小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
UPするのを忘れ去っていた即興三語小説。オカルト。正直微妙。
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辻を曲がるなり、ふわりと鼻をくすぐったなじみの香に、誠一郎は顔を上げた。
「なんだ、迎えにきたのか」
縮緬の、黒い着物に身を包んだ千代が、夜闇に溶け込むようにして、そこに立っていた。するりと滑るような身のこなしで、千代は誠一郎の隣に並び、連れ立って歩き出す。
「旦那。この頃ちょっと、帰りが遅いじゃありませんか」
それには答えず、誠一郎は遠くに見える長屋に目を向けた。幼なじみの兄妹が住んでいたその長屋は、いまは荒れ果てて、どの部屋にも人の住む気配がない。通りすがりに破れ障子を見やると、胸にこみ上げるものがあった。
――誠さん。
別れがたく己を呼ばわった、その妹のほうの声を耳に思い起こして、誠一郎は袖の中の拳を、ふと迷わせる。何か、声をかけてやればよかった。それが詮無きことだとしても。
先に身寄りをなくして江戸を出た兄妹は、親類のいるという上方の地へと、移り住んでいった。もう向こうの水には慣れただろうか。その親類という人々について、二人はあまり慕わしいような話をしていなかった。向こうで、辛い目にあってはいないだろうか。
夜声八町、どこか遠くから、犬の吠え立てるのが聞こえてきた。千代は厭そうに眉根を寄せて、ふうっと背を丸めたが、すぐに我に返って、とりつくろうように、うなじの後れ毛をなでた。
しばし、無言で並んで歩いていたが、やがて誠一郎は、ためらいながら口を開いた。
「なあ、お千代。お前、何かしたか」
「何かって、何をです」
千代はとぼけるような顔をした。暗い夜道に、その目がきらりと光る。紅を差した唇の端は、面白がるように、小さく吊りあがっていた。
いや、と首を振って、誠一郎はいっとき、瞑目した。その肩に擦り寄るように、千代が頭を寄せてくる。……
はっと白昼夢から醒めて、隆文は首を振った。早くに起きだしたつもりが、まだ半分、夢に足を突っ込んでいたらしい。それにしても、奇妙な夢だった。ずいぶんと時代がかった……。
冬の早朝だ。草履の底が、どこか切ないような音を立てて霜柱を踏む。屋敷の前庭は静まり返って、まだ使用人の動き出す気配もなかった。
それも当然、ようやくほのかに東の空が白みはじめたばかりで、いまだ夜が明けきってもいない。じきに誰か起き出すかどうかという時分から家を抜け出して、ひとり、庭を散策するのが、この頃のならいになっていた。
藪ががさりと鳴った。振り向くと、にゃあん、と甘える声を出して、黒猫のちよが足に擦り寄って来た。まだ仔猫気分が抜けていない。まとわりつく仕草に落ち着きがなかった。
「夢の中にまで、お前が出てきたよ」
苦笑してそう話しかけると、ぐるぐると喉を鳴らして、ちよが伸びをした。その姿が、ほんの一呼吸のあいだに、煙のように掻き消える。かわりに、まだあどけなさの残る少女が、背伸びして腕に縋りついてきた。どこぞの令嬢が夜会に着るような、華やかなドレスを身につけていて、それが幼さを残す容姿に、あまり似合っていなかった。
「また、器用に化けるもんだ。いったい、どこで覚えて真似たんだい」
「この間、坊ちゃんがどこぞのパーティーにお呼ばれしたでしょう。こっそりあとをつけていったんですよ」
くすくすと笑って、ちよはいう。
「この家の人ときたら、いつもいつも決まりきった和服ばかり。このごろ世間では、そのへんの道を歩く女たちにも、洋装が多くなってきているじゃありませんか。それなのに、まるでこのお屋敷だけ、ご一新の前に取り残されたみたい」
「爺さまの頭が固いからね。しかたない」
小さく首をすくめて、隆文はちよを見下ろした。それにしても、上手に化けるようになったものだ。はじめのうちは、頭の上に猫の耳が飛び出していたり、頬にひげが生えていたりしたものだが。
猫は十年生きれば猫又になるというが、どうもそれはただの俗説らしい。生まれたばかりのよちよち歩きの頃から、この仔猫は人の言葉を介しているかのように振る舞い、一歳になるころには、人の姿に化けてみせた。
「そういえば、お前、ご一新なんていう言葉を、よく知っていたね」
