拍手コメントいただきました。ありがとうございます……! 末尾に返信がありますので、お心当たりの方はご確認いただければ幸いです。
出張からは無事に戻ってきたのですが、またそのあとちょっと放置してました。この体力と根気のなさ!
ちょっと出掛けるとすぐ疲れます。ふだんが仕事以外では全力で引きこもってるからね……
それにしても、このごろ時間の飛んでいき方がものすごいです。別にそんなに忙しいというわけでもないのに、仕事を終えて日々の雑事を片付けて、ふっと気がつくと、えっもう就寝時間? みたいな。
よっぽどぼんやりしてるんだろうなと思います。うーん、何が足りないのかなあ。睡眠時間は足りてるはずなんですけど。……糖分とか?(脂肪フラグ)
単純に、脳にサボりぐせがついてるのかもしれません。なんか脳トレとかしてみようかなあ。
通勤読書のほうも、近ごろなんだか疲れやすくて、バスの中で本を読むだけの体力がなかなか残っておらず。なんかちょっと悔しい。
二週間近く前に読み始めたファウンデーションを、今日やっと読み終わりました。日にちを数えて自分でびっくり。面白くて、読みかかったらどんどんページを捲ってしまっただけに、いったい何にこんなに時間がかかったのかわからなくて、自分で自分の時間管理が不可解です。おかしい……どこかに時間泥棒がいる……。
すごく面白かったです。そしてやっぱり続きが気になる……くっ……。(※地元の書店に1巻しか置いてなかった)
続きはAmazon先生に頼ります。
つづきは拍手返信です。
書き手が何歳くらいに見えるか、というような話を昨日書きましたが、年齢といえば、自分の書くものがどの年齢層の方まで通じるのか、ということもありますね。
上の世代の方からご覧になったときに、あまりに幼稚で読むに堪えなかったりして。あるいはお若い方が読まれたときに、退屈なだけで何が面白いかわからないものになってたりしないかなあとかって、たまにふと考えこんでみたり……
まあ、人を年齢や性別でひとくくりにしたって、実際にはそんなもん人それぞれなので、どこまでいっても結局は、一般論にしかならないんですけど。
そういえば、年齢や性別でレッテル貼られてひとくくりに語られるのって、十代のころ、すごくいやだったなあ。いまやぜんぜん気にならなくなってしまって、そういうところからどんどん、子どもだったころのこと、忘れちゃうんだなって思います。
まあ、あれこれ考えたところで、結局は自分に書けるものしか書けないか。ときには背伸びしてみるのも楽しいかもしれないけど、限度があるもんね。
話がちょっとかわりますが、性別といえば、人様の小説を読んでいて、たまに「ああ、これは女にはちょっと読むのが辛い」とか、逆に「あーこのシーンの機微は男性読者にはきっとピンとこないだろうな」なんて思う場合もあります。
この表現は女性読者にはなかなか受け入れがたいような気がする……とかって、ついついいらん口を出しちゃうときもあって。なんだかちょっと、もったいないような気がするんですね。最初から読者の半分近くを切り捨てるようなのって、不利なんじゃないかなって。
でもよくよく考えてみれば、じゃあそこで間口を広くとるのが、必ずしもいいことなのかなって思ったりもして。
しばらく前にツイッターで、ゲームデザイナー・作家の芝村裕吏さんが、人の心に深く届く文章というのは、切れ味の鋭い刃のようなものだという話をされていて、たいへん感銘を受けたんです。あるいは、小説というのは常に読者へのラブレターなのであって、ラブレターというものは、誰にでも聞こえのいいような言葉を書くのではだめだと。
(……と、記憶に基づいて書いていますので、細部が違っていたら申し訳ないです・汗)
それってホントに、そうだよなって思います。
そりゃ書き手としては正直、多くの人の心に届けば嬉しい。でも、全ての人にいいように読まれたいっていうのは、どのみち無理な話で。
女性読者のほとんどをばっさり切り捨てているような小説でも、その人を選ぶような箇所が、男性読者に熱烈にウケてがっつりハートをつかむのならば、それって書き手として大きな成果だし、プロならきっと、商業的にも成功ですね。
はじめからどちらかの性別、あるいは一定の年齢層をターゲットに据えるっていうのは、戦略としてまっとうです。もちろん、ターゲットのつもりじゃなかった層の人にも結果的に受け入れられたら、それはそれでもうけものだけど。
極端な話、官能小説とかBLとかってそういうことですよね。読者側にももちろん例外はいるけど……
軍事系のフィクションなんかもそうかな。ミリオタ以外の人にはちんぷんかんぷんだったりするけど、そのニッチが立派にジャンルとして成立している。裾野はほかの一般文芸に比べて広くないかもしれないけれど、そのかわり、そこには熱烈なファンがいるわけで。
