小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。暗い話注意です。
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「大寒のみぎり、皆様にはますます御健勝のこととお喜び申し上げます。直正さんにおかれましては、その後、すっかり足のご調子も戻られたとのこと、このごろではご結婚のお話も出ていると、風の便りに伺いまして、自分のことのようにうれしく思っています。祥子さんも、もう何年もお見かけしておりませんが、いまではすっかりお美しい女性になったことでしょうね。
お恥ずかしながらこの四月から、長く離れていました生家に戻ることとなりました。不出来な隣人ではありますが、今後ともどうぞよろしくご指導くださいませ。寒さことのほか厳しい折から、ご家族皆様がますます健やかにお過ごしになられますよう、お祈り申し上げております。四月に皆様にお目にかかれる日を、楽しみにしています。――早紀子」
部屋が薄暗くなり、白い便箋の上に並ぶ流麗な文字が読みづらくなって初めて、直正は日が暮れつつあることに気が付いた。
くしゃりと、手紙を握りつぶす。その指がかすかに震えているのに気が付いて、直正は、いまここに妹がいなくてよかったと思った。
とっくに完治したはずの足が、うずくような錯覚を覚えて、直正は半面を手のひらで覆うと、震える息をついた。あの女が帰ってくる。
手紙を灰皿の上に放りやって、ライターで火をつけると、燃え上がる炎がいっとき、夕闇に包まれる部屋を赤々と照らし出した。焦げ臭い匂いがリビングを満たす。直正はのろのろと壁際に寄って、窓を全開にした。
湿った風が吹きつける。南西の空に、分厚い雲が覆いをかけていた。もう少しすれば、一雨くるだろう。
どんと、誰かの肩があたった。駅の構内、雨で滑る階段の、一番上だった。とっさに体勢を整えようとした肘に、別の誰かの背中が当たって、直正の身体は弾かれた。
ラッシュ時であれば、下の段には大勢の人がいて、誰かが支えてくれたかもしれないが、あいにくと、人気はまばらだった。いや、下手に将棋倒しにならなくて、よかったというべきだったのかもしれないが。
落ちると確信した瞬間、頭の中を占拠していたのは、待ち合わせの相手が心配するだろうということだった。
どこをどうぶつけたのか、自分でも分からなかった。ぐるぐると視界が回り、気づけば階段の一番下で、まわりで誰かが悲鳴を上げていた。頭と、左足が熱く痺れるようで、痛みは遅れてやってきた。
見上げた階段の一番上に、直正が見たのは、見慣れた早紀子の顔だった。口元を覆って、悲鳴を上げているその目の、表情とは裏腹な色合いに、直正は気の遠ざかるのを感じながら、戦慄した。
最初に違和感を覚えたのは、いつだったのだろう。直正は、歯を食いしばりながら、灰皿に積もった燃えカスを捨てた。
そう、あれは妹の祥子が、小学校に上がったばかりの頃だったと思う。その頃、祥子はいつも、みっつ年上の早紀子のあとを追いかけて回っていた。何をするのも、早紀ちゃんと一緒がいいのだと、無邪気に、姉を慕うように、早紀子を慕っていた。
ある日、泣きながら家に帰ってきた祥子に、直正は驚いて玄関に駆け下りた。よく泣く妹ではあったけれど、尋常でない泣き方だった。
身も世もなく泣き喚く妹の、お下げにして出かけていたはずの髪が、解かれて、右側の半分だけが、ざっくりと耳元まで切られていた。
驚いて訳を問いただすと、早紀ちゃんが切ったという。遅れて、早紀子が駆け込んできて、面食らっている母親の前で、泣き出しそうな顔で、礼儀正しく頭を下げて侘びた。
