小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。時系列を錯綜させるという縛りだったにも関わらず、ぜんぜん錯綜していないことに、書き終えてから気づきました。アホだ……orz
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十七歳だった。夜中の海岸に花火を持ち寄ってぎゃあぎゃあ騒いでも、それで近所中の苦情を集めても、テトラポットの上を飛び跳ねたあげくに足を滑らせて骨折しても、毎日くだらないことで腹を抱えて笑いあっても、よく分からない理由でぼろぼろになるまで殴り合っても、どれもしかたなかった。十七歳だった。いつでも体の中で行き処を見つけきれないエネルギーが膨れ上がって、破裂しそうになっていた。
まだ夏休みも遠い、夏のはじめのころだった。それでも充分すぎるほど、毎日毎日蒸し暑かった。にじみ出てくる汗を、潮風でべたつく腕でぬぐいながら、その頃いつもつるんでいた三人組で、真夜中の海岸沿いを歩いていた。
「なあ、なんでもっとロケット花火、持ってこねえんだよ。線香花火とか、そーいうみみっちいのいらねえよ。もっと景気のいいやつ、ドカンと行こうぜ」
そう唇を尖らせた弘毅が、おれが歩きながら押していた自転車をがしゃがしゃと蹴った。
「蹴んな。金出してねえやつがうるせえよ」
「っていうかチャリとかだっせえし。しかもママチャリとかねえよ」
げらげら笑われた。余計な世話だ。前を歩いていた仁も、遠慮なく吹き出した。
「うっせ、壊れたんだよ。蹴んなって、お袋のなんだからよ」
「なー、バイク買おうぜバイク。原付免許は十六からとれるんだぜ」
「金ねえし」
「だからバイトしようぜー。寺町のガソリンスタンドでよ」
「馬鹿か、学校の目と鼻の先じゃねえか」
うちの学校はアルバイト禁止だ。家庭の事情で、許可をもらって新聞配達をしているやつらはいるが、親に一筆書かされるし、まあそれはどうにでもなるとしても、新聞配達以外はろくに認められないらしい。どうせ部活もやらずに毎日ふらふらしていたのだから、アルバイト自体は考えてみないでもなかったが、弘毅のいうスタンドは論外だった。
「なんだよおまえ、センセーに怒られるのが怖いのかよ」
「怖いとか怖くないとかじゃねえだろ。学校からバイト先に話行って、すぐクビんなるだろうが、頭使えよ」
んだと、と拳をつくりかけた弘毅の腕を、急に立ち止まった仁が引いた。
「なんだよ」
「あれ」
仁が指さした先に、白っぽい布が翻るのが見えた。
堤防の上だ。布はどうやらワンピースの裾で、それを着て立ち尽くしているのは、若い女だった。
ひゅー、と弘毅の間抜けな口笛が響いた。「可愛いじゃん?」
よく見えるなと、おれは目を凝らした。申し訳程度に街灯は並んでいるが、それでも道は暗いし、距離も離れていて、とても顔まではわからない。
「けど、あれってさ」
仁が何か言いかけたとき、女の体がふらりと揺れた。それは人が足を滑らせたというよりも、何かマネキンが風に吹かれてバランスを崩したという具合に、おれの目には見えた。
「げ、自殺?」
「あの下って、テトラポッドだろ」
二人が顔を見合わせるのをその場において、おれは走り出していた。とっさに堤防のうえに飛び上がり、息を詰めて駆ける。
このあたりだった、という場所で足を緩めて、海側を見下ろすと、そこにはテトラポッドに仰向けに引っかかって、ぼんやりと夜空を見上げている女がいた。
弘毅の目はたしかだった。女の顔立ちは、誰が見ても否定できないくらいに可愛かった。けれどそれを台無しにするくらいに、表情が死んでいた。そのときぴくりと女の白い腕が動かなかったら、ほんとうに死んでいると思ったかもしれない。
「おい、怪我は?」