「女中がよく零しておりますもの」
なるほどと、得心して隆文は頬をさすった。肌がひりひりするような寒気だ。猫は寒がりというが、ちよは薄着のドレス一枚で、あんがい平気そうにしている。そこは普通とは違う、化け猫ということだろうか。
「まあ、いい。その格好で、人前に出ないでくれよ」
「似合いませんか?」
「そうじゃなくて、それは夜会服だよ。パーティーのときにしか着ないものだ」
そうなんですかと素直に頷いたあとで、思い直したように、ちよは小首を傾げた。
「それなら、坊ちゃん。きょうは早くお帰りになってくださいな。あんまりお戻りが遅いと、ちよは退屈して、外に飛び出したくなってしまいますから」
「わかったよ」
苦笑して、隆文は上手に結い上げられたちよの頭を撫でた。上機嫌に目を細めて、ちよが腕をますますきつく組んでくる。
この猫が人の姿に化けることを、隆文のほかには、家人の誰も知らない。どういうわけかちよは、隆文の前でだけ、こうして化け猫としての本性を見せるのだ。
「この間みたいに、どこぞの女にうつつを抜かして、遅くなったりしたら、いやですよ」
拗ねたように、ちよがいう。ぞくりと背中があわ立って、隆文は思わず足を止めた。
「お前……」
いいかけて、隆文は続く言葉を飲み込んだ。
その女というのは、斎藤のところの姉上かと、そう訊くのが、おそろしかった。
学友の姉に紹介されたのは、ふた月ほど前のことだ。けして見合いなどというようなことではなく、ただ友人たちの同席する場で、たわいのない話をしたというだけのことだ。けれどそのあとで、二度ほど偶然ゆきあって、口をきいた。ただそれだけの間柄だが、気性のさっぱりした、好もしい女性だと思っていた。
その彼女が、野犬のような何かに襲われて、足に怪我をしたと人から聞いたのは、ほんの数日前のことだ。
ちよはすまし顔で、ドレスの裾を持ち上げて遊んでいる。まさかお前がやったのかと、何度も口をつきかけたその言葉を、そのたびに飲み込んで、隆文は早朝の庭を歩く。……
悠太の目が覚めたときには、床の上で目覚まし時計が大破していた。
がばりと跳ね起きて、悠太は呆然と窓の外を見た。日は高い。枕もとの携帯を開くと、念のための保険と思ってこちらにも設定していたつもりのアラームも、なぜだかとっくに停止していた。
待ち合わせの時間まであと三十分もない。遅刻確定だ。
「マジかよ……」
よりによって、今日は彼女の誕生日だった。悠太のほうから頼み込んで付き合うようになって、ようやく二度目のデートだ。思わず天を仰いだが、そんなことをしている暇はなかった。
二十秒で着替え、寝癖だらけの髪をかきむしりながら、洗面所に走っていく途中で、飼い猫のチョコが立ちふさがった。甘える声を出して、足元にまとわりついてくる。
「今日は勘弁してくれよ」
洗面台に向かって、寝癖を少しでもどうにかしようと頭を濡らす間に、チョコが床を蹴って、肩に跳びのってきた。背中に思い切り爪を立てられる。
「いてっ。ちょ、お前、穴があくだろうが!」
涙目になりながら、どうにか肩からチョコを下ろした瞬間、さっきまで見ていた夢の断片が、ふっと悠太の脳裡に、鮮明に蘇った。
不満げにしているチョコを、思わずまじまじと見下ろすと、その金色の目が、思わせぶりに瞳孔をすぼめた。
「……や、まさかな」
にゃお、と、まるで返事をするように鳴いて、チョコはあきらめ悪く、もう一度飛び乗ってこようとする。それをどうにか振り切って、悠太はしわになった上着を掴んだ。羽織りながら、光の速さで携帯を操作して、遅刻を詫びるメールを送る。
まいったな、許してくれるだろうか。よりによってこんな日に、なんで目覚ましを落としたりしたんだろう。悠太は首を捻った。寝ぼけて止めたような記憶もなかったし、寝なおした記憶もない。
「いってきます!」
定期と財布とを尻ポケットに突っ込んで、玄関を飛び出す瞬間、チョコの怒ったような鳴き声が、長く尾を引いて背中を追いかけてきた。
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▲必須お題:「夜声八町」「霜柱」「誕生日」
▲縛り:「夢落ちにする」「母親から叩き起こされる(任意)」「何かしらの音で目を覚ます(任意)」
▲任意お題:「眼光」「豪腕」「コマンタレブー!」「そんなばなな」(使用できず)
