小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。
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いまにも潰れそうな寂れた店。手の中の文庫本に出てきたその単語が、ぴったりと目の前の仄暗い店内に当てはまるのが癪に思えて、郁は続きを読む気を失った。
レジ台を兼ねたガラス張りの陳列ケース、セロハンテープの跡がとれないその天板の上に、手垢のついた文庫本を投げ出して、背伸びをひとつ。背もたれのビニールが破けて綿がはみ出しているパイプ椅子が、いっそ壊れないのが不思議なほど、つよく軋んだ。レジの裏側には、包装用の新聞紙に無造作に突っ込まれたまま放置された皿。一週間ほど前に客が買いかけて直前で思い直したときのまま、埃を被っている。細かな埃の粒子が表面を覆っているのは、店の備品ばかりではない。長く売れ残った商品も、この頃とうとうはたきをかける熱意を忘れた郁の父親のおかげで、まるで灰でも被ったようだ。寂れた商店。
ため息をつき、いったん奥に引っ込んだ郁は、雑巾をぬらして店に戻った。レジ台をざっと拭き、目に付く商品棚の上を無造作にぬぐう。それが終わったら、もうすることがない。
客の来ない店の番よりも退屈なものが、この世にどれほどあるだろうか。郁はぼんやりと頬杖をついたまま、戸口の外に視線を投げた。向かいの民家の屋根よりもさらに遠く、空にそびえる五階建てのデパートの、のぼりの端が、向かいの瓦の上につきだしている。
これほど近くに、あんなに大きなデパートができていて、その一階には日用品なら何でもそろう大型スーパーマーケットが入っているというのに、こんな住宅街の真ん中の、古ぼけた個人商店に、いったい誰の用があるだろう?
ごった返す買い物客を相手取る、戦場のような大型スーパーのレジ係と、住宅街の真っ只中にあるオンボロ個人商店の店番と、収入のことを脇に置くとしたら、仕事としてはどちらがましだろうか。祖父が遺したこの店を継ぐ気が郁にあったのは、小学生の頃までだ。高校生になった今では、そんなことを子どものころの自分が考えていたことさえ信じられない。
ガラスケースのレジ台の上に、お茶のペットボトルが取り残されている。隣の家の若い主婦が、郁を相手に世間話だか愚痴だかをひとしきり喋ったあと、忘れて置いたまま帰った。
夕日を反射して輝くペットボトルの液体が、手前にまだらの影を揺らしている。それが郁の記憶を揺さぶった。
そのときの光景は、もう何年も前のできごとにも関わらず、録画したようにはっきりと、郁の記憶に残っている。
いまと同じくらいの季節、同じように夕焼けに空が染まっていた。遠くから響く、踏み切りの警報。ごちそうにでもありついたのか、やたらと騒々しいカラスの喚き声。軽トラがローカルバスとすれ違いざまに鳴らした、挨拶代わりのクラクション。近くの小学校でチャイムが鳴った。眠たくなるようなメロディーに乗せて、放送委員の女子の声が、気をつけて家に帰れと棒読みで言っていた。
あの日、郁は、一緒に遊んでいた友達と喧嘩して、はじめに予定していた時間よりもいくらか早く、家路についていた。
むしゃくしゃしていた。仲良しだと思っていた相手に、あんたちょっとブラコンじゃないと笑われ、あとはもう、売り言葉に買い言葉だった。散々ひどいことを言ったし言われた。腹も立っていたが、不安もあった。仲直りできなかったらどうしよう。もうすぐ卒業なのに。美弥子ちゃんは私立の中学に行っちゃうから、毎日は会えなくなるのに。このまま気まずいままだったらどうしよう。
「ただいまあ」
郁は店に飛び込ぶなり、誰もいない店内に向かって叫んだ。返事はなくて、がたんという物音だけが、奥から聞こえてきた。
本当ならば、そのときはちょうど、兄の亮一郎が高校の試験期間で早く帰っていて、店番を任されているはずだった。けれど、兄はどうせ客がきたら家の方にいても聞こえるのだからと、手抜きをして奥に引っ込んでいることも多かったので、郁は店内に人気がないことを、たいして気にもしなかった。