防波堤からテトラポッドに飛び移りながら、そう声をかけると、女はおれのほうをちらりと見て、上半身を起こした。無造作に服をはたくと、もう興味をなくしたようにおれに背を向けて、海のほうを眺めた。
「怪我は、って聞いてんだろ」
近づいて、ぐいと腕を引くと、女の体は何の抵抗もなくおれの方に倒れ掛かってきた。
「おい、大丈夫かよ」
青白い月光の加減もあるかもしれないが、その顔は、ひどく血の気がうせているように見えた。それでも見たところ、肘を少しすりむいている以外に、怪我らしい怪我はないようだった。
しばらくぼうっとおれの顔を見上げたあとで、女はぼそりと聞き返してきた。
「なにがどうだったら、大丈夫なの」
掠れた、すこし低い声だった。
「……とりあえず、頭、打ってねえか」
女はゆっくりと頷いた。それからようやく自分の肘を見下ろして、血が滲んでいるのに気づいたようだった。傷口をちらりと見下ろして、けれどすぐに興味をなくしたように、女は海の方に視線を戻した。
「ねえ、さっきの花火、あんた?」
訊かれて頷いたときに、なにかぎゃあぎゃあ騒ぎながら、弘毅と仁が追いついてきた。
「おーい、大丈夫か?」
ろくに心配もしていない調子で弘毅が訊いてきて、おれは「さあ」と肩をすくめた。なにがどうだったら、大丈夫なんだろうな。
ここから見えてた、と、女はぼそぼそと呟いた。
「あんたは、何やってたんだよ」
こんな夜中に、こんな寂しいところで。けれど問いただしても、女は何も答えなかった。聞こえていないかのように問いかけを無視して、波間に月影が映りこむのを、ただ目で追っている。その表情は大人びてみえたけれど、それでもよく見れば、おれたちと同じくらいか、せいぜい少し年上くらいのようだった。
「なあ、病院とか行かなくていいの。救急車、呼ぼうか」
人のいい仁が、携帯を取り出しながらどこかおろおろというのに、ようやく女は首を横に振った。それから、ぜんぜん関係のないことを訊いてきた。
「もうしないの? 花火」
おれたちは顔を見合わせた。それから弘毅が、おれの腕を小突いた。
「もうねえんだよ。こいつがケチるから」
「金だしてねえお前がいうなって」
ぎゃあぎゃあといい合うおれたちをよそに、女は黒々とした水面に視線を投げて、そう、と頷いただけだった。
「……明日、またやる。毎日でもやるし。花火」
とっさにそんなことをいっていた。女はちらりと振り向いて、何かいいたそうな顔をした。
「おーい、いつの間にそういうことになったんだよ」
弘毅が横から、よけいなツッコミを入れてくる。うるせえな、いまだよ。お前らがやんないならおれだけでも毎日やるよ。ロケット花火。だからさ、
「そしたらあんたも、観に来るか。花火」
女は少しの間、考えるような顔をして、けれど結局は、ただ小さく首を傾げた。
「さあ」
後ろで弘毅がナンパ失敗、とにやにや笑うのを、おれは振り向かないまま後ろ足で蹴った。そこから喧嘩になった。足場の悪いテトラポッドのうえでつかみ合って、すぐにバランスを崩してふたりともコケた。
幸い、海に落ちはしなかったが、春先にここの近くで似たようなことをやって、弘毅はあばらに、おれは腕にひびを入れたのに、二人ともぜんぜん懲りてなかった。それが可笑しかったのか、仁が腹を抱えて笑い出した。
そうすると、もう怒っているのも馬鹿らしくなって、三人でげらげらと笑い声を上げた。女はちらりとも笑わずに、ただおれたちが騒々しくしているのを、ぼうっと見上げていた。
おれは本当に毎晩、真夜中の浜辺に通った。「さあ」なんていったわりには、女も毎日ふらりと姿を見せて、少し離れた堤防の上から、ぼんやりと花火を眺めているようだった。弘毅や仁は、来たり来なかったりした。来れば来たで、その場でさんざんひやかしていくし、来なかったら来なかったで、翌日学校でからかいにきた。
