小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。やや暗いです。
最近ちょっと暗い系の話が続いたので、そろそろ暗くない話にシフトしていきたい……
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ケータイの画面に、ちょっと不気味なキャラクターがひょこひょこと踊っている。デフォルメされた猫のマスコットだが、毛色が青白く、ツギハギだらけで包帯が巻いてあり、足を引き摺るようにして踊る。見る人見る人気持ち悪いと言って笑うけれど、優乃香はそうでもないと思う。幸せいっぱいににこにこして、誰からも愛されて当然みたいな顔をしたマスコットキャラなんて、見ていて楽しくない。
待ち受けの時計が18:00になったのを見て、優乃香は顔を上げた。コーヒーショップのウインドウ越し、道路の反対側に、小さく待ち人の顔が見えた。優乃香が笑って手を振ると、向こうも気づいて、ごめんごめんと手を顔の前に立ててきた。
待ち合わせに必ずちょっとだけ遅れてくるのが、昔からの美和の癖で、けれど五分以上は遅れることがないのも、やっぱり美和の性格だ。優乃香はときどき、美和はわざと時計を五分遅らせてるんじゃないかと思う。
ケータイをぱたんと閉じてテーブルに置く。啜ったカフェラテが冷めきって甘ったるい。待ち合わせにちょっとだけ遅れてくるのが美和の癖なら、やたらと早く着きすぎるのが優乃香の癖だ。
「ごめんごめん、待った?」
「待たせてるのが分かってるのに『待った?』って訊くのって、いかにもシャコージレイだよね」
「ごめんって」
言うほうも言われるほうも笑っている。いつものことで、本気で怒っているわけではない。
美和はコーヒーを買ってくると、優乃香の前に座って、ちょっと顔を曇らせた。それから、それをごまかすように笑顔になった。
「また増えたね」
優乃香は笑って首筋を撫でた。「ああ、これ? 可愛いっしょ」
喉元に開けたばかりの小さなピアスは、五つ並べて、花びらのように配置している。まだ開けて一週間にもならず、ピアスホールが完成してもいない。
「可愛いけどさ、穴開けすぎ」
笑いながら、冗談のようにして美和が言う。これもいつものこと。いつもどおりじゃないのは、美和の髪が黒く染められて、耳のピアスホールが目立たなくなっていることだけだ。
「センモンガッコー、ちゃんと行ってるんだ?」
優乃香が訊くと、美和は照れくさそうに自分の頭を触った。清潔感のある短めの黒髪が、さらりと揺れる。昔は優乃香よりよっぽど派手な金色だったのに、いまじゃすっかりイイトコのお嬢さんに見える。それが優乃香には、少し寂しいような気がする。
「なんか、意外と楽しくてさ。ベンキョーが楽しいなんて、生まれて初めてかも」
「よかったじゃん」
優乃香は本気で言ったのだが、美和はちょっと笑顔を曇らせた。その表情の奥にある罪悪感に気づかないふりをしながら、優乃香はコーヒーカップを爪で弾いた。そうしながら、いま美和が飲み込んだ言葉をちょっと想像した。あんたはやっぱり予備校、行ってないんだ? それとも、裏切ってゴメン、かな。美和の性格からすると、後のほうがありそうな気がした。自分だけちゃっかりマジメな学生になっちゃってゴメンね。
「それにしても、美和が保育士ねえ」
優乃香は言って、冷めたカフェラテの残りを飲み干すと、にやっと笑って見せた。美和は強ばっていた表情を解いて、照れくさそうに首筋を掻いた。
「自分がこんな子ども好きだなんて、知らなかったよ」
それからひとしきり、美和の実習の話を聞いた。連日悪ガキに手を焼かされていること、迎えに来るたびに子どもを怒鳴りつけるという母親の話、他の子と遊ぶのがちょっと苦手で、いつもクレヨンで絵を描いている女の子……
「ところでさ、もうすぐだよね」美和はひとしきり学校の話をしたあと、小声になって、本題を切り出してきた。「一周忌」
「ああ、うん。そだね」
優乃香は頷いて、微笑を唇に刻んだ。美和が心配しているのがわかったから、平気な顔を作った。
「あたしも行っていい……よね?」
「もちろん。喜ぶよ、アイツ」
そう言うと、美和はほっとしたように笑った。何に安心したんだろうなと、優乃香は微笑み返しながら、頭の片隅で考えた。アニキが喜ぶという部分にだろうか。それとも、優乃香がさらっと兄の死を口にできるようになったことに?