レジ台の上に、ペットボトルが置いてあった。ラベルの隙間から夕日が射し込んで、ガラスの上にまだら模様を投影していた。レジ奥には曇りガラスの引き戸、その奥がすぐ居間になっている。郁は肩からランドセルを外しながら、無造作にがらりと引き戸を開けて――
がらりと音がして、店の戸口が開いた。それが追憶の中の物音とぴたりと重なったものだから、郁の心臓は強く跳ねた。
すっかりデパートに客足をとられてしまった商店だが、近所の足の悪い年寄りや、昔なじみの連中が義理で何か買っていくことはある。何気ないふりを装って顔を上げた郁は、目を瞠った。
夕日を背負って、ひょろ長い影が、気まずそうに身じろぎした。
逆光にもかかわらず、困惑したような表情がはっきりと見て取れた。何年ぶりかに見る顔だった。たったいま、追憶の中にあった顔だった。
郁はとっさにパイプ椅子にひっかけていた濡れ雑巾をつかんで、その影に向かって力いっぱい投げつけていた。
「ただい」
ま、まで言う前に、雑巾が亮一郎の顔面を強打した。
今日と同じように、夕暮れが店内に射し込んでいた、あの日。
居間にランドセルを放り込もうとした郁が、無造作に開けた引き戸の向こうで、亮一郎が、半裸の女の子を押し倒していた。
いや、押し倒していたというのは、亮一郎に対してあまりに意地の悪い表現かもしれない。少なくとも、少女のほっそりとした手は、自ら兄の首を掻き抱いていた。スカートからはみ出した足も、兄の小汚いジーパンの太ももに絡んで、亮一郎が慌てて振りほどこうとしているのを、抱え込むようにして押さえつけていた。
捲り上げられたTシャツの下で、少女の大きな胸が、ピンクのブラジャーから半分はみ出して、柔らかそうにたわんでいた。あらわになった真っ白な太ももに、緋色の夕日が斜めに刺しかかっていた。ぱっちりとした目が、長い睫毛の奥で、面白がるように輝いていた。
あろうことか、隣のクラスの須々木夏帆だった。
「ひどいな。これが久しぶりに帰ってきた兄に対する仕打ちかよ」
亮一郎は鼻をさすりさすり、床に落ちた雑巾を拾い上げた。兄の涙目を、郁は顔をしかめてにらみつけた。痩せているのは相変わらずだが、記憶の中の兄より、少し年を取って、くたびれたようだった。
「うるさい、このろくでなし、面汚し、人間のクズ」
罵りながら、雑巾だけでは飽き足らず、パイプ椅子まで持ち上げかけた郁だったが、亮一郎がそれよりも先に、胸を押さえてうずくまった。郁ははっとして、とっさに椅子から手を離し、兄のもとに駆け寄った。
「言葉に殺される……」
だが、亮一郎は悲しそうにそう呻いただけだった。郁は眉を吊り上げて、その肩を蹴った。
「むしろ死んでよ。それが無理ならさっさと消えて」
はは、と足の下で情けない笑い声が上がった。
「そういわずに、ちょっとの間だけ、置いてくれよ」
郁は亮一郎の胸倉をつかんだ。汗ばんだTシャツは、洗濯の仕方が雑なのか、ひどくよれよれになっている。
「いまさら、どの面さげて」
自分でも驚くほど、憎々しげな声が出た。亮一郎は、いたたまれないように目を逸らしながら、懇願するように言った。
「たのむ。ほかに行くところがないんだ」
郁はふざけるな、と叫ぼうとして、息をすっと吸い込んだが、大声とともに吐き出そうとしたタイミングで、亮一郎がせりふをかぶせてきた。
「いや、まじで。会社が火事んなって。敷地内にあった寮も延焼」
吐き出しそびれたセリフを飲み下して、郁は兄の胸倉から手を離した。
「いつ」
「一昨日。会社は再開の目処たたず。通帳も免許証も灰。財布の残りが千三百円。昨日は駅前のネットカフェ」
郁は黙り込んだ。兄のぼさぼさの頭を見下ろした。髪の間から見える頭皮が汗ばんで、情けなく丸まった肩に、疲れの気配が滲んでいた。本当なのだろう。
毒気を抜かれたような思いがして、郁は兄から雑巾を受け取った。元通り、パイプ椅子の足元に引っ掛けて、レジの前に座る。
