小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
ちびちび推敲中です。ものすごくいつものパターンなんですけど、ものすごくくよくよしています。推敲しても推敲しても納得がいかないよう!
いつも、初稿を書き上げていっときすると、自動的にくよくよモードに突入し、推敲をすすめるごとに悪化してゆき、おおむね公開した直後あたりでピークに達します……。それを通り過ぎるとふつうに開き直るので、一時的なものというか、もはやそういう生態なのだと自分で割り切るしかないのですが。
なんでしょうね。どうして自分の下手さ加減を、そこそこのところで諦めることができないんでしょうか。へたくそならへたくそなりに、「へたくそですが一生懸命書きました! ○○がお好きな方は読んでやってください!」みたいに、前向きにPRしたらいいじゃないのさ。
自分で自分が書くものを、つまらないと思っているのがいけないんですね。「下手だけど内容は面白い」とかって思えれば、たぶんもうちょっと開き直れるんだろうなと思います。
といって、自分で読んでどうしようもなくつまらないのかというと、そんなことはないです。というかそこまでだったら、いっそ潔くぽいぽい捨てられます。当然ながら自分は自分のツボをおさえておりますので、自分が好きな文章や好きなシーンはたくさんあるんです。そもそもそれが面白いと思わなきゃ、最初から書きませんしね……。
でもそれが、自分以外の人が読まれても面白いかどうかは別の話なわけで。
そもそも技術だけではなく、自分のセンスや人間性、趣味、感性、そういうものを、自分がまず信頼できていないという、根本的な不信感があって、それはこれまで置かれてきた環境だったり、自分で作り上げてきた性格だったり、そういう要素が絡んでいるので、簡単に改善できるものではなくて。
じゃあそれなら、「どうせ自分の書くものはつまらないんだよ」とかって割り切って、書くのを、少なくとも人様に読んでもらうものを書くのをやめてしまえば、それがいちばん楽で、手っ取り早いんです。
でも諦められない。
書き続けていけば、もっとちゃんといいもの、面白いものが、自分にも書けるようになるんじゃないかって、そういう望みを、どうやっても捨てられない。
諦められないんだって、気づくまでが長かったです。負け戦だろうとなんだろうと、生涯自分の書くものとつきあっていくんだという、その覚悟が固まるのがつくづく遅かったなと思います。三年前に、二十代半ばにしてようやくでした。もっと早くに気づいていれば、いまの年齢で、いまよりほんの少しはましなものが書けていたのではないかと、そう思うと、本気でアホだったなと思います。
しかし、そういう生き方の話だの、長いスパンでの覚悟だのはさておき、目の前にある原稿の拙さは、また別の問題なのでした……orz
しかし、自分で満足のいく「これならば」というものが書けるまで、誰にも読んでもらわないなどというような、厳しいことを言い出したら、性格的におそらく、わたしは一生なにも外に出せません……。腕はないのに理想は高いというのは、もはや小さな悲劇ですね?
しかしもしかしたら、いまひとつ出来のよろしくない話でも、公開すれば、そこにフィーリングのあう方が通りかかられて、ちょっとは面白いと思ってくださるかもしれないです。実際これまでにも、有難いことにそういうことがありました。そのうちの若干は同情票かもしれませんが(ネガティブ!)、人間には萌えツボというものがあるので、下手でも好きということは実際にあります。
百人読んで百人が絶賛するような話がないのとおなじように、百人が百人ともちっとも面白くない話というのも、そうそうないはずですよね。
駄目じゃないかと思っても、出してみれば、誰かは「わたしはこれ好き」とかっていってくれるかもしれない。そういう人と、ひとりでも出会えたら、少なくとも書いたことはまったくの無駄ではないはず。
五月中には公開するといいつつ、弱気に負けてポイ捨てしそうな自分がいて、いま必死に自己暗示をかけようとしています……。正直じぶんでくよくよしすぎて鬱陶しいよ!
いつも、初稿を書き上げていっときすると、自動的にくよくよモードに突入し、推敲をすすめるごとに悪化してゆき、おおむね公開した直後あたりでピークに達します……。それを通り過ぎるとふつうに開き直るので、一時的なものというか、もはやそういう生態なのだと自分で割り切るしかないのですが。
なんでしょうね。どうして自分の下手さ加減を、そこそこのところで諦めることができないんでしょうか。へたくそならへたくそなりに、「へたくそですが一生懸命書きました! ○○がお好きな方は読んでやってください!」みたいに、前向きにPRしたらいいじゃないのさ。
自分で自分が書くものを、つまらないと思っているのがいけないんですね。「下手だけど内容は面白い」とかって思えれば、たぶんもうちょっと開き直れるんだろうなと思います。
といって、自分で読んでどうしようもなくつまらないのかというと、そんなことはないです。というかそこまでだったら、いっそ潔くぽいぽい捨てられます。当然ながら自分は自分のツボをおさえておりますので、自分が好きな文章や好きなシーンはたくさんあるんです。そもそもそれが面白いと思わなきゃ、最初から書きませんしね……。
でもそれが、自分以外の人が読まれても面白いかどうかは別の話なわけで。
そもそも技術だけではなく、自分のセンスや人間性、趣味、感性、そういうものを、自分がまず信頼できていないという、根本的な不信感があって、それはこれまで置かれてきた環境だったり、自分で作り上げてきた性格だったり、そういう要素が絡んでいるので、簡単に改善できるものではなくて。
じゃあそれなら、「どうせ自分の書くものはつまらないんだよ」とかって割り切って、書くのを、少なくとも人様に読んでもらうものを書くのをやめてしまえば、それがいちばん楽で、手っ取り早いんです。
でも諦められない。
書き続けていけば、もっとちゃんといいもの、面白いものが、自分にも書けるようになるんじゃないかって、そういう望みを、どうやっても捨てられない。
諦められないんだって、気づくまでが長かったです。負け戦だろうとなんだろうと、生涯自分の書くものとつきあっていくんだという、その覚悟が固まるのがつくづく遅かったなと思います。三年前に、二十代半ばにしてようやくでした。もっと早くに気づいていれば、いまの年齢で、いまよりほんの少しはましなものが書けていたのではないかと、そう思うと、本気でアホだったなと思います。
しかし、そういう生き方の話だの、長いスパンでの覚悟だのはさておき、目の前にある原稿の拙さは、また別の問題なのでした……orz
しかし、自分で満足のいく「これならば」というものが書けるまで、誰にも読んでもらわないなどというような、厳しいことを言い出したら、性格的におそらく、わたしは一生なにも外に出せません……。腕はないのに理想は高いというのは、もはや小さな悲劇ですね?
しかしもしかしたら、いまひとつ出来のよろしくない話でも、公開すれば、そこにフィーリングのあう方が通りかかられて、ちょっとは面白いと思ってくださるかもしれないです。実際これまでにも、有難いことにそういうことがありました。そのうちの若干は同情票かもしれませんが(ネガティブ!)、人間には萌えツボというものがあるので、下手でも好きということは実際にあります。
百人読んで百人が絶賛するような話がないのとおなじように、百人が百人ともちっとも面白くない話というのも、そうそうないはずですよね。
駄目じゃないかと思っても、出してみれば、誰かは「わたしはこれ好き」とかっていってくれるかもしれない。そういう人と、ひとりでも出会えたら、少なくとも書いたことはまったくの無駄ではないはず。
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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