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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 即興三語小説。縛りの都合でホラーです。また、官能小説ではありませんが、若干の性的描写(を匂わせるもの)を含みますので、苦手な方はご注意くださいませ。

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 扇野朱鷺子は鼻歌を歌いながら、マンションのエレベータを降りた。
 日は暮れかけている。朱鷺子が歩く間に、廊下の蛍光灯が音を立てて点いた。彼女が抱える紙袋に入っているのは、野菜や肉などの当たり前の食材と、やや上等そうなワインの瓶。よく見るとその袋は近所の大型スーパーのものではなく、少し離れたところにある、高級食材を専門に扱う店のものだ。
 朱鷺子は部屋のドアノブに手をかけた拍子に、廊下の天井に蜘蛛の巣が張っていることに気が付いて、眉をひそめた。共同部分の清掃は、業者に委託してまめにさせていると、管理会社は言っていたのに。蜘蛛というのは十二階にでも棲みつくものなのねと、朱鷺子はちらりと考えた。けれどそれも、すぐにどうでもよくなって、鼻歌を再開してドアを開いた。
「お待たせ」
 朱鷺子が歌うような調子で声をかけると、部屋にいた男が小さく頷いて、かすかに微笑んだ。その動きに合わせて、少し伸びかけた黒い髪がさらりと揺れる。
「ちょっと待っててね。カレーを作るから」
 朱鷺子は上機嫌に男に言い置くと、食材を調理台に、放り出すように置いた。ワインの瓶が、不安になるような音を出すけれど、朱鷺子に気にする様子はない。きっと、本当に瓶が割れて食材がワイン浸しになっても気にしないだろう。そのくらいぞんざいな手つきだった。
 男は無言で微笑んだまま、朱鷺子の背中をじっと見つめている。朱鷺子が初めて会って以来、これまで一言も口を開いたことがない。いつ会っても、何をしていても、穏やかに微笑んでいる。朱鷺子はいまだに男の名前も知らない。部屋に上げるのは、今日が初めてのことだ。
 包丁が所定の収納に入っておらず、朱鷺子は首を傾げた。しばらく、バタンバタンとあちらこちらの戸を開き、やがて食器乾燥機の中で埃を被っているのに気づいて、水で洗う。男はにこにこと、その背中を見つめている。
 朱鷺子は普段、料理をしない。けれどカレーだけは別だ。今は亡き朱鷺子の母親が唯一、気が向いたときにだけ彼女に作ってくれたのが、カレーだった。スパイスから作るカレー。朱鷺子は鼻歌を歌いながら、ニンニクを刻む。生唐辛子、クミンシードにシナモンパウダー、カルダモンホール、クローブ、ターメリックにカイエンペッパー。調味料台には塩も砂糖もないくせに、スパイス類だけは色とりどりに並んでいる。それにほとんど空の冷蔵庫には、チャツネやピクルスなどもしっかり揃っている。朱鷺子にとっては切らしてはならない、カレーの大事な脇役だった。
 上機嫌の朱鷺子が、慣れた手つきでカレーを作る間、男はおとなしく背後のリビングでソファーにかけている。朱鷺子は手を動かしながら、振り向きもせずに男に話しかける。男は相槌ひとつうたず、にこにこと無言で頷きながら、朱鷺子の手つきを眺めている。
 男が口を利けないのか、単に無口なのか、朱鷺子は確かめてみたことがない。実のところ、確かめる必要を感じたこともない。男が口を利こうが利くまいが、話を聞いていようがいまいが、朱鷺子は少しも気にしないだろう。一方通行の言葉が、断続的にキッチンからリビングへ投げられる。返事を求めない言葉。朱鷺子が勤めている会社は実の父親のもので、お飾りのような仕事だけれど、退屈なのさえガマンしてればお給料をもらえるから、お小遣いには困らないのだとか、朱鷺子は父親に認知されていないから、苗字は違うのだけれど、このマンションはその父親が与えたものなのだとか、そういう話を、脈絡もなくぽんぽんと飛びはねさせながら、朱鷺子は上機嫌に話し聞かせ続ける。
 男がなぜ、それほど親しくもない朱鷺子を急に訪ねてきたのかとか、そういうことは、朱鷺子は訊かない。この後どうするつもりだとか、男が普段は何をして暮らしているのかだとか、そういうことは朱鷺子にとってはどうでもいいことだからだ。