「もう一年も経つんだね」
ぽつりと、美和がつぶやくように言った。
優乃香はそうだねと頷きながら、美和の耳たぶの、ほとんど目立たなくなったピアスホールをじっと見つめた。
高校三年生の、冬だった。五つ目のピアスホールがやっと完成した日の夕方だった。
眉尻に通したリングを撫でて、優乃香は上機嫌に鏡に笑いかけた。
傷がふさがってホールが完成するまでの間は、なるべく触らないようにしないといけない。弄りすぎると、ばい菌が入って膿んだりする。だから、顔というのは、思っていたよりも大変だった。この次は唇にと思っているのだけれど、ものを食べることを考えたら、もっと大変かもしれない。どうしようか。
壁にちらりと目をやると、ハンガーにかけっぱなしの制服に、窓から差し込む西日が当たっていた。そろそろ出かけるのにちょうどいい頃合だ。
高校にはもうずいぶん行っていなかった。毎日、夕方までは家にいる。日が暮れるのを待って町に出るのがこのごろの習慣だ。そのほうが不愉快な思いをせずにすごせる。優乃香自身も、優乃香の家族も。
玄関の方からどたばたガタンと騒々しい物音がして、優乃香は眉をひそめた。そうすると、ピアスがちょっと引きつって、まだ少し違和感があった。
「何、珍しいじゃん。こんな時間に」
階段を上がってきた兄にそう声をかけると、誠は優乃香の顔に目を向けて、ぎゅっと眉を顰めた。
「また開けたのか」
「兄貴に関係ないじゃん」
わざと吐き捨てるように言うと、誠は自分の部屋のドアを開けて、乱暴にカバンを放り込んだ。
「いい加減にしろよ。そんな目立つところにピアスなんてぶらさげて、お前、自分がどんな風に見えるか分かってるのか?」
優乃香はその横顔に、ふんと鼻で笑って見せた。
「放っといてよ。あたしがどうなろうと、どうせ興味なんてないんでしょ」
誠はイラついたように、ガツンと強く壁をひとつ殴りつけると、無言でどたばたと階段を降りていった。腹立ち任せに、玄関のドアを閉めるのが聞こえてくる。見えなくなった背中に、思い切り舌を出して見せて、優乃香はクロゼットから服を引っ張り出した。
誠のバイクが乱暴な音を立てて遠ざかっていくのが聞こえた。自分だって、どこでバイクなんて買うお金を作ったんだか、好き勝手にやってるくせに。窓の外をちらっと見てから、優乃香はもう一度鏡に目を戻した。
やっぱり次は唇がいい。舌に開けるのもカッコいいけど、自分でやるのはちょっと怖いから。耳だって、ちゃんとビョーインに行って開けてもらったほうがいいと、何度か人から言われたことがあるけれど、高校生がピアスを開けに行って、病院というのが何もいわずにさっさとやってくれるものなのか、自信がなかった。
急に、向かいの家で犬が吠え立てた。ちょっとびくっとして、優乃香は肩をすくめた。一拍遅れて、救急車のサイレンが響いてくる。
救急車なんて別に珍しくもないけれど、今日に限ってなんとなく不安になって、優乃香は窓の外に目を向けた。夕焼けが、雲をやたらと赤く染め上げている。どこか少し離れたところで、救急車のサイレンがぴたっと止んだ。
優乃香は慣れない手つきでタバコを灰皿に押し付けると、左手の指と指の間を冷やしていた氷を退けた。手がじんじんする。そろそろいいだろうか。
買ったばかりのピアッサーと、そこにセットされた無粋な銀色のピアスを、しげしげと見つめる。見慣れない小さな器具が、ものめずらしかった。
クラスで真っ先にピアスを開けたのは、小学校からずっと一等仲良しの美和だった。いいなあ、あたしもやろうかなあと言うと、美和は照れ笑いを浮かべながらちょっと髪をかきあげて、耳たぶにつけた小さなピアスを見せてくれた。
