小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。なんていうか、その、ええと。くだらないです。
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どうしてこんなことになったんだ。
曽根原行宏は口の中で、何回目とも知れない問いかけを呟いて、自分で自分の頭をきつく抱え込む。
目に汗が入ってひどく沁みる。駅のトイレは掃除が行き届いていないらしく、床からも洋式の便座からも、あまり快適ではない臭いがしていたが、そんなことを気にする余裕は、曽根原にはない。
目を閉じて、十秒待つ。もう一度目を開いたら、何もかも夢か錯覚で、足元にはちゃんとカバンがあるのではないかと、そんなことを夢想しながら、おそるおそる目蓋を持ち上げる。当然ながら、下ろした背広のズボンとトランクスと、自分のふとももが視界に入るだけだ。足元に荷物はない。
もう一度、目を閉じる。夢であってくれと思いながら、今度は二十秒かぞえる。
目を開ける。ないものはない。
視線を泳がせた先には、壁の落書きが縦横無尽に幅を利かせている。卑猥なマーク。「喧嘩上等」の文字。「右を見ろ」「後ろを見ろ」「バカが見る」「当方十八歳女子高生、メールしてね」の文言のあとに続く携帯アドレス。男子トイレにどうやって女子高生が落書きするっていうんだ。「夜露死苦」「特攻」「天地崩壊怒髪天狗無理心中」。天狗?
曽根原は虚ろな目を壁に這わせながら胸ポケットを探り、手帳についている小さなボールペンをとりだすと、白壁に天狗のイラストを書き込みはじめる。窮地に陥ると現実逃避に走るのは、曽根原の昔からの悪いくせだ。
曽根原は狭い個室の中で腕を曲げ、書きにくそうにしながらペンを走らせる。芭蕉扇を手にした天狗が、歌舞伎役者のようなポーズをとっている。わりと達者な絵だ。頭巾の紐まで丁寧に書き込み終わったところで、曽根原は我に返る。足元にカバンはない。何度見ても変わらない。
「もうおしまいだ……」
その声はトイレの天井に反響して、思わぬエコーを呼び、「紙でも切れましたか?」と、親切な誰かの声が、隣の個室から返ってくる。
「違うんです、ありがとうございます」
ふと人の親切が胸に沁みて、思わず涙を落としそうになりながら、曽根原は眼を閉じ、目蓋の裏の暗闇に、ついさきほどの状況を反芻する。
緊張にひどく手が汗ばんでいた。誰か知り合いに見られてはいないかと、曽根原は何度も辺りを見渡しながら、改札を潜り抜けた。
平日の昼日中とはいえ、構内はそれなりに混雑していた。
わざわざ休暇をとって、二つ離れた市までやってきていた。誰にも今日のことを知られてはならなかった。
手には大きめの書類カバンを握り締めていた。よく出張に使うものだ。平日の昼日中に三十代も後半の男がうろうろしているというプレッシャーに耐え切れず、世の中には平日休みの業種などいくらでもあるというのに、わざわざ背広を着てきた。
さも出張であるかのような格好で、ホームに降り立った瞬間まで、目的地に背広で入ることが違和感を生むだろうということには、思い当たらなかった。
どうして俺はこう粗忽なんだと、曽根原は自分の考えの足りなさを呪った。だがここまできて引き返す気にもなれない。今日は幸運だった。週末さえ休日出勤になりがちな曽根原の部署で、平日に休みが取れることなど稀だ。といって土日には、そのあたりで会社の知り合いにばったりでくわすのではないかというプレッシャーがあって、なかなか決行に移せずにいた。今日は数少ないチャンスなのだ。
堂々としていればいいのだ。いかにも後生大事そうに荷物を抱えて、びくびくしていては、かえって人目につく。曽根原はゆっくりと深呼吸して、出口に向った。
携帯が振動した。
びくりとして胸元の携帯電話を探ったが、片手で持ちつづけるには、そのカバンは重かった。自分の非力さをあざ笑いながら、曽根原は壁際に場所を移し、カバンを足元に置く。
携帯のフリップを開くと、ディスプレイに表示されたのは、同僚の名前だった。どきりとして、意味もなく辺りをきょろきょろと見渡す。大丈夫、ばれるはずがない。自分にいいきかせながら、曽根原は汗にすべる指で、ボタンを押した。
「――はい。どうかしたのか」
『休みのところ、悪い。例の新薬の件で、部長に説明しないとならないんだけど、ちょっと資料がよくわからなくて』
ああ、と相槌をうって、曽根原は声を潜めた。社を上げて開発した新薬の話だ。そのあたりに産業スパイがうろうろしているとも思いづらかったし、専門用語だらけの会話を一般の人々がそれほど気に留めるとも思わなかったが、それでも重要な企業秘密だ。まかり間違って、会話の一部なりとライバル会社の人間の耳にでも入ったら、しゃれにならない。
しかし、間が悪かった。ホームに電車がはいってきたのだろう。どわっと吐き出されてきた人々が、ひっきりなしに行き交い、小声で喋ろうとすると、雑踏に紛れて相手の耳に届きづらい。
はじめのうちは、そわそわと荷物を気にしていた曽根原だったが、何度も同じ説明を繰り返すうちに、だんだん白熱してきた。
それでもせいぜい、五分ほどの通話だった。話し終えて一息つき、電話を切って振り返った。
足元においていたはずのカバンがなかった。