――ごめんなさい。わたし、前から美容師さんになりたくて、お人形さんで練習してたの。可愛くカットしてあげようと思ったら、切りすぎちゃったの。ホントにごめんなさい。
いつも面倒見よく妹を世話してくれている、隣の家の娘が、きちんとお行儀よくして、必死に謝るので、悪気がなかったとはいえ、子どもが人に鋏を向けたらだめだと軽く叱る以上のことは母親にもできず、いつも落ち着きなく動き回る妹が、途中で考えなしに動いたのだろうということに、話は落ち着いてしまった。
祥子はその日は一日中、伸ばしていた髪をさわりながら、この世の終わりのように泣いていたけれど、そのあと数日もしたら、何度も何度も必死に謝る早紀子が、いつもよりさらにやさしく接してくれるものだから、それに気をよくして、すぐに仲直りしてしまった。
けれど直正は、見てしまった。そのほんの数日あと、妹とお人形さんごっこをしている早紀子が、リカちゃんだかジェニファーだかわからないが、鋏で自分のお人形の髪を、ざっくりと大きく切り刻んで、無邪気そうに笑っているところを。
それでもそれは、子どもの頃のことで、それきりの出来事だったから、直正もしばらくすると、そんなこともあったのだと、ほとんど忘れかけてしまっていた。早紀子とはときどき家の前で顔を合わせ、言葉を交わすことはあったけれど、年下の女の子と一緒に遊んで回るわけでもないから、それだけだった。
直正が中学校の三年生に上がったばかりの頃だった。
クラスメートの女子と、一緒に帰ってきたことがあった。それはほとんど偶然に近い幸運だったけれど、直正にとっては遅い初恋の最中で、まだ告白も何もしていなかったけれど、ともかく彼女の表情や、交わした言葉の端々から、少しは脈があるのではないかと、どぎまぎしていた。
駅から家の前まで歩く、途中の道に、早紀子がいた。
はじめ、直正はそのことに気づいていなかった。隣ではにかんでいる、好きな女の子との会話を途絶えさせないことに必死で、周りの風景など目に入っていなかったからだ。
声をかけてきたのは、向こうからだった。
「直ちゃん、その人、彼女?」
訊かれて赤くなりながら、直正はとっさに否定した。
「そんなんじゃねえよ」
「そう」
早紀子はにっこりと笑って、隣を歩き出した。彼女だったら遠慮するけど、お友達ならいいよねというように、早紀子は好奇心に目を輝かせながら、彼女に話しかけた。その話題のふり方も如才なく、たとえば爪の形がきれいだとか、足が長くてうらやましいだとか、そういうふうにさりげなく誉めるものだから、彼女の方もそれほど悪い気はしなかったようで、和やかに会話をしながら、気づけば彼女の家の前だった。
そこから直正や早紀子の家までは、ほんの十分ほどの道行きで、直正は正直、あまり面白くはなかったけれど、それを口に出すわけにもいかず、むすっとして無言で歩いていた。
「ねえ、直ちゃん、もしかしてわたし、邪魔しちゃった? ごめんね」
家の前で、早紀子がぽつりと言った。それがすまなさそうにしょげかえっていたので、直正も責めるわけにもいかず、「そんなんじゃねえよ」と言って、その日はそれだけだった。
数日が経った土曜の午後、早紀子が家を訪ねてきた。妹に用だろうと思った直正が、祥子を呼ぼうとすると、早紀子は首を振って、直ちゃんに話があるのと言った。
その眉は下がっていて、いかにも申し訳なさそうで、直正は話を聞く前から、いやな予感がした。
「こないだ、一緒に帰ってきた人のことで」
早紀子は、言いたくないことを仕方なく言うのだと、そういう態度を終始一貫、崩さなかった。
