今日、「それは心を焼き尽くすような」に拍手をいただいていました。ありがとうございます!
母が旅行に行ってしまい、唐突に少々、家事とお猫様方の世話に追われております。家事だけならなんとかなるんだけど(手抜きするから)、猫も八匹いると、なにかと時間がかかります。帰ってきたらだいたい誰かがどこかに吐いてるしね……(そして気付かずに踏むパターン)
まあ、普段が専業主婦の母に甘えて何もかも押しつけっぱなしているので、たまには有難みを噛み締めるといいよね……。仕事のあとだとちょっと正直疲れるけどね……(←パラサイト状態に慣れ切っている)
たまに育児中でもない専業主婦の人が、「旦那がまったく家事を手伝わなくて」と零すのを聞くと、イラっとする瞬間があるのですが(兼業主婦の人が同じこといってるのを聞くと「うわそういう男マジむかつくわー」と思う)、わたしのような独身者でさえイラっとするんだから、フルタイムで働きつつ家事育児されてるお母さん方からすれば、もっとイラっとするでしょう。しかし、専業主婦の人の話を聞けば聞いたで、専業だからこそなんでもかんでもやらされて、高い水準での家事を要求される上に、近所づきあいという人間関係のストレスにさらされてもいたりして。その他諸々、働く女にはなかなか想像のつかない種類のイライラがあるなとも思います。「専業主婦はいいよね~」なんてチクっといわれたら、そりゃ腹も立つだろうしさ。
そうやってなんだか、へんな溝ができてゆく。
角田光代さんの「八日目の蝉」を読んだときにも、そういうテーマが絡んでいましたが、結婚しているかどうか、働いているかどうか、子どもがいるかどうかで、女はときにびっくりするくらいの立場の違いが生まれて、距離があいてしまうときがありますね。
職場の中でも、育児中の人が残業できずに、しょっちゅう子どもが熱を出しては休んだり早退したり……というときに、しわ寄せをくらう独身女性との間にも、軋轢が生まれる場合があります。本人が、ごめんねごめんねと肩身が狭そうにしていれば、「まあ仕方ないか」と思っても、「子どもいるんだから仕方ないじゃない」みたいな態度で開き直られると、「それはアンタの事情でしょうが」とカチンと来る……なんていうのも、まあわからないではなかったり。
小さい子どもがいて大変なのは、本人のせいではないかもしれないけれど、しわよせを食う側のせいでは、もっとない。しかし、じゃあ「子どもがいる女はいつも肩身狭そうにしてろ」というのも、それはそれでどんなもんかっていう。
場合によっては育児経験者の年配の女性からさえ、「わたしの若いころはもっと苦労した」とチクチクやられたりもするしさ。
女の敵は女というやつですね。
なんだろう、均等法施行前後くらいの時代、男性と肩を並べて働いてきた先輩方など、とりわけ風あたりの強い中を戦ってきた人たちなので、苦労されたぶんだけ懐が深くて寛容な方もいれば、とんがってておっかない人もいたりして。まあ、個々人の性格もあるので、世代でひとくくりにするのも何なんだけど……
自分が辛い思いをしたから、後輩たちには優しくしようと思うか、自分だって苦労して育ってきたんだから、お前らもちったあ苦労しろと思うか。まあ、後輩の立場からしてみれば、優しい先輩の方が有難いですが、でもまあ後輩が頼りないと、「自分らのころはもうちょっと○○してきたぞ」とつい思っちゃうのも、また人情かなあ。
人間、普通にしていると、なかなか相手の立場になって考えるということが、難しい仕様になっているようです。
自分のことに余裕があれば、まあそれなりに気遣いあえても、忙しいときの人間って、自分のことだけで手いっぱいになって、人の心を思いやる余裕をなくしがちなものですね。