瞬きした。目を瞑って、十秒待って、開けた。やはりなかった。
置いた場所が違ったかと、あたりを隅々まで見渡した。もう人々のほとんどは駅の外に吐き出され、あるいは改札の内側に吸い込まれて、すでに構内は閑散としている。そのどこにも、カバンはない。
血の気が引いた。
曽根原はうろたえて、周囲を見渡した。ない。誰かが忘れ物と勘違いして、駅員に届けたのだろうか? すぐ傍に自分がいたのに? まさか。置き引きだ。ほかに何がある。
近くにはそれらしい荷物を持っている人間は見当たらない。思わず小走りになりながら、曽根原は駅の出口のほうへ向かい、視線をせわしなく周囲に走らせる。そうしながら、頭の片隅では、置き引き犯はそのまま電車に乗ったのかもしれないという可能性がちらついていた。
改札に割り込んで、窓口の駅員をつかまえた。しかし、足元においていた書類カバンを、誰かが持っていくところを見なかったかとたずねても、ちょうど人の行き来の多いタイミングだったのが災いして、まったく気づかなかったと首を振られた。
遺失物届けを、という駅員に首を振って、曽根原は慌ててその場を離れた。中身について訊ねられても、答えきれるはずがなかった。
曽根原は真っ白になった頭を抱えて、駅のトイレに篭もった。
「いやあ、簡単な仕事だったな。最悪、強盗まがいのことになるかと思ったけどよ。なあ、ユキ」
鬼久保巧は書類カバンを振り振り、機嫌よく笑って、隣を歩く連れを振り返る。呼ばれた津崎ユキはにんまりと笑って、そうだねと返事をする間に、注意力が散漫になって、手に持っていたアイスの一段目を床に落とす。
「ああっ! アイス!」
「バカ、でかい声出すなって。目立つだろ」
「だって、あたしのアイスうー……」
本気で泣きそうになっている連れの頭を撫でて、鬼久保は大きなためいきをつく。ユキの栗色の髪には、バニラアイスがくっついて絡まってしまっているが、本人には、そのことに気づいている様子はない。
「アイスくらい、あとでまた買ってやるから、めそめそするな。ほら、電車、来たぞ」
「はあい……」
しぶしぶといった調子で、落としたアイスを振り返り振り返り電車に乗る相棒を見て、鬼久保はもうひとつため息を堪えそこなう。
ユキの仕事のときの判断力や集中力には、鬼久保も一目置いている。間違いなく優秀な相棒なのだが、食べ物がからむととたんに、ほかの何もかもがおろそかになるのが、ユキの最大の欠点だ。
自分も乗り込んで、車両と車両の間のデッキで立ち止まると、鬼久保は携帯電話を取り出して、登録された番号を押す。
「イケダさん?」
どうせ偽名なんだろうなと思いながらも、ともかく教えられた名で呼びかけると、取引の相手は緊張を含んだ声で、囁きを返してくる。
『――首尾はどうだ』
「順調。いま、電車に乗ったよ。追いかけてきている様子はない」
『それは何より。最初の予定の駅で降りてくれ』
「ところで、これ、何が入ってんの? 見た目よりけっこう重いんだけど」
『迂闊にあけないほうがいい。こちらの推測が当たっていれば、危険物かもしれない』
そういわれると気になるのが、鬼久保の性だ。だが、そこでわざわざ反論するほど考えなしでもない。
「了解。また降りたら連絡する」
『頼んだぞ』
鬼久保は通話を切って、手の書類カバンを抱えなおす。やはりずしりとした重みが指にかかる。
「さて。駅四つ分だったかな。平日だし、空いてるだろ。座ろうぜ」
そういいながら振り返ると、ユキは意地汚く、指についたアイスを舐めるのに、夢中になっている。
鬼久保はため息をついてその背中を押す。
それでも報酬を思って気分が浮き立つのを感じながら、鬼久保は空席に座って、カバンの留め金に指をふれる。
コーヒーの香りを楽しみながら、男はちらりと視線を上げて、カウンターの内側にいる女性店員に微笑みかける。わずかに頬を赤らめて、店員も微笑み返してくる。そのことに満足しながら、男は手に持っていた文庫本に栞を挟む。
テーブルに投げ出した携帯電話に、ちらりと視線を這わせる。首尾は上々。あとは鬼久保と合流して荷物を受け取ると、尾行の類に気をつけながら、すぐに会社に戻るつもりだ。
女性に粉をかけるような真似をしたのは、大事をとってのアリバイ作りだ。盗難事件が発覚したときに、万が一にも自分に疑いがふりかかってこないように、ここで自分の顔を、できるだけ印象付けておきたい。
男はほくそ笑みながら、窓の外に視線を向け、駅舎のほうを見る。まだ電車が来るまで、もう少し時間がある。
仕事が順調にすみそうなことにくわえて、コーヒーが思いがけず美味かったことも、男の機嫌をよくしている。ただ、あいにく店内BGMがよくない。店舗の洒落た概観に合わせて、クラシックかジャズなりをかければいいのに、何か妙なパンクロックのような音楽がかかっていて、何をわめいているのかわからないシャウトが、ひたすらにやかましかった。まさかあの店員の趣味だろうか。そうだとすると、少々残念だ。
そんな考えはおくびにも出さず、男はもう一度、女性を見つめる。すぐに目があう。はにかむ女性にとっておきの微笑をかえす。自分でいうのもなんだが、男はなかなか知的な風貌をしていて、歯を見せて笑うときの笑顔とのギャップがかわいいと、おおむね女性にはうけがいい。