痛くない? と聞くと、氷で冷やしてからやるんだよと、美和は得意げに言った。あたしは安全ピンでやったんだけどね、やっぱりちゃんとした道具を買ったほうがいいみたい。けっこう力がいって、大変だったよ。
すぐに見つかって先生に大目玉を食らったけれど、美和は中学校の教員のことなんか、ちっとも怖くないって顔をしていて、それがピアスそのものよりよっぽどかっこよかった。
最初は優乃香も、美和のように耳にしようと思っていた。けれど、美和に教えてもらったケータイサイトでピアス専門店の説明を読んでいると、むしろ、ボディピアスの方に興味が湧いた。だって、クラスでは美和が最初だったけど、耳にピアスをしてる子なら、ほかのクラスにもいる。ピアスくらいわりとフツーじゃんと、美和と仲の悪い子が強がるように言ったのも、優乃香の耳にはちゃんと入っていた。そんなの虚勢だって分かってたけど、それでもちょっと引っかかっていた。
深呼吸して、優乃香は左手の指と指の間の柔らかいところを、薬局で買ってきたアルコールで拭いた。ピアッサーを慎重に当てる。あんまり浅いところに穴を開けても、そのうち体が傷を塞ごうとして、ピアスを外側に押し出してしまうことがあると、ケータイサイトには書いてあった。下手にビビって力が足りないと、かえって痛い思いをするとも。
もうひとつ深呼吸。ちょっと思い切りがいった。
開けた瞬間は、思ったほど痛くなかった。それよりもけっこう大きな音がして、ちょっとびくっとしてしまった。抵抗があったけど、ぐいぐい押し込んだら、ピアッサーが壊れて、小さな銀色のピアスがしっかりと指の間に通っていた。
ちょうどそのとき、どたばたとガサツな足音がして、優乃香は顔を上げた。兄の誠が帰ってきたのだ。両親はもともと、深夜にならないと帰ってこないが、誠までこのごろ毎日帰りが遅い。友達と遊び歩いているのだ。だから今日も、こんなに早く帰ってくるとは思っていなかった。
「ば……っか、お前、何してんだ!」
予想外の剣幕で怒鳴られて、優乃香は身を竦ませながら自分の手を見下ろして、ぎょっとした。だらだら血が出て、お気に入りの服が台無しだった。
よーく冷やしてからやらないと、痛いし血が出て大変だよと、そういえば美和にも言われたんだった。冷やし方が足りなかったのかもしれない。
じんじんと、遅れて痛みがやってきた。優乃香は顔をしかめて、手を振った。
「痛い」
「当たり前だろ、馬鹿!」
あまりの大声に、優乃香は思わず目を瞑った。
誠に限らず、人から怒鳴られたのは久しぶりだった。両親は、誠や優乃香がタバコの吸殻をリビングに堂々と残していても、夜遅くに帰ってきても、何も言わない。ふたりとも毎晩遅くに、それぞれげっそりした表情で帰ってきて、口を開くのも面倒くさいというように、さっさとシャワーを浴びて誰とも喋らずに寝てしまう。多分、今日優乃香が開けたピアスにも、気づきもしないだろう。
前からずっとそんな調子で、それでも少し前までは、誠と一緒に晩御飯を食べに出かけたり、少しは話をしたりもしていたのに、この頃では、誠はすっかり家に寄り付かなくなってしまった。だから優乃香はいつもひとりで、誰もいない家に取り残される。家族の誰かと最後に話をしたのがいつだったか、ろくに思い出せないくらいだった。
おそるおそる瞑っていた目を開けると、誠は仏頂面の横顔を見せて、戸棚の上から救急箱を下ろしているところだった。
「消毒液なら、こっちにあるよ」
優乃香が言うと、誠はむすっとしたまま近づいてきて、どっかと隣に座ると、優乃香の手を乱暴に引いた。
