小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。
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今日も元気に象が鳴く。
来嶋徹はがんがんと脈打つように痛む頭を抱えて、安アパートの一室に罵声を撒き散らした。この頃、毎日のようにこの鳴き声でたたき起こされていた。
「ちくしょう、あの象野郎。今日という今日は、ぶっ殺してやる……」
呻くなり吐き気に襲われて、来嶋はテーブルにつっぷす。手がテーブルの上をまさぐり、はずみで倒した空き瓶が、床で砕けて騒音を立てた。
頭を抱えて悶絶する来嶋の背後から、含み笑いが追いかけてくる。
「何が可笑しいんだよ、このクソ女」
「あなたがよ」
さらりと答える女、結城菜緒を睨みつけて、来嶋は頭をかきむしった。できることなら、脳ミソに指を突っ込んでひっかきまわしたいくらいだった。
「ねえ、象を見にいきましょうよ。せっかくのいい天気だもの。外の風でも吸ったら、気分もよくなるんじゃない?」
罵り声をかえしかけて、自分のその声が、頭蓋骨の中に反響した。来嶋は脂染みた顔を手のひらで擦って、よろめきながら立ち上がる。その目がテーブルの上と、散らかりきった部屋の中を一周した。
空でない酒瓶は、一本も残っていなかった。来嶋は舌打ちをすると、しわの寄ったジャケットを床から拾い上げて、財布を確かめた。
空はたしかによく晴れていた。見上げるだけで頭痛を刺激するくらいに。
来嶋は言葉もなくぐったりとベンチにへたりこんで、薄目に象を見た。インド象とプレートの貼られた柵の向こうで、象は灰色の巨体を揺らしながら、長い鼻を伸ばして、呑気に林檎を食べている。
「殺すんじゃなかったの」
くすくすと笑う声に、来嶋は舌打ちをかえす。
「そんな気力もねえよ……」
アルコールが切れかけて、気分が悪かった。酒を買うつもりで部屋を出てきたのが、コンビニまで歩く前に気分が悪くなって、歩く気力が失せたのだった。その目の前に、動物園の看板があった。べつに菜緒が象を見ようといったからではなかった。来嶋は舌打ちを漏らした。
「ったく、しみったれた動物園だよ。ビールくらい置いとけよな」
「ふつうはないと思うけどね」
上機嫌に笑う菜緒を睨んで、来嶋はポケットに手を突っ込む。習慣で、このごろは大抵ワンカップを突っ込んでいるのだが、間の悪いことに切らしている。舌打ちして、来嶋は象に視線を投げた。いまは鳴き声ひとつたてず、おとなしく餌にありついている。
越してきたときにはすでに、アパートのすぐ近くにこの動物園があった。当時にも時折、なにかの拍子に動物たちの鳴き声が響いてくることはあったのだが、半年ほど前にそこに象が運び込まれて以来、その声に頻繁にたたき起こされるようになった。べつに象が暴れて尋常でない騒ぎを起こしているというわけではないのだが、とにかく響くのだ。
平日の昼間ということもあって、客は異様に少ない。たまに年寄りか、子連れの主婦が通りかかっては、酒の臭いをさせた来嶋を嫌そうに眺めて、そそくさと通り過ぎていくくらいだった。
菜緒は柵の前に立って、くるりと来嶋のほうへ振り返った。
「ねえ、知ってる? 象って喋るのよ」
「アホか」
「ほんとだって。人間には聞こえない低い声で、仲間と会話するんだって」
目をきらきらさせて、菜緒は象の生態について喋りだした。アジア象とアフリカ象の違い。象牙めあての密猟のせいで個体数が減ったこと。一日に百リットルも水を飲んで、百キロ以上の糞をすること……。
「ったく、色気のねえ女だな」
来嶋が毒づいても、一向に気にするようすもなく、菜緒は象の話を続けている。
思えば昔からそうだった。来嶋は呆れて、ため息を吐き出す。初めて夜の海でデートしたときにも、菜緒は海岸に車を止めるなり、月の引力と潮の満ち引きの因果関係だの、イカ漁の伝統だの、夜光虫の生態だのといったことを、滔々と語り倒したのだった。
「ほんとうはね、群れで暮らす生き物なのよ。こんなふうに一頭だけで飼われてるなんて、寂しいでしょうね」
「……ちっとは黙れよ」
うるせえんだよと、来嶋が声を荒げても、菜緒は悪びれるようすもなく、象を見上げて笑っている。
なんでこんな女と、つきあうことにしたんだろうなと、来嶋は苛々と髪をかきむしる。答えはわかりきっていて、いわゆる、酒の上での過ちだった。
金に困った家出娘でもあるまいし、何が気に入ったのだか知らないが、酔っ払って部屋に連れ込んだその日から、菜緒はそのまま図々しく居つくようになった。うっとうしいと思うことも少なくなかったが、なんとなく追い払う気にもなれず、それからもう五年になる。
