、入り組んだ呪詛を」
 言いながら、目の奥がちりりと焼けるような痛みを思い出して、バドは眉を顰めた。
 それから何気なく振り返って、女が戸惑っているのを見た。
「理解できないか」
 女は困惑したように、頷いた。
「それほどの魔術の才がある方が、どうしてそんなに蔑まれたのでしょう」
 女の問いは、砂漠の民のものとしてはもっともだったが、バドは頭を振った。
「砂漠では、魔術師は何より珍重される。魔術がないと、砂漠を無事に渡れないからな。だが、外ではそうでもないんだ。とくに、おれたちのような、戦士の部族では」
 腑に落ちないふうの女は、東の空を振り返って、夜闇がますます濃く空を染めているのを確認した。月ももう西の空に沈みかかっている。夜明けの前は、闇が深いものだ。
 女は、少し黙って歩いたあとで、ためらいがちに問いを重ねた。
「お兄さまとは、年が離れて?」
「二つ違いだ」
 女は納得がいかないようだった。彼女が何を不思議がっているのか、察して、バドは苦笑した。
「兄だから上、弟だから下という感覚は、あんたたち砂漠の民にはないんだったな」
 バドが言うと、女は二度、小さく頷いた。
「弟が兄より優れていることも、その逆も、すこしも珍しい話ではないでしょう? 五つも十も離れた幼い子に負けたというならともかく、どうしてそれが問題になるのです」
「弟であれ、自分より優れた指導者がいるのであれば、したがうのは当然のこと。あんたたちの流儀では、そう考えるんだな?」
 女は早足に歩きながら頷いて、そのほかにどんな考えかたがあるのだという風に、眉をひそめていた。バドは苦笑して、眼帯の上から義眼の入った瞼をさすった。長子相続の考え方をどう説明すれば、この異民族の女が納得するのか、見当もつかなかった。
「ああ、それより――着いた」
 バドが指で示すと、女は顔を上げて、ぱっと表情を輝かせた。まだ少し距離があるが、目の前に広がる断崖が、東の谷に間違いなかった。
「今のところ、追っ手の気配はないな。あの魔術師がよほどうまくやったのか。彼女の立場が悪くならないといいが」
 話しかけても、女は生返事をするばかりで落ち着きなく、しまいには、ほとんど小走りに駆け出した。バドは苦笑して、そのあとを追いかけた。恋人が待っているのだから、気も急くだろう。
「アリーシャ!」
 痩身の男がひとり、渓谷の端から、声を上げて駆け出してきた。
「ダウ!」
 女も答えて、恋人の胸に飛び込むべく、地を蹴って駆けた。どこにそんな力を残していたのかと、呆れるほどの速さだった。
 ゆっくりとそのあとを追いかけていくバドの眼帯の下で、義眼が熱を持つ。バドは訝しく眉根を寄せて、眼帯を剥ぎ取った。
 義眼から、何か魔術の力の片鱗らしき気配が抜け出していくのが、見えるはずもないのに、バドには見えたような気がした。その力は、尾を引いて空中に溶け出し、舞い上がると、新婚のふたりの真上で弾け、どういう仕掛けかしらないが、白く可憐な花びらの幻を、彼らの頭上に降り注いだ。それは婚礼の夜に飾られる、特別の花だった。
 二人は歓声を上げて、しっかりと身を寄せ合ったまま、暁闇に浮かび上がる幻の花を見上げた。

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必須お題:「姉御」「ゆり」「義眼」
縛り:「結婚する」
任意お題:「不義理」「カラオケ」「靴べら」「マグネット」(使用できず)

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