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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 即興三語小説。暗いです。




 夕闇の迫る町を徘徊していた。
 押し寄せる熱気の息苦しさに、ネクタイをむしりとる。傍聴席で隣り合わせたわけ知り顔の中年男、腕組みをしながらしきりと頷いていたそいつの横顔が、眼前をちらついていた。赤の他人の裁判を、好き好んで傍聴して回る趣味の人間がいるのだと、誰かが小声で吐き捨てた。
 判決が出るには、まだ長い時間がかかる。それまであと何回、あの白々しい茶番につきあうのだろう。空疎な尋問を、詭弁を弄する弁護士を、被告の居直りの弁明を聴かされて、その果てに何があるというのだろう。裁判の向こう側に、真実などない。打算と駆け引きと、保身と妥協。あの場所にあるのはそんなものばかりだ。
 ぐるぐるぐるぐると、同じところを廻り続ける思考の檻の内側だけを見つめながら歩いて、目的の駅をとっくに通り過ぎていることに気づいたときには、もう自分がどこにいるのか判らなくなっていた。
 逢魔ヶ刻とはよくいった。道を往く人々の影は認識できるけれど、顔はよく見えない。その中に魔物が紛れ込んでいても、いまなら気づかないだろう。信号待ちをしている車のブレーキランプが、怪物の目のように爛々と光っている。空は薄雲に覆われて、黄土色の中途半端な残光が、西の端に未練がましくしがみついている。
 少しのあいだ立ち尽くしていたが、仕方なく、もと来た道を引き返し始めた。もともとこのあたりはよく知らない。地元ではないし、この町の裁判所がどこにあるのかさえ、去年まで知らなかった。知る必要があるとも思っていなかった。
 咲子、咲子、咲子。心の中で、何度も呼ぶ。別れた妻が名付け親辞典と格闘して、悩みに悩んで決めた名前だ。返事がないことを知っているのに、それでも呼ぶ。生きていたときよりも、この一年で呼んだ回数のほうが、きっと多い。それで生きているときに呼ばなかった分を、取り戻せるはずもないのに。
 咲子、咲子、咲子。何度呼ぼうと、瞼の裏に浮かぶのは、七歳のころの顔ばかりだ。初めて海に連れて行ったときの、怖がって泣いた顔。花見にいって、抜けるような晴天に舞う桜の花びらに、魅入られたようにぽかんと口を開けていた顔。頬にソースをつけて屋台のたこ焼きをほおばる、満面の笑顔。葬儀のときに、二十歳をすぎた咲子の遺影を見たはずなのに、思い出せるのは、妻と離婚する前の幼い時分の娘ばかりだった。
 面会権はあったのだから、あわせる顔がないなんていわずに、もっと顔を見に行けばよかった。それが駄目なら電話でも、プレゼントを贈るのでも。嫌がられてでも、少しくらい父親らしいことをしてみればよかった。


 気が付けば、駅を通り過ぎて、また裁判所の前に戻ってきていた。我に返って、あたりを見渡す。黄昏どころか、すっかり暗くなっていた。ふっと、立ちくらみにおそわれる。
 どうにか足を踏ん張って、体勢を立て直す。しっかりしなくてはならない。まだ先は長いのだから。
 重いレジ袋を握り締めなおして、駅に向かう。帰宅して、何か食べて力をつけて、無理にでも寝る。夢を見て飛び起きようと、強引に寝なおす。裁判の決着までは、なんとしてでも見守らなくてはならない。
 顔を上げて、灰色の雲に覆われた夜空を見る。雲のむこうを見通そうとするように、凝視する。亡くなった人を、よく空の星になったというけれど、咲子があんな寂しい場所にいるなんて、思いたくない。あの子は寂しがりだから。
 ふっと、自嘲の笑みが漏れる。その寂しがりの子を、放っておいたのは誰だ。十年以上会いに行きもしなかったのは、どこの誰だ。
 顔を地上に戻すと、汗が目に入って、ひどく沁みた。
 被告の顔を、ぼんやりと思い浮かべる。覇気のない、まっとうに生き抜こうなどという気概など、欠片も持ち合わせていないような、腑抜けた表情。人を殺したことを後悔しているのではなく、罪に問われる羽目になったことを後悔しているような、自分のことしか考えていない人間の顔。
 憎まなくてはならない。あの顔を見たときに、強く芽生えたその思いは、いまも胸の底に碇のように深く重く沈んでいる。私はあの男を憎まなくてはならない。もうそれくらいしか、咲子のためにしてやれることはないのだから。

 ――六百九十八円になります。
 先ほど思いつきでふらりと入ったディスカウントストアで、愛想笑いのできない店員が、爪の先で汚れた雑巾をつまみあげるような顔でいった。なんに使うつもりで買ったのか、知るはずもないが、もしかすると何か、顔に出ていたかもしれない。分からない。
 レジ袋をがさがさと鳴らしながら、一歩ずつ歩く。どちらにしてもまだこれを使うのは先だ。
 無罪はない。けれど執行猶予ならつくかもしれない。耳に入ってきたその情報が、適切な推量なのか、ただの無責任な発言なのかはしらない。けれどもしもそれが本当だったら、そのときこそこれの出番だ。
 待っててくれよ、咲子。お父さんが、仇を討ってやるからな。何も父親らしいことしてこなかったけど、いまからじゃ間に合わないと思うかもしれないけど、それでもせめて、お前の仇だけはとるからな。
 手にずしりとかかる金槌の重み。その重量に縋るような気持ちで、知らない町を歩く。足が疲れてきたような気もするが、もうよく分からない。こんなものはこれからの長い長い彷徨の、ほんの序幕だという予感がした。


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▲お題:「裁判の向こう側」「雲のむこう」「九十八円」
▲縛り:「主人公が何か大切なものを失くしている」「(小道具として)花を出す」「弁護士事務所の描写を入れる(任意)」
▲任意お題:「逢魔ヶ刻」「虚ろな目」「灯明」「彷徨」「天地神明に誓って」(ほぼ使用できず)

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