「いいよ、自分でできるよ」
「手なんか、自分じゃやりにくいだろ」
左手だから関係ないよと言いかけて、優乃香は自分でもよく分からない理由で口を噤んだ。誠は不器用な手つきで消毒液のふたを開けている。その手に、自分の血がついているのを、優乃香はぼんやりと見つめた。
消毒して脱脂綿で拭うと、血はあっけないくらいすぐに止まった。
それだけ確認すると、誠は何も言わず、さっさと部屋を出て行ってしまった。久しぶりに早く帰ってきたと思ったら、何か取りに一旦戻っただけだったらしい。
苛立ったような足音が、玄関を出て、遠ざかっていく。
こみ上げてくる得体の知れない感情の波をじっとやり過ごしながら、優乃香は指の間に通したばかりのボディピアスを見下ろした。
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必須お題:「波」「ボディピアス」「得体の知れない」
縛り:「努力縛り:登場人物が何かの大会で優勝の経験がある」「努力縛り:シーンの経過を逆に並べる(読者が読み進めるにつれて、過去が明らかになるような形で、ワンシーン毎に時間をさかのぼられてください)」「努力縛り:必須お題を最後の一文で全て使う(それ以前にも必須お題を使うことは、もちろんOK)」
任意お題:「間違った感覚」「三月三日」「真っ赤な嘘」
最近ちょっと暗い系の話が続いたので、そろそろ暗くない話にシフトしていきたい……
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ケータイの画面に、ちょっと不気味なキャラクターがひょこひょこと踊っている。デフォルメされた猫のマスコットだが、毛色が青白く、ツギハギだらけで包帯が巻いてあり、足を引き摺るようにして踊る。見る人見る人気持ち悪いと言って笑うけれど、優乃香はそうでもないと思う。幸せいっぱいににこにこして、誰からも愛されて当然みたいな顔をしたマスコットキャラなんて、見ていて楽しくない。
待ち受けの時計が18:00になったのを見て、優乃香は顔を上げた。コーヒーショップのウインドウ越し、道路の反対側に、小さく待ち人の顔が見えた。優乃香が笑って手を振ると、向こうも気づいて、ごめんごめんと手を顔の前に立ててきた。
待ち合わせに必ずちょっとだけ遅れてくるのが、昔からの美和の癖で、けれど五分以上は遅れることがないのも、やっぱり美和の性格だ。優乃香はときどき、美和はわざと時計を五分遅らせてるんじゃないかと思う。
ケータイをぱたんと閉じてテーブルに置く。啜ったカフェラテが冷めきって甘ったるい。待ち合わせにちょっとだけ遅れてくるのが美和の癖なら、やたらと早く着きすぎるのが優乃香の癖だ。
「ごめんごめん、待った?」
「待たせてるのが分かってるのに『待った?』って訊くのって、いかにもシャコージレイだよね」
「ごめんって」
言うほうも言われるほうも笑っている。いつものことで、本気で怒っているわけではない。
美和はコーヒーを買ってくると、優乃香の前に座って、ちょっと顔を曇らせた。それから、それをごまかすように笑顔になった。
「また増えたね」
優乃香は笑って首筋を撫でた。「ああ、これ? 可愛いっしょ」
喉元に開けたばかりの小さなピアスは、五つ並べて、花びらのように配置している。まだ開けて一週間にもならず、ピアスホールが完成してもいない。
「可愛いけどさ、穴開けすぎ」
笑いながら、冗談のようにして美和が言う。これもいつものこと。いつもどおりじゃないのは、美和の髪が黒く染められて、耳のピアスホールが目立たなくなっていることだけだ。
