小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
即興三語小説。サラリーマン小説……?
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汽笛の音が聞こえる。
港まではかなりの距離があるはずだが、どうかすると、船出を知らせる音が、遠く離れたオフィスビルの六階にまで響いてくる。低く長い汽笛につられるように、外を見た。UVカット加工の窓越しに、真っ白の雲がゆったりと流れていく。
いつか別の日に見かけた船出のようすが、瞼の裏をよぎった。紙テープを束にしたものが、船のデッキに結ばれて桟橋まで垂れ、見送りの連中がその端を手にもって、大げさなくらいに手を振ったり、大声で叫んだり、走って突端まで船を追いかけたりしていた。
今もそんな光景が、ターミナルの桟橋に繰り広げられているはずだ。見送られる菅崎斗和は、船上で涙をみせているだろうか。それとも笑って、あっけらかんと手を振っているだろうか。
手元に視線を落とす。キーボードの間に落ちたクリップを、爪の先で穿り出して、キーを打つ。肩をならし、首を捻って、誰もいないオフィスを一望する。年度末がちょうど日曜に重なったから、例年以上に波止場は賑やかだろう。
またディスプレイに目を戻す。画面には、斗和が組んだプログラム。結局、これの世話になりどおしだった。
販促に大成功したといって、社長賞が出てから、もう二か月にもなる。たしかにそのキャンペーン企画を起こしたのは俺だったが、それは斗和が組んだこの解析プログラムがあったからだ。そうでなければ、そもそも提案なんかしなかった。
そんなつもりではなかったが、結果的には、他人のふんどしで相撲を取ったことになる。誰より自分がそのことを承知していた。
だが、恥じいる俺に、斗和はけろっと笑いかけた。正真正銘お前の手柄だよ、自慢しろ。持ってるノウハウはみんなで共有するのが当たり前だろ。
企業倫理からいうと、もちろんそのとおりだろう。業種もよるかもしれないが、社員同士で競争意識を働かせたって、切磋琢磨どころか、相手を蹴落とすのに必死になって、いらない抗争をうむのが精々というもの。それよりも互いの持つ知識を分け合って、全員で成果を出すのがなによりだ。そう割り切ることもできる。
社長賞をもらって昇給したのが俺で、離島支部に転勤になったのが斗和でなかったら、俺もこんなに割り切れない思いをいつまでも抱えることはなかった。
IDカードリーダに社員証を通すかすかな音に気付いて、顔を上げると、城嶋啓子が目を赤くしながら、フロアに入ってきたところだった。
「休日出勤ですか、汀(みぎわ)さん」
どこか咎めるような視線に微笑みかえして、肩をすくめる。言いたいことはだいたいわかる。斗和の見送りにも行かないで、こんなところで何をやっているのだ――
「きみこそ。ご苦労さま」
「いえ」
啓子は硬い声で答えると、靴音を鳴らして自分のデスクに向かった。休日返上で仕事に燃える若手社員がいるというのは、なんにせよ、心強いことだ。見当違いを承知でそんなことを考えながら、自分の仕事に戻る。
何気ないふりをよそおって伸びをひとつ。デスクに放置していた缶コーヒーを啜ると、甘ったるい後味が舌先にへばりついた。
啓子は斗和のことを、入社以来ずっと気にしていたようだった。ならば、俺には恨み骨髄といったところか。惚れた男の業績を横取りして、挙句に左遷からかばおうともしない、薄情な男。
そのとおりだ。
――そんな顔するなよ。離島勤務ってのも、悪くないさ。どうせお前と違って気楽な独り身だし、それに、実際、楽しみにしてるんだ。おれ、釣りが趣味なんだぜ。言ったことあったっけ?