あの人、可愛いね。直ちゃん、あの人が好きなの? でもね、わたし、悪い噂を聞いちゃったの。あのね、怒らないでね。あの人、美空さんていうんでしょう。先月までね、K高の三年生と付き合ってたんだって。それで、いかがわしいところに出入りしてるのを、補導されたんだって。知らなかった? ごめんね、でも、直ちゃんが心配なのよ。このまえ話したときには、いい人そうだったけど、ほら、人って、ちょっと話しただけじゃ分からないじゃない。直ちゃんが変なことに巻き込まれたりしたらって思うと、わたし、心配で。
そんな話はでまかせの、ただの噂で、美空はそんな子ではないと、直正が怒りだすと、早紀子は泣きながら、変なこといってごめんなさいと帰っていった。でたらめだと思う一方で、直正はその話が心のどこかにひっかかって、とげのように抜けない疑惑となったのを自覚していた。
その後、結局、直正は美空と付き合うことになった。彩華が聞き込んできたという話を、口にできないまま。ただの出任せだと思っていたし、正直にいえば、確かめるのが怖かった。
けれど結果から言えば、その話は本当だったのだ。
美空と喧嘩になった拍子に、直正はぽろりとその話題を口に出してしまった。美空は泣き、どう謝っても、もう過ぎたことだからといっても、二人の関係はぎくしゃくしたまま、何ヶ月かの時間を置いて、二人は別れた。
しばらくして、彩華がまた、家を訪ねてきた。
「直ちゃん、あの人と別れたって……恭子ちゃんから聞いたの。もしかして、わたしが要らないことを言ったから? ねえ、そうなの? ごめんなさい、直ちゃん。わたし」
泣きそうになりながら、何度も謝る彩華を、直正は責めなかった。彩華は何も悪いことはしていない。聞いた話を伝えただけだ。ただそれだけだ。
直正が高校三年生になったばかりのときだ。
中学生だった恭子に、好きな人ができた。兄妹仲はよかったので、直正はときどき、恭子とそんな話もしていた。妹は晩生で、積極的に誰かに迫っていけるようなタイプではなかったし、その相手も直正と同じ年で、妹とは少し年齢が離れていた。だから、直正も、かわいそうだけれど妹の恋愛が、うまくいくとはあまり思っていなかった。
秋の、風が冷たくなってきた頃のことだった。その日の朝から、空は澄み切った秋晴れだった。よく覚えている。
日が沈もうかという頃、妹が泣きながら帰ってきた。幼い頃のような、声を張り上げた身も世もない泣き方ではなかったけれど、その腫れた目を見た瞬間、なぜか直正は、恭子が髪を切られて泣いて戻ってきた日のことを思い出していた。
恭子は何も言わず、夕食もとらずに部屋に引きこもり、翌朝も、心配して見守る家族の誰とも口を利かずに家を出て行った。
しばらく経って、直正は、その妹の思う相手が、家の前を通るところを見かけた。
前に見かけたときと同じ、他校の学生服を着ていて、照れくさそうに笑いながら、隣を歩く誰かと話し込んでいた。
二人は隣の家の前で立ち止まり、名残惜しそうに何かを話し込んでいた。
隣にいたのは、彩華だった。
二人は顔を寄せ合って、何事か楽しげに話し、やがて名残惜しそうに、振り返り振り返りしながら、男は帰っていった。彩華が手を振って彼氏を見送るのを、少し離れたところで、直正は立ち尽くして見守っていた。やがて、彩華がゆっくりと振り返って、目があった。彩華の目は笑っていた。照れくさそうに。
恭子に問いただすと、妹はただ泣くばかりで、何も事情を言わない。かっとなった直正が、彩華のところに話を聞きに行くと、きょとんとしていた彩華は、話の途中で顔色を変えた。ごめんなさい、知らなかったの。恭子ちゃんの好きな人が、吉田くんっていう名前なのは聞いてたけど、よくある名前だし、年もちょっと離れてるし、まさか同じ人なんて、思わなかったから。知ってたら、わたし――
知っていたら?