それにしても曽根原は、思ったよりも間抜けなやつだったなと、少し失望を覚えながら、男は立ち上がる。コーヒーの分の会計を済ませて、レシートを受け取ると、それが日時が印刷されるタイプであることを確認する。ありがたい。
それでも念のため、ここを出てからコンビニで雑誌でも買うつもりだ。何かあったときに、ジャストタイミングの都合のいいレシートを一枚だけ出すよりも、もとからレシートをすぐには捨てないタイプの人間なのだというほうが、自然だろうからだ。
心配なのは、便利屋二人の口が軽そうなところだが、まあ、偽名を使って接触し、自分の正体の手がかりは渡していないし、大丈夫だろう。
コンビニに向かいながら、何もかもが順調すぎて、男はこらえきれない笑いを漏らす。
ライバル社であるフジシマ製薬の社内にひそかに仕掛けた盗聴器で、曽根原がとつぜんの休暇を取ることを知ったときに、これは何かあると思ったのは、間違いではなかった。
今回フジシマ製薬が開発中の新薬について、重要なポストにいて日夜激務に追われているはずの曽根原が、急に一日休みを取るという。忌引きといったふうでもなかったし、気になって人に張り込ませてみると、曽根原は背広姿で書類カバンまで持って、駅に向かうではないか。
同僚にも秘密で書類を持ち出して、何をするのか知らないが、何か面白いネタがそのカバンに詰まっているのは間違いない。
それにしても、カバンの中身を見て、場合によっては、曽根原を脅迫がてらヘッドハントするつもりでいたのだが、それは考え直したほうがいいかもしれない。あの男女の便利屋が優秀なのかもしれないが、それにしても、あまりにもあっさりと機密を盗まれすぎだ。
今後の算段をつけながら、つい弾みそうになる足取りを押さえて、男はコンビニに入る。あいさつの声を張り上げた女性店員が可愛かったので、もれなくそちらにも微笑を送りながら、男は冬のボーナスに思いをめぐらせる。
書類カバンには、鍵がかかっているようすはない。鬼久保はぺろりと唇を舐めて、留め金に指をかけた。
「あれ、いいの?」
ようやくアイスから関心が離れたのか、ユキが小首を傾げるのに、鬼久保はにんまりと笑う。
「中身を盗もうってんじゃないんだから、いいさ。ちょっと見て、元通りにしとこうぜ。ヤバい仕事かもしれないし、あとでなにかあったときに、イケダに対する脅しのネタになるかもしれないしな」
そういうと、ユキはあっさり頷いて、興味深げに手元を覗き込む。鬼久保は強がって、平気なふりをしてはみたものの、イケダが口にした危険物かもしれないとの発言に、いくらか緊張している。まさか開けたらドカンというわけでもあるまい――
かちりと音がして、留め金はすぐに外れる。
鬼久保が細くカバンの口を開けた瞬間、二人の間に音のない衝撃が走る。
何もカバンが爆発したわけではない。ないが、二人とも息を詰めて、凍りついたように黙り込む。
カバンをはさんで固まっている二人の横を、通路を車掌が通りかかって、鬼久保があわててカバンのふたを閉じる。車掌に彼らの不審な行動を気に留めるようすはない。
気まずい沈黙が落ちる。
電車の揺れは穏やかで、車窓から燦々と降り注ぐ日の光がベンチを暖めている。車内は混み合ってはいないが、がらがらというほどでもない。平日の昼間だけあって、営業か出張に行くのだろうビジネスマン風の連中以外は、年寄りか主婦が多いように見える。その何人かは窓の外をじっと見つめ、何人かは船を漕いでいる。車内マイクがオンになって、車掌が次の停車駅を告げる。
鬼久保がこほんと咳ばらいをして、カバンを持ち直すと、ユキは首を傾げて、鬼久保の顔を覗き込む。
「イケダさんはなんで、こんなもの、わざわざあたしたちにとってこさせたんだろうね?」
「さあ。大人の事情があるんじゃねえか」
それきり二人は黙り込むと、目的地のアナウンスがあるまで、車窓からの景色を楽しむことを暗黙のうちに決め込んで、さりげなくカバンから視線を外す。
窓の外を通り過ぎていくよく晴れた平日の町並みは、いかにも平和といった風情で、いままさにどこかの駅のトイレに篭もって、これで何もかもがおしまいだと絶望する男がいることなど、その景色からはちらりとも伺えない。
二度、どんどんとノックされた戸を遠慮がちに叩き返したほかは、曽根原は一時間以上もずっと同じ姿勢で、個室にうずくまっている。その間に、すでに三回はトイレの壁の落書きを読み返し、五回は夢ではないかと自分の頬をつねり、十回は心の旅に出ている。
どうしてこんなことになったんだろう。曽根原は絶望に頭をかきむしる。こんなことなら、無理をするのではなかったと、いまさら思ってもしかたのない後悔に沈む。
きっかけは、二ヶ月ほど前の出来事だった。これまで恋愛経験もほとんどないままこの年を迎えた曽根原だったが、それは彼女を見つけようと必死になって失敗した結果のことではなく、激務に追われて一杯一杯だったことと、わずかな余暇は自分の趣味にあてて満足しきっていたことが、何よりの原因だった。
そう、曽根原はずっと自分の世界に満足していた。もう学生のころから長いこと。現実の女性と付き合いたいという願望は、あまりなかったのだ。
それなのに、二ヶ月前のある日、彼の人生に激震が走った。それは、つきあいで断りきれず、顔を出すことになってしまった見合いの席でのことだった。
見合いの相手は、非常に可愛らしかった。