「……っぷ」
吐きそうになって口元を押さえる来嶋の、直ぐ近くまで戻ってきて、菜緒は首を傾げた。
「こんなところで吐かないでよね」
「っせえな。ぶっ殺すぞ」
「どうやって?」
聞き返されて、来嶋は口をへの字に曲げる。その表情を覗き込んで、菜緒は歯をみせて笑う。
「昔っから、口だけねえ。ま、そこが好きなんだけど」
さらりといった菜緒を、きっと睨みつけて、来嶋は枯れた声を出した。
「……死人のくせに、うるせえんだよ」
菜緒は少しも堪えないように、笑っている。象が不思議そうに、二人のいるベンチを見つめていることに、来嶋は気づいた。苛立ちをこめて睨み返すが、黒い瞳に怯む気配はない。
「幻覚なんだろ? 酒のせいで見えてるだけなんだろ。とっくに死んじまったくせに、いつまでうるさく口出す気だよ」
語尾が震えそうになって、来嶋はそっぽを向いた。菜緒がどんな表情をしているか、見る気がしなかった。
「さっさと消えちまえよ」
言い捨てて、口を噤んだ。菜緒は何もいわない。風が吹いて、どこかの檻の中から動物の糞の臭いを運んでくる。
静かだった。
ほんとうに消えてしまったのかと、ためらいながら視線を戻すと、そこに菜緒の姿はなかった。
ふ、と、息が漏れた。鬚でざらつく顔を擦る。来嶋は目をきつく閉じて、ベンチに深く掛けなおした。ようやくこれで、口やかましいのがいなくなってせいせいする……
何が気に入らないのか知らないが、象が騒々しい声を立てて鳴いた。
来嶋は目を開けて、立ち上がる。
頭痛はいくらか治まっていた。ポケットの財布をまさぐる。まだ少しは入っているはずだった。酒を買って、部屋に戻ろう。
「お酒、やめなよね」
どこか面白がるような声が、背中を追いかけてくる。
「うるっせえよ、馬鹿女」
来嶋は毒づいて、振り返らないまま歩く。菜緒が後ろをついてきているのかどうか、確かめる気になれなかった。
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▲お題:「今日も元気に象が鳴く」「月の引力」「酒の上の過ち」
▲縛り:「空の描写(必須)」「日本史家が転勤する(任意)」「酒浸りの天文学者が、女性に取り入れられる(任意)」「五十二才で嫁入り(任意)」
▲任意お題:「プロフェッサー」「岩塩」「子どもの頃にやったことあるよ」(使用できず)
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今日も元気に象が鳴く。
来嶋徹はがんがんと脈打つように痛む頭を抱えて、安アパートの一室に罵声を撒き散らした。この頃、毎日のようにこの鳴き声でたたき起こされていた。
「ちくしょう、あの象野郎。今日という今日は、ぶっ殺してやる……」
呻くなり吐き気に襲われて、来嶋はテーブルにつっぷす。手がテーブルの上をまさぐり、はずみで倒した空き瓶が、床で砕けて騒音を立てた。
頭を抱えて悶絶する来嶋の背後から、含み笑いが追いかけてくる。
「何が可笑しいんだよ、このクソ女」
「あなたがよ」
さらりと答える女、結城菜緒を睨みつけて、来嶋は頭をかきむしった。できることなら、脳ミソに指を突っ込んでひっかきまわしたいくらいだった。
「ねえ、象を見にいきましょうよ。せっかくのいい天気だもの。外の風でも吸ったら、気分もよくなるんじゃない?」
罵り声をかえしかけて、自分のその声が、頭蓋骨の中に反響した。来嶋は脂染みた顔を手のひらで擦って、よろめきながら立ち上がる。その目がテーブルの上と、散らかりきった部屋の中を一周した。
空でない酒瓶は、一本も残っていなかった。来嶋は舌打ちをすると、しわの寄ったジャケットを床から拾い上げて、財布を確かめた。
空はたしかによく晴れていた。見上げるだけで頭痛を刺激するくらいに。
来嶋は言葉もなくぐったりとベンチにへたりこんで、薄目に象を見た。インド象とプレートの貼られた柵の向こうで、象は灰色の巨体を揺らしながら、長い鼻を伸ばして、呑気に林檎を食べている。
「殺すんじゃなかったの」
くすくすと笑う声に、来嶋は舌打ちをかえす。
「そんな気力もねえよ……」
アルコールが切れかけて、気分が悪かった。酒を買うつもりで部屋を出てきたのが、コンビニまで歩く前に気分が悪くなって、歩く気力が失せたのだった。その目の前に、動物園の看板があった。べつに菜緒が象を見ようといったからではなかった。来嶋は舌打ちを漏らした。
「ったく、しみったれた動物園だよ。ビールくらい置いとけよな」
「ふつうはないと思うけどね」
上機嫌に笑う菜緒を睨んで、来嶋はポケットに手を突っ込む。習慣で、このごろは大抵ワンカップを突っ込んでいるのだが、間の悪いことに切らしている。舌打ちして、来嶋は象に視線を投げた。いまは鳴き声ひとつたてず、おとなしく餌にありついている。