「どうだ、景気は」
亮一郎は、懐かしそうに目を細めて、店内の商品を眺め回した。
「まったく駄目ね。あれ、見てよ」
顎をしゃくって、向かいの空に見えるデパートの屋上を示すと、兄はああ、と困惑したような声を出して、目をぱちぱちさせた。あのデパートが出来たのは、亮一郎が家を出て、二年もしたころだっただろうか。
「ふたりとも、元気にしてるのか」
「母さんは入院中。父さんはその見舞い」
郁の言葉に、亮一郎がはっとして顔を上げた。まさか。怯えの色を映して必死に見つめてくる兄の目を、郁は冷たく見返した。
「どこが悪いんだ」
「盲腸。明日手術」
亮一郎は身体の力が抜けたように、床にへたりこんだ。
「なんだ。びびった」
「危ないんだったら、いくらなんでも父さんも、連絡くらいするでしょ」
そうかな、そうだよなと、曖昧につぶやいて、亮一郎は頭をがりがりと掻いた。
「で、どうする気」
「こういうときって、預金って、どうやったら下ろせるんだろうな。時間、かかるかも。銀行にきいてみないと」
カードも通帳も免許証もない、銀行印もない。火事が金曜の夜だったから、まだ銀行に問い合わせもできていない。口座から引き出しさえできれば、どうにか敷金礼金の分くらいの貯金は残っているから、住むところが見つかったらすぐ出て行くと、亮一郎は気まずそうに言った。アパートを探して契約をするまでに、何日くらいの日数が必要なものなのか、まだ高校生の郁にはぴんとこない。
郁はくたびれた格好の兄をじろじろと見て、少し考えた。父さんはいやな顔はするかもしれないが、追い出しまではしないだろう。
「なあ。まだ、みんな覚えてるかな、やっぱり、その……例の」
曖昧な訊きかただったが、いいたいことは分かった。郁は鼻で笑って、兄に冷たい視線を投げた。例の事件は、表ざたにはならなかったが、近所の噂にはなった。須々木夏帆が秘密と言いながら、あちこちで言いふらしたからだ。亮一郎はあのすぐあとに、大学進学にあわせてそそくさと家を出て、それ以来、一度も帰ってきたことがなかった。今日までは。
「馬鹿じゃないの。何期待してるんだか知らないけど、ああいうレッテルはね、一度貼られたら、一生消えないのよ。とくにこんな田舎じゃあね」
そうだよなあと、肩を落として、亮一郎は頭をかいた。
「取り決めが必要ね」
「え」
「この家に泊まるんなら、ルールがいるわ。馬鹿にも分かるように、やさしいルールにしてあげる」
郁はびしっと指を立てて、冷たく言った。
「一、ヘンタイがうつるから、あたしの半径二メートル以内に近づくな。二、うるさいからこの家の中では喋るな。三、息もするな」
「全然やさしくないし。おれ、死んじゃうじゃん」
「ロリコンは死ねばいいと思う」
「おれはロリコンじゃないって……」
悲しそうに言って、亮一郎はうなだれた。
「小学生を家に連れ込んでおいて、何をいまさら」
「知ってたら、間違ってもあんなまねしなかったよ。最初、十六って言ってたんだ」
「で、信じたわけ。それを」
「だって、あんな乳のでかい小学生がいるなんて、まさか思わないだろ」
郁は鼻で笑いつつも、兄の言い分を半分は信じていた。須々木はそういう女だ。あの一件のあとも、似たようなたぐいの噂には事欠かなかった。
「だいたい、なんでよりによって、家に連れ込むかな」
「向こうから、客みたいにして、ふらっと入って来たんだよ。はじめてみる顔だったし。家には誰もいなかったし、つい」
郁はその言い訳めいた兄の言葉を聞き流しながら、読むのをやめていた文庫本をもう一度手にとった。いまさらあれこれ言ったって、何が変わるわけでもない。聞くだけ馬鹿らしかった。
文庫本を読むふりをしながら、自分の腕とページの隙間から、郁は気まずげにみじろぎする兄の、大人の男にしては情けないほど薄い肩を、ぼんやりと盗み見た。
春先の、風の強い夜だった。学校の裏山で、まだ小学生だった郁は、膝を抱えて丸くなっていた。例の事件が起きるよりも、もっと前のことだ。