最初のころ、女はただ遠くから眺めているだけで、ちっとも浜辺まで降りてこなかった。花火が尽きて帰るときに、ひとことふたこと声をかける。そんな夜が長く続いて、少しずつ、少しずつ、見物席が近づいてきた。ひと月ほど経った頃に、ようやく女はおれたちのすぐ近くで花火を観るようになった。そのころおれは、花火代のために、本当にコンビニで夏休み限定のバイトを始めていた。
笑わない女だった。笑わせたくてしょっちゅう馬鹿話ばかりしていたけれど、十回に九回は興味なさそうにシカトされた。でも十回目に、ちらりと唇の端で笑って、その表情が意外に柔らかくて、それでもう駄目だった。どうしようもなかった。
なんか訳ありなんだろうな、とは最初から思っていたけれど、おれはいつまでも、彼女に何も訊かなかった。訊きたいと、思わないわけじゃなかったけれど、訊いても答えなさそうだと感じていたし、へたなことを訊いたら、もうここに来なくなるんじゃないかという朧げな不安もあった。
ただ、女の、いつも白っぽくてひらひらした服ばかり着ている襟の奥に、青黒く広がる痣を見つけてしまったことがある。
女はおれが見ていることに気づいても、恥じるようでも怒るようでもなく、ただ興味なさそうに、ふいと海に視線を投げた。
なあ、警察とかさ、と、何度かいいそうになった。誰かに助けを求めるべきなんじゃないのか。
けれど口に出してはいえなかった。
盆も近い、ある夜のことだった。その日は弘毅も仁もいなくて、ほとんど喋らない女を相手に、おれがひとりで、学校であったくだらない出来事とか、バイト先にきた変な客のこととか、そんなことを途切れ途切れに話しかけていた。女はあいかわらず無口だったけれど、そのころには自分でも、花火を手に取るようになっていた。
女の痣が、それまで服に隠れるところにしかなかった傷跡が、二の腕の下に、膝下に、少しずつ下りてきていた。
「なあ。できること、あるか」
前後の話となんの脈絡もなく、おれはぽつりと訊いた。女は顔を上げて、何の表情も浮かべないまま、おれの目をじっと覗き込んだ。それから黙って、首をゆるく振った。
しばらく、二人とも黙り込んで、ただ手元で忙しなく色を変える火花を見つめていた。明日はもうちょっと、景気のいいやつを買ってこようと、おれはそんなことを考えていた。ドラゴンとか北斗群星33連とか、そういうやつを。
手持ちの花火も尽きて、その前に何を話していたかを忘れるくらいの長い沈黙をはさんだあとに、女がぽつりと口を開いた。
「ありがとう」
女はもう暗い海を見てはいなかった。おれのほうをまっすぐみて、彼女は初めてそんな言葉を口にだした。
月の細い夜だった。おれは花火のなくなった暗闇の中で、なあ、と女に呼びかけた。どっか逃げようか。
学校の連中なのか、家族なのか、男なのか、誰だかしらないが、おまえを殴るクソ野郎をぶち殺してやろうかと、よほどそういおうかと思っていた。けれど実際に口から出たのは、逃げようかなんていう、あいまいな言葉だった。おれが人殺しになっても誰も救われはしないと、馬鹿なりに理解していたのかもしれないし、もっと単純に怖気づいたのかもしれなかった。
女はしばらく答えなかった。おれは返事を待ちながら、これから先のことを考えていた。高校はまあいい。アルバイトならば働き口は何とでもなるだろうと、楽観的に考えようとしていた。どこか遠い町にいって、安いアパートを借りて、バイトをかけもちして。贅沢をしなければ、食べていくくらいはなんとかなるだろう。部屋を借りるのに、保証人とかがいるのかな。そんなことを、口に出さずに考えていた。高校生の想像力なんて、そんなもんだった。つらつらとそんなことに思いをめぐらせながら、女の青白い頬を、見つめていた。
じっとしていても汗の吹き出すような熱帯夜なのに、女はどういうわけか、どんなに暑い日でも、ほとんど汗をかいていないように見えた。痩せてうすい体、いつ見ても血の気のうせたような肌。自分の心が軋みを上げる音を、おれはこのとき、生まれて初めてきいた。
「気持ちだけ」
ずいぶん経ったころに、女はようやく口を開いた。