 スパイスの匂いが部屋を満たす頃、朱鷺子は思い出したようにワインをリビングに運んだ。目玉の飛び出るような値段のものではないが、それなりに良い赤。赤ワインは冷やさずに飲むものなんだってと、朱鷺子は言って、ワイングラスを男にさしだす。男は受け取るが、そのまますっとテーブルにグラスを置いた。朱鷺子はそれを見ているけれど、何も言わないし、とりたてて気を悪くもしなければ、怪訝に思いもしない。
 朱鷺子はカレー皿をふたつ、リビングに運んで、男の対面のソファへ座る。あちらへ飛びこちらへ話題を飛ばしながら、その合間に単調なリズムでカレーを口に運ぶ。男はそれに笑顔で頷きながら、カレーにもワインにもまるで口をつけないし、そのことへの弁明、たとえばカレーは苦手なんだとか、今は腹が減っていなくてだとか、そういうことはひとつも口にしないし、すまなさそうな顔もしない。朱鷺子も気にしない。気にしないというよりも、男が何も口に入れないことに、目の前で見ていてさえ、気がついてもいないかのようだ。
 何事もなかったように、朱鷺子は夕食を終え、皿を台所に運び、男が一口もつけなかったカレーを、あっさりと三角コーナーに捨てた。それから上機嫌に、シャワーを浴びてくるわねと笑った。男はやはり、黙って微笑んでいる。
 朱鷺子が浴室にいる間、男は退屈というふうにでも、これから先の展開に期待をするというふうにでもなく、誰もいない部屋で穏やかな微笑を浮かべたまま、じっとソファにかけている。ときおり部屋の外から聞こえてくるかすかなクラクションやサイレンの音のほかは、朱鷺子の立てる水音だけが流れている。防音がしっかりしているらしく、周囲の部屋の生活音は届かない。部屋は静かなものだ。テレビは朱鷺子の部屋にはない。
 朱鷺子はテレビが嫌いなのだと、先ほどの一方的な会話の中に出てきた。男はそれにただ頷くだけで、何で嫌いなのとか、そういうことは訊かなかった。訊かないけれど、朱鷺子は勝手に話した。だって、興味ないもの。テレビとかって、どうでもいいようなことしか言わないじゃない?
 男は頷いたが、その頷きは、肯定しているようにも否定しているようにも見えない、ただ機械的な一連の動作だった。だが、朱鷺子はそのことに気づかない。気づかないというよりも、興味がないのだろう。
 やがてシャワーを浴びて出てきた朱鷺子は、髪を拭きながら、天井の隅を何気なく見上げ、そこに蜘蛛の巣が張っていることに気づいた。あら、やあね、こんなところにも。掃除はしているつもりなんだけど。
 朱鷺子が手触りのいいバスローブの感触を確かめながら、部屋の照明を落としてしまっても、カーテン越しに月明かりが入っていた。その薄闇の中で、朱鷺子はゆっくりと男に歩み寄る。男は微笑を浮かべたまま、朱鷺子の腰を抱き取る。唇が近づく。ぼんやりと壁に映る、ふたつの影が重なる。
 雲に月がかかったのだろう。ふっと部屋に暗闇が落ちた。濡れた音が響く。そこにかすかな笑い混じりの吐息が混じる。衣擦れ、何かをまさぐるような音。
 思い出したように響く、遠い世界からやってくるような、かすかな救急車のサイレン。それは夜の闇を裂かず、尾を引いて吸い込まれていくように、部屋の空気に溶け込んだ。
 やや唐突な、ぷつん、という音に、朱鷺子の息が重なった。どさりとソファーに身体の投げ出される音。
「っ、――あ」
 朱鷺子がどこか捩れたような、けれど甘い声を上げる。
 どこか遠く、地上で、犬が高く吼える。一匹が吼えると、つられたように近所中で声が上がる。けれど朱鷺子は聞いていない。
 ぼりん、ごき。今度は少し大きな音が鳴ったけれど、防音のしっかりしたマンションだから、それくらいでは近くの部屋にまでは届かない。まして、じゅる、とそこに続いたのは、いったい何を啜る音だろうかと、怪訝に思うような人もいない。もっとも、聞こえていたとしても、そこに朱鷺子の甘い吐息が重なっているのだから、誰もあきれるばかりで、わざわざチャイムを鳴らしたりはしなかっただろう。
「あ――、ア」
 ふと切迫したような、吐息が響く。それきりいっとき、声は途絶えた。ただ濡れた音、何かを吸い、舐め取るような音だけが、途切れ途切れに長く続く。
 やがて雲が晴れた。窓越しの月明かりに照らされて、壁に投げられる影はひとつきりだ。しなやかな、やわらかいはずの身体を、どこかぎこちなくソファに起こして、その影は、己の喉を撫でるようなしぐさをした。
「あ、あ、――アア、ア」
 影はしばらく、喉の調子を確かめるような声を上げると、細く滑らかな線を描く自分の腕を撫でさすった。
「ワタシ、わたし、ハ、トキコ。私は朱鷺子。扇野朱鷺子」
 少し喋ると、声はずいぶん滑らかになった。それに満足したのか、影は立ち上がって、部屋の照明をつけた。若い女性の裸体が、白い蛍光灯に照らされる。首筋にわずかについた血をぬぐうと、鏡の前に立って、自分の顔を覗き込む。それから満足したように、穏やかに微笑む。その笑顔が己で気に入らなかったのか、指でそっと頬の筋肉を揉み解すようにして、それは何度か笑う練習をした。
 男の姿は部屋のどこにもない。ただ足元に脱ぎ捨てられた衣服に混じって、何か素材の知れない、ゴムのような質感の布が一枚、丸まって落ちているばかりだ。