雨宿りしている大木の枝葉の隙間から、遮られそこなった大粒の雨が、ときおり郁の手足を打った。びょうびょうと吹き荒れる風に揺らされて、頭上で木々の梢が騒々しい音を立てていた。春の嵐。
まだ商売が忙しかった頃のことだ。父は店のことに忙しかったし、母は母で働きに出ていた。物心ついたときからそうだった。
郁はいつも兄のあとをついて回る子どもだった。五つも年が離れた妹は、友達と遊ぶにはさぞ邪魔だっただろうに、亮一郎はいつも、迷惑そうにすることはあっても、ほんとうに郁を置いていったりはしなかった。
雨も風も轟々と唸りをあげ続け、それ以外の音なんて、ひとつも耳に入ってこなかった。雨はたしかに郁の体温を奪い、濡れた服が肌にへばりついて気持ち悪かった。
自分が何で家出しようと思ったのか、それもそんな悪天候の日に飛び出したのか、いまとなっては、郁には思い出せない。仕事に忙しくてかまってくれない両親への、腹いせだったのかもしれない。あるいは、中学二年生になったばかりの亮一郎が、初めて女の子とデートすることになって、郁をひとり家に置いて出かけてしまったことへの、あてつけだったのかもしれない。
リュックサックに詰め込んだ非常食のスナック菓子も、開けて食べる気にはなれなかった。懐中電灯くらいもって出てくればよかった。雨合羽も。何なら冬に使い残したホッカイロでも。
寒かった。暗かった。風の唸りがまるで吼え猛る獣のようで、心細かった。飛び出すと決めたときの最初の意地なんて、もうどうでもよくて、さっさと暖かい家に帰りたかった。けれど寄りかかっている大木のもとを離れれば、まともに立っていることも頼りないような、強風が吹き荒れていた。さっき、それで転んですりむいた膝が、いつまでもひりひりと痛い。
寒さにか、不安にか、ときどき震えが来て、歯ががちがちと鳴った。必死で泣くのをこらえていた。泣き出したかったが、誰も近くにはいないというのに、それでも小さな子のように手放しで泣くのがなぜかやけに悔しいように思えて、ぐっと歯を食いしばって耐えていた。
どれほどの時間が過ぎたか分からない。風の隙間を縫うように、声がした。
はっと顔を上げた郁の鼻先を、懐中電灯の光が掠めていった。
「お兄ちゃん!」
我を忘れて立ち上がり、声を上げた。郁の返事が聞こえなかったのか、懐中電灯の光が遠ざかっていく。郁は駆け出して、泣きながら、必死の大声を張り上げた。こらえていた涙がこぼれて、雨に冷やされた頬に、やけに熱かった。
「お兄ちゃん!」
懐中電灯の丸い光が戻ってきた。その射すほうへ、郁はしゃにむに走った。途中、木の根に躓いて転んだ。
「郁!」
駆け寄ってきた亮一郎の薄い肩に、郁は全身全霊でしがみついた。その勢いに押されて、亮一郎がしりもちをついた。
「いてて。……頼むから、心配かけるなよ。帰るぞ!」
雨音にかき消されないように、大声で言った亮一郎に、必死で頷き返しながら、郁はその首根っこにしがみついて、離さなかった。
「郁」
困ったように、亮一郎が奥へのガラス戸と郁の顔を交互に見るのに、郁はため息をついた。
「上がれば。自分の家だもの」
「……うん」
じきに父も帰ってくるだろう。もう面会時間も終わりだろうから、母の見舞いには、明日行けばいい。淡々とそういう郁に、いちいち亮一郎はうんうんと頷いて、それから少しの間のあとで、急に頭を下げた。
「その、……悪かった」
郁はぴくりと眉を跳ね上げた。何を謝っているのか、聞こうとしかけて、やめた。
近所の材木屋の軽トラが、クラクションを鳴らして通り過ぎていく。それに反応して、隣の犬が吠え立てた。陽が落ちようとしている。
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お題:「春の嵐」「やさしいルール」「ロリコンは死ね」
縛り:「(登場人物が)何かに侵されている(任意)」「物を破壊するシーンを入れる」
任意お題:「眼帯小僧」「心音」「輝くペットボトル」「包装用の新聞紙」「つるの一声」