「もらっとく。ありがと」
おれは肩を落としたけれど、それ以上しいて押しはしなかった。無理強いできることではないと思っていた。けれどどうして、このときにもっと強く重ねて誘わなかったのかと、おれはあとで、ずっと後悔することになる。
「もうちょっと、がんばってみる」
帰ろうかというころ、女はいままでよりも少しだけ、強い口調でそういった。それははじめて彼女の口からきいた、前向きな言葉だった。
そうか、と曖昧にうなずいて、おれはジーンズの尻をはたいた。
背を向けて、それぞれの家路に向かいかけて、途中でおれは衝動的に振り返った。そして叫んだ。
「なあ。なんかできることあったら、いえよ。これからだってずっと、毎晩ここに来るからさ」
夏が終わって、花火が売られなくなっても。毎晩来るから。そんなようなことを、おれは馬鹿みたいに大声で叫んだ。
女は振り返って、遠くから手を振ってきた。
けれど次の日、女は姿を見せなかった。その次の日も。浜辺に顔を出した弘毅と仁は、おれが彼女にふられたんだといって、しつこくからかってきたけれど、おれはやつらをあしらいながら、ずっと嫌な予感がしていた。けれどどこまでも間の抜けたことに、おれたちは彼女の連絡先や家どころか、名前さえきいていなかった。
テレビに彼女の顔写真をみたのは、三日後の朝だった。
実父を刺し殺して逮捕された十九歳無職女性の話題は、地元では長く人々の口をにぎわせた。
あることないこと、マスコミは好き勝手に言い立てた。胸の悪くなるような推測だらけの報道。無責任なことばかりいう近所のやつら、彼女の友人と名乗る、顔にモザイクの入った女たち。
おれはテレビで初めて知った彼女の名前を拘置所で告げて、なんどか面会を申し込んだが、すべて拒否された。彼女がおれの名前をしらないことに、そのときようやく思い当たって、おれはつくづく自分の馬鹿さ加減を呪ったが、今にしてみれば、もしかしたら彼女はおれと察しがついていて、その上で会いたくなかったのかもしれなかった。
冬休みだった。初公判の日、おれは傍聴席にいた。そこから彼女の、ますます痩せたように見える横顔を、じっと見つめていた。
彼女は終始、石のように無表情だったが、途中で一度だけ、顔を上げておれに気づいた。唇を開きかけてやめたのが、傍聴席からよく見えた。それからちょっと眩しそうに目を細めて、そして、それだけだった。もう二度と、彼女はおれのほうを振り向かなかった。
弘毅と仁が、馬鹿のひとつ覚えで毎日毎日家におしかけてこなければ、おれはあのまま家に引きこもって、高校も卒業しなかったかもしれなかった。けれど結果的には、何ごともなかったかのようにおれは進級し、卒業して、そのままどんな馬鹿でも入れるような大学を出て、就職した。彼女とふたりで知らない町に逃げ出した、もうひとつの人生という空想のきれっぱしを、心のどこかにしまいこんだまま、どこにでもいるような平凡なサラリーマンになった。
十七歳だった。わけもわからず恋に落ちて見境のないことを口走っても仕方なかった。実際に彼女とふたりで行方をくらまして知らない土地で暮らしていけなかったのも、仕方なかった、だろうか。
彼女に出会ったのが、いまだったらよかった。あのころのような若さも無鉄砲さもないけれど、あいまいな夢想じゃなくて、もう少し具体的な行動に出ることもできるだろう。
けれどあんなふうに誰かをどうしようもなく求めるエネルギーは、いまのおれにはもうない。たぶん、ない。
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▲お題:「テトラポット」「十七歳」「軋みを上げる」
▲縛り:「物語の時系列を錯綜させる」「心情の直接描写を避ける(任意)」(※『悲しんだ』『楽しげに』のように書かずに、『目を伏せた』『足取りも軽やかに』のように表現する)