直正はその問いを、口に出しては言わなかったが、まるで直正の心の声が聞こえるかのように、彩華はばっと裏切られたような、ひどく悲しげな顔になった。今にも泣き出しそうに、目を潤ませて、唇を噛んだ。
――わざとだったと思ってる? わたしのこと、疑ってる? そんなひどいこと、するわけないじゃない。可愛い恭子ちゃんの好きな人だって知ってたら、吉田くんとなんて付き合わなかった。
玄関の内側で、恭子がそのやり取りを聞いていたことを、直正はずいぶんあとになるまで、知らなかった。
ぴーんぽーんと、間の抜けたチャイムがなって、直正はぎくりとした。時間からすると、恭子が帰ってきたのだろう。恭子は社会人になって何年も経つ今でも、よく鍵を忘れてでかけて、家族に開けさせる。
聡いところのある妹だ、換気したつもりでも、ものが燃えた匂いに気づくかもしれない。どう言おう。四月になったらあの女が帰ってくると、知れば恭子は怯えるだろう。
陰鬱な気分で、玄関のロックをはずした直正は、違和感を覚えて眉を上げた。恭子ならさっさとドアを開けて入ってくるはずだ。
それでも、まさか無視して鍵をかけなおすわけにもいかず、直正は細くドアを開いて、隙間から顔を出した。
日の沈んだ薄闇に、浮かび上がるように、白い肌が見えた。つばの広い帽子の下に、優雅な微笑みが覗いている。
直正はその場で凍りついたように立ち尽くした。数年ぶりに見た彩華は、こちらが口を開くのを待っているように、小首を傾げて、愛らしく微笑んでいる。
「――帰ってくるのは、春なんじゃないのか」
「手紙、ついたのね。よかった。今日は家の片付けだけ」
ふふっと、笑って綾香は直正を見上げた。
「直ちゃん、変わってないね」
直正は返事をしなかった。下手なことが言えない。少しでもよけいな情報を与えたくなかった。
「恭子ちゃんは、すごく奇麗になったね。誰かいい人がいるのかしら」
「会ったのか」
思わず声が剣呑になった。綾香はそれに少しも気づかないように、楽しげに瞳をきらめかせた。
「昨日ね、駅で偶然。恭子ちゃん、髪をずいぶん短くしたのね、でも、似合ってたわ。――そうそう、そのときにね、小枝さんって方にお会いしたのよ。祥子ちゃんと楽しそうにお話してらしたから。直ちゃんの婚約者の方って、あの方でしょう。かわいらしい人ね」
彩華は目の前で無邪気そうに笑っている。直正は、目の前がすっと暗くなっていくかのような錯覚を覚えて、壁に手をついた。湿った、生ぬるい風が吹き付けて、彩華の黒い髪を揺らす。
「四月から、またお隣さんね。楽しみにしてるわ」
涼やかな笑い声を残して、綾香はスカートの裾を翻した。宵闇の中に溶け込むように、白いふくらはぎが遠ざかっていく。
直正は低く呻いて、手のひらで顔を覆った。
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必須お題:「湿った風」「心の声が聞こえる」「下手なことが言えない」
縛り:「悪女が登場する」「二十四節気のうちひとつ以上を舞台上の時間とし、その名を文中に使う」
任意お題:「自縛霊を拾ってきたらいけません」「連綿と続く」「ホワイトデーにはまだ若干の余裕があります」
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「大寒のみぎり、皆様にはますます御健勝のこととお喜び申し上げます。直正さんにおかれましては、その後、すっかり足のご調子も戻られたとのこと、このごろではご結婚のお話も出ていると、風の便りに伺いまして、自分のことのようにうれしく思っています。祥子さんも、もう何年もお見かけしておりませんが、いまではすっかりお美しい女性になったことでしょうね。
お恥ずかしながらこの四月から、長く離れていました生家に戻ることとなりました。不出来な隣人ではありますが、今後ともどうぞよろしくご指導くださいませ。寒さことのほか厳しい折から、ご家族皆様がますます健やかにお過ごしになられますよう、お祈り申し上げております。四月に皆様にお目にかかれる日を、楽しみにしています。――早紀子」
部屋が薄暗くなり、白い便箋の上に並ぶ流麗な文字が読みづらくなって初めて、直正は日が暮れつつあることに気が付いた。
くしゃりと、手紙を握りつぶす。その指がかすかに震えているのに気が付いて、直正は、いまここに妹がいなくてよかったと思った。
とっくに完治したはずの足が、うずくような錯覚を覚えて、直正は半面を手のひらで覆うと、震える息をついた。あの女が帰ってくる。
手紙を灰皿の上に放りやって、ライターで火をつけると、燃え上がる炎がいっとき、夕闇に包まれる部屋を赤々と照らし出した。焦げ臭い匂いがリビングを満たす。直正はのろのろと壁際に寄って、窓を全開にした。