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いまにも潰れそうな寂れた店。手の中の文庫本に出てきたその単語が、ぴったりと目の前の仄暗い店内に当てはまるのが癪に思えて、郁は続きを読む気を失った。
レジ台を兼ねたガラス張りの陳列ケース、セロハンテープの跡がとれないその天板の上に、手垢のついた文庫本を投げ出して、背伸びをひとつ。背もたれのビニールが破けて綿がはみ出しているパイプ椅子が、いっそ壊れないのが不思議なほど、つよく軋んだ。レジの裏側には、包装用の新聞紙に無造作に突っ込まれたまま放置された皿。一週間ほど前に客が買いかけて直前で思い直したときのまま、埃を被っている。細かな埃の粒子が表面を覆っているのは、店の備品ばかりではない。長く売れ残った商品も、この頃とうとうはたきをかける熱意を忘れた郁の父親のおかげで、まるで灰でも被ったようだ。寂れた商店。
ため息をつき、いったん奥に引っ込んだ郁は、雑巾をぬらして店に戻った。レジ台をざっと拭き、目に付く商品棚の上を無造作にぬぐう。それが終わったら、もうすることがない。
客の来ない店の番よりも退屈なものが、この世にどれほどあるだろうか。郁はぼんやりと頬杖をついたまま、戸口の外に視線を投げた。向かいの民家の屋根よりもさらに遠く、空にそびえる五階建てのデパートの、のぼりの端が、向かいの瓦の上につきだしている。
これほど近くに、あんなに大きなデパートができていて、その一階には日用品なら何でもそろう大型スーパーマーケットが入っているというのに、こんな住宅街の真ん中の、古ぼけた個人商店に、いったい誰の用があるだろう?
ごった返す買い物客を相手取る、戦場のような大型スーパーのレジ係と、住宅街の真っ只中にあるオンボロ個人商店の店番と、収入のことを脇に置くとしたら、仕事としてはどちらがましだろうか。祖父が遺したこの店を継ぐ気が郁にあったのは、小学生の頃までだ。高校生になった今では、そんなことを子どものころの自分が考えていたことさえ信じられない。
ガラスケースのレジ台の上に、お茶のペットボトルが取り残されている。隣の家の若い主婦が、郁を相手に世間話だか愚痴だかをひとしきり喋ったあと、忘れて置いたまま帰った。
夕日を反射して輝くペットボトルの液体が、手前にまだらの影を揺らしている。それが郁の記憶を揺さぶった。
そのときの光景は、もう何年も前のできごとにも関わらず、録画したようにはっきりと、郁の記憶に残っている。
いまと同じくらいの季節、同じように夕焼けに空が染まっていた。遠くから響く、踏み切りの警報。ごちそうにでもありついたのか、やたらと騒々しいカラスの喚き声。軽トラがローカルバスとすれ違いざまに鳴らした、挨拶代わりのクラクション。近くの小学校でチャイムが鳴った。眠たくなるようなメロディーに乗せて、放送委員の女子の声が、気をつけて家に帰れと棒読みで言っていた。
あの日、郁は、一緒に遊んでいた友達と喧嘩して、はじめに予定していた時間よりもいくらか早く、家路についていた。
むしゃくしゃしていた。仲良しだと思っていた相手に、あんたちょっとブラコンじゃないと笑われ、あとはもう、売り言葉に買い言葉だった。散々ひどいことを言ったし言われた。腹も立っていたが、不安もあった。仲直りできなかったらどうしよう。もうすぐ卒業なのに。美弥子ちゃんは私立の中学に行っちゃうから、毎日は会えなくなるのに。このまま気まずいままだったらどうしよう。
「ただいまあ」
郁は店に飛び込ぶなり、誰もいない店内に向かって叫んだ。返事はなくて、がたんという物音だけが、奥から聞こえてきた。
本当ならば、そのときはちょうど、兄の亮一郎が高校の試験期間で早く帰っていて、店番を任されているはずだった。けれど、兄はどうせ客がきたら家の方にいても聞こえるのだからと、手抜きをして奥に引っ込んでいることも多かったので、郁は店内に人気がないことを、たいして気にもしなかった。
