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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 即興三語小説。即興といいつつ丸一日かかった……

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 車通りの少ない国道を走りながら、空が広いな、と思っていた。よく晴れている。ずいぶん遠くの空に、薄いうろこ雲がたなびいていて、あとは一面、青の鮮やかなグラデーション。
 カーステレオからは地元ラジオ局のDJの声。たまに地元人らしい車に、ものすごいスピードで追い越される。これだけ道が広くて交通量が少なかったら、飛ばしたくなる気持ちもよくわかる。それでも自分自身はずいぶん久しぶりの運転だから、真似はせず、控えめに走っていた。
 九月の陽射しは強いが、それでも窓を開けていると寒いくらいだ。さすがは北海道というべきだろうか。
 レンタカーについていたカーナビが、目的地まであと七キロ道なりと、どこか寝ぼけたような声を出した。路肩に寄せて、サイドブレーキを引く。ひとつ大きな伸び。二時間くらい走っていただろうか。
 携帯を取り出して、一瞬、操作を迷った。彼女の新しい名前、まだ耳馴染みの薄い姓が、すぐに出てこなかった。一拍遅れて、指が慣れない苗字を呼び出す。
 迷ったが、携帯ではなく、固定電話のほうにかけた。どこか間延びしたコール音。
 ――はい。杉田です。
 電話越しの声は、もう新しい姓を名乗り慣れたようだった。そのことがちくりと胸を刺すけれど、なんでもないふりをして、無理に明るい声を出す。
「アキちゃん? 俺です、槙(まき)」
 ――コースケ君。いま、どこ。
「そっちに向ってる。あと十分くらいで着くかな」
 ――呆れた。ほんとに来たんだ。
 アキちゃんの声は笑っている。たかだか半年ぶりなのに、その声の調子が、やけに懐かしかった。
「なに、社交辞令だと思った?」
 ――思わなかった。お昼、まだだよね。うちで食べていくでしょ。
「うん、ご馳走になります」
 答えながら、なんだか変な感じがした。彼女が料理するところなんて、ぜんぜん想像できなかったから。
 ――運転、気をつけてね。たまにクマが出るから。
「マジっすか」
 ――まじっす。またあとでね。
 電話を切って、深呼吸をひとつ。手が汗をかいていた。緊張していたみたいだ。つい半年前まで、八年も同じ職場で顔をつき合わせていたのに、いまさら緊張するなんて、ばかげた話なのだけれど。


 目的地周辺です、とカーナビがいった場所は、畑の真ん中だった。草と土と、それから堆肥のにおい。都会育ちには慣れないその異臭は、けれど、不思議といやな感じはしなかった。
 スピードをゆるめ、辺りを見渡す。畑、畑、畑、川、ちょっと遠くに牧柵、牛らしい影、それから原生林。その合間に農家の家屋が、ずいぶんと距離をおいて、見える範囲に三軒。赤い屋根は一軒だけだといっていたから、見当はすぐについた。
 広く整備された国道を逸れ、私道らしい、舗装されていない道にレンタカーを乗り入れると、土ぼこりが舞った。
 家の脇に車を停めると、畑でかがみこんで作業をしていた彼女が、立ち上がって手を振ってきた。ドアを開けながら、手を振り返す。
「道、すぐ分かったでしょ」
 泥だらけの安芸野かなえ――いまは杉田に姓を改めたかつての同僚は、タオルで汗を拭いながら、そう笑いかけてきた。
「分かるっていうか、ほぼ一本道じゃないか。なにここ、カーナビなめてんの」
 アキちゃんは俺の軽口に、けらけらと笑った。その飾らない笑い方が、一緒に仕事をしていた頃とはほんの少し、けれど確かに違っている、そう思った。ちくりと、二回目の痛み。
 それに気づかないふりをして、手土産の袋を差し出すと、アキちゃんは目を輝かせて歓声を上げた。彼女が東京で行きつけていた洋菓子店の、目玉商品のロールケーキだ。