辞令を片手に明るく笑う斗和の目を、まっすぐ見ることが、どうしてもできなかった。
――どうしてお前はそんなに欲がないんだ。
言うと、斗和は困ったように笑って、丸めた辞令で頬を掻いた。そんなA4の紙きれ一枚で、海の向こうに追いやられようとしているこの男の、心が見えなかった。きっと悔しい思いを押し隠しているのだと、そう踏むのが順当だろうに、その表情からは微塵も、憤りや無念の気配は感じられなかった。
斗和はそもそも、部長に嫌われていた。それも、会議中に恥を掻かせたというくだらない理由で。部長自身が勝手に己の無知をさらけ出して自滅した――というのが真相で、別に斗和が意図して恥をかかせようとしたなどということは、全くなかった。会議に参加した誰にとっても、そのことは明らかだった。だから表立っては、部長もその件に触れることはなく、そのかわりに、斗和の仕事にいちいちもっともらしい難癖をつけてまわった。典型的なパワーハラスメントだ。
不当な人事が発表されたその日、部長のところに殴りこみをかけようとした俺を止めたのも、斗和だった。例のせりふを言って。のんびりしたいいところだそうじゃないか、これでもけっこう島暮らしを楽しみにしてるんだと、そんなふうにとぼけて。
一度は辞表を書きかけた。こんな会社で働けるかと、口に出しては誰にも言わなかったが、心のうちを見通したのか、よりによって当の斗和に諌められた。
――どこでもそんなもんさ。短気を起こすなよ、孝一郎。長く居れば、そのうち風向きが変わることもある。
「汀さんって、菅崎さんと、同期なんですよね」
啓子に話しかけられて、はっとした。キーボードの上で、手が完全に止まっていた。
「そうだよ」
頷いて、目頭を揉んだ。手探りで引き出しから目薬を取り出す。「同期で、ついでに高校の同級生だ」
軽蔑するだろ。そんな斗和の手柄を横取りして、蹴落として、そのうえで自分はのうのうと出世しようっていうんだぜ。そう言おうとしたが、やめた。啓子にあたっても仕方がない。
「腹が減ったな」
話を逸らすつもりでそう口に出したが、実際に空腹だった。考えてみれば、朝からろくにものを食べていない。
「もしかして、お昼、まだなんですか」
啓子に変な顔をされて、壁の時計を見上げると、十五時を少し回っていた。感覚的には昼をまわったくらいかと思っていたが、考えてみたら、斗和の乗った船が昼過ぎの出航なのだから、当然だった。あてにならない体内時計にため息をこぼして、上着をつかむ。どこかに食べに出よう。オフィス街の真ん中だから、日曜には開いていない店も多いが、何ならコンビニの弁当でもいい。
「ちょっと出てくるよ」
女性を一人残すのも、物騒といえば物騒かもしれないが、昼日中のことだし、社員証がなければ中には入れない。啓子に断って、オフィスをあとにした。
公園のベンチで、コンビニの握り飯をほおばりながら、しばらく、ぼんやりと空を見上げていた。よく晴れている。風もあまりないようだった。沖はどうだか分からないが、斗和の乗っているフェリーも、この分だとそれほど揺れないだろう。
鳩の落し物だらけの景観の中、昼飯を食べている最中に、斗和から電話がかかってきた。
『引き継ぐのをきれいに忘れてた』
そう笑いながら、やり残した企画案の後始末を頼んできた。頷いて、懐に入れっぱなしになっていた名刺の裏にメモをしながら、思わず苦笑した。そんな電話なら明日以降にしてもいいだろうにと言うと、電話の向こうで笑っていたが、フェリーのエンジンの音だか、波の音だかが轟々と電話の向こうで響いていたから、単に船上が暇だったのかもしれない。
「元気でな。戻ってくるときには、声をかけろよ。飲みに行こうぜ」
ほかに言いようもなく、気の利かない言葉をかけたら、『ああ。お前も、そのうち遊びに来いよ。釣り、教えてやるからさ』と、呑気な笑い声が返ってきた。
なんでもフェリーに乗り合わせた地元の人間から聞き込んだところ、向こうでは船釣りが主流らしく、安い中古漁船なら頑張れば買えるかもしれない、小型船舶免許でも取ろうかな、などと言い出す始末だ。
「骨を埋める気かよ」
『それもいいかもな』