レジ台の上に、ペットボトルが置いてあった。ラベルの隙間から夕日が射し込んで、ガラスの上にまだら模様を投影していた。レジ奥には曇りガラスの引き戸、その奥がすぐ居間になっている。郁は肩からランドセルを外しながら、無造作にがらりと引き戸を開けて――
がらりと音がして、店の戸口が開いた。それが追憶の中の物音とぴたりと重なったものだから、郁の心臓は強く跳ねた。
すっかりデパートに客足をとられてしまった商店だが、近所の足の悪い年寄りや、昔なじみの連中が義理で何か買っていくことはある。何気ないふりを装って顔を上げた郁は、目を瞠った。
夕日を背負って、ひょろ長い影が、気まずそうに身じろぎした。
逆光にもかかわらず、困惑したような表情がはっきりと見て取れた。何年ぶりかに見る顔だった。たったいま、追憶の中にあった顔だった。
郁はとっさにパイプ椅子にひっかけていた濡れ雑巾をつかんで、その影に向かって力いっぱい投げつけていた。
「ただい」
ま、まで言う前に、雑巾が亮一郎の顔面を強打した。
今日と同じように、夕暮れが店内に射し込んでいた、あの日。
居間にランドセルを放り込もうとした郁が、無造作に開けた引き戸の向こうで、亮一郎が、半裸の女の子を押し倒していた。
いや、押し倒していたというのは、亮一郎に対してあまりに意地の悪い表現かもしれない。少なくとも、少女のほっそりとした手は、自ら兄の首を掻き抱いていた。スカートからはみ出した足も、兄の小汚いジーパンの太ももに絡んで、亮一郎が慌てて振りほどこうとしているのを、抱え込むようにして押さえつけていた。
捲り上げられたTシャツの下で、少女の大きな胸が、ピンクのブラジャーから半分はみ出して、柔らかそうにたわんでいた。あらわになった真っ白な太ももに、緋色の夕日が斜めに刺しかかっていた。ぱっちりとした目が、長い睫毛の奥で、面白がるように輝いていた。
あろうことか、隣のクラスの須々木夏帆だった。
「ひどいな。これが久しぶりに帰ってきた兄に対する仕打ちかよ」
亮一郎は鼻をさすりさすり、床に落ちた雑巾を拾い上げた。兄の涙目を、郁は顔をしかめてにらみつけた。痩せているのは相変わらずだが、記憶の中の兄より、少し年を取って、くたびれたようだった。
「うるさい、このろくでなし、面汚し、人間のクズ」
罵りながら、雑巾だけでは飽き足らず、パイプ椅子まで持ち上げかけた郁だったが、亮一郎がそれよりも先に、胸を押さえてうずくまった。郁ははっとして、とっさに椅子から手を離し、兄のもとに駆け寄った。
「言葉に殺される……」
だが、亮一郎は悲しそうにそう呻いただけだった。郁は眉を吊り上げて、その肩を蹴った。
「むしろ死んでよ。それが無理ならさっさと消えて」
はは、と足の下で情けない笑い声が上がった。
「そういわずに、ちょっとの間だけ、置いてくれよ」
郁は亮一郎の胸倉をつかんだ。汗ばんだTシャツは、洗濯の仕方が雑なのか、ひどくよれよれになっている。
「いまさら、どの面さげて」
自分でも驚くほど、憎々しげな声が出た。亮一郎は、いたたまれないように目を逸らしながら、懇願するように言った。
「たのむ。ほかに行くところがないんだ」
郁はふざけるな、と叫ぼうとして、息をすっと吸い込んだが、大声とともに吐き出そうとしたタイミングで、亮一郎がせりふをかぶせてきた。
「いや、まじで。会社が火事んなって。敷地内にあった寮も延焼」
吐き出しそびれたセリフを飲み下して、郁は兄の胸倉から手を離した。
「いつ」
「一昨日。会社は再開の目処たたず。通帳も免許証も灰。財布の残りが千三百円。昨日は駅前のネットカフェ」
郁は黙り込んだ。兄のぼさぼさの頭を見下ろした。髪の間から見える頭皮が汗ばんで、情けなく丸まった肩に、疲れの気配が滲んでいた。本当なのだろう。
毒気を抜かれたような思いがして、郁は兄から雑巾を受け取った。元通り、パイプ椅子の足元に引っ掛けて、レジの前に座る。
「どうだ、景気は」
亮一郎は、懐かしそうに目を細めて、店内の商品を眺め回した。
「まったく駄目ね。あれ、見てよ」