「わ、嬉しい。すっごい久しぶりに食べるかも。ありがとう」
「さっきのクマ出るっていうの、冗談だと思ったら、ホントに看板立っててビビった」
「だからまじって言ったじゃない」
「アキちゃんのマジは信用できないから」
「ひどいなあ。……それにしても、出張のついでにしては、ずいぶん遠かったでしょうに」
 そう苦笑する彼女を見下ろして、またひとつ気がついた。ずいぶんと日に焼けている。東京にいたころの彼女は、日がな一日研究室に篭もりっぱなしで、青白いくらいだった。
「それ、なに作ってるの」
 畑を指して訊くと、アキちゃんはにんまりと笑った。
「それはナス。裏の畑で、ほかにも色々作ってるよ。初めてにしてはよくできたって、農家の人に誉められちゃった」
 いわれて見れば、畑の畝から延びた細い木に、黒々とした丸ナスがぶらさがっていた。彼女のことだから、きっと入念に準備して、農家の人にもアドバイスをもらいながら、丹念に育てたのだろう。そういう女(ひと)だ。
「ナスってね、けっこう手がかかるんだよ。肥料とか気温とか、植え方もだけど、虫にも病気にも、けっこう気をつけてないといけなくてね」
 アキちゃんは、そういいながら、自分の育てた丸ナスを、いとおしげに眺める。言葉は愚痴のようだけれど、それはいつか職場で苦労した研究成果について語っていたのと、少しも変わらない、手柄を誇る子どものような口調だった。
「ナスひとつ作るのが、こんなに大変だなんて、こっちに来るまで、考えたことなかった」
 汗に額を光らせながら、アキちゃんは嬉しそうにいう。
「そう。楽しそうだね」
 自分で喋りながら、もたせるつもりのなかった含みがそこに滲んだような気がして、どきりとする。けれどアキちゃんは、屈託のない表情で、歯を見せて笑った。これも俺の知っているようで、知らない笑顔。
「あ、でたよ。クマ」
 アキちゃんが後ろを指さしながら、悪戯っぽくいうので、ぎょっとして振り返ると、軽トラが近づいてきたところだった。荷台に熊の死骸でも積んであるのかと、身構えて観察するけれど、そんなようすはない。
 が、軽トラがすぐ近くまで迫ってきたところで、アキちゃんの冗談だとわかった。フロントガラスの向こうに、鬚面の、熊のような大男が、相対的に小さくみえるハンドルを握っている。
「旦那さん?」
「そう。おかえり、大ちゃん!」
 元気よく手をふるアキちゃんに、照れくさそうに小さく手を振り返して、熊が運転席から降りてきた。美女と野獣、と、定番ながらも失礼きわまりないフレーズが頭をよぎる。
「どうも、はじめまして。きのういってた人、だよな」
「そう。紹介するね。こちら研究部で一緒に仕事してた、槙孝助くん。コースケくん、こっちがうちのダンナ」
「杉田大治です」
 大男は、簡単に名乗って頭を下げた。口数は少ないし、にこりともしないが、それが敵意のあらわれなどではなくて、もともと無口な人なんだろうというのは、声の調子や表情で、なんとなくわかった。
 頭を下げ返しながら、奥様の在職中はたいへんお世話になりましたとかなんとか、言うべき言葉があるような気がしたが、なにを言っても間抜けな気がして、言葉を迷った。
 アキちゃんの旦那さんは、中途半端な沈黙を気にするふうでもなく、かついでいたリュックを背中から外して、首にかけていたタオルで汗を拭った。農作業から戻ってきたとでもいうような様子だが、人づてにきいた話では、写真家ということだった。北海道の風景や野生動物を撮っているのだという。
「昼飯、まだだよな。フィルム、整理してくる」
「はあい。十分くらいで出来るよ」
「わかった」
 短いやりとりで、旦那さんはさっさと家に入っていった。思わずその分厚い背中とアキちゃんとを見比べていると、当のアキちゃんがくすりと笑った。
「意外そうだね」
「意外だよ」