中には、どんなに自分が大変なときにもまず周囲を気遣う立派な人もいたりして、そういう人を見かけるたびに、ああ見習いたいなあと思うんだけど。いざ自分が残業続きで締め切りに追い込まれたりすると、そんな思いは完全に頭から飛んで、気付けば人に八つ当たりして自己嫌悪……なんていつものパターン。
いつも気持ちに余裕を持てるようになりたいものですが、それがなかなか。
……ここ何のブログでしたっけ?(いつものことですがすみません……)
ここ数日老魔法使いの話を放っぽらかして、「とこしえの黄昏の国」シリーズの新作の下書きをしています。現実逃避って……怖いね……
フィリオル(一話の語り部の死んだ旦那)視点の話です。なので若かりし頃のヴィトラカはばっちり出てきますが、アシェリは会話の中でちらりと出るだけで登場せず、ヨブやトゥイヤや、雨の国の二人連れが絡む余地はなさそうです。
なんか、書いてもニーズがあるのかどうか大変微妙ですが、しかし思いついてしまったからには深く悩まず、ともかく書きます。そしてなぜだか、ラブロマンス系異世界ファンタジーです。
ラブロマンス。
自分に書けるのか、とても不安ですが、でも下書きはいちおうふつうに書けているのだから、きっと書けるんでしょう……多分。(不安)
いざ書きあがってみたら「これラブロマンス?」っていうことはあるかもしれません。うん……
こっちはこっちで、まだプロットを詰めつつ下書きしているところなので、最後まで順調に書けるかどうかわかりませんが、まにあえば年内……というか、順調に書けても多分年末とかです。えーと。
お正月休みのころにあわせて何かUPできればいいのだけど……と思いつつ、近ごろ自分の遅筆ぶりがひどいので、何一つ目途が立たないっていう(涙)
とりあえず老魔法使いの話は、中二病イベントをやっている年内がリミット。うん。がんばる。
本題の前に。拍手コメありがとうございました。返信が末尾にありますので、お心当たりの方は、右下の「つづきを読む」をご確認いただければ幸いです。
部屋の掃除をしました。
いつもサボってばかりいるので、日々とても汚い部屋で寝起きをしているのですが、マルゴ・トアフを書いているときは、行き詰るたびに掃除機をかけていました。だからその時期だけ妙に部屋が(わたしにしては)きれいで、ともかく人が住んでいるように見える部屋を維持していたのですが、ふと近ごろ見渡すと、いつの間にか元通りの汚部屋でした。
今日、重い腰を上げて、床に散乱する本を棚に並べ、古本屋行きのマンガを仕分け、掃除機をかけました。
人は成功体験をなぞる生き物だそうです。
これをしたらいいことがあったから、また次も同じことをしようというわけです。「小説を書いたら○○さんに褒められちゃって嬉しかったからまた書こう」というのもそうですし、生まれて初めて食べたピーマン料理が美味しかったらピーマンを好きになるのもそう。そこに理屈は、あるようでないなと思います。頭で考えることのような、意識の表層近くの部分ではなくて、もっと内側に作用する力学だなと。
いちおう理詰めでいけば、たとえば掃除機をかけて部屋がきれいになると気分がいいし(あんまりきれいすぎても落ち着きませんが)、気分がいいと作業がはかどるし、体を動かして血行がよくなれば、いいアイデアが浮かびやすいのかもしれません。でもそういう理屈はぜんぶ後づけです。
なぜ再び小説に行き詰ったときに掃除機をかけるかというと、そういう筋道だった理屈があるからではなくて、「前にそうしたら筆が進んだから」という、体験に基づく感覚が背中を押しているだけだなと思います。別にその二つの事象に因果関係が見いだせなくても、多分やる。
人にジンクスというものが生まれる仕組みだなと思います。経験則に基づく行動基準の蓄積。
満月の光に宝くじをかざすと当たりやすいと上司が真顔で言えば、「アホか」と思うわけですが、しかし実際に自分がやっていることを振り返ってみると、まったく同じレベルの行動の反復です。あとからあれこれ理屈をつけるのは、理屈をつけないとなんとなく格好がつかないような気がして気恥ずかしいから、そうしているだけで。