顎をしゃくって、向かいの空に見えるデパートの屋上を示すと、兄はああ、と困惑したような声を出して、目をぱちぱちさせた。あのデパートが出来たのは、亮一郎が家を出て、二年もしたころだっただろうか。
「ふたりとも、元気にしてるのか」
「母さんは入院中。父さんはその見舞い」
郁の言葉に、亮一郎がはっとして顔を上げた。まさか。怯えの色を映して必死に見つめてくる兄の目を、郁は冷たく見返した。
「どこが悪いんだ」
「盲腸。明日手術」
亮一郎は身体の力が抜けたように、床にへたりこんだ。
「なんだ。びびった」
「危ないんだったら、いくらなんでも父さんも、連絡くらいするでしょ」
そうかな、そうだよなと、曖昧につぶやいて、亮一郎は頭をがりがりと掻いた。
「で、どうする気」
「こういうときって、預金って、どうやったら下ろせるんだろうな。時間、かかるかも。銀行にきいてみないと」
カードも通帳も免許証もない、銀行印もない。火事が金曜の夜だったから、まだ銀行に問い合わせもできていない。口座から引き出しさえできれば、どうにか敷金礼金の分くらいの貯金は残っているから、住むところが見つかったらすぐ出て行くと、亮一郎は気まずそうに言った。アパートを探して契約をするまでに、何日くらいの日数が必要なものなのか、まだ高校生の郁にはぴんとこない。
郁はくたびれた格好の兄をじろじろと見て、少し考えた。父さんはいやな顔はするかもしれないが、追い出しまではしないだろう。
「なあ。まだ、みんな覚えてるかな、やっぱり、その……例の」
曖昧な訊きかただったが、いいたいことは分かった。郁は鼻で笑って、兄に冷たい視線を投げた。例の事件は、表ざたにはならなかったが、近所の噂にはなった。須々木夏帆が秘密と言いながら、あちこちで言いふらしたからだ。亮一郎はあのすぐあとに、大学進学にあわせてそそくさと家を出て、それ以来、一度も帰ってきたことがなかった。今日までは。
「馬鹿じゃないの。何期待してるんだか知らないけど、ああいうレッテルはね、一度貼られたら、一生消えないのよ。とくにこんな田舎じゃあね」
そうだよなあと、肩を落として、亮一郎は頭をかいた。
「取り決めが必要ね」
「え」
「この家に泊まるんなら、ルールがいるわ。馬鹿にも分かるように、やさしいルールにしてあげる」
郁はびしっと指を立てて、冷たく言った。
「一、ヘンタイがうつるから、あたしの半径二メートル以内に近づくな。二、うるさいからこの家の中では喋るな。三、息もするな」
「全然やさしくないし。おれ、死んじゃうじゃん」
「ロリコンは死ねばいいと思う」
「おれはロリコンじゃないって……」
悲しそうに言って、亮一郎はうなだれた。
「小学生を家に連れ込んでおいて、何をいまさら」
「知ってたら、間違ってもあんなまねしなかったよ。最初、十六って言ってたんだ」
「で、信じたわけ。それを」
「だって、あんな乳のでかい小学生がいるなんて、まさか思わないだろ」
郁は鼻で笑いつつも、兄の言い分を半分は信じていた。須々木はそういう女だ。あの一件のあとも、似たようなたぐいの噂には事欠かなかった。
「だいたい、なんでよりによって、家に連れ込むかな」
「向こうから、客みたいにして、ふらっと入って来たんだよ。はじめてみる顔だったし。家には誰もいなかったし、つい」
郁はその言い訳めいた兄の言葉を聞き流しながら、読むのをやめていた文庫本をもう一度手にとった。いまさらあれこれ言ったって、何が変わるわけでもない。聞くだけ馬鹿らしかった。
文庫本を読むふりをしながら、自分の腕とページの隙間から、郁は気まずげにみじろぎする兄の、大人の男にしては情けないほど薄い肩を、ぼんやりと盗み見た。
春先の、風の強い夜だった。学校の裏山で、まだ小学生だった郁は、膝を抱えて丸くなっていた。例の事件が起きるよりも、もっと前のことだ。
雨宿りしている大木の枝葉の隙間から、遮られそこなった大粒の雨が、ときおり郁の手足を打った。びょうびょうと吹き荒れる風に揺らされて、頭上で木々の梢が騒々しい音を立てていた。春の嵐。
