小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。異世界ファンタジー。話の切れ端感があります……
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そろそろ長い付き合いになってきた斑馬の背を降りて、検問の順番を待つあいだ、長旅の埃を落とすつもりで服を払うと、乾いた細かな砂が舞った。
列に並ぶ人々の、口数は多い。久しぶりに故郷に戻るらしい者の、感慨に満ちたため息。はじめての旅を終えたらしい少年の、興奮を隠せない明るい声。しきりに今夜の酒と女の話をまくしたてる商隊の護衛たち。待ちくたびれた入国者たちに冷たい水を高く売りつけようという、抜け目ない水売りの愛想のいい呼びかけ。
早朝に到着したはずが、回ってきた順番の頃には、午(ひる)をとうにまわっていた。いくつかの質問に答え、罪人の手配書らしい人相書きと照合されて、やっと街門をくぐりながら、胸いっぱいに空気を吸い込むと、懐かしい、ウィンデルシアの花の香りが鼻腔を満たした。
実に一年ぶりの故郷だった。主家の命を受けての視察に、不平のあるはずもないけれど、それにしても、妻と娘を家に残しての一年は、けして短くはなかった。ああ、我が麗しのオルヴァレヌ! その街にはその街独自のにおいがするものだが、行き交う人の熱気と、咲き乱れる街路の花と、雑多な交易品の匂いのいりまじった、この空気のなんと懐かしいことか。
所狭しと大通りの脇を埋める露天、賑やかな呼び込みの声、なにか見世物をしているらしい垂れ幕と切り口上。ああ、帰ってきたのだ。
人に託した手紙には、明後日ごろになるだろうと書いていたのだが、天候に恵まれて、予想外に早く到着することができた。妻も娘も、まさか今日帰ってくるとは思っていないだろう。その驚いた顔を見たいと思えば、疲れきっているはずの足も、自然と逸った。
それにしても、ほんの一年ほどの間に、異民族の姿の、なんと目立つようになったことか。通り過ぎる痩せた男の、目の下に入れられた刺青が視界を過ぎって、あらためて辺りを見渡した。
人夫しかり、農奴しかり、漁夫しかり、召使しかり。むかしは徒弟がやっていたような職工の下働きさえ、目の下に紅白の刺青を入れた、背が高く肌の白い異民族が、淡々とこなしている。街門をくぐる前、郊外を通っている間にも、その事実に気づいてはいたが、街中に入れば、その差はいっそう際立った。
隣国から流れてきた彼らは、勤勉でよく働き、賃金が安かろうと労働が過酷だろうと、たいした不満もいわない。それももっともなことで、命からがら逃げ出してきた彼らの祖国では、それに輪をかけて過酷な暮らしが、もう何年も続いていたのだ。
旅には慣れて、腕にも多少の覚えのある私でも、この一年の間に何度となく、護衛を連れずにきたことを後悔するような目にあったのだ。ときには腰の刀にものをいわせて、ときには馬を走らせて逃げ、どうにかこうやって五体満足で帰ってきたものの、次の機会があっても、もう同じことはできないだろう。これから治安はますます悪化していくと思われた。
誰かの使いなのだろう、荷物を抱えて急ぎ足に街路をいく女が、足をもつれさせて、意図せず私の前に立ちふさがる形になった。女ははっとしたように荷を脇に抱えなおし、手を合わせて目を伏せると、どうかお許しをというような文句を、しきりに繰り返している。貴人の馬車の足を止めたとでもいうのなら、それもやむなしと思えるような、必死の懇願だった。
旅から戻ったばかりのいまの私は、本来の身分にはけして見えないだろうけれど、腰に刀を吊ってもいるし、鬚もかなり伸びて、自分でいうのもなんだが、面相はよろしくない。女の目には、物騒な相手に見えたのかもしれなかった。
私が笑って首を振ると、異民族の女はほっとしたように、何度も手を合わせながら、小走りに去っていった。