湿った風が吹きつける。南西の空に、分厚い雲が覆いをかけていた。もう少しすれば、一雨くるだろう。
どんと、誰かの肩があたった。駅の構内、雨で滑る階段の、一番上だった。とっさに体勢を整えようとした肘に、別の誰かの背中が当たって、直正の身体は弾かれた。
ラッシュ時であれば、下の段には大勢の人がいて、誰かが支えてくれたかもしれないが、あいにくと、人気はまばらだった。いや、下手に将棋倒しにならなくて、よかったというべきだったのかもしれないが。
落ちると確信した瞬間、頭の中を占拠していたのは、待ち合わせの相手が心配するだろうということだった。
どこをどうぶつけたのか、自分でも分からなかった。ぐるぐると視界が回り、気づけば階段の一番下で、まわりで誰かが悲鳴を上げていた。頭と、左足が熱く痺れるようで、痛みは遅れてやってきた。
見上げた階段の一番上に、直正が見たのは、見慣れた早紀子の顔だった。口元を覆って、悲鳴を上げているその目の、表情とは裏腹な色合いに、直正は気の遠ざかるのを感じながら、戦慄した。
最初に違和感を覚えたのは、いつだったのだろう。直正は、歯を食いしばりながら、灰皿に積もった燃えカスを捨てた。
そう、あれは妹の祥子が、小学校に上がったばかりの頃だったと思う。その頃、祥子はいつも、みっつ年上の早紀子のあとを追いかけて回っていた。何をするのも、早紀ちゃんと一緒がいいのだと、無邪気に、姉を慕うように、早紀子を慕っていた。
ある日、泣きながら家に帰ってきた祥子に、直正は驚いて玄関に駆け下りた。よく泣く妹ではあったけれど、尋常でない泣き方だった。
身も世もなく泣き喚く妹の、お下げにして出かけていたはずの髪が、解かれて、右側の半分だけが、ざっくりと耳元まで切られていた。
驚いて訳を問いただすと、早紀ちゃんが切ったという。遅れて、早紀子が駆け込んできて、面食らっている母親の前で、泣き出しそうな顔で、礼儀正しく頭を下げて侘びた。
――ごめんなさい。わたし、前から美容師さんになりたくて、お人形さんで練習してたの。可愛くカットしてあげようと思ったら、切りすぎちゃったの。ホントにごめんなさい。
いつも面倒見よく妹を世話してくれている、隣の家の娘が、きちんとお行儀よくして、必死に謝るので、悪気がなかったとはいえ、子どもが人に鋏を向けたらだめだと軽く叱る以上のことは母親にもできず、いつも落ち着きなく動き回る妹が、途中で考えなしに動いたのだろうということに、話は落ち着いてしまった。
祥子はその日は一日中、伸ばしていた髪をさわりながら、この世の終わりのように泣いていたけれど、そのあと数日もしたら、何度も何度も必死に謝る早紀子が、いつもよりさらにやさしく接してくれるものだから、それに気をよくして、すぐに仲直りしてしまった。
けれど直正は、見てしまった。そのほんの数日あと、妹とお人形さんごっこをしている早紀子が、リカちゃんだかジェニファーだかわからないが、鋏で自分のお人形の髪を、ざっくりと大きく切り刻んで、無邪気そうに笑っているところを。
それでもそれは、子どもの頃のことで、それきりの出来事だったから、直正もしばらくすると、そんなこともあったのだと、ほとんど忘れかけてしまっていた。早紀子とはときどき家の前で顔を合わせ、言葉を交わすことはあったけれど、年下の女の子と一緒に遊んで回るわけでもないから、それだけだった。
直正が中学校の三年生に上がったばかりの頃だった。
クラスメートの女子と、一緒に帰ってきたことがあった。それはほとんど偶然に近い幸運だったけれど、直正にとっては遅い初恋の最中で、まだ告白も何もしていなかったけれど、ともかく彼女の表情や、交わした言葉の端々から、少しは脈があるのではないかと、どぎまぎしていた。
駅から家の前まで歩く、途中の道に、早紀子がいた。
はじめ、直正はそのことに気づいていなかった。隣ではにかんでいる、好きな女の子との会話を途絶えさせないことに必死で、周りの風景など目に入っていなかったからだ。
声をかけてきたのは、向こうからだった。
「直ちゃん、その人、彼女?」
訊かれて赤くなりながら、直正はとっさに否定した。
「そんなんじゃねえよ」
「そう」
早紀子はにっこりと笑って、隣を歩き出した。彼女だったら遠慮するけど、お友達ならいいよねというように、早紀子は好奇心に目を輝かせながら、彼女に話しかけた。その話題のふり方も如才なく、たとえば爪の形がきれいだとか、足が長くてうらやましいだとか、そういうふうにさりげなく誉めるものだから、彼女の方もそれほど悪い気はしなかったようで、和やかに会話をしながら、気づけば彼女の家の前だった。