しかし反復していると、別の回路が出来ます。
「小説を書くときにはこの音楽を聴く」と決めれば、その音楽を聴くと自動的にモチベーションが上がるようにならないか……というようなことを、何年か前にやりはじめて、実際に続けてみた結果どうかというと、けっこういい感じです。
書くときにその音楽をかければ、わりと書いているものに集中できます。それでも行き詰まるときは詰まるんだけど、その曲をかけないでいるときよりは、ずいぶん集中が続きます。(コツは、何万回聴いても飽きない曲を見つけることと、どのような雰囲気の小説にもある程度は馴染むテンポの音楽であることかな……)
いまの問題は、書き始めてからの集中のほうではなくて、筆をとる気になるためのスイッチのほうだなあと思います。なんか、いざ書きだすまでに、長いことぐだぐだしてしまう日々です。
とりあえず「掃除機をかけると小説を書きたくなる」という脳内スイッチを作れればいいんだけどな。
しばらく習慣化してみるかなあ。でもやる気スイッチにしては、掃除ってそもそも面倒くさくて敷居が高いよね……(だめじゃん)
続きはコメ返信です。
靴のお手入れの知識が身について、女子力が上がったような気がしたけれど、よくよく考えれば、それはどちらかといえばむしろ男子力ではないのか、という気付きたくない事実。
それはさておき。なんでもかんでも安物で済ませようとして、かえって短期間で使いつぶすようなことの多い庶民のひとりとしては、ひとつのものを手入れをしながら長く大事に使う、ということには、いつも漠然とした憧れがあります。
べつに高いものに限らないっていうか、要は何かを気にいって長く愛用すればそれでいいのですが、靴のように、品によっては安物はすぐ駄目になるなあと思います。……わたしの歩き方が悪いだけで、きれいな歩き方の人はもしかしたらそんなにすぐにはダメにしないのかもしれないのですが……。
あとはメンテナンスの手間だよね。無精するからいけないんだよ。わかってはいるの。わかっては。
しかし、猫と暮らすということは、しばしばモノを駄目にされるということでもありますね。爪をとがれたり毛だらけにされたり吐かれたりね……(遠い目)
しつけができていないのですが、人間のほうにそもそもしつけるつもりがないので、もうどうしようもありません。人間のほうがもはやすっかり飼いならされて、「猫の目につくところに大事なものを置いているほうが悪いんだ」という思考回路になっているっていう。
靴は、まあさっさと靴箱にしまえば被害にもあわないのですが、バッグがいつも、とても悲しいことになります。その辺に置いとくからいけないんだと思って、高いところにかけておいたりしても、どこまでものぼっていくしね、猫……。
タンスの中とかにしまえばいいんですけど。毎日ちゃんとしまいこめるかっていうと……。いつもすぐ忘れます。そして爪をとがれる。
結局のところ、自分がずぼらなのが何もかもいけないという気はします。
猫を飼うということは、物欲を捨てる修行の第一歩なのかもしれません。
でもそのおかげで、どうせなんでもすぐ駄目にされるんだからと思って、ますます安物ばかり買う癖がついてる。そんでよけいに扱いが雑になるよねっていう。
物に執着しないというのは、それはそれでひとつの生き方ですが、しかし物を欲しいと思わないということと、物をどんどん使い捨てにしても気にしないというのとは、まったく違うなと思います。
少ないものを持ち、それを大事に手入れしながら使う。
個人的な理想をいえばそういう暮らしになるはずなんだけど、でも、頭で思うのとやれるのは違うよねっていう。しょっちゅうものを粗末にしてばかりいるような気がします。
ちょっと反省。