流民たちの顔は明るくはないが、少なくとも、待遇への不満にはちきれそうというふうでもない。それは何も、過酷な労働に精も根も尽きて、不平を顔に出す気力もないというわけではなく、戦火に焼かれて死ぬよりは、重労働のほうがいくらもましだということなのだろう。
腹がくちくなるまでとはいわずとも、一日に二度の食事が出され、夜露のしのげる屋根のある大部屋と、仲間たちと身を寄せ合えばかろうじて寒さをしのげるだけの寝具を与えられて、一年後の展望はわからずとも、ともかくも明日を生き延びられると思うなら、命からがら国境を越えてもくるだろう。
それほどまでに、いま隣国の村むらは荒れ果て、畑は焼かれ、川は毒に汚され、盗賊が横行し、兵隊崩れが暴虐をつくしていた。
この目で見ても、まだ信じられないほどの、国というものはここまで荒れ果てることができるのかと、天を仰ぎたくもなるような荒廃ぶりだった。人々は飢えて死に、渇いて死に、凍えて死に、殺されて死ぬ。それならばいっそ、過酷な労働の果てに病に倒れて、遠い異国の土の上で死ぬかもしれずとも、目の前にさしせまった危険よりは、知らない土地で苦労するほうが、いくらもましだと思うだろう。
内乱を抑えるために、己の国を焼いて不毛の土地に変える愚昧な君主が、どこの世界にいるのかと、そう思わないではいられないけれど、認めよう、たしかにそうした人種はいるのだ。いまこの時代、この世界に。自国民の流出の勢いを知りながら、それを止めようともせずに、そこが世界の中心と彼らの信じる絢爛豪華な王宮で、贅を凝らした夜会にあけくれる連中が。
そして我々のほうに受け入れるものがいるかぎり、流民はこれからも、いくらでもやってくるだろう。商人たちも地主たちも、働きの鈍く高い賃銀のかかる自国の若者を雇うよりも、言葉を教えるのにこそ手間取るものの、はるかに熱心に働く彼らを雇いたいと思うのに、なんの不思議があるだろう。その結果、職をうしなった自国の若者たちが荒れて、ときに剣呑な騒ぎを招こうと、この状況で、彼ら流民の入ってくる勢いを、誰に止めることができるだろうか。
荷車を牽いた人夫が、威勢のいい掛け声とともに、街路を駆けてゆく。いずれも同じ刺青を入れた、異国人ばかりだった。
もとは白いはずの肌を日に焼けさせて、吹き出る汗をぬぐいもせずに走る彼らのうちの一人と、ふいに目があった。一瞬で通り過ぎていった、澄んだ淡いブルーの瞳の上に、感情の色を見出すことはできなかった。
彼らの目の下に入れられた、一見華やかな紅白の刺青は、誰かにその身柄を所有されるものの証だ。奴隷とは、攫われて売られてゆくものだという思い込みを、私はこの数年で、すっかり払拭せざるを得なかった。彼らはしばしば、自分で自分を売るのだ。飯と寝床と引き換えに。
家に帰った私を出迎えたのは、妻と娘だけではなかった。
私があっけにとられて玄関先で立ち尽くすのを、白い肌の女が、どうしていいかわからないように、ただ見つめ返していた。
その薄い紫の瞳には、度重なる悲運に心を折られた人間特有の、諦観の光があった。もうこの上、どのような不幸に襲われようとも、黙って身を縮めて、災いが通り過ぎるのをじっと待とうというような。
「ご無事でようございました」
おっとりと出迎える妻に事情を訊けば、「気の毒でしたので」と、まったくもって理屈ではない答えが返ってきた。
すでにいる通いの使用人だけで、我が家の手は足りていたはずだ。たしかに、彼ら一人ぶんの身を贖(あがな)うくらいの金子ならば、家にもありはするけれど、それにしても主に一言の相談もなしにと、そう私が呆れてみせると、「だってあなた、いらっしゃらなかったじゃありませんか」と、じつにあっけらかんとしている。
「いいけれど、お前、表にはその気の毒な人たちが、いくらでもいるのだぞ」