 正直にいうと、アキちゃんはおおらかな笑い声を上げた。アキちゃんが昔つき合っていた男(といっても、俺が直接会ったことがあるのは一人だけだが)とは、まるでタイプが違っていたからだ。
「ま、上がってよ」
 アキちゃんは、ナスの入った籠を抱えて、自分が先に立った。
 勝手口から入れてもらうと、中は驚くほどひんやりとしていた。明るい屋外との落差に戸惑う目を瞬きながら、あとについていく。
「あと、このナスを焼いておしまい。ちょっと待っててね」
 リビングと台所が、引き戸をはさんで続きになっていた。通されたリビングで、ソファに掛けて待つ間に、アキちゃんは台所で手早くナスを輪切りにしていく。開け放したドアからその背中を眺めていると、なんだか不思議な気がした。彼女が料理するところなんて、前はぜんぜん想像がつかなかった。
「なんか手伝う?」
「いいよ、すぐできるから。ご近所でね、牧畜もやってるところがあって。くるとき見えた? 牛」
「あ、見た見た」
「いろいろおすそ分けしてもらったのよ。牛だけじゃなくて豚舎もあってね、ハムとかバターとか、チーズとか。今日はだから、それを使おうと思って」
「馴染んでるなあ」
 思わず口に出していうと、アキちゃんは、フライパンに取り組んだまま、ふっと真面目な声を出した。
「今日は、ホントにただの出張のついで?」
 その、淡々としているようでいて、どこか鋭い響きの声は、耳に懐かしいものだった。ここに来てはじめて、ようやくもとのアキちゃんに会ったような気がする。
「いや。出張はホントだけど、ちょっとアキちゃんと、話したいことがあって」
「うん、そっか。……ま、ご飯のあとにしようか」
 そうだねと、頷き返すうちに、アキちゃんが大皿をいくつもまとめてリビングに運んできた。皿がでかい。きっとご主人がよく食べるのだろう。
 山盛りのピラフに、ジャガイモと茸の和風グラタン、ハムの乗った野菜サラダ。それから輪切りにして焼いたナスの上に、溶けかかったチーズが乗って、湯気を立てている。間に塗ってある赤っぽいのは、味噌だろうか。
「大ちゃーん」
 アキちゃんが声を張り上げると、すぐにどすどすと足音がして、熊のような旦那さんが入ってきた。「いい匂いがするな」
 手料理は、うまかった。それがものすごく意外だと、ごく正直にいうと、アキちゃんは失礼なと拳を振り上げたけれど、怒る端から、自分でも笑っていた。
「いやでも、ホントにうまい。とれたての野菜とか、すげえ贅沢な気がするな」
「都会人代表の感想ね。どうせなら料理の腕を誉めてよ、腕を」
「これは失礼。……真面目な話、アキちゃんがこっちに越すって最初に聞いたときには、近代農業の研究にでも、鞍替えするのかと思ったけど」
「近いかもなあ。そいつ、肥料がどうの、農法がどうのって、ご近所の次男坊と、しょっちゅう喧々諤々」
「人聞きの悪い。べつに喧嘩してるわけじゃないのよ」
 議論は議論、喧嘩は喧嘩。アキちゃんらしい弁だと思うけど、さて、研究者の理屈が一般人に通じるかどうか。
 ご主人の食べっぷりは、外見を裏切らなかった。あっという間に大量の料理の半分以上をひとりで平らげると、こちらは見た目に似合わない律儀さで、自分の前の食卓を布巾でていねいに拭いて、皿を台所に運んでいった。
「あれ、アキちゃんの教育のたまもの?」
 こっそりと小声で訊くと、アキちゃんはにんまりと笑ってうなずいた。「最初は皿どころか、脱いだ靴下は置きっぱなし、食べこぼしは放置、ひどかったのよ」
 そんなセリフはアキちゃんに似合わないような、家事を一方的に押し付けられて黙っていないところが、彼女らしいような、微妙なところだった。
 らしい、とか、らしくない、とか。さっきからそんなことばっかり考えている。ぜんぜん違う環境で暮らし始めて半年もたてば、多少人柄が変わったって、ちっともおかしいことじゃないのに。
「俺はまた出かけてくる。槙くん、ごゆっくり」
「どうも」