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辻を曲がるなり、ふわりと鼻をくすぐったなじみの香に、誠一郎は顔を上げた。
「なんだ、迎えにきたのか」
縮緬の、黒い着物に身を包んだ千代が、夜闇に溶け込むようにして、そこに立っていた。するりと滑るような身のこなしで、千代は誠一郎の隣に並び、連れ立って歩き出す。
「旦那。この頃ちょっと、帰りが遅いじゃありませんか」
それには答えず、誠一郎は遠くに見える長屋に目を向けた。幼なじみの兄妹が住んでいたその長屋は、いまは荒れ果てて、どの部屋にも人の住む気配がない。通りすがりに破れ障子を見やると、胸にこみ上げるものがあった。
――誠さん。
別れがたく己を呼ばわった、その妹のほうの声を耳に思い起こして、誠一郎は袖の中の拳を、ふと迷わせる。何か、声をかけてやればよかった。それが詮無きことだとしても。
先に身寄りをなくして江戸を出た兄妹は、親類のいるという上方の地へと、移り住んでいった。もう向こうの水には慣れただろうか。その親類という人々について、二人はあまり慕わしいような話をしていなかった。向こうで、辛い目にあってはいないだろうか。
夜声八町、どこか遠くから、犬の吠え立てるのが聞こえてきた。千代は厭そうに眉根を寄せて、ふうっと背を丸めたが、すぐに我に返って、とりつくろうように、うなじの後れ毛をなでた。
しばし、無言で並んで歩いていたが、やがて誠一郎は、ためらいながら口を開いた。
「なあ、お千代。お前、何かしたか」
「何かって、何をです」
千代はとぼけるような顔をした。暗い夜道に、その目がきらりと光る。紅を差した唇の端は、面白がるように、小さく吊りあがっていた。
いや、と首を振って、誠一郎はいっとき、瞑目した。その肩に擦り寄るように、千代が頭を寄せてくる。……
はっと白昼夢から醒めて、隆文は首を振った。早くに起きだしたつもりが、まだ半分、夢に足を突っ込んでいたらしい。それにしても、奇妙な夢だった。ずいぶんと時代がかった……。
冬の早朝だ。草履の底が、どこか切ないような音を立てて霜柱を踏む。屋敷の前庭は静まり返って、まだ使用人の動き出す気配もなかった。
それも当然、ようやくほのかに東の空が白みはじめたばかりで、いまだ夜が明けきってもいない。じきに誰か起き出すかどうかという時分から家を抜け出して、ひとり、庭を散策するのが、この頃のならいになっていた。
藪ががさりと鳴った。振り向くと、にゃあん、と甘える声を出して、黒猫のちよが足に擦り寄って来た。まだ仔猫気分が抜けていない。まとわりつく仕草に落ち着きがなかった。
「夢の中にまで、お前が出てきたよ」
苦笑してそう話しかけると、ぐるぐると喉を鳴らして、ちよが伸びをした。その姿が、ほんの一呼吸のあいだに、煙のように掻き消える。かわりに、まだあどけなさの残る少女が、背伸びして腕に縋りついてきた。どこぞの令嬢が夜会に着るような、華やかなドレスを身につけていて、それが幼さを残す容姿に、あまり似合っていなかった。
「また、器用に化けるもんだ。いったい、どこで覚えて真似たんだい」
「この間、坊ちゃんがどこぞのパーティーにお呼ばれしたでしょう。こっそりあとをつけていったんですよ」
くすくすと笑って、ちよはいう。
「この家の人ときたら、いつもいつも決まりきった和服ばかり。このごろ世間では、そのへんの道を歩く女たちにも、洋装が多くなってきているじゃありませんか。それなのに、まるでこのお屋敷だけ、ご一新の前に取り残されたみたい」
「爺さまの頭が固いからね。しかたない」
小さく首をすくめて、隆文はちよを見下ろした。それにしても、上手に化けるようになったものだ。はじめのうちは、頭の上に猫の耳が飛び出していたり、頬にひげが生えていたりしたものだが。
猫は十年生きれば猫又になるというが、どうもそれはただの俗説らしい。生まれたばかりのよちよち歩きの頃から、この仔猫は人の言葉を介しているかのように振る舞い、一歳になるころには、人の姿に化けてみせた。
「そういえば、お前、ご一新なんていう言葉を、よく知っていたね」
「女中がよく零しておりますもの」
なるほどと、得心して隆文は頬をさすった。肌がひりひりするような寒気だ。猫は寒がりというが、ちよは薄着のドレス一枚で、あんがい平気そうにしている。そこは普通とは違う、化け猫ということだろうか。