どこまでが冗談でどこからが本気か、よく分からないやつだ。電話を切ると、風が吹いて、鳩がばたばたと飛んでいった。
オフィスに戻ると、人の話し声がした。怪訝に思いながら、社員証をカードスリットに通す。ドアが開くと、席に啓子の姿がなかった。
話し声は続いている。反射的に足音を殺して、声のするほうに向かうと、奥で部長が、啓子の腕をつかんで、肩を抱き寄せようとしていた。
「離してください」
「私は何もね、そういうつもりじゃないんだよ」
部長は気味の悪い猫なで声を出しているが、啓子は明らかに嫌がって、手を振りほどこうとしている。
「――お取り込み中のところ失礼しますが」
「な、なんだ、汀くん。君も出てきていたのか」
「ええ、あいにくと」
言いながら、部長の襟首をつかんで、力いっぱい引き寄せた。部長が息を呑む音がやけに大きく響き、その肩越しに、啓子が驚いて目を丸くしているのが見える。
人を殴るのなんて、何年ぶりだろうか。最後につかみ合いの喧嘩をしたのは、中学生かそこらだったような気がする。頭の片隅では意外と冷静に、そんなことを考えていた。
情けない声を上げて、部長が背中を壁にぶつけた。
頬骨だか鼻だかを殴ってしまったらしく、手が痛かった。慣れないことをするもんじゃないなと、顔をしかめて拳を振っていると、部長は鼻血の出ている顔をさすりさすり、喉を震わせて怒声を上げた。
「な、なんてやつだ、覚悟しておけよ。クビになるくらいのことで済むとでも思っているのか知らないが、いまから病院にいって診断書を書いてもらうからな。場合によっては警察に届け」
「ところで部長」
長口上を遮って、胸ポケットから携帯を取り出した。
「こういうもので撮影した動画に、どれほど証拠能力があるのか、私もあいにくと不勉強なもので、くわしくは知りませんが、事情聴取の際には、警察に提出しても?」
真顔で言うと、部長の顔が引きつった。
「あの――その、ありがとうございました」
逃げるように部長が退社したあと、しばらく居心地の悪い沈黙をはさんで、啓子が頭を下げた。
「別に。ただ単に殴りたかったんだ」
斗和の仇にもならないが。顔をしかめて言いながら、パソコンを改めて立ち上げた。
「あの」
啓子はしばらく逡巡したあとで、思い切ったように口を開いた。
「その、自分でこんなこと言うのも何なんですけど。汀さん、もしかしたら、その動画を使って、その、菅崎さんを……」
自分のセクハラされている動画を脅迫の材料に、斗和を呼び戻させるわけにはいかないだろうかと、啓子はおずおずと申し出た。肝が据わっているというかなんというか、思い切ったことを考える子だ。
「問題がふたつある」
肩をすくめて言うと、啓子は神妙な顔をして、姿勢を正した。
「斗和は意外と本気で、島暮らしを楽しみにしているようだ。下手にすぐ呼び戻すと、恨まれるかもしれない」
その意見には、啓子は反論したそうに顔をゆがめた。そんなの表向きに決まってるじゃないですか。そう言いたそうな啓子に向かって、携帯を差し出す。
「もうひとつ。残念ながら、そんな証拠動画は存在しない。なんなら見てみるといい」
ぽかんとした啓子の顔から視線を逸らして、斗和が作ったプログラムに、データを打ち込み始める。明日から新年度だ。新人も入ってくることだし、気合をいれないといけない。
「だ、だって」
「撮影なんかしている暇が、あったように見えたか?」
「だってそれじゃ、……部長だって、すぐに気づくんじゃないですか? その、はったりだって」
「さあ。まあ、気づくころには怪我も治って、診断書も取れないんじゃないか」
多分。それに、証拠がなくとも証言はできる。第一、本気で警察沙汰にするような度胸は部長にはないし、何となれば、離島にでも飛ばされたって、別に構いはしない。
斗和は、俺と違って家族がいないから自分の場合は気楽なものだと言ったが、どうせ、うちだって子どもはまだいないし、嫁もなんとなれば、喜んで観光気分でついてくる。そういうやつだ。
暴力では何も解決しない、本当にそうだ。しかし、少しは気分が晴れた。
時計を見て、窓の外を見上げる。空は徐々に夕焼けに染まりつつある。そろそろ斗和の船も、向こうの港に着いたころだろう。