情けをかけてもきりがなかろうと、そういう私に、妻はやはり笑って答えた。「でも、気の毒でしたので」
犬か猫の子ではないのだからといいかけて、とっさに口を噤んだ。
目の前で、己が身を獣と同じように語られても、異民族の女は、ちっとも屈辱を覚えないようだった。ただ、初めて顔を見るこの家の主人との距離を測りかねて、遠慮がちに妻の後ろに控えている。言葉にまだ慣れず、自分のことをいわれていると思っていないのか、思っていても平気なのか、その表情からはわからなかった。
なるほど痩せこけてはいるものの、よく見れば美しい女で、放っておけば下働きではなく、もっと望ましくない場所に買われていってしまうかもしれなかった。むしろ、どこぞのたちの悪い人買いにかどわかされて、そういう目にあわなかったことが、奇跡的なことのように思われた。
まあ、もう買ってしまったのならば仕方がないかと、首を振り振り、荷を妻に手渡した。
「家のことをさせているのか」
「ええ。それから、あの子に勉強を教えてもらっているんです」
一瞬、聞き間違えたかと思った。けれど妻はおっとりと笑って、じっと首を傾げている。あの子というのは、私たちの一人娘かと、訊き返すのも阿呆らしくなるような、のんびりした笑顔だった。
「何を」
「語学をいくつかと、詩と、数学と、天文と、ほかにも色々」
思わず絶句して、妻の後ろに控える女を見下ろした。その表情は、やはり動かない。
地方の小さな町や村では、読み書きのできるものさえ少ないのは、こちらもむこうも変わらない。戦火に追われて逃れてきているのは、国境ちかくの村々の人が多いと聞いていたのだが、妻の話が本当ならば、事態はよりいっそう、深刻化しているらしかった。
教養のある良家の子女ならば、異国の人間に身柄を売り渡して、下働きをさせられるのはさぞ屈辱だろうに、いくら見ても、女の上に、そうした感情を見出すことはできなかった。
水を浴びて鬚をあたり、むさくるしい格好をいくらか改めて、勉強室に顔を出すと、件の女が、北方の国の言葉で、娘に詩を読んでやっていた。
それは、よほどの教養のあるものでなければ、わざわざ学びはすまいと思うような、古典の名詩で、しかも女の口から流れ出す言葉は、このうえなく流暢だった。私は仰天し、おもわず声をかけることも忘れて、扉の前で打たれたように、その朗読に耳を傾けた。
いくらなんでも、訳ありに違いなかった。裕福な商家などの子女どころではない、それなりの身分のある女なのだ。
仕える主に、このことを報告すべきかどうか、考えながらいっとき女の声に耳を澄ましていたけれど、滔々と続く叙事詩に聞き入り、かつて教師に教わったその物語に遠く思いを馳せているうちに、柄でもなく、感傷的な気分になった。
娘は目を閉じて、意味はまだよくわかっていないだろうけれど、女の音楽的な声の抑揚と、異国の言葉の響きとに聞きほれている。
見れば女の頬はこけ、痩せやつれて、黒髪は艶を失っていた。手指には苦労のあとのみてとれる、そんななりをした奴隷の女が、なまなかな学問では身につかないような教養を、こんなところで朽ちさせようとしている。
女をひきとったことで、あとになって波乱を呼ばなければいいがと、そう一抹の不安を覚える一方で、なにか、ひどく胸が詰まるような思いがした。
そういう時代なのだ。それだけの身分を持って暮らしていたものが、異国に落ちのびて、端金で身柄を売るような。
詩はひとくぎりついたようだった。記憶の中には、まだ続きがあったけれど、おそらくはあまりに長くなるので、ひとまず終わりとしたのだろう。
戸口ははじめからあけてあったけれど私は、小さな淑女への礼儀として、扉を叩いて来訪をしらせた。娘が夢から醒めたように顔を上げて、ぱっと立ち上がる。その薔薇色の頬に微笑みを向けながら、この女のことは、主にはあえて告げるまいと、心に決めた。