気後れするような、お高く留まった美女というわけではない。全体的に小柄で小作りで、ふわふわとやわらかそうな、少し内気そうな女性。
その遠慮深そうなはにかみから、曽根原は目を離せなくなった。義理で顔だけだして、さっさとふられようと思っていた曽根原は、頭をがつんと殴られたような思いで、彼女に見とれて固まっていた。
曽根原は、仕事の上ではそれなりに優秀だと自負しているが、プライベートではあまり話も上手ではないし、見た目もいまひとつさえない。初対面の女性にいい印象をもたれた覚えは、これまでほとんどなかった。それなのに、どういう奇跡が起きたものか、彼女も曽根原に対して、悪くない印象を持ったらしかった。
それからの二ヶ月、三度ほど彼女と会って、遠慮がちに食事や散歩だけのデートをしながら、曽根原は悩みに悩んだ。
これまでの三十余年間、自分に結婚願望はないつもりでいたが、今度という今度は別だった。しかし、彼女と一緒になるには、ひとつ、大きな問題があった。
曽根原の仕事がいそがしくて、あまり家庭のことに時間を裂けないであろうことや、どうもやかましそうな雰囲気のある彼女の親族とのつきあいといったことは、その問題の前には、たいして重要なこととは思われなかった。
曽根原は迷いに迷った。あきらめようかとも思った。しかしやがては決意した。人生で始めてのこの恋に、チャンスに、何もかもなげうつ覚悟を決めたのだ。
家にあった大量の思い出の品を、処分することにした。
社会に出て資金力は上がったものの、余暇の時間が乏しくなってしまった曽根原のコレクションは、ほとんどが大学時代に集めた品だった。社会的立場を有するいまとなっては、同僚には趣味をひた隠しに隠し、同好の志と付き合うこともいっさい考えなくなっていた。趣味を他者に知られることを恐れるあまり、新たなものを入手する機会には、ごく乏しかった。
だが、それらの思い出の品とともに彼女との新生活をスタートするわけには、断じていかなかった。
新たに収集したものはないとはいえ、コレクションの数は少なくはなく、最初の二回は危ない思いをして、日曜の昼間に変装し、遠くのゴミ捨て場まで捨てにいった。おっかなびっくりゴミステーションに捨ててきた思い出の同人誌を、そこに描かれた裸のアニメキャラクターの絵を、いまでも曽根原は目蓋の裏に、鮮明に思い浮かべることができる。彼女らとの永遠の別れは、自分で思っていた以上につらかったが、それよりも、他人の目のほうが怖かった。
二回目のときに、その地区の主婦に見咎められかけて大慌てで逃げてから、曽根原は計画を練り、次のチャンスを慎重に伺っていた。最初の二回は、度胸がたりず、こっそりゴミ捨て場にという方法を選んだが、曽根原はとっくに気づいていた。住宅街のゴミ捨て場に捨てるくらいなら、どこか遠くはなれた、比較的都会のそういう古本屋に売りさばいたほうが、ずっと人目につかないことに。
それなのに。
どうしてこんなことになったんだろうと、曽根原は頭をかきむしった。悪いことに、盗まれた書類カバンには、彼の社員証が入っている。もっと悪いことには、ひと月ほど前にこの近くで、変質者による少女誘拐事件が起きたことだ。そのときの犯人の部屋からは、大量のアニメグッズ・同人誌の山が押収された。
カバンをもっていった人間が、興味をなくし、そのあたりに捨ててくれることを、曽根原は祈った。いや、しかしそうしたところで、誰かが興味を持って拾うだろう。そしてそこで、十冊以上のエロ同人誌の束と、曽根原のフルネームと所属の入った社員証を見つける。
「どうしてこんなことになったんだ……」
曽根原はすすりなきながら、トイレの壁に頭をぶつける。
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▲お題:「シャウト」「栗」「めそめそ」
▲縛り:「登場人物が4人以上」「縦読みできる(任意)」「第四の壁を破る(任意)」
▲任意お題:「にがちゅー」「ヘリ搭載型護衛艦」「天地崩壊怒髪天狗無理心中」「大音量」
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どうしてこんなことになったんだ。
曽根原行宏は口の中で、何回目とも知れない問いかけを呟いて、自分で自分の頭をきつく抱え込む。
目に汗が入ってひどく沁みる。駅のトイレは掃除が行き届いていないらしく、床からも洋式の便座からも、あまり快適ではない臭いがしていたが、そんなことを気にする余裕は、曽根原にはない。
目を閉じて、十秒待つ。もう一度目を開いたら、何もかも夢か錯覚で、足元にはちゃんとカバンがあるのではないかと、そんなことを夢想しながら、おそるおそる目蓋を持ち上げる。当然ながら、下ろした背広のズボンとトランクスと、自分のふとももが視界に入るだけだ。足元に荷物はない。
もう一度、目を閉じる。夢であってくれと思いながら、今度は二十秒かぞえる。
目を開ける。ないものはない。
視線を泳がせた先には、壁の落書きが縦横無尽に幅を利かせている。卑猥なマーク。「喧嘩上等」の文字。「右を見ろ」「後ろを見ろ」「バカが見る」「当方十八歳女子高生、メールしてね」の文言のあとに続く携帯アドレス。男子トイレにどうやって女子高生が落書きするっていうんだ。「夜露死苦」「特攻」「天地崩壊怒髪天狗無理心中」。天狗?