 こんな、隣近所の目も遠いような家に、若い男とふたりきり残して、新妻が心配じゃないんだろうかと、ちらりと思ったけれど、理由はなんとなく、分かるような気がした。きっと、信頼されているんだろう、アキちゃんは。
 どすどすと廊下を遠ざかっていく足音が聞こえなくなったころ、自分の分も食べ終えて、皿を運ぼうとしたら、アキちゃんに手で制された。
「いいよ、お客様だからね。すぐ片付けるから、テレビでも見てて」
「皿洗いくらい手伝うよ。ご馳走になったお礼に」
 そう? と首を傾げながらも、アキちゃんはそれ以上、遠慮しなかった。広い流しの前に並んで、皿を洗う。水は驚くほど冷たかった。
「ずいぶんこっちに慣れたみたいだね、半年で」
「そうかな。まあ、でもやっぱり、言葉が困るね」
「ああ、そっか」
「お年寄りがねー。なんて言ってるのか、ぜんぜんわかんないわ」
 俺が皿を拭く間に、アキちゃんは湯を沸かし始めた。
「コーヒーでいいかな」
「うん」
 砂糖はどうのなんて、ひとことも訊かない。昔から二人とも、ブラックしか飲まないからだ。それもがつんと脳天に効くくらい濃いのがいい。ここでもまた、らしい探しをしている自分に気づいて、思わず苦笑する。
「研究部の、あの煮詰まったコーヒーがときどき無性に懐かしいわ」
 アキちゃんは、香りのいいコーヒーを蒸らしながら、そう笑った。そこには嘘のにおいはしなかったけれど、それでもそれは、過ぎた過去のことを語る口調だった。
「あのさ、アキちゃん」
 話を切り出そうとしたら、目線で制された。
「向こうで話そっか」
 リビングをさして、アキちゃんはいった。立ち話には、長くなりそうだからと。その言い方で、ああ、アキちゃんはとっくに話の察しがついているんだなと、そう思った。
 ソファに戻って、アキちゃんはコーヒーを啜った。猫舌の俺と違って、アキちゃんはいつでもどこでも、熱々のものでもさっさとかき込む。その習慣が、食べるのに時間を使うのがもったいないからだというのを、俺は知っていた。そのはずだった。
 だけど今日のアキちゃんは、早食いには違いなくても、本当にうまそうに昼食をとっていた。自分が育てた野菜だからというのも、もちろんあるだろう。でも、それだけじゃないという気がした。いまもアキちゃんは、いれたてのコーヒーの香りを、めいっぱい楽しんでいるように見える。
 そのことになんとなく気勢をそがれたような気がしながら、自分も香り高いコーヒーに口をつけた。本当に旨い。
「あのさ」
 気が重かった。けれど仕事は仕事だ。ためらいながらも口を開くと、アキちゃんは、真面目な顔になって、うん、と相槌をうった。
「尾上専務、辞めたよ」
 アキちゃんはその言葉に、ぜんぜん驚かなかった。そのかわり、冷静に口を開いた。
「何かあったの」
「病気療養で、自主退社だって。あっけないもんだね」
 アキちゃんはそう、と頷いて、東京の方角を見た。その目に特別な感情を見出すのは難しかった。自分を会社から追い出した人間の脱落を聞いて、少しも憎々しいだとか、ざまあみろだとか、そういう感情が見えないのが、とても彼女らしいような気がした。
「戻ってこない、アキちゃん」
 アキちゃんは、すぐに返事をしなかった。表情も動かさなかった。けれど、揺れる目の動きを追っていると、きかなくても、返事は分かるような気がした。
「それって、コースケ君ひとりの意見? ……じゃ、ないよね」
「うん。室長命令」
 本当は、もっと上の意向だ。彼女はほんとうに優秀な研究者で、くだらない派閥争いのとばっちりで退職に追いやられたことを、いまでも強く惜しんでいる人間は、いくらでもいる。
 そう、と頷いて、アキちゃんは、コーヒーの黒々とした水面を見つめた。遠くから、牛ののんびりした鳴き声が聞こえてくる。
「どういって断るか、考えてるでしょ。いま」
「わかっちゃう?」
 そりゃね、と頷いて、アキちゃんから目を外した。わかるよ。八年も机を並べて、毎日毎日顔を突き合わせてたんだから。