「センモンガッコー、ちゃんと行ってるんだ?」
優乃香が訊くと、美和は照れくさそうに自分の頭を触った。清潔感のある短めの黒髪が、さらりと揺れる。昔は優乃香よりよっぽど派手な金色だったのに、いまじゃすっかりイイトコのお嬢さんに見える。それが優乃香には、少し寂しいような気がする。
「なんか、意外と楽しくてさ。ベンキョーが楽しいなんて、生まれて初めてかも」
「よかったじゃん」
優乃香は本気で言ったのだが、美和はちょっと笑顔を曇らせた。その表情の奥にある罪悪感に気づかないふりをしながら、優乃香はコーヒーカップを爪で弾いた。そうしながら、いま美和が飲み込んだ言葉をちょっと想像した。あんたはやっぱり予備校、行ってないんだ? それとも、裏切ってゴメン、かな。美和の性格からすると、後のほうがありそうな気がした。自分だけちゃっかりマジメな学生になっちゃってゴメンね。
「それにしても、美和が保育士ねえ」
優乃香は言って、冷めたカフェラテの残りを飲み干すと、にやっと笑って見せた。美和は強ばっていた表情を解いて、照れくさそうに首筋を掻いた。
「自分がこんな子ども好きだなんて、知らなかったよ」
それからひとしきり、美和の実習の話を聞いた。連日悪ガキに手を焼かされていること、迎えに来るたびに子どもを怒鳴りつけるという母親の話、他の子と遊ぶのがちょっと苦手で、いつもクレヨンで絵を描いている女の子……
「ところでさ、もうすぐだよね」美和はひとしきり学校の話をしたあと、小声になって、本題を切り出してきた。「一周忌」
「ああ、うん。そだね」
優乃香は頷いて、微笑を唇に刻んだ。美和が心配しているのがわかったから、平気な顔を作った。
「あたしも行っていい……よね?」
「もちろん。喜ぶよ、アイツ」
そう言うと、美和はほっとしたように笑った。何に安心したんだろうなと、優乃香は微笑み返しながら、頭の片隅で考えた。アニキが喜ぶという部分にだろうか。それとも、優乃香がさらっと兄の死を口にできるようになったことに?
「もう一年も経つんだね」
ぽつりと、美和がつぶやくように言った。
優乃香はそうだねと頷きながら、美和の耳たぶの、ほとんど目立たなくなったピアスホールをじっと見つめた。
高校三年生の、冬だった。五つ目のピアスホールがやっと完成した日の夕方だった。
眉尻に通したリングを撫でて、優乃香は上機嫌に鏡に笑いかけた。
傷がふさがってホールが完成するまでの間は、なるべく触らないようにしないといけない。弄りすぎると、ばい菌が入って膿んだりする。だから、顔というのは、思っていたよりも大変だった。この次は唇にと思っているのだけれど、ものを食べることを考えたら、もっと大変かもしれない。どうしようか。
壁にちらりと目をやると、ハンガーにかけっぱなしの制服に、窓から差し込む西日が当たっていた。そろそろ出かけるのにちょうどいい頃合だ。
高校にはもうずいぶん行っていなかった。毎日、夕方までは家にいる。日が暮れるのを待って町に出るのがこのごろの習慣だ。そのほうが不愉快な思いをせずにすごせる。優乃香自身も、優乃香の家族も。
玄関の方からどたばたガタンと騒々しい物音がして、優乃香は眉をひそめた。そうすると、ピアスがちょっと引きつって、まだ少し違和感があった。
「何、珍しいじゃん。こんな時間に」
階段を上がってきた兄にそう声をかけると、誠は優乃香の顔に目を向けて、ぎゅっと眉を顰めた。
「また開けたのか」
「兄貴に関係ないじゃん」
わざと吐き捨てるように言うと、誠は自分の部屋のドアを開けて、乱暴にカバンを放り込んだ。