そこから直正や早紀子の家までは、ほんの十分ほどの道行きで、直正は正直、あまり面白くはなかったけれど、それを口に出すわけにもいかず、むすっとして無言で歩いていた。
「ねえ、直ちゃん、もしかしてわたし、邪魔しちゃった? ごめんね」
家の前で、早紀子がぽつりと言った。それがすまなさそうにしょげかえっていたので、直正も責めるわけにもいかず、「そんなんじゃねえよ」と言って、その日はそれだけだった。
数日が経った土曜の午後、早紀子が家を訪ねてきた。妹に用だろうと思った直正が、祥子を呼ぼうとすると、早紀子は首を振って、直ちゃんに話があるのと言った。
その眉は下がっていて、いかにも申し訳なさそうで、直正は話を聞く前から、いやな予感がした。
「こないだ、一緒に帰ってきた人のことで」
早紀子は、言いたくないことを仕方なく言うのだと、そういう態度を終始一貫、崩さなかった。
あの人、可愛いね。直ちゃん、あの人が好きなの? でもね、わたし、悪い噂を聞いちゃったの。あのね、怒らないでね。あの人、美空さんていうんでしょう。先月までね、K高の三年生と付き合ってたんだって。それで、いかがわしいところに出入りしてるのを、補導されたんだって。知らなかった? ごめんね、でも、直ちゃんが心配なのよ。このまえ話したときには、いい人そうだったけど、ほら、人って、ちょっと話しただけじゃ分からないじゃない。直ちゃんが変なことに巻き込まれたりしたらって思うと、わたし、心配で。
そんな話はでまかせの、ただの噂で、美空はそんな子ではないと、直正が怒りだすと、早紀子は泣きながら、変なこといってごめんなさいと帰っていった。でたらめだと思う一方で、直正はその話が心のどこかにひっかかって、とげのように抜けない疑惑となったのを自覚していた。
その後、結局、直正は美空と付き合うことになった。彩華が聞き込んできたという話を、口にできないまま。ただの出任せだと思っていたし、正直にいえば、確かめるのが怖かった。
けれど結果から言えば、その話は本当だったのだ。
美空と喧嘩になった拍子に、直正はぽろりとその話題を口に出してしまった。美空は泣き、どう謝っても、もう過ぎたことだからといっても、二人の関係はぎくしゃくしたまま、何ヶ月かの時間を置いて、二人は別れた。
しばらくして、彩華がまた、家を訪ねてきた。
「直ちゃん、あの人と別れたって……恭子ちゃんから聞いたの。もしかして、わたしが要らないことを言ったから? ねえ、そうなの? ごめんなさい、直ちゃん。わたし」
泣きそうになりながら、何度も謝る彩華を、直正は責めなかった。彩華は何も悪いことはしていない。聞いた話を伝えただけだ。ただそれだけだ。
直正が高校三年生になったばかりのときだ。
中学生だった恭子に、好きな人ができた。兄妹仲はよかったので、直正はときどき、恭子とそんな話もしていた。妹は晩生で、積極的に誰かに迫っていけるようなタイプではなかったし、その相手も直正と同じ年で、妹とは少し年齢が離れていた。だから、直正も、かわいそうだけれど妹の恋愛が、うまくいくとはあまり思っていなかった。
秋の、風が冷たくなってきた頃のことだった。その日の朝から、空は澄み切った秋晴れだった。よく覚えている。
日が沈もうかという頃、妹が泣きながら帰ってきた。幼い頃のような、声を張り上げた身も世もない泣き方ではなかったけれど、その腫れた目を見た瞬間、なぜか直正は、恭子が髪を切られて泣いて戻ってきた日のことを思い出していた。
恭子は何も言わず、夕食もとらずに部屋に引きこもり、翌朝も、心配して見守る家族の誰とも口を利かずに家を出て行った。
しばらく経って、直正は、その妹の思う相手が、家の前を通るところを見かけた。
前に見かけたときと同じ、他校の学生服を着ていて、照れくさそうに笑いながら、隣を歩く誰かと話し込んでいた。
二人は隣の家の前で立ち止まり、名残惜しそうに何かを話し込んでいた。
隣にいたのは、彩華だった。
二人は顔を寄せ合って、何事か楽しげに話し、やがて名残惜しそうに、振り返り振り返りしながら、男は帰っていった。彩華が手を振って彼氏を見送るのを、少し離れたところで、直正は立ち尽くして見守っていた。やがて、彩華がゆっくりと振り返って、目があった。彩華の目は笑っていた。照れくさそうに。
恭子に問いただすと、妹はただ泣くばかりで、何も事情を言わない。かっとなった直正が、彩華のところに話を聞きに行くと、きょとんとしていた彩華は、話の途中で顔色を変えた。ごめんなさい、知らなかったの。恭子ちゃんの好きな人が、吉田くんっていう名前なのは聞いてたけど、よくある名前だし、年もちょっと離れてるし、まさか同じ人なんて、思わなかったから。知ってたら、わたし――
知っていたら?