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そろそろ長い付き合いになってきた斑馬の背を降りて、検問の順番を待つあいだ、長旅の埃を落とすつもりで服を払うと、乾いた細かな砂が舞った。
列に並ぶ人々の、口数は多い。久しぶりに故郷に戻るらしい者の、感慨に満ちたため息。はじめての旅を終えたらしい少年の、興奮を隠せない明るい声。しきりに今夜の酒と女の話をまくしたてる商隊の護衛たち。待ちくたびれた入国者たちに冷たい水を高く売りつけようという、抜け目ない水売りの愛想のいい呼びかけ。
早朝に到着したはずが、回ってきた順番の頃には、午(ひる)をとうにまわっていた。いくつかの質問に答え、罪人の手配書らしい人相書きと照合されて、やっと街門をくぐりながら、胸いっぱいに空気を吸い込むと、懐かしい、ウィンデルシアの花の香りが鼻腔を満たした。
実に一年ぶりの故郷だった。主家の命を受けての視察に、不平のあるはずもないけれど、それにしても、妻と娘を家に残しての一年は、けして短くはなかった。ああ、我が麗しのオルヴァレヌ! その街にはその街独自のにおいがするものだが、行き交う人の熱気と、咲き乱れる街路の花と、雑多な交易品の匂いのいりまじった、この空気のなんと懐かしいことか。
所狭しと大通りの脇を埋める露天、賑やかな呼び込みの声、なにか見世物をしているらしい垂れ幕と切り口上。ああ、帰ってきたのだ。
人に託した手紙には、明後日ごろになるだろうと書いていたのだが、天候に恵まれて、予想外に早く到着することができた。妻も娘も、まさか今日帰ってくるとは思っていないだろう。その驚いた顔を見たいと思えば、疲れきっているはずの足も、自然と逸った。
それにしても、ほんの一年ほどの間に、異民族の姿の、なんと目立つようになったことか。通り過ぎる痩せた男の、目の下に入れられた刺青が視界を過ぎって、あらためて辺りを見渡した。
人夫しかり、農奴しかり、漁夫しかり、召使しかり。むかしは徒弟がやっていたような職工の下働きさえ、目の下に紅白の刺青を入れた、背が高く肌の白い異民族が、淡々とこなしている。街門をくぐる前、郊外を通っている間にも、その事実に気づいてはいたが、街中に入れば、その差はいっそう際立った。
隣国から流れてきた彼らは、勤勉でよく働き、賃金が安かろうと労働が過酷だろうと、たいした不満もいわない。それももっともなことで、命からがら逃げ出してきた彼らの祖国では、それに輪をかけて過酷な暮らしが、もう何年も続いていたのだ。
旅には慣れて、腕にも多少の覚えのある私でも、この一年の間に何度となく、護衛を連れずにきたことを後悔するような目にあったのだ。ときには腰の刀にものをいわせて、ときには馬を走らせて逃げ、どうにかこうやって五体満足で帰ってきたものの、次の機会があっても、もう同じことはできないだろう。これから治安はますます悪化していくと思われた。
誰かの使いなのだろう、荷物を抱えて急ぎ足に街路をいく女が、足をもつれさせて、意図せず私の前に立ちふさがる形になった。女ははっとしたように荷を脇に抱えなおし、手を合わせて目を伏せると、どうかお許しをというような文句を、しきりに繰り返している。貴人の馬車の足を止めたとでもいうのなら、それもやむなしと思えるような、必死の懇願だった。
旅から戻ったばかりのいまの私は、本来の身分にはけして見えないだろうけれど、腰に刀を吊ってもいるし、鬚もかなり伸びて、自分でいうのもなんだが、面相はよろしくない。女の目には、物騒な相手に見えたのかもしれなかった。
私が笑って首を振ると、異民族の女はほっとしたように、何度も手を合わせながら、小走りに去っていった。
流民たちの顔は明るくはないが、少なくとも、待遇への不満にはちきれそうというふうでもない。それは何も、過酷な労働に精も根も尽きて、不平を顔に出す気力もないというわけではなく、戦火に焼かれて死ぬよりは、重労働のほうがいくらもましだということなのだろう。