「ありがたい話だとは思うのよ。正直」
 さばさばした口調で、アキちゃんはいった。うん、と頷いて、コーヒーを飲み干す。アキちゃんは、窓の外を眺めながら、ゆっくりと言葉を探した。
「みんな、元気?」
「あいかわらず残業続きで、ぐったりしてはいるけど、元気は元気だよ。荻田がこのごろ、よく頑張ってる」
「そっか」
「そんならアキちゃんがいなくても向こうは平気って、いま思った?」
「最初からさ、そんな心配してないよ。あたし一人、抜けたくらいでさ」
「ぜんぜん違うよ、アキちゃんがいないと」
 俺の声も、過去のことを話す口調になってるなと、言いながら、そんな余計なことに気が付いた。
「ありがと」
 窓からのぞく四角い空に、小さな鳥の影がよぎった。そういえばここに来る途中にも、野鳥の姿を何度も見かけた。鳥に詳しくはないが、好きな人には天国だろう。アキちゃんの興味もそのうち、農業だけにとどまらず、かれらの生態にも向くかもしれない。どこが変わっても、研究熱心なところはきっと、一生かわらないだろう。
 まあ、仕方ないさと、口の中で呟いた。
「ホントはさ、もっと熱心に誘うつもりだったんだ。顔、見るまではさ」
 いうと、アキちゃんは、ちょっと困ったように笑った。
「そっか」
「アキちゃんがさ。ああいう、くだんないことで」
 喋りながら思わず、言葉によけいな力が入った。ゆっくり呼吸をひとつはさんで、続ける。
「会社を追い出されるなんてさ、皆、いまでも納得いかないし」
「寿退社よ、いちおう。祝ってくれたっていいじゃない」
 茶化すように、アキちゃんは口をはさんだ。俺はそれにはちょっと笑っただけで合いの手をいれず、話を続けた。
「アキちゃんが、傷心を慰めるために、結婚して遠くに越したんだって、勝手にそう思ってたからさ」
 だから、来て顔を見るまでは、説得するつもりだった。結婚して、家まで持っている以上、旦那さんだけこっちに残るのでも、一緒に移ってくるのでも、大変なことには違いない。それでも、彼女があんなふうな、くだらないしがらみに負けたままでいるなんて、そんなのはだめだと、そう思っていた。
 でも、違うんだねと、そうひとりごとのように言いながら、いいことのはずなのに、それが妙に寂しくなった。彼女が敗れて去っていったのだと、落伍者の烙印でも押されたかのように、勝手に思い込んでいたのは、自分たちだけだったのだろう。
「退職はただの、きっかけだったんでしょ」
 うん、と、アキちゃんはどこか申し訳なさそうに笑った。いいんだ、わかったよ。旦那さんといるところを見たら、ちゃんと、さ。
「残念だけど、まあ、しょうがないか」
 ごめんねと、アキちゃんはいった。それから少しの沈黙をはさんで、ありがとう、とも。
 アキちゃんはそれから立ち上がって、コーヒーをもう一杯いれてくれた。ていねいに、時間をかけて。
 湯気のたつ新しいコーヒーを受け取りながら、いおうかどうか、ずっと迷っていた言葉を、口の中で転がしていた。
 ――俺、アキちゃんのこと、好きだった時期があるんだよ。
 いまさらいっても仕方のないことだ。分かってはいるけど、それでも迷っていた。
 そして多分それは、少なくとも過ぎたいつかの時間の中では、ただの一方的な気持ちでもなかったと、そう思っている。うぬぼれでなければ、だけど。
 毎日毎日顔を突き合わせて、激務に追われて、平気でしょっちゅう研究室に泊り込んでいるうちには、変な抵抗があって、いいだしづらかった。それくらい、東京にいた頃のアキちゃんは仕事に打ち込んでいたし、自分自身も、彼女と一緒にする仕事が楽しかった。そこに恋愛沙汰をはさむのが、なんとなく、場違いな気がしていた。
 もたもたしているうちに、アキちゃんはあの忙しい生活の中で、どこかで恋人を見つけてきてしまったし、そうなるともう、何も言い出せなくなった。