直正はその問いを、口に出しては言わなかったが、まるで直正の心の声が聞こえるかのように、彩華はばっと裏切られたような、ひどく悲しげな顔になった。今にも泣き出しそうに、目を潤ませて、唇を噛んだ。
――わざとだったと思ってる? わたしのこと、疑ってる? そんなひどいこと、するわけないじゃない。可愛い恭子ちゃんの好きな人だって知ってたら、吉田くんとなんて付き合わなかった。
玄関の内側で、恭子がそのやり取りを聞いていたことを、直正はずいぶんあとになるまで、知らなかった。
ぴーんぽーんと、間の抜けたチャイムがなって、直正はぎくりとした。時間からすると、恭子が帰ってきたのだろう。恭子は社会人になって何年も経つ今でも、よく鍵を忘れてでかけて、家族に開けさせる。
聡いところのある妹だ、換気したつもりでも、ものが燃えた匂いに気づくかもしれない。どう言おう。四月になったらあの女が帰ってくると、知れば恭子は怯えるだろう。
陰鬱な気分で、玄関のロックをはずした直正は、違和感を覚えて眉を上げた。恭子ならさっさとドアを開けて入ってくるはずだ。
それでも、まさか無視して鍵をかけなおすわけにもいかず、直正は細くドアを開いて、隙間から顔を出した。
日の沈んだ薄闇に、浮かび上がるように、白い肌が見えた。つばの広い帽子の下に、優雅な微笑みが覗いている。
直正はその場で凍りついたように立ち尽くした。数年ぶりに見た彩華は、こちらが口を開くのを待っているように、小首を傾げて、愛らしく微笑んでいる。
「――帰ってくるのは、春なんじゃないのか」
「手紙、ついたのね。よかった。今日は家の片付けだけ」
ふふっと、笑って綾香は直正を見上げた。
「直ちゃん、変わってないね」
直正は返事をしなかった。下手なことが言えない。少しでもよけいな情報を与えたくなかった。
「恭子ちゃんは、すごく奇麗になったね。誰かいい人がいるのかしら」
「会ったのか」
思わず声が剣呑になった。綾香はそれに少しも気づかないように、楽しげに瞳をきらめかせた。
「昨日ね、駅で偶然。恭子ちゃん、髪をずいぶん短くしたのね、でも、似合ってたわ。――そうそう、そのときにね、小枝さんって方にお会いしたのよ。祥子ちゃんと楽しそうにお話してらしたから。直ちゃんの婚約者の方って、あの方でしょう。かわいらしい人ね」
彩華は目の前で無邪気そうに笑っている。直正は、目の前がすっと暗くなっていくかのような錯覚を覚えて、壁に手をついた。湿った、生ぬるい風が吹き付けて、彩華の黒い髪を揺らす。
「四月から、またお隣さんね。楽しみにしてるわ」
涼やかな笑い声を残して、綾香はスカートの裾を翻した。宵闇の中に溶け込むように、白いふくらはぎが遠ざかっていく。
直正は低く呻いて、手のひらで顔を覆った。
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必須お題:「湿った風」「心の声が聞こえる」「下手なことが言えない」
縛り:「悪女が登場する」「二十四節気のうちひとつ以上を舞台上の時間とし、その名を文中に使う」
任意お題:「自縛霊を拾ってきたらいけません」「連綿と続く」「ホワイトデーにはまだ若干の余裕があります」
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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