「まあ、いい。その格好で、人前に出ないでくれよ」
「似合いませんか?」
「そうじゃなくて、それは夜会服だよ。パーティーのときにしか着ないものだ」
そうなんですかと素直に頷いたあとで、思い直したように、ちよは小首を傾げた。
「それなら、坊ちゃん。きょうは早くお帰りになってくださいな。あんまりお戻りが遅いと、ちよは退屈して、外に飛び出したくなってしまいますから」
「わかったよ」
苦笑して、隆文は上手に結い上げられたちよの頭を撫でた。上機嫌に目を細めて、ちよが腕をますますきつく組んでくる。
この猫が人の姿に化けることを、隆文のほかには、家人の誰も知らない。どういうわけかちよは、隆文の前でだけ、こうして化け猫としての本性を見せるのだ。
「この間みたいに、どこぞの女にうつつを抜かして、遅くなったりしたら、いやですよ」
拗ねたように、ちよがいう。ぞくりと背中があわ立って、隆文は思わず足を止めた。
「お前……」
いいかけて、隆文は続く言葉を飲み込んだ。
その女というのは、斎藤のところの姉上かと、そう訊くのが、おそろしかった。
学友の姉に紹介されたのは、ふた月ほど前のことだ。けして見合いなどというようなことではなく、ただ友人たちの同席する場で、たわいのない話をしたというだけのことだ。けれどそのあとで、二度ほど偶然ゆきあって、口をきいた。ただそれだけの間柄だが、気性のさっぱりした、好もしい女性だと思っていた。
その彼女が、野犬のような何かに襲われて、足に怪我をしたと人から聞いたのは、ほんの数日前のことだ。
ちよはすまし顔で、ドレスの裾を持ち上げて遊んでいる。まさかお前がやったのかと、何度も口をつきかけたその言葉を、そのたびに飲み込んで、隆文は早朝の庭を歩く。……
悠太の目が覚めたときには、床の上で目覚まし時計が大破していた。
がばりと跳ね起きて、悠太は呆然と窓の外を見た。日は高い。枕もとの携帯を開くと、念のための保険と思ってこちらにも設定していたつもりのアラームも、なぜだかとっくに停止していた。
待ち合わせの時間まであと三十分もない。遅刻確定だ。
「マジかよ……」
よりによって、今日は彼女の誕生日だった。悠太のほうから頼み込んで付き合うようになって、ようやく二度目のデートだ。思わず天を仰いだが、そんなことをしている暇はなかった。
二十秒で着替え、寝癖だらけの髪をかきむしりながら、洗面所に走っていく途中で、飼い猫のチョコが立ちふさがった。甘える声を出して、足元にまとわりついてくる。
「今日は勘弁してくれよ」
洗面台に向かって、寝癖を少しでもどうにかしようと頭を濡らす間に、チョコが床を蹴って、肩に跳びのってきた。背中に思い切り爪を立てられる。
「いてっ。ちょ、お前、穴があくだろうが!」
涙目になりながら、どうにか肩からチョコを下ろした瞬間、さっきまで見ていた夢の断片が、ふっと悠太の脳裡に、鮮明に蘇った。
不満げにしているチョコを、思わずまじまじと見下ろすと、その金色の目が、思わせぶりに瞳孔をすぼめた。
「……や、まさかな」
にゃお、と、まるで返事をするように鳴いて、チョコはあきらめ悪く、もう一度飛び乗ってこようとする。それをどうにか振り切って、悠太はしわになった上着を掴んだ。羽織りながら、光の速さで携帯を操作して、遅刻を詫びるメールを送る。
まいったな、許してくれるだろうか。よりによってこんな日に、なんで目覚ましを落としたりしたんだろう。悠太は首を捻った。寝ぼけて止めたような記憶もなかったし、寝なおした記憶もない。
「いってきます!」
定期と財布とを尻ポケットに突っ込んで、玄関を飛び出す瞬間、チョコの怒ったような鳴き声が、長く尾を引いて背中を追いかけてきた。
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▲必須お題:「夜声八町」「霜柱」「誕生日」
▲縛り:「夢落ちにする」「母親から叩き起こされる(任意)」「何かしらの音で目を覚ます(任意)」
▲任意お題:「眼光」「豪腕」「コマンタレブー!」「そんなばなな」(使用できず)
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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