「いい加減にしろよ。そんな目立つところにピアスなんてぶらさげて、お前、自分がどんな風に見えるか分かってるのか?」
優乃香はその横顔に、ふんと鼻で笑って見せた。
「放っといてよ。あたしがどうなろうと、どうせ興味なんてないんでしょ」
誠はイラついたように、ガツンと強く壁をひとつ殴りつけると、無言でどたばたと階段を降りていった。腹立ち任せに、玄関のドアを閉めるのが聞こえてくる。見えなくなった背中に、思い切り舌を出して見せて、優乃香はクロゼットから服を引っ張り出した。
誠のバイクが乱暴な音を立てて遠ざかっていくのが聞こえた。自分だって、どこでバイクなんて買うお金を作ったんだか、好き勝手にやってるくせに。窓の外をちらっと見てから、優乃香はもう一度鏡に目を戻した。
やっぱり次は唇がいい。舌に開けるのもカッコいいけど、自分でやるのはちょっと怖いから。耳だって、ちゃんとビョーインに行って開けてもらったほうがいいと、何度か人から言われたことがあるけれど、高校生がピアスを開けに行って、病院というのが何もいわずにさっさとやってくれるものなのか、自信がなかった。
急に、向かいの家で犬が吠え立てた。ちょっとびくっとして、優乃香は肩をすくめた。一拍遅れて、救急車のサイレンが響いてくる。
救急車なんて別に珍しくもないけれど、今日に限ってなんとなく不安になって、優乃香は窓の外に目を向けた。夕焼けが、雲をやたらと赤く染め上げている。どこか少し離れたところで、救急車のサイレンがぴたっと止んだ。
優乃香は慣れない手つきでタバコを灰皿に押し付けると、左手の指と指の間を冷やしていた氷を退けた。手がじんじんする。そろそろいいだろうか。
買ったばかりのピアッサーと、そこにセットされた無粋な銀色のピアスを、しげしげと見つめる。見慣れない小さな器具が、ものめずらしかった。
クラスで真っ先にピアスを開けたのは、小学校からずっと一等仲良しの美和だった。いいなあ、あたしもやろうかなあと言うと、美和は照れ笑いを浮かべながらちょっと髪をかきあげて、耳たぶにつけた小さなピアスを見せてくれた。
痛くない? と聞くと、氷で冷やしてからやるんだよと、美和は得意げに言った。あたしは安全ピンでやったんだけどね、やっぱりちゃんとした道具を買ったほうがいいみたい。けっこう力がいって、大変だったよ。
すぐに見つかって先生に大目玉を食らったけれど、美和は中学校の教員のことなんか、ちっとも怖くないって顔をしていて、それがピアスそのものよりよっぽどかっこよかった。
最初は優乃香も、美和のように耳にしようと思っていた。けれど、美和に教えてもらったケータイサイトでピアス専門店の説明を読んでいると、むしろ、ボディピアスの方に興味が湧いた。だって、クラスでは美和が最初だったけど、耳にピアスをしてる子なら、ほかのクラスにもいる。ピアスくらいわりとフツーじゃんと、美和と仲の悪い子が強がるように言ったのも、優乃香の耳にはちゃんと入っていた。そんなの虚勢だって分かってたけど、それでもちょっと引っかかっていた。
深呼吸して、優乃香は左手の指と指の間の柔らかいところを、薬局で買ってきたアルコールで拭いた。ピアッサーを慎重に当てる。あんまり浅いところに穴を開けても、そのうち体が傷を塞ごうとして、ピアスを外側に押し出してしまうことがあると、ケータイサイトには書いてあった。下手にビビって力が足りないと、かえって痛い思いをするとも。
もうひとつ深呼吸。ちょっと思い切りがいった。
開けた瞬間は、思ったほど痛くなかった。それよりもけっこう大きな音がして、ちょっとびくっとしてしまった。抵抗があったけど、ぐいぐい押し込んだら、ピアッサーが壊れて、小さな銀色のピアスがしっかりと指の間に通っていた。