▲任意お題:「漣」「道端の石ころ」「巨大カメラ」「ほのか」「夜の蝶」(使用できず)
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十七歳だった。夜中の海岸に花火を持ち寄ってぎゃあぎゃあ騒いでも、それで近所中の苦情を集めても、テトラポットの上を飛び跳ねたあげくに足を滑らせて骨折しても、毎日くだらないことで腹を抱えて笑いあっても、よく分からない理由でぼろぼろになるまで殴り合っても、どれもしかたなかった。十七歳だった。いつでも体の中で行き処を見つけきれないエネルギーが膨れ上がって、破裂しそうになっていた。
まだ夏休みも遠い、夏のはじめのころだった。それでも充分すぎるほど、毎日毎日蒸し暑かった。にじみ出てくる汗を、潮風でべたつく腕でぬぐいながら、その頃いつもつるんでいた三人組で、真夜中の海岸沿いを歩いていた。
「なあ、なんでもっとロケット花火、持ってこねえんだよ。線香花火とか、そーいうみみっちいのいらねえよ。もっと景気のいいやつ、ドカンと行こうぜ」
そう唇を尖らせた弘毅が、おれが歩きながら押していた自転車をがしゃがしゃと蹴った。
「蹴んな。金出してねえやつがうるせえよ」
「っていうかチャリとかだっせえし。しかもママチャリとかねえよ」
げらげら笑われた。余計な世話だ。前を歩いていた仁も、遠慮なく吹き出した。
「うっせ、壊れたんだよ。蹴んなって、お袋のなんだからよ」
「なー、バイク買おうぜバイク。原付免許は十六からとれるんだぜ」
「金ねえし」
「だからバイトしようぜー。寺町のガソリンスタンドでよ」
「馬鹿か、学校の目と鼻の先じゃねえか」
うちの学校はアルバイト禁止だ。家庭の事情で、許可をもらって新聞配達をしているやつらはいるが、親に一筆書かされるし、まあそれはどうにでもなるとしても、新聞配達以外はろくに認められないらしい。どうせ部活もやらずに毎日ふらふらしていたのだから、アルバイト自体は考えてみないでもなかったが、弘毅のいうスタンドは論外だった。
「なんだよおまえ、センセーに怒られるのが怖いのかよ」
「怖いとか怖くないとかじゃねえだろ。学校からバイト先に話行って、すぐクビんなるだろうが、頭使えよ」
んだと、と拳をつくりかけた弘毅の腕を、急に立ち止まった仁が引いた。
「なんだよ」
「あれ」
仁が指さした先に、白っぽい布が翻るのが見えた。
堤防の上だ。布はどうやらワンピースの裾で、それを着て立ち尽くしているのは、若い女だった。
ひゅー、と弘毅の間抜けな口笛が響いた。「可愛いじゃん?」
よく見えるなと、おれは目を凝らした。申し訳程度に街灯は並んでいるが、それでも道は暗いし、距離も離れていて、とても顔まではわからない。
「けど、あれってさ」
仁が何か言いかけたとき、女の体がふらりと揺れた。それは人が足を滑らせたというよりも、何かマネキンが風に吹かれてバランスを崩したという具合に、おれの目には見えた。
「げ、自殺?」
「あの下って、テトラポッドだろ」
二人が顔を見合わせるのをその場において、おれは走り出していた。とっさに堤防のうえに飛び上がり、息を詰めて駆ける。
このあたりだった、という場所で足を緩めて、海側を見下ろすと、そこにはテトラポッドに仰向けに引っかかって、ぼんやりと夜空を見上げている女がいた。
弘毅の目はたしかだった。女の顔立ちは、誰が見ても否定できないくらいに可愛かった。けれどそれを台無しにするくらいに、表情が死んでいた。そのときぴくりと女の白い腕が動かなかったら、ほんとうに死んでいると思ったかもしれない。
「おい、怪我は?」
防波堤からテトラポッドに飛び移りながら、そう声をかけると、女はおれのほうをちらりと見て、上半身を起こした。無造作に服をはたくと、もう興味をなくしたようにおれに背を向けて、海のほうを眺めた。
「怪我は、って聞いてんだろ」
近づいて、ぐいと腕を引くと、女の体は何の抵抗もなくおれの方に倒れ掛かってきた。