唐突に脈絡もなく靴の話なのですが、不詳わたくし、非オシャレ系女子であるばかりでなく、もともとが経済的に苦しい家庭に生まれ育ったものですから、お育ちがよろしくなくて、靴は安いのでいいと、頭っから決めつけて暮らしておりました。
良くも悪くも、それでやいのやいのいう家族もおりませんでしたので、二千円台とか三千円台とかの靴を履きつぶしては買い替え、みたいな生活を、社会人になってからもふつうに続けていました。高いのっていったら結婚式用に買ったやつしかないよねみたいな。
歩き方が悪いので、すぐ靴を駄目にします。だから、高いの買うのもったいないよねっていうのもあったし。
が、ある日たまたま、人に会わねばならないというのに、うっかりしてボロボロな靴を履いてでかけてしまいまして。そろそろ捨てるつもりだった、汚いやつ。迷った挙句に見栄が勝って、待ち合わせ前に、近くにあった靴屋さんに飛び込んだんです。
ところが入ったのが小さな靴屋さんでして、自分にあうサイズで普段から履けるようなデザインの靴が、ない。いや、一足だけ許容範囲のがある。が、高い。一万数千円也。普段履いてるのが三足も四足も買える。
しかし、間の悪いことに近くでほかの靴屋を知らない。このまま汚い靴で向かうか、涙をのんで福沢さんに別れを告げるか。
三十秒悩んで、買うことにしました。
そのときには心で泣いていたのですが、数か月後、ふと気付いたんです。あれ、この靴、ものすごく頑丈だぞ……?
雑に履いてるのに、何か月たっても形がほとんど崩れない。傷もつきにくい。外側もだけど、中敷きも頑丈。そしてとても歩きやすい。
デザインは、可愛くもなんともない、武骨というか無難というか、女子力の欠片もないようなやつなんですが。しかし逆にいえば、それってつまりお値段の大部分が、デザインやブランド台じゃなくて、素材やつくりに懸かっているということなんでしょう。とにかくへたれません。
目からうろこがぼろぼろ落ちました。靴に金をかけるというのは、オシャレのために奮発する覚悟のある人か、立ち仕事の人か、そうでなければ営業や販売のように、ファッションが仕事に求められる人がしたらいいことだと思ってた。
違うんだね。三千円の靴を四足履きつぶすのと同じ期間、ほとんどへたれもせずに長持ちしてくれる頑丈な靴があるんなら、そりゃ四倍の金をかける価値はあるよね。
で、その靴をだいぶ長いことヘビーローテーション極まる感じで履いていて、さすがにだんだん傷が目につくようになってきたので、一度は「ああ、これまでか……」と思ったのだけれど、「ん、待てよ。本革だよな……?」と気付き、グーグル先生に頼って手入れの仕方を調べました。そんで1500円くらいかけて、靴用のブラシとクリーナーとお手入れクリームを買ってきました。で、スマホの画面とにらめっこしながら、こすったり拭いたり塗ったりして、古布でごしごしごしごし……
……きれいになった……。(愕然)
ツヤが戻ったとかいうだけじゃなくて、一気に傷が目立たなくなりました。よく見ないとわからないくらい。
なんてこった。これが革の力なのか……。
ほんとはね、靴ってそもそも、こまめに手入れして履くものらしいんですよね。なんかなんとなく聞きかじってはいたけれど、正直、別世界の出来事だと思ってた。手入れをして大事に履くような靴を買う機会はそうそうなかろうと。
ふだん無精してほぼ履きっぱなしにしているわけだけど、まじめに反省した。これから靴はときどき手入れしながら長く履く。また買い替えるときがきたら、ちゃんと長持ちするやつを選ぶ。
でも、そこそこのお値段してもすぐボロボロになる靴もあるらしいので、問題はどうやって見分けるかだな……。
拍手コメントをいただいた場合は、お名前をださずにブログ記事内で返信させていただいております。もしも返信がご迷惑になる場合は、お手数ですがコメント中に一言書き添えていただければ幸いです。
ラノベ棚