逆に、古くから読み継がれている海外古典の名作なんかには、ぐっと普遍性の高いものが多いですね。時代や国がどれだけ違っても、ほとんどの人は人を愛し、憎み、嫉妬し、恋をしている。そういう題材は風化しづらいし、多くの人に通用する。
でも、じゃあ人を選ぶ小説が駄目なのかというと、そんなことはない。その時代の、中でも一定の層の人にしか通用しないような小説は、あっていい。というより、あるべきです。多数派に受け入れられる小説しかないという世の中は、つまらないから。
そういう諸々を考えると、「この場面は女性にはちょっと……」なんていうのは、やっぱり見当はずれな意見だったのかもなあとかって、反省してみたりもして。
そもそも先入観も偏見もなく、いろんなものを幅広く美味しくいただけちゃうほうが、読み手としては幸せなことなんですよね。あれ苦手これ嫌いそういうのダメって、偏食が激しいよりも、あれもこれもそっちも別腹で萌える! っていうほうが、人生きっと楽しい。
萌えの幅が広いほうが、書き手としての対応力も増えるかもしれないし。
どうしたって偏見を完全にはなくせないのが人間だけど、まあでも、幅を広げる努力はしてみてもいいのかもしれない。どうしても合わないものについては、それはそれで仕方ないんでしょうけど。
……なんてとりとめもなく考えつつ、じつは明日から出張です。ちょっとバタバタするので、二、三日ほどネット上にあんまり顔を出さないかもしれませんが、元気に働いていますので、ご心配なく。
何かご用がありましたら、若干レスポンスが遅れるかもしれませんが、どうかご容赦くださいませ。
書き手の人の年齢って、わかるようでわからないなあと思います。
空想科学祭の感想返信を見ていると、「えっ初心者だったの? ほんとに?」とか、「あっ、同世代だったんだ!」とか、色々わかって楽しいです。
ツイッターやチャットでやりとりをしていれば、わりと言動からおおよその見当はついたりしますが(たまに長いこと勘違いしていたっていう場合もあるけど……)、何かのきっかけでお知り合いになってから小説を読みにいく場合と違って、知らない方の小説を読んだときって、なんとなく年配の方っぽいとか、お若い方だろうなとか予想していても、意外とわからないですね。(わたしの人間観察眼が鈍いだけかもしれないですが……)
面白いなあと思っているうちに、ふと考え込んだのですが、わたしの書く小説は果たして、年相応なものなんでしょうか。
わたしの場合はわりと性別や年齢を公言しているほうなので、ご存じの方にはいまさらでしょうが、先入観なしで拙作を読んでくださった方からは、何歳くらいだと思われてるんだろう? とんでもない誤解をされてたりして。そういうの考えると、ちょっと楽しいですね。
若く間違えられたら、あるいはもっと上だと思っていたといわれたら、喜んでいいのかどうか。良く受け取ろうと思えばできるし、悪くとろうと思えばとれますね。幼い(or老けている)と受け取るか、感性がみずみずしい(or文章が古臭い)と受け取るか。これは難しい問題だなあ。
いまさらですが、公言せずにあえて間違われてるのも、それはそれで面白いかもしれないなあと思います。たまにいらっしゃいますね、ネット上では年齢性別不詳にして、それを楽しんでおられる方。
そうそう、性別もどうかわからないですよね。先日、少々誤解を招く言動をしたがために、性別を誤解されていたことが判明したのですが、ちょっと楽しかったです。あんまり意識してなかったけど、そういえば「わたし」って男女どっちでも使う人称ですもんね。
…………そこ意識してなかったって、小説書きとしてはどうなの?(えーと)
だいぶ脱線しました。
すごく巧くて重厚な文章で、人間関係の絶妙な機微を書かれてる人とかだったら、なんとなく勝手に「執筆歴が長そうだし、ある程度以上の年齢の人かなあ」とか思ったりもするんですけど、でも実はあんまり関係ないですね。
書くほうの経験が浅くても、読書量が多ければ、びっくりするくらい流麗な文章を書かれたりするし。(もともとのセンスかもしれないけど、それだけとは思いたくないというのは凡才の僻み)
それに、読書量も多い少ないだけじゃなかったり。古典の良著なんかを好んで読まれてる方だったりすると、若くても重々しい文章を書かれたりとかしますね。
それでもよくよく観察すれば、どこかに本来の気質がにじみ出ているはずなんじゃないのかと思うのですが、でも案外、見抜けないです。
お若くても、普段の周囲の人々への観察眼が鋭かったり、想像力が豊かで思索の深い方だったりすると、どういう人生経験積んできたのかと思うくらい、年配のキャラクターの心の綾をしっかり書き分けたりされる。
それが本当に自分の体験として実感して発した言葉でなくても、心に響く言葉って、あるなと思います。稀ですけどね。