曽根原は虚ろな目を壁に這わせながら胸ポケットを探り、手帳についている小さなボールペンをとりだすと、白壁に天狗のイラストを書き込みはじめる。窮地に陥ると現実逃避に走るのは、曽根原の昔からの悪いくせだ。
曽根原は狭い個室の中で腕を曲げ、書きにくそうにしながらペンを走らせる。芭蕉扇を手にした天狗が、歌舞伎役者のようなポーズをとっている。わりと達者な絵だ。頭巾の紐まで丁寧に書き込み終わったところで、曽根原は我に返る。足元にカバンはない。何度見ても変わらない。
「もうおしまいだ……」
その声はトイレの天井に反響して、思わぬエコーを呼び、「紙でも切れましたか?」と、親切な誰かの声が、隣の個室から返ってくる。
「違うんです、ありがとうございます」
ふと人の親切が胸に沁みて、思わず涙を落としそうになりながら、曽根原は眼を閉じ、目蓋の裏の暗闇に、ついさきほどの状況を反芻する。
緊張にひどく手が汗ばんでいた。誰か知り合いに見られてはいないかと、曽根原は何度も辺りを見渡しながら、改札を潜り抜けた。
平日の昼日中とはいえ、構内はそれなりに混雑していた。
わざわざ休暇をとって、二つ離れた市までやってきていた。誰にも今日のことを知られてはならなかった。
手には大きめの書類カバンを握り締めていた。よく出張に使うものだ。平日の昼日中に三十代も後半の男がうろうろしているというプレッシャーに耐え切れず、世の中には平日休みの業種などいくらでもあるというのに、わざわざ背広を着てきた。
さも出張であるかのような格好で、ホームに降り立った瞬間まで、目的地に背広で入ることが違和感を生むだろうということには、思い当たらなかった。
どうして俺はこう粗忽なんだと、曽根原は自分の考えの足りなさを呪った。だがここまできて引き返す気にもなれない。今日は幸運だった。週末さえ休日出勤になりがちな曽根原の部署で、平日に休みが取れることなど稀だ。といって土日には、そのあたりで会社の知り合いにばったりでくわすのではないかというプレッシャーがあって、なかなか決行に移せずにいた。今日は数少ないチャンスなのだ。
堂々としていればいいのだ。いかにも後生大事そうに荷物を抱えて、びくびくしていては、かえって人目につく。曽根原はゆっくりと深呼吸して、出口に向った。
携帯が振動した。
びくりとして胸元の携帯電話を探ったが、片手で持ちつづけるには、そのカバンは重かった。自分の非力さをあざ笑いながら、曽根原は壁際に場所を移し、カバンを足元に置く。
携帯のフリップを開くと、ディスプレイに表示されたのは、同僚の名前だった。どきりとして、意味もなく辺りをきょろきょろと見渡す。大丈夫、ばれるはずがない。自分にいいきかせながら、曽根原は汗にすべる指で、ボタンを押した。
「――はい。どうかしたのか」
『休みのところ、悪い。例の新薬の件で、部長に説明しないとならないんだけど、ちょっと資料がよくわからなくて』
ああ、と相槌をうって、曽根原は声を潜めた。社を上げて開発した新薬の話だ。そのあたりに産業スパイがうろうろしているとも思いづらかったし、専門用語だらけの会話を一般の人々がそれほど気に留めるとも思わなかったが、それでも重要な企業秘密だ。まかり間違って、会話の一部なりとライバル会社の人間の耳にでも入ったら、しゃれにならない。
しかし、間が悪かった。ホームに電車がはいってきたのだろう。どわっと吐き出されてきた人々が、ひっきりなしに行き交い、小声で喋ろうとすると、雑踏に紛れて相手の耳に届きづらい。
はじめのうちは、そわそわと荷物を気にしていた曽根原だったが、何度も同じ説明を繰り返すうちに、だんだん白熱してきた。
それでもせいぜい、五分ほどの通話だった。話し終えて一息つき、電話を切って振り返った。
足元においていたはずのカバンがなかった。
瞬きした。目を瞑って、十秒待って、開けた。やはりなかった。
置いた場所が違ったかと、あたりを隅々まで見渡した。もう人々のほとんどは駅の外に吐き出され、あるいは改札の内側に吸い込まれて、すでに構内は閑散としている。そのどこにも、カバンはない。
血の気が引いた。
曽根原はうろたえて、周囲を見渡した。ない。誰かが忘れ物と勘違いして、駅員に届けたのだろうか? すぐ傍に自分がいたのに? まさか。置き引きだ。ほかに何がある。
近くにはそれらしい荷物を持っている人間は見当たらない。思わず小走りになりながら、曽根原は駅の出口のほうへ向かい、視線をせわしなく周囲に走らせる。そうしながら、頭の片隅では、置き引き犯はそのまま電車に乗ったのかもしれないという可能性がちらついていた。