「おい、大丈夫かよ」
青白い月光の加減もあるかもしれないが、その顔は、ひどく血の気がうせているように見えた。それでも見たところ、肘を少しすりむいている以外に、怪我らしい怪我はないようだった。
しばらくぼうっとおれの顔を見上げたあとで、女はぼそりと聞き返してきた。
「なにがどうだったら、大丈夫なの」
掠れた、すこし低い声だった。
「……とりあえず、頭、打ってねえか」
女はゆっくりと頷いた。それからようやく自分の肘を見下ろして、血が滲んでいるのに気づいたようだった。傷口をちらりと見下ろして、けれどすぐに興味をなくしたように、女は海の方に視線を戻した。
「ねえ、さっきの花火、あんた?」
訊かれて頷いたときに、なにかぎゃあぎゃあ騒ぎながら、弘毅と仁が追いついてきた。
「おーい、大丈夫か?」
ろくに心配もしていない調子で弘毅が訊いてきて、おれは「さあ」と肩をすくめた。なにがどうだったら、大丈夫なんだろうな。
ここから見えてた、と、女はぼそぼそと呟いた。
「あんたは、何やってたんだよ」
こんな夜中に、こんな寂しいところで。けれど問いただしても、女は何も答えなかった。聞こえていないかのように問いかけを無視して、波間に月影が映りこむのを、ただ目で追っている。その表情は大人びてみえたけれど、それでもよく見れば、おれたちと同じくらいか、せいぜい少し年上くらいのようだった。
「なあ、病院とか行かなくていいの。救急車、呼ぼうか」
人のいい仁が、携帯を取り出しながらどこかおろおろというのに、ようやく女は首を横に振った。それから、ぜんぜん関係のないことを訊いてきた。
「もうしないの? 花火」
おれたちは顔を見合わせた。それから弘毅が、おれの腕を小突いた。
「もうねえんだよ。こいつがケチるから」
「金だしてねえお前がいうなって」
ぎゃあぎゃあといい合うおれたちをよそに、女は黒々とした水面に視線を投げて、そう、と頷いただけだった。
「……明日、またやる。毎日でもやるし。花火」
とっさにそんなことをいっていた。女はちらりと振り向いて、何かいいたそうな顔をした。
「おーい、いつの間にそういうことになったんだよ」
弘毅が横から、よけいなツッコミを入れてくる。うるせえな、いまだよ。お前らがやんないならおれだけでも毎日やるよ。ロケット花火。だからさ、
「そしたらあんたも、観に来るか。花火」
女は少しの間、考えるような顔をして、けれど結局は、ただ小さく首を傾げた。
「さあ」
後ろで弘毅がナンパ失敗、とにやにや笑うのを、おれは振り向かないまま後ろ足で蹴った。そこから喧嘩になった。足場の悪いテトラポッドのうえでつかみ合って、すぐにバランスを崩してふたりともコケた。
幸い、海に落ちはしなかったが、春先にここの近くで似たようなことをやって、弘毅はあばらに、おれは腕にひびを入れたのに、二人ともぜんぜん懲りてなかった。それが可笑しかったのか、仁が腹を抱えて笑い出した。
そうすると、もう怒っているのも馬鹿らしくなって、三人でげらげらと笑い声を上げた。女はちらりとも笑わずに、ただおれたちが騒々しくしているのを、ぼうっと見上げていた。
おれは本当に毎晩、真夜中の浜辺に通った。「さあ」なんていったわりには、女も毎日ふらりと姿を見せて、少し離れた堤防の上から、ぼんやりと花火を眺めているようだった。弘毅や仁は、来たり来なかったりした。来れば来たで、その場でさんざんひやかしていくし、来なかったら来なかったで、翌日学校でからかいにきた。
最初のころ、女はただ遠くから眺めているだけで、ちっとも浜辺まで降りてこなかった。花火が尽きて帰るときに、ひとことふたこと声をかける。そんな夜が長く続いて、少しずつ、少しずつ、見物席が近づいてきた。ひと月ほど経った頃に、ようやく女はおれたちのすぐ近くで花火を観るようになった。そのころおれは、花火代のために、本当にコンビニで夏休み限定のバイトを始めていた。