腹がくちくなるまでとはいわずとも、一日に二度の食事が出され、夜露のしのげる屋根のある大部屋と、仲間たちと身を寄せ合えばかろうじて寒さをしのげるだけの寝具を与えられて、一年後の展望はわからずとも、ともかくも明日を生き延びられると思うなら、命からがら国境を越えてもくるだろう。
それほどまでに、いま隣国の村むらは荒れ果て、畑は焼かれ、川は毒に汚され、盗賊が横行し、兵隊崩れが暴虐をつくしていた。
この目で見ても、まだ信じられないほどの、国というものはここまで荒れ果てることができるのかと、天を仰ぎたくもなるような荒廃ぶりだった。人々は飢えて死に、渇いて死に、凍えて死に、殺されて死ぬ。それならばいっそ、過酷な労働の果てに病に倒れて、遠い異国の土の上で死ぬかもしれずとも、目の前にさしせまった危険よりは、知らない土地で苦労するほうが、いくらもましだと思うだろう。
内乱を抑えるために、己の国を焼いて不毛の土地に変える愚昧な君主が、どこの世界にいるのかと、そう思わないではいられないけれど、認めよう、たしかにそうした人種はいるのだ。いまこの時代、この世界に。自国民の流出の勢いを知りながら、それを止めようともせずに、そこが世界の中心と彼らの信じる絢爛豪華な王宮で、贅を凝らした夜会にあけくれる連中が。
そして我々のほうに受け入れるものがいるかぎり、流民はこれからも、いくらでもやってくるだろう。商人たちも地主たちも、働きの鈍く高い賃銀のかかる自国の若者を雇うよりも、言葉を教えるのにこそ手間取るものの、はるかに熱心に働く彼らを雇いたいと思うのに、なんの不思議があるだろう。その結果、職をうしなった自国の若者たちが荒れて、ときに剣呑な騒ぎを招こうと、この状況で、彼ら流民の入ってくる勢いを、誰に止めることができるだろうか。
荷車を牽いた人夫が、威勢のいい掛け声とともに、街路を駆けてゆく。いずれも同じ刺青を入れた、異国人ばかりだった。
もとは白いはずの肌を日に焼けさせて、吹き出る汗をぬぐいもせずに走る彼らのうちの一人と、ふいに目があった。一瞬で通り過ぎていった、澄んだ淡いブルーの瞳の上に、感情の色を見出すことはできなかった。
彼らの目の下に入れられた、一見華やかな紅白の刺青は、誰かにその身柄を所有されるものの証だ。奴隷とは、攫われて売られてゆくものだという思い込みを、私はこの数年で、すっかり払拭せざるを得なかった。彼らはしばしば、自分で自分を売るのだ。飯と寝床と引き換えに。
家に帰った私を出迎えたのは、妻と娘だけではなかった。
私があっけにとられて玄関先で立ち尽くすのを、白い肌の女が、どうしていいかわからないように、ただ見つめ返していた。
その薄い紫の瞳には、度重なる悲運に心を折られた人間特有の、諦観の光があった。もうこの上、どのような不幸に襲われようとも、黙って身を縮めて、災いが通り過ぎるのをじっと待とうというような。
「ご無事でようございました」
おっとりと出迎える妻に事情を訊けば、「気の毒でしたので」と、まったくもって理屈ではない答えが返ってきた。
すでにいる通いの使用人だけで、我が家の手は足りていたはずだ。たしかに、彼ら一人ぶんの身を贖(あがな)うくらいの金子ならば、家にもありはするけれど、それにしても主に一言の相談もなしにと、そう私が呆れてみせると、「だってあなた、いらっしゃらなかったじゃありませんか」と、じつにあっけらかんとしている。
「いいけれど、お前、表にはその気の毒な人たちが、いくらでもいるのだぞ」
情けをかけてもきりがなかろうと、そういう私に、妻はやはり笑って答えた。「でも、気の毒でしたので」
犬か猫の子ではないのだからといいかけて、とっさに口を噤んだ。