「もう、凄いプレッシャーですよ。対応をちょっと間違えたら、とんでもないことをやらかすんじゃないかって。目がフツーじゃなかったですもん、あのお客さん」
 美枝は一息にいうと、ぶるりと肩を揺らした。自分の二の腕をさすりさすり、あまり期待せずに同意を求めて隣を見ると、扇野朱鷺子はにっこりと微笑んで、「大変だったわね」と相槌を打った。
 その反応に意表をつかれて、美枝は目を丸くした。この人が、こんなふうに美枝の話をちゃんと聞くのは、初めてのことではなかっただろうか?
 もちろん、誰かに聞いてほしくて愚痴をこぼしたのだが、本当に聴いているとは思っていなかったのだ。この先輩はいつも何を話しかけても、返事こそするものの、その内容はかみ合うようでかみ合わないもので、こちらの言いたいことを、聞いてはいてもひとつも理解してくれていないような、そんな調子だった。長く話をしていると、宇宙人と向き合っているかのような、不安定な気持ちになる。
「自分の世界だけで生きてる不思議ちゃんだから」と、また別の先輩が、朱鷺子について評していた。けれど誰も、だからといって朱鷺子を表立ってのけものにしたり、虐めたりはしない。お偉いさんのコネで入社したという話があって、うかつに苛めたりしたら、自分の方が追い出されちゃうわよと、本当だかただの噂だかよく分からない話も、美枝はその先輩から聞かされた。
 だから、内心ではたいへん苦手だと思っていても、同じ部署で机を並べて働いていて、無視するわけにもいかず、ままごとのようにかみ合わない会話を続けるのが常だった。
 それが、今日返ってきたのは、まっとうなねぎらいの言葉ときた。それも、いつものように、どこか現実とは違う世界を見ているような目つきではなくて、美枝の目をまっすぐに見ての返事だった。どうした風の吹き回しだろうと、美枝は自分から話をふっておきながら、あっけにとられた。
 とっさに驚きすぎて黙ってしまった美枝だったが、やがてよく分からないながらも微笑んだ。何かいい変化があったのかもしれない。ステキな恋人が出来たとか、そういうことが。
 美枝は気を取り直して、「そうなんです、ホント、参っちゃいました。途中でパニック起こしそうになるし」と、少しだけ愚痴の続きをこぼして、ためいきをついた。
「パニック、ね。脳が舞うほど?」
 変な訊きかたをされて、美枝は思わずくすりと笑った。話を聞く態度が変わっても、やっぱり朱鷺子の発言が妙なことには違いなかった。
「それ、斬新なたとえですね」
「そうかしら」
 朱鷺子は自覚がないらしく、小首を傾げた。朱鷺子の仕草はいつも変なくらい上品で、育ちのよさを感じさせた。それが、今日に限っては少しぎこちないように見えて、美枝はかすかな違和感を覚えた。けれど、わざわざ指摘するようなことでもなかったので、口に出しては言わなかった。
「そうですよ。舞い上がるとか、地に足がつかないとかはいいますけど、それだって、嬉しくてふわふわしてるときの表現じゃないですか?」
「そう。言葉を知ってるのね」
「普通ですよ」
 言いながら、なんとなく落ち着かないような思いで、美枝は書類の端を意味もなく揃えた。隣で朱鷺子も、自分の持っていた書類を、まるで美枝の動作を真似するかのように、とんとんと揃えた。
「あれ……扇野さん、そんなところに黒子、ありましたっけ?」
 美枝が朱鷺子の手の甲に浮いた小さな点を見とがめて、とっさに聞くと、朱鷺子はその手を撫でて、「どうだったかしら」と微笑んだ。
 美枝はその反応に、首を捻った。そりゃ、自分で知らない黒子くらい、あってもおかしくはないけれど、手の甲なんて、毎日見る場所じゃないか。そんな位置の黒子に、まったく気づかないことがあるだろうか。それに……
「ちょっといいかな、城田くん」
 少し離れた席から上司に手招きされて、美枝ははいと慌てて立ち上がった。何の話だろう、さっきのお客様のことだろうか、それとも怒られるようなことでもしただろうかと思いながらも、美枝は頭の片隅で、ぜんぜん違うことを考えていた。なんだか変な黒子に見えたけど、気のせいだろうか? 黒子だって、大きいものなら盛り上がっていたりするけれど、なんだかあれは、――そう、黒い棘が皮膚を破って突き出しているかのように見えた。
 美枝は首を小さく振って、思わず二の腕をさすった。鳥肌が立ったのは、半分は、効きすぎた冷房のせいだ。じっくりと見つめたわけではないから、美枝の単なる見間違いかもしれない。そうじゃなかったら、ホラー小説の読みすぎで、錯覚を起こしたんだ。
 そして上司と、クレーマーへの今後の対応について打ち合わせる間に、美枝はそのことをすっかり忘れてしまった。

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必須お題:「凄いプレッシャー」「脇役」「脳が舞うほど」
縛り:「暗闇の中のシーンを入れる」「登場人物がカレー好きであること」「エロティックホラーにする」
任意お題:「無謬」「印籠」「抜け駆けされる方が悪い」(使用できず)

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