改札に割り込んで、窓口の駅員をつかまえた。しかし、足元においていた書類カバンを、誰かが持っていくところを見なかったかとたずねても、ちょうど人の行き来の多いタイミングだったのが災いして、まったく気づかなかったと首を振られた。
遺失物届けを、という駅員に首を振って、曽根原は慌ててその場を離れた。中身について訊ねられても、答えきれるはずがなかった。
曽根原は真っ白になった頭を抱えて、駅のトイレに篭もった。
「いやあ、簡単な仕事だったな。最悪、強盗まがいのことになるかと思ったけどよ。なあ、ユキ」
鬼久保巧は書類カバンを振り振り、機嫌よく笑って、隣を歩く連れを振り返る。呼ばれた津崎ユキはにんまりと笑って、そうだねと返事をする間に、注意力が散漫になって、手に持っていたアイスの一段目を床に落とす。
「ああっ! アイス!」
「バカ、でかい声出すなって。目立つだろ」
「だって、あたしのアイスうー……」
本気で泣きそうになっている連れの頭を撫でて、鬼久保は大きなためいきをつく。ユキの栗色の髪には、バニラアイスがくっついて絡まってしまっているが、本人には、そのことに気づいている様子はない。
「アイスくらい、あとでまた買ってやるから、めそめそするな。ほら、電車、来たぞ」
「はあい……」
しぶしぶといった調子で、落としたアイスを振り返り振り返り電車に乗る相棒を見て、鬼久保はもうひとつため息を堪えそこなう。
ユキの仕事のときの判断力や集中力には、鬼久保も一目置いている。間違いなく優秀な相棒なのだが、食べ物がからむととたんに、ほかの何もかもがおろそかになるのが、ユキの最大の欠点だ。
自分も乗り込んで、車両と車両の間のデッキで立ち止まると、鬼久保は携帯電話を取り出して、登録された番号を押す。
「イケダさん?」
どうせ偽名なんだろうなと思いながらも、ともかく教えられた名で呼びかけると、取引の相手は緊張を含んだ声で、囁きを返してくる。
『――首尾はどうだ』
「順調。いま、電車に乗ったよ。追いかけてきている様子はない」
『それは何より。最初の予定の駅で降りてくれ』
「ところで、これ、何が入ってんの? 見た目よりけっこう重いんだけど」
『迂闊にあけないほうがいい。こちらの推測が当たっていれば、危険物かもしれない』
そういわれると気になるのが、鬼久保の性だ。だが、そこでわざわざ反論するほど考えなしでもない。
「了解。また降りたら連絡する」
『頼んだぞ』
鬼久保は通話を切って、手の書類カバンを抱えなおす。やはりずしりとした重みが指にかかる。
「さて。駅四つ分だったかな。平日だし、空いてるだろ。座ろうぜ」
そういいながら振り返ると、ユキは意地汚く、指についたアイスを舐めるのに、夢中になっている。
鬼久保はため息をついてその背中を押す。
それでも報酬を思って気分が浮き立つのを感じながら、鬼久保は空席に座って、カバンの留め金に指をふれる。
コーヒーの香りを楽しみながら、男はちらりと視線を上げて、カウンターの内側にいる女性店員に微笑みかける。わずかに頬を赤らめて、店員も微笑み返してくる。そのことに満足しながら、男は手に持っていた文庫本に栞を挟む。
テーブルに投げ出した携帯電話に、ちらりと視線を這わせる。首尾は上々。あとは鬼久保と合流して荷物を受け取ると、尾行の類に気をつけながら、すぐに会社に戻るつもりだ。
女性に粉をかけるような真似をしたのは、大事をとってのアリバイ作りだ。盗難事件が発覚したときに、万が一にも自分に疑いがふりかかってこないように、ここで自分の顔を、できるだけ印象付けておきたい。
男はほくそ笑みながら、窓の外に視線を向け、駅舎のほうを見る。まだ電車が来るまで、もう少し時間がある。
仕事が順調にすみそうなことにくわえて、コーヒーが思いがけず美味かったことも、男の機嫌をよくしている。ただ、あいにく店内BGMがよくない。店舗の洒落た概観に合わせて、クラシックかジャズなりをかければいいのに、何か妙なパンクロックのような音楽がかかっていて、何をわめいているのかわからないシャウトが、ひたすらにやかましかった。まさかあの店員の趣味だろうか。そうだとすると、少々残念だ。
そんな考えはおくびにも出さず、男はもう一度、女性を見つめる。すぐに目があう。はにかむ女性にとっておきの微笑をかえす。自分でいうのもなんだが、男はなかなか知的な風貌をしていて、歯を見せて笑うときの笑顔とのギャップがかわいいと、おおむね女性にはうけがいい。
それにしても曽根原は、思ったよりも間抜けなやつだったなと、少し失望を覚えながら、男は立ち上がる。コーヒーの分の会計を済ませて、レシートを受け取ると、それが日時が印刷されるタイプであることを確認する。ありがたい。