越してきたときにはすでに、アパートのすぐ近くにこの動物園があった。当時にも時折、なにかの拍子に動物たちの鳴き声が響いてくることはあったのだが、半年ほど前にそこに象が運び込まれて以来、その声に頻繁にたたき起こされるようになった。べつに象が暴れて尋常でない騒ぎを起こしているというわけではないのだが、とにかく響くのだ。
平日の昼間ということもあって、客は異様に少ない。たまに年寄りか、子連れの主婦が通りかかっては、酒の臭いをさせた来嶋を嫌そうに眺めて、そそくさと通り過ぎていくくらいだった。
菜緒は柵の前に立って、くるりと来嶋のほうへ振り返った。
「ねえ、知ってる? 象って喋るのよ」
「アホか」
「ほんとだって。人間には聞こえない低い声で、仲間と会話するんだって」
目をきらきらさせて、菜緒は象の生態について喋りだした。アジア象とアフリカ象の違い。象牙めあての密猟のせいで個体数が減ったこと。一日に百リットルも水を飲んで、百キロ以上の糞をすること……。
「ったく、色気のねえ女だな」
来嶋が毒づいても、一向に気にするようすもなく、菜緒は象の話を続けている。
思えば昔からそうだった。来嶋は呆れて、ため息を吐き出す。初めて夜の海でデートしたときにも、菜緒は海岸に車を止めるなり、月の引力と潮の満ち引きの因果関係だの、イカ漁の伝統だの、夜光虫の生態だのといったことを、滔々と語り倒したのだった。
「ほんとうはね、群れで暮らす生き物なのよ。こんなふうに一頭だけで飼われてるなんて、寂しいでしょうね」
「……ちっとは黙れよ」
うるせえんだよと、来嶋が声を荒げても、菜緒は悪びれるようすもなく、象を見上げて笑っている。
なんでこんな女と、つきあうことにしたんだろうなと、来嶋は苛々と髪をかきむしる。答えはわかりきっていて、いわゆる、酒の上での過ちだった。
金に困った家出娘でもあるまいし、何が気に入ったのだか知らないが、酔っ払って部屋に連れ込んだその日から、菜緒はそのまま図々しく居つくようになった。うっとうしいと思うことも少なくなかったが、なんとなく追い払う気にもなれず、それからもう五年になる。
「……っぷ」
吐きそうになって口元を押さえる来嶋の、直ぐ近くまで戻ってきて、菜緒は首を傾げた。
「こんなところで吐かないでよね」
「っせえな。ぶっ殺すぞ」
「どうやって?」
聞き返されて、来嶋は口をへの字に曲げる。その表情を覗き込んで、菜緒は歯をみせて笑う。
「昔っから、口だけねえ。ま、そこが好きなんだけど」
さらりといった菜緒を、きっと睨みつけて、来嶋は枯れた声を出した。
「……死人のくせに、うるせえんだよ」
菜緒は少しも堪えないように、笑っている。象が不思議そうに、二人のいるベンチを見つめていることに、来嶋は気づいた。苛立ちをこめて睨み返すが、黒い瞳に怯む気配はない。
「幻覚なんだろ? 酒のせいで見えてるだけなんだろ。とっくに死んじまったくせに、いつまでうるさく口出す気だよ」
語尾が震えそうになって、来嶋はそっぽを向いた。菜緒がどんな表情をしているか、見る気がしなかった。
「さっさと消えちまえよ」
言い捨てて、口を噤んだ。菜緒は何もいわない。風が吹いて、どこかの檻の中から動物の糞の臭いを運んでくる。
静かだった。
ほんとうに消えてしまったのかと、ためらいながら視線を戻すと、そこに菜緒の姿はなかった。
ふ、と、息が漏れた。鬚でざらつく顔を擦る。来嶋は目をきつく閉じて、ベンチに深く掛けなおした。ようやくこれで、口やかましいのがいなくなってせいせいする……
何が気に入らないのか知らないが、象が騒々しい声を立てて鳴いた。
来嶋は目を開けて、立ち上がる。
頭痛はいくらか治まっていた。ポケットの財布をまさぐる。まだ少しは入っているはずだった。酒を買って、部屋に戻ろう。
「お酒、やめなよね」
どこか面白がるような声が、背中を追いかけてくる。
「うるっせえよ、馬鹿女」
来嶋は毒づいて、振り返らないまま歩く。菜緒が後ろをついてきているのかどうか、確かめる気になれなかった。
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▲お題:「今日も元気に象が鳴く」「月の引力」「酒の上の過ち」
▲縛り:「空の描写(必須)」「日本史家が転勤する(任意)」「酒浸りの天文学者が、女性に取り入れられる(任意)」「五十二才で嫁入り(任意)」
▲任意お題:「プロフェッサー」「岩塩」「子どもの頃にやったことあるよ」(使用できず)
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