笑わない女だった。笑わせたくてしょっちゅう馬鹿話ばかりしていたけれど、十回に九回は興味なさそうにシカトされた。でも十回目に、ちらりと唇の端で笑って、その表情が意外に柔らかくて、それでもう駄目だった。どうしようもなかった。
なんか訳ありなんだろうな、とは最初から思っていたけれど、おれはいつまでも、彼女に何も訊かなかった。訊きたいと、思わないわけじゃなかったけれど、訊いても答えなさそうだと感じていたし、へたなことを訊いたら、もうここに来なくなるんじゃないかという朧げな不安もあった。
ただ、女の、いつも白っぽくてひらひらした服ばかり着ている襟の奥に、青黒く広がる痣を見つけてしまったことがある。
女はおれが見ていることに気づいても、恥じるようでも怒るようでもなく、ただ興味なさそうに、ふいと海に視線を投げた。
なあ、警察とかさ、と、何度かいいそうになった。誰かに助けを求めるべきなんじゃないのか。
けれど口に出してはいえなかった。
盆も近い、ある夜のことだった。その日は弘毅も仁もいなくて、ほとんど喋らない女を相手に、おれがひとりで、学校であったくだらない出来事とか、バイト先にきた変な客のこととか、そんなことを途切れ途切れに話しかけていた。女はあいかわらず無口だったけれど、そのころには自分でも、花火を手に取るようになっていた。
女の痣が、それまで服に隠れるところにしかなかった傷跡が、二の腕の下に、膝下に、少しずつ下りてきていた。
「なあ。できること、あるか」
前後の話となんの脈絡もなく、おれはぽつりと訊いた。女は顔を上げて、何の表情も浮かべないまま、おれの目をじっと覗き込んだ。それから黙って、首をゆるく振った。
しばらく、二人とも黙り込んで、ただ手元で忙しなく色を変える火花を見つめていた。明日はもうちょっと、景気のいいやつを買ってこようと、おれはそんなことを考えていた。ドラゴンとか北斗群星33連とか、そういうやつを。
手持ちの花火も尽きて、その前に何を話していたかを忘れるくらいの長い沈黙をはさんだあとに、女がぽつりと口を開いた。
「ありがとう」
女はもう暗い海を見てはいなかった。おれのほうをまっすぐみて、彼女は初めてそんな言葉を口にだした。
月の細い夜だった。おれは花火のなくなった暗闇の中で、なあ、と女に呼びかけた。どっか逃げようか。
学校の連中なのか、家族なのか、男なのか、誰だかしらないが、おまえを殴るクソ野郎をぶち殺してやろうかと、よほどそういおうかと思っていた。けれど実際に口から出たのは、逃げようかなんていう、あいまいな言葉だった。おれが人殺しになっても誰も救われはしないと、馬鹿なりに理解していたのかもしれないし、もっと単純に怖気づいたのかもしれなかった。
女はしばらく答えなかった。おれは返事を待ちながら、これから先のことを考えていた。高校はまあいい。アルバイトならば働き口は何とでもなるだろうと、楽観的に考えようとしていた。どこか遠い町にいって、安いアパートを借りて、バイトをかけもちして。贅沢をしなければ、食べていくくらいはなんとかなるだろう。部屋を借りるのに、保証人とかがいるのかな。そんなことを、口に出さずに考えていた。高校生の想像力なんて、そんなもんだった。つらつらとそんなことに思いをめぐらせながら、女の青白い頬を、見つめていた。
じっとしていても汗の吹き出すような熱帯夜なのに、女はどういうわけか、どんなに暑い日でも、ほとんど汗をかいていないように見えた。痩せてうすい体、いつ見ても血の気のうせたような肌。自分の心が軋みを上げる音を、おれはこのとき、生まれて初めてきいた。
「気持ちだけ」
ずいぶん経ったころに、女はようやく口を開いた。
「もらっとく。ありがと」
おれは肩を落としたけれど、それ以上しいて押しはしなかった。無理強いできることではないと思っていた。けれどどうして、このときにもっと強く重ねて誘わなかったのかと、おれはあとで、ずっと後悔することになる。