それでも念のため、ここを出てからコンビニで雑誌でも買うつもりだ。何かあったときに、ジャストタイミングの都合のいいレシートを一枚だけ出すよりも、もとからレシートをすぐには捨てないタイプの人間なのだというほうが、自然だろうからだ。
心配なのは、便利屋二人の口が軽そうなところだが、まあ、偽名を使って接触し、自分の正体の手がかりは渡していないし、大丈夫だろう。
コンビニに向かいながら、何もかもが順調すぎて、男はこらえきれない笑いを漏らす。
ライバル社であるフジシマ製薬の社内にひそかに仕掛けた盗聴器で、曽根原がとつぜんの休暇を取ることを知ったときに、これは何かあると思ったのは、間違いではなかった。
今回フジシマ製薬が開発中の新薬について、重要なポストにいて日夜激務に追われているはずの曽根原が、急に一日休みを取るという。忌引きといったふうでもなかったし、気になって人に張り込ませてみると、曽根原は背広姿で書類カバンまで持って、駅に向かうではないか。
同僚にも秘密で書類を持ち出して、何をするのか知らないが、何か面白いネタがそのカバンに詰まっているのは間違いない。
それにしても、カバンの中身を見て、場合によっては、曽根原を脅迫がてらヘッドハントするつもりでいたのだが、それは考え直したほうがいいかもしれない。あの男女の便利屋が優秀なのかもしれないが、それにしても、あまりにもあっさりと機密を盗まれすぎだ。
今後の算段をつけながら、つい弾みそうになる足取りを押さえて、男はコンビニに入る。あいさつの声を張り上げた女性店員が可愛かったので、もれなくそちらにも微笑を送りながら、男は冬のボーナスに思いをめぐらせる。
書類カバンには、鍵がかかっているようすはない。鬼久保はぺろりと唇を舐めて、留め金に指をかけた。
「あれ、いいの?」
ようやくアイスから関心が離れたのか、ユキが小首を傾げるのに、鬼久保はにんまりと笑う。
「中身を盗もうってんじゃないんだから、いいさ。ちょっと見て、元通りにしとこうぜ。ヤバい仕事かもしれないし、あとでなにかあったときに、イケダに対する脅しのネタになるかもしれないしな」
そういうと、ユキはあっさり頷いて、興味深げに手元を覗き込む。鬼久保は強がって、平気なふりをしてはみたものの、イケダが口にした危険物かもしれないとの発言に、いくらか緊張している。まさか開けたらドカンというわけでもあるまい――
かちりと音がして、留め金はすぐに外れる。
鬼久保が細くカバンの口を開けた瞬間、二人の間に音のない衝撃が走る。
何もカバンが爆発したわけではない。ないが、二人とも息を詰めて、凍りついたように黙り込む。
カバンをはさんで固まっている二人の横を、通路を車掌が通りかかって、鬼久保があわててカバンのふたを閉じる。車掌に彼らの不審な行動を気に留めるようすはない。
気まずい沈黙が落ちる。
電車の揺れは穏やかで、車窓から燦々と降り注ぐ日の光がベンチを暖めている。車内は混み合ってはいないが、がらがらというほどでもない。平日の昼間だけあって、営業か出張に行くのだろうビジネスマン風の連中以外は、年寄りか主婦が多いように見える。その何人かは窓の外をじっと見つめ、何人かは船を漕いでいる。車内マイクがオンになって、車掌が次の停車駅を告げる。
鬼久保がこほんと咳ばらいをして、カバンを持ち直すと、ユキは首を傾げて、鬼久保の顔を覗き込む。
「イケダさんはなんで、こんなもの、わざわざあたしたちにとってこさせたんだろうね?」
「さあ。大人の事情があるんじゃねえか」
それきり二人は黙り込むと、目的地のアナウンスがあるまで、車窓からの景色を楽しむことを暗黙のうちに決め込んで、さりげなくカバンから視線を外す。
窓の外を通り過ぎていくよく晴れた平日の町並みは、いかにも平和といった風情で、いままさにどこかの駅のトイレに篭もって、これで何もかもがおしまいだと絶望する男がいることなど、その景色からはちらりとも伺えない。
二度、どんどんとノックされた戸を遠慮がちに叩き返したほかは、曽根原は一時間以上もずっと同じ姿勢で、個室にうずくまっている。その間に、すでに三回はトイレの壁の落書きを読み返し、五回は夢ではないかと自分の頬をつねり、十回は心の旅に出ている。
どうしてこんなことになったんだろう。曽根原は絶望に頭をかきむしる。こんなことなら、無理をするのではなかったと、いまさら思ってもしかたのない後悔に沈む。
きっかけは、二ヶ月ほど前の出来事だった。これまで恋愛経験もほとんどないままこの年を迎えた曽根原だったが、それは彼女を見つけようと必死になって失敗した結果のことではなく、激務に追われて一杯一杯だったことと、わずかな余暇は自分の趣味にあてて満足しきっていたことが、何よりの原因だった。