 だから本当に、いまさらな話だ。後悔するくらいなら、もっと早くにいってしまえばよかったのに。
 だけど、もうたぶん、アキちゃんと会うこともないだろう。だから、ぎりぎりまで迷った。
 アキちゃんが俺の沈黙をどう思ったのかわからない。俺がアキちゃんの顔を見て、分かってしまったことがあるように、アキちゃんにも、俺のつまらない迷いなんて、お見通しなのかもしれなかった。
 しばらく二人で黙り込んで、二杯目のコーヒーを味わっていた。
 結局俺は、何もいわなかった。知ってたよ、と、笑われるような気がしたので。


 ※※


 畑の様子を見回っていて、ふと顔を上げると、いつのまにか日が暮れかかっていた。このごろ陽が落ちるのが早い。
 携帯をジーンズのポケットからひっぱり出すと、じきに、コースケ君が乗る飛行機の時間だった。ちょっと迷ったけれど、タオルで顔の汗を拭って、ボタンを押す。
 かつては頻繁に連絡をとっていた番号だから、すっかり頭に入っている。数字でダイヤルするほうが、電話帳で検索するより早いくらいだ。一コール、二コール、三コール。通話のつながる音。コースケ君はかならず、三コールめで電話をとる。それがビジネスの相手でなくても。
 ――はい、槙です。アキちゃん?
「うん。いま、空港?」
 ――うん。お土産、ありがとう。皆よろこぶよ。
「無農薬野菜で喜ぶのは、室長くらいじゃないの。あとは誰も料理なんて、しないじゃない。ちゃんとほかのお土産も買った?」
 ――買った買った。
 受話器の向こうでは、人ごみの気配。発着便のアナウンスが、かすかに聞こえている。
「みんなによろしく。気をつけて帰ってね」
 ――飛行機が落ちたら、気をつけようがないよ。
「ただの社交辞令よ」
 電話の向こうからは、明るい笑い声。コースケ君は、ぜんぜん変わらない。そのことが少しだけ、寂しいような気がする。
 私ひとりがいなくても、研究室の業務は回るし、みんなの時間は進んでいく。当たり前のことだけれど、わかっていても、寂しくなるときもある。
 またいつか、今度は本当に遊びにきてね、と、そういおうと思っていた。電話をかけた瞬間までは。
 けれど結局、私はその言葉を飲み込んだ。
「元気でね」
 ――そっちもね。
 わざとらしく軽い口調で、コースケくんはいった。それから少し、間があった。
 ――お幸せに。そういえばまだ、いってなかった。
 そこだけ、声が笑っていなかった。
「うん。……ありがとう」
 ――それじゃ。
 通話が切れて、とっさに、暮れゆく空を見上げた。こんな遠くから、飛行機が飛ぶのが見えるわけではないのだけれど。
 遠くから、軽トラのエンジン音が響いてくる。顔を下ろすと、暗くなりかかった道に、ヘッドライトが小さく光っていた。大ちゃんだ。
 携帯電話をポケットにしまいこむと、収穫した野菜を地面に置いて、大きく手を振った。まだ距離があるし、暗くて見えないだろうかと思ったけれど、大ちゃんは小さくクラクションを鳴らして、答えてくれた。
 一度だけ、空港のほうを振りあおいだ。遠くにたなびく薄い雲を、残光が淡く浮かび上がらせている。

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必須お題:「烙印」「チーズ」「ナス」

縛り:「料理のシーンを入れる」「ナスの品種またはチーズの銘柄まで書く(どちらかでOK)」「途中で視点キャラを切り替える(最低一回)」

任意お題:「砥石」「ため息」「木炭」「人生は三万日」「一生分の勇気」(使用できず)

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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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