まだ商売が忙しかった頃のことだ。父は店のことに忙しかったし、母は母で働きに出ていた。物心ついたときからそうだった。
郁はいつも兄のあとをついて回る子どもだった。五つも年が離れた妹は、友達と遊ぶにはさぞ邪魔だっただろうに、亮一郎はいつも、迷惑そうにすることはあっても、ほんとうに郁を置いていったりはしなかった。
雨も風も轟々と唸りをあげ続け、それ以外の音なんて、ひとつも耳に入ってこなかった。雨はたしかに郁の体温を奪い、濡れた服が肌にへばりついて気持ち悪かった。
自分が何で家出しようと思ったのか、それもそんな悪天候の日に飛び出したのか、いまとなっては、郁には思い出せない。仕事に忙しくてかまってくれない両親への、腹いせだったのかもしれない。あるいは、中学二年生になったばかりの亮一郎が、初めて女の子とデートすることになって、郁をひとり家に置いて出かけてしまったことへの、あてつけだったのかもしれない。
リュックサックに詰め込んだ非常食のスナック菓子も、開けて食べる気にはなれなかった。懐中電灯くらいもって出てくればよかった。雨合羽も。何なら冬に使い残したホッカイロでも。
寒かった。暗かった。風の唸りがまるで吼え猛る獣のようで、心細かった。飛び出すと決めたときの最初の意地なんて、もうどうでもよくて、さっさと暖かい家に帰りたかった。けれど寄りかかっている大木のもとを離れれば、まともに立っていることも頼りないような、強風が吹き荒れていた。さっき、それで転んですりむいた膝が、いつまでもひりひりと痛い。
寒さにか、不安にか、ときどき震えが来て、歯ががちがちと鳴った。必死で泣くのをこらえていた。泣き出したかったが、誰も近くにはいないというのに、それでも小さな子のように手放しで泣くのがなぜかやけに悔しいように思えて、ぐっと歯を食いしばって耐えていた。
どれほどの時間が過ぎたか分からない。風の隙間を縫うように、声がした。
はっと顔を上げた郁の鼻先を、懐中電灯の光が掠めていった。
「お兄ちゃん!」
我を忘れて立ち上がり、声を上げた。郁の返事が聞こえなかったのか、懐中電灯の光が遠ざかっていく。郁は駆け出して、泣きながら、必死の大声を張り上げた。こらえていた涙がこぼれて、雨に冷やされた頬に、やけに熱かった。
「お兄ちゃん!」
懐中電灯の丸い光が戻ってきた。その射すほうへ、郁はしゃにむに走った。途中、木の根に躓いて転んだ。
「郁!」
駆け寄ってきた亮一郎の薄い肩に、郁は全身全霊でしがみついた。その勢いに押されて、亮一郎がしりもちをついた。
「いてて。……頼むから、心配かけるなよ。帰るぞ!」
雨音にかき消されないように、大声で言った亮一郎に、必死で頷き返しながら、郁はその首根っこにしがみついて、離さなかった。
「郁」
困ったように、亮一郎が奥へのガラス戸と郁の顔を交互に見るのに、郁はため息をついた。
「上がれば。自分の家だもの」
「……うん」
じきに父も帰ってくるだろう。もう面会時間も終わりだろうから、母の見舞いには、明日行けばいい。淡々とそういう郁に、いちいち亮一郎はうんうんと頷いて、それから少しの間のあとで、急に頭を下げた。
「その、……悪かった」
郁はぴくりと眉を跳ね上げた。何を謝っているのか、聞こうとしかけて、やめた。
近所の材木屋の軽トラが、クラクションを鳴らして通り過ぎていく。それに反応して、隣の犬が吠え立てた。陽が落ちようとしている。
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お題:「春の嵐」「やさしいルール」「ロリコンは死ね」
縛り:「(登場人物が)何かに侵されている(任意)」「物を破壊するシーンを入れる」
任意お題:「眼帯小僧」「心音」「輝くペットボトル」「包装用の新聞紙」「つるの一声」
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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