「もうちょっと、がんばってみる」
帰ろうかというころ、女はいままでよりも少しだけ、強い口調でそういった。それははじめて彼女の口からきいた、前向きな言葉だった。
そうか、と曖昧にうなずいて、おれはジーンズの尻をはたいた。
背を向けて、それぞれの家路に向かいかけて、途中でおれは衝動的に振り返った。そして叫んだ。
「なあ。なんかできることあったら、いえよ。これからだってずっと、毎晩ここに来るからさ」
夏が終わって、花火が売られなくなっても。毎晩来るから。そんなようなことを、おれは馬鹿みたいに大声で叫んだ。
女は振り返って、遠くから手を振ってきた。
けれど次の日、女は姿を見せなかった。その次の日も。浜辺に顔を出した弘毅と仁は、おれが彼女にふられたんだといって、しつこくからかってきたけれど、おれはやつらをあしらいながら、ずっと嫌な予感がしていた。けれどどこまでも間の抜けたことに、おれたちは彼女の連絡先や家どころか、名前さえきいていなかった。
テレビに彼女の顔写真をみたのは、三日後の朝だった。
実父を刺し殺して逮捕された十九歳無職女性の話題は、地元では長く人々の口をにぎわせた。
あることないこと、マスコミは好き勝手に言い立てた。胸の悪くなるような推測だらけの報道。無責任なことばかりいう近所のやつら、彼女の友人と名乗る、顔にモザイクの入った女たち。
おれはテレビで初めて知った彼女の名前を拘置所で告げて、なんどか面会を申し込んだが、すべて拒否された。彼女がおれの名前をしらないことに、そのときようやく思い当たって、おれはつくづく自分の馬鹿さ加減を呪ったが、今にしてみれば、もしかしたら彼女はおれと察しがついていて、その上で会いたくなかったのかもしれなかった。
冬休みだった。初公判の日、おれは傍聴席にいた。そこから彼女の、ますます痩せたように見える横顔を、じっと見つめていた。
彼女は終始、石のように無表情だったが、途中で一度だけ、顔を上げておれに気づいた。唇を開きかけてやめたのが、傍聴席からよく見えた。それからちょっと眩しそうに目を細めて、そして、それだけだった。もう二度と、彼女はおれのほうを振り向かなかった。
弘毅と仁が、馬鹿のひとつ覚えで毎日毎日家におしかけてこなければ、おれはあのまま家に引きこもって、高校も卒業しなかったかもしれなかった。けれど結果的には、何ごともなかったかのようにおれは進級し、卒業して、そのままどんな馬鹿でも入れるような大学を出て、就職した。彼女とふたりで知らない町に逃げ出した、もうひとつの人生という空想のきれっぱしを、心のどこかにしまいこんだまま、どこにでもいるような平凡なサラリーマンになった。
十七歳だった。わけもわからず恋に落ちて見境のないことを口走っても仕方なかった。実際に彼女とふたりで行方をくらまして知らない土地で暮らしていけなかったのも、仕方なかった、だろうか。
彼女に出会ったのが、いまだったらよかった。あのころのような若さも無鉄砲さもないけれど、あいまいな夢想じゃなくて、もう少し具体的な行動に出ることもできるだろう。
けれどあんなふうに誰かをどうしようもなく求めるエネルギーは、いまのおれにはもうない。たぶん、ない。
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▲お題:「テトラポット」「十七歳」「軋みを上げる」
▲縛り:「物語の時系列を錯綜させる」「心情の直接描写を避ける(任意)」(※『悲しんだ』『楽しげに』のように書かずに、『目を伏せた』『足取りも軽やかに』のように表現する)
▲任意お題:「漣」「道端の石ころ」「巨大カメラ」「ほのか」「夜の蝶」(使用できず)
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