そう、曽根原はずっと自分の世界に満足していた。もう学生のころから長いこと。現実の女性と付き合いたいという願望は、あまりなかったのだ。
それなのに、二ヶ月前のある日、彼の人生に激震が走った。それは、つきあいで断りきれず、顔を出すことになってしまった見合いの席でのことだった。
見合いの相手は、非常に可愛らしかった。
気後れするような、お高く留まった美女というわけではない。全体的に小柄で小作りで、ふわふわとやわらかそうな、少し内気そうな女性。
その遠慮深そうなはにかみから、曽根原は目を離せなくなった。義理で顔だけだして、さっさとふられようと思っていた曽根原は、頭をがつんと殴られたような思いで、彼女に見とれて固まっていた。
曽根原は、仕事の上ではそれなりに優秀だと自負しているが、プライベートではあまり話も上手ではないし、見た目もいまひとつさえない。初対面の女性にいい印象をもたれた覚えは、これまでほとんどなかった。それなのに、どういう奇跡が起きたものか、彼女も曽根原に対して、悪くない印象を持ったらしかった。
それからの二ヶ月、三度ほど彼女と会って、遠慮がちに食事や散歩だけのデートをしながら、曽根原は悩みに悩んだ。
これまでの三十余年間、自分に結婚願望はないつもりでいたが、今度という今度は別だった。しかし、彼女と一緒になるには、ひとつ、大きな問題があった。
曽根原の仕事がいそがしくて、あまり家庭のことに時間を裂けないであろうことや、どうもやかましそうな雰囲気のある彼女の親族とのつきあいといったことは、その問題の前には、たいして重要なこととは思われなかった。
曽根原は迷いに迷った。あきらめようかとも思った。しかしやがては決意した。人生で始めてのこの恋に、チャンスに、何もかもなげうつ覚悟を決めたのだ。
家にあった大量の思い出の品を、処分することにした。
社会に出て資金力は上がったものの、余暇の時間が乏しくなってしまった曽根原のコレクションは、ほとんどが大学時代に集めた品だった。社会的立場を有するいまとなっては、同僚には趣味をひた隠しに隠し、同好の志と付き合うこともいっさい考えなくなっていた。趣味を他者に知られることを恐れるあまり、新たなものを入手する機会には、ごく乏しかった。
だが、それらの思い出の品とともに彼女との新生活をスタートするわけには、断じていかなかった。
新たに収集したものはないとはいえ、コレクションの数は少なくはなく、最初の二回は危ない思いをして、日曜の昼間に変装し、遠くのゴミ捨て場まで捨てにいった。おっかなびっくりゴミステーションに捨ててきた思い出の同人誌を、そこに描かれた裸のアニメキャラクターの絵を、いまでも曽根原は目蓋の裏に、鮮明に思い浮かべることができる。彼女らとの永遠の別れは、自分で思っていた以上につらかったが、それよりも、他人の目のほうが怖かった。
二回目のときに、その地区の主婦に見咎められかけて大慌てで逃げてから、曽根原は計画を練り、次のチャンスを慎重に伺っていた。最初の二回は、度胸がたりず、こっそりゴミ捨て場にという方法を選んだが、曽根原はとっくに気づいていた。住宅街のゴミ捨て場に捨てるくらいなら、どこか遠くはなれた、比較的都会のそういう古本屋に売りさばいたほうが、ずっと人目につかないことに。
それなのに。
どうしてこんなことになったんだろうと、曽根原は頭をかきむしった。悪いことに、盗まれた書類カバンには、彼の社員証が入っている。もっと悪いことには、ひと月ほど前にこの近くで、変質者による少女誘拐事件が起きたことだ。そのときの犯人の部屋からは、大量のアニメグッズ・同人誌の山が押収された。
カバンをもっていった人間が、興味をなくし、そのあたりに捨ててくれることを、曽根原は祈った。いや、しかしそうしたところで、誰かが興味を持って拾うだろう。そしてそこで、十冊以上のエロ同人誌の束と、曽根原のフルネームと所属の入った社員証を見つける。
「どうしてこんなことになったんだ……」
曽根原はすすりなきながら、トイレの壁に頭をぶつける。
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▲お題:「シャウト」「栗」「めそめそ」
▲縛り:「登場人物が4人以上」「縦読みできる(任意)」「第四の壁を破る(任意)」
▲任意お題:「にがちゅー」「ヘリ搭載型護衛艦」「天地崩壊怒髪天狗無理心中」「大音量」
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