目の前で、己が身を獣と同じように語られても、異民族の女は、ちっとも屈辱を覚えないようだった。ただ、初めて顔を見るこの家の主人との距離を測りかねて、遠慮がちに妻の後ろに控えている。言葉にまだ慣れず、自分のことをいわれていると思っていないのか、思っていても平気なのか、その表情からはわからなかった。
なるほど痩せこけてはいるものの、よく見れば美しい女で、放っておけば下働きではなく、もっと望ましくない場所に買われていってしまうかもしれなかった。むしろ、どこぞのたちの悪い人買いにかどわかされて、そういう目にあわなかったことが、奇跡的なことのように思われた。
まあ、もう買ってしまったのならば仕方がないかと、首を振り振り、荷を妻に手渡した。
「家のことをさせているのか」
「ええ。それから、あの子に勉強を教えてもらっているんです」
一瞬、聞き間違えたかと思った。けれど妻はおっとりと笑って、じっと首を傾げている。あの子というのは、私たちの一人娘かと、訊き返すのも阿呆らしくなるような、のんびりした笑顔だった。
「何を」
「語学をいくつかと、詩と、数学と、天文と、ほかにも色々」
思わず絶句して、妻の後ろに控える女を見下ろした。その表情は、やはり動かない。
地方の小さな町や村では、読み書きのできるものさえ少ないのは、こちらもむこうも変わらない。戦火に追われて逃れてきているのは、国境ちかくの村々の人が多いと聞いていたのだが、妻の話が本当ならば、事態はよりいっそう、深刻化しているらしかった。
教養のある良家の子女ならば、異国の人間に身柄を売り渡して、下働きをさせられるのはさぞ屈辱だろうに、いくら見ても、女の上に、そうした感情を見出すことはできなかった。
水を浴びて鬚をあたり、むさくるしい格好をいくらか改めて、勉強室に顔を出すと、件の女が、北方の国の言葉で、娘に詩を読んでやっていた。
それは、よほどの教養のあるものでなければ、わざわざ学びはすまいと思うような、古典の名詩で、しかも女の口から流れ出す言葉は、このうえなく流暢だった。私は仰天し、おもわず声をかけることも忘れて、扉の前で打たれたように、その朗読に耳を傾けた。
いくらなんでも、訳ありに違いなかった。裕福な商家などの子女どころではない、それなりの身分のある女なのだ。
仕える主に、このことを報告すべきかどうか、考えながらいっとき女の声に耳を澄ましていたけれど、滔々と続く叙事詩に聞き入り、かつて教師に教わったその物語に遠く思いを馳せているうちに、柄でもなく、感傷的な気分になった。
娘は目を閉じて、意味はまだよくわかっていないだろうけれど、女の音楽的な声の抑揚と、異国の言葉の響きとに聞きほれている。
見れば女の頬はこけ、痩せやつれて、黒髪は艶を失っていた。手指には苦労のあとのみてとれる、そんななりをした奴隷の女が、なまなかな学問では身につかないような教養を、こんなところで朽ちさせようとしている。
女をひきとったことで、あとになって波乱を呼ばなければいいがと、そう一抹の不安を覚える一方で、なにか、ひどく胸が詰まるような思いがした。
そういう時代なのだ。それだけの身分を持って暮らしていたものが、異国に落ちのびて、端金で身柄を売るような。
詩はひとくぎりついたようだった。記憶の中には、まだ続きがあったけれど、おそらくはあまりに長くなるので、ひとまず終わりとしたのだろう。
戸口ははじめからあけてあったけれど私は、小さな淑女への礼儀として、扉を叩いて来訪をしらせた。娘が夢から醒めたように顔を上げて、ぱっと立ち上がる。その薔薇色の頬に微笑みを向けながら、この女のことは、主にはあえて告げるまいと、心に決めた。
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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