小説書きの中には、「自分の話を書け」っていう流派のひともいらっしゃって、それはそれでもっともなんだけど、でも、ほんとうに経験したことの中から発する言葉だけが人の心に響くのかというと、全てが全て、そういうことでもないなと。周りの人の話を聞いたり、いろいろ読んだりする中で、それを上っ面でなく、深く共感して自らのうちに取り込める人が、いるなと思います。ほんとうの想像力って、そういうことなんだろうなと。
見習いたいと思うんだけど、技術だけじゃなくて人格の問題でもあるので、難しいですね。
共感し感情移入する能力って、素晴らしいものでもあるのだけど、常に人の心を思ってばかりいると、生きづらい世の中でもありますね。図太いほうが生きやすい。自分が参ってしまわないために、どこかで壁を作らないといけない。その壁を、なるべく低くできれば素敵だとは思うのですが、なかなかね。
逆に年配の方でも、驚くほど瑞々しく青少年の心の機微を書いておられたりして、それもけっこう憧れます。自分自身が、すでに十代のころの気持ちをだいぶ忘れてしまっていて、つまんない大人になりつつあるなと危機感を覚えたりするので、なおさら。
三日坊主ばっかりしてないで、十代のころから日記とかつけてればよかったかなあ。その当時の心境を思い出すきっかけくらいにはなったのかも。
思い出すのが恥ずかしくていたたまれないので、過去の恥はなるべく忘れようとして生きてきた気がします。でもそれって、書き手としてはどうなんだろうなあ。
と。やっぱりオチはないです。(すみません……)
とりとめもなくつらつらと。しばらくこんな感じのだらだらっとした記事が増えるかもしれません。
マルゴ・トアフを書いて連載している間、あまりにもグダグダくよくよ悩みまくって、いいかげん胃と神経が参ったので、いっとき休養しようと思い、以降のんびり構えています。読みたいときに読んで、ぼーっとするときはぼーっとして、毎日睡眠もたっぷり取ってる。
そうしてみて思いだしたのですが、わたし、元来のんびりしようと思えばどれだけでものんびりできる人間でした。
もう十月も半ばだよ!? と思って自分ののんびり加減に衝撃を受けました。時間が経つのが早いわ……。
いちおう中二病イベント用の小説は、アイデア出しをしつつ、じわじわ暖めているんです。普段から脳トレ的にやっている、思いつくままの断片的な場面の描写練習なんかも、いちおう続けてます。完全に書くことから離れているのかというと、そうでもないんですけど、なんかこう、走り出す勢いがありません。いかんなーと思います。
別に放っておいたって、生きてさえいればいつかは何かのきっかけで燃えあがって、「うおおいまからこれを書くぜえええ!」というモードになるとは思うのですが、自分の性格を思えばそれもちょっと不安です。ハートに火をつける何かを漫然と待っていては、そのいつかが四年後だった、みたいなオチかもしれませんしね。(※前科あり)
多分いま、いろいろ思考停止してるんだろうなあと思います。いろんなことを深く考えだすと、またぞろ落ち込むから。
後悔の多い人生です。
できればなんでもあまり深刻にならずに、軽やかに生きてゆきたいものだ……なんてことも思うのですが、しかしまったく悩まないというのは、果たしていいことでしょうか。
健康のためにはいいことかもしれません。ストレス溜めるのがやっぱり一番体に悪いです。胃にくるし。胃が弱ると充分に食べられなくてパワー出ないし、下手すると夜中に胃痛で目が覚めたりして、寝ても疲れがとれないし。そんなモードで仕事してると、そりゃミスも増えるし、いいことなしです。
しかし深く考えることをやめてしまうことで、書く原動力まで削がれているのではないかという気もします。
色々考えて、考えて、考えて、なんとなく自分なりの答えを見つけたり、あるいは答えが出なかったりするときに、ああこれを小説に書かなくてはならないなと思ったりします。それをいきなり書くわけではないのですが、そのまま保留状態で頭の隅に寝かせておくと、あるときストーリーとして、あるいはキャラクターの姿を取ってやってくる。
もうじゅうぶん神経も休まったしさ、そろそろちょっとずつ、いろいろ考え出してもいいんじゃない? あんまり脳をさぼらせすぎるのも、それはそれでよくないしさ。
またクヨクヨしすぎてストレスでへたってもアレだけど……なんだろう。考える、けれどクヨクヨしない、とかそういうことを、身につけないといけないのかなあ。
考えてもクヨクヨしない。難しいことです。出来る人には意識せずに出来るのかもしれないけれど、わたしにはなんとなく難しい。
出来ないわけじゃないです。いろんなことを深く考えつつ、自分を責めない一番カンタンな方法は、自己正当化というやつですね。