ちょうどそのとき、どたばたとガサツな足音がして、優乃香は顔を上げた。兄の誠が帰ってきたのだ。両親はもともと、深夜にならないと帰ってこないが、誠までこのごろ毎日帰りが遅い。友達と遊び歩いているのだ。だから今日も、こんなに早く帰ってくるとは思っていなかった。
「ば……っか、お前、何してんだ!」
予想外の剣幕で怒鳴られて、優乃香は身を竦ませながら自分の手を見下ろして、ぎょっとした。だらだら血が出て、お気に入りの服が台無しだった。
よーく冷やしてからやらないと、痛いし血が出て大変だよと、そういえば美和にも言われたんだった。冷やし方が足りなかったのかもしれない。
じんじんと、遅れて痛みがやってきた。優乃香は顔をしかめて、手を振った。
「痛い」
「当たり前だろ、馬鹿!」
あまりの大声に、優乃香は思わず目を瞑った。
誠に限らず、人から怒鳴られたのは久しぶりだった。両親は、誠や優乃香がタバコの吸殻をリビングに堂々と残していても、夜遅くに帰ってきても、何も言わない。ふたりとも毎晩遅くに、それぞれげっそりした表情で帰ってきて、口を開くのも面倒くさいというように、さっさとシャワーを浴びて誰とも喋らずに寝てしまう。多分、今日優乃香が開けたピアスにも、気づきもしないだろう。
前からずっとそんな調子で、それでも少し前までは、誠と一緒に晩御飯を食べに出かけたり、少しは話をしたりもしていたのに、この頃では、誠はすっかり家に寄り付かなくなってしまった。だから優乃香はいつもひとりで、誰もいない家に取り残される。家族の誰かと最後に話をしたのがいつだったか、ろくに思い出せないくらいだった。
おそるおそる瞑っていた目を開けると、誠は仏頂面の横顔を見せて、戸棚の上から救急箱を下ろしているところだった。
「消毒液なら、こっちにあるよ」
優乃香が言うと、誠はむすっとしたまま近づいてきて、どっかと隣に座ると、優乃香の手を乱暴に引いた。
「いいよ、自分でできるよ」
「手なんか、自分じゃやりにくいだろ」
左手だから関係ないよと言いかけて、優乃香は自分でもよく分からない理由で口を噤んだ。誠は不器用な手つきで消毒液のふたを開けている。その手に、自分の血がついているのを、優乃香はぼんやりと見つめた。
消毒して脱脂綿で拭うと、血はあっけないくらいすぐに止まった。
それだけ確認すると、誠は何も言わず、さっさと部屋を出て行ってしまった。久しぶりに早く帰ってきたと思ったら、何か取りに一旦戻っただけだったらしい。
苛立ったような足音が、玄関を出て、遠ざかっていく。
こみ上げてくる得体の知れない感情の波をじっとやり過ごしながら、優乃香は指の間に通したばかりのボディピアスを見下ろした。
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必須お題:「波」「ボディピアス」「得体の知れない」
縛り:「努力縛り:登場人物が何かの大会で優勝の経験がある」「努力縛り:シーンの経過を逆に並べる(読者が読み進めるにつれて、過去が明らかになるような形で、ワンシーン毎に時間をさかのぼられてください)」「努力縛り:必須お題を最後の一文で全て使う(それ以前にも必須お題を使うことは、もちろんOK)」
任意お題:「間違った感覚」「三月三日」「真っ赤な嘘」
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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