自分が腹を立てたり、傷ついたりしたことに対して、自己嫌悪に気持ちが向くから、クヨクヨするんです。それを正当化して、自分はまったく悪くないと思いこめば、ムカムカはしても、クヨクヨしません。
対人関係でイライラしたら、相手の非について思いを巡らせる。「自分が悪かったのかも……」ではなくて、「そりゃ自分もちょっとは悪かったかもしれないけどさあ」と考える。自分の中で、常に相手を悪者にする。初めからそういう視線でいろんなことをネチネチ考える。それだって、「深く考える」ではあるんですよね。
でもね。なんかね。
告白しますと、わたしはもともとそういう人間で、自分を正当化するために人を悪者にして、相手を非難する理屈なら100も考えるような子どもでした。「自分は正しい」「相手が悪い」「世の中が悪い」。子どものときのことをいえば、まあ親の教育も悪かったし(両親がだいたいそういう人間です)、学校生活の中でもそういう自分になかなか気付かなくって、しじゅう人を責めてばっかりの、ろくでもない子どもでした。
大人になってからはその反動か、やたらとクヨクヨしがちになったけれど、やっぱり三つ子の魂百までというやつで、ふと油断してるとやっぱりときどき、言い訳ばっかり並べ立てて、つらいことをぜんぶ人のせいにしようとしているときがあります。
そういうのって、克服しようと思っても、いったん出来あがった性格を変えるのは、なかなか簡単なことじゃないですね。気付くたびに反省して、またちょっと考えて、って繰り返していくしかないのかなと思います。
なんかオチのない話ですみません。(あ、いつもか)
まとまりなくだらだら書きましたが、ちょっとは考える練習になったのかなあ。
「どうせたいして中身のあること書かないしな……」と思って、ついこのごろサボりがちになっていたこのブログだけれど、もしかして、書くことで考える訓練くらいにはなっていたんでしょうか。
ちゃんとお客様が読んで楽しいブログになってはいないという自信があるんですが(サービス精神が足らなくてすみません……)、自分のために、居直ってだらだら書こうかな。毎日更新とはいわなくても、事務連絡ばっかりに留めないでさ。
制限を原稿用紙100枚以内程度にしたらホントに100枚級の作品が来たよ!
……ということで、中二病イベント3作目が投稿されました。陣屋さま、ご参加ありがとうございます! VRMMOもののライトSFファンタジー作品です。早速たのしく拝読させていただきましたが、百枚あるとは思えないくらい軽ーくサクサク読めます。コミカルなタッチに合わせて改行多めなので、いざ読んでみたらあまり分量は感じなかったかな。
ということで、陣屋さまの投稿作品へはこちらから。(リンク先はTotal Creators!様、一般投稿版の小説ページです)
しかもなんか続く感じですよ……(戦慄)
作者さまのコメントを拝読するに、もしかして100枚×3作品までという制限を目いっぱい使われるおつもりなのではないかという気がするのですが、ミニイベント参加のために文庫本一冊分書きおろされるコースでしょうか。おおお……(嬉しい悲鳴)
あ。ちなみに中二病イベは「おおむね100枚以内」なので、原稿用紙換算をきっちり20×20でされようが、÷400字で換算されようが、100枚をちょっとオーバーしてようが、主催からのツッコミは特に入りません。数えるの面倒くさいs……げほんごほん。
ユルく運営してまいります。
中二病イベント、掲示板に直接書き込み方式で実施しているのですが、長くなると掲示板のスレッドへの掲載では読みづらいものですから、「あるていど長さがある場合はご自身のサイト・ブログまたは一般投稿板などに投稿の上、掲示板にはリンクをお願いします」ということで、別掲載を推奨しております。(強制ではありません)
普段からTCに出入りされている方にはいまさらの話ですが、一般投稿版を利用される場合は、あくまでTCの利用規約に沿って投稿していただきますようお願いいたします。ひとりあたり一週間に一作までとか、完結した作品の一括掲載のみで連載禁止とか、投稿したら必ず他の方の作品にも感想を書くとか、その他のルールがありますので。
あ、そうそう。一般板に投稿される場合だと、イベント参加者以外の方からの容赦ないツッコミが来る可能性もありますので、「辛口批評はちょっと……」という方は、作者コメント欄にその旨を書いておかれたほうが無難かもしれません。ご検討中の方がいらっしゃいましたら、念のため。
中二病イベント、年内いっぱいまでのんびりやっていますので、どなた様もお誘いあわせの上(?)、どうぞお気軽にご参加くださいませ。
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