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お題:「ふんどし」「A4の紙」「体内時計」
縛り:「主人公の口癖が『その節はどうも』である。」「主人公の口癖が『ふみゅう』である。」「読書好きのキャラを一人出す」「空の描写をする」の中からひとつ選択
任意お題:「参加されない方」「牛乳こぼれた」「うーん、切れが悪いか」(使用できず)
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汽笛の音が聞こえる。
港まではかなりの距離があるはずだが、どうかすると、船出を知らせる音が、遠く離れたオフィスビルの六階にまで響いてくる。低く長い汽笛につられるように、外を見た。UVカット加工の窓越しに、真っ白の雲がゆったりと流れていく。
いつか別の日に見かけた船出のようすが、瞼の裏をよぎった。紙テープを束にしたものが、船のデッキに結ばれて桟橋まで垂れ、見送りの連中がその端を手にもって、大げさなくらいに手を振ったり、大声で叫んだり、走って突端まで船を追いかけたりしていた。
今もそんな光景が、ターミナルの桟橋に繰り広げられているはずだ。見送られる菅崎斗和は、船上で涙をみせているだろうか。それとも笑って、あっけらかんと手を振っているだろうか。
手元に視線を落とす。キーボードの間に落ちたクリップを、爪の先で穿り出して、キーを打つ。肩をならし、首を捻って、誰もいないオフィスを一望する。年度末がちょうど日曜に重なったから、例年以上に波止場は賑やかだろう。
またディスプレイに目を戻す。画面には、斗和が組んだプログラム。結局、これの世話になりどおしだった。
販促に大成功したといって、社長賞が出てから、もう二か月にもなる。たしかにそのキャンペーン企画を起こしたのは俺だったが、それは斗和が組んだこの解析プログラムがあったからだ。そうでなければ、そもそも提案なんかしなかった。
そんなつもりではなかったが、結果的には、他人のふんどしで相撲を取ったことになる。誰より自分がそのことを承知していた。
だが、恥じいる俺に、斗和はけろっと笑いかけた。正真正銘お前の手柄だよ、自慢しろ。持ってるノウハウはみんなで共有するのが当たり前だろ。
企業倫理からいうと、もちろんそのとおりだろう。業種もよるかもしれないが、社員同士で競争意識を働かせたって、切磋琢磨どころか、相手を蹴落とすのに必死になって、いらない抗争をうむのが精々というもの。それよりも互いの持つ知識を分け合って、全員で成果を出すのがなによりだ。そう割り切ることもできる。
社長賞をもらって昇給したのが俺で、離島支部に転勤になったのが斗和でなかったら、俺もこんなに割り切れない思いをいつまでも抱えることはなかった。
IDカードリーダに社員証を通すかすかな音に気付いて、顔を上げると、城嶋啓子が目を赤くしながら、フロアに入ってきたところだった。
「休日出勤ですか、汀(みぎわ)さん」
どこか咎めるような視線に微笑みかえして、肩をすくめる。言いたいことはだいたいわかる。斗和の見送りにも行かないで、こんなところで何をやっているのだ――
「きみこそ。ご苦労さま」
「いえ」
啓子は硬い声で答えると、靴音を鳴らして自分のデスクに向かった。休日返上で仕事に燃える若手社員がいるというのは、なんにせよ、心強いことだ。見当違いを承知でそんなことを考えながら、自分の仕事に戻る。
何気ないふりをよそおって伸びをひとつ。デスクに放置していた缶コーヒーを啜ると、甘ったるい後味が舌先にへばりついた。
啓子は斗和のことを、入社以来ずっと気にしていたようだった。ならば、俺には恨み骨髄といったところか。惚れた男の業績を横取りして、挙句に左遷からかばおうともしない、薄情な男。
そのとおりだ。
――そんな顔するなよ。離島勤務ってのも、悪くないさ。どうせお前と違って気楽な独り身だし、それに、実際、楽しみにしてるんだ。おれ、釣りが趣味なんだぜ。言ったことあったっけ?
辞令を片手に明るく笑う斗和の目を、まっすぐ見ることが、どうしてもできなかった。
――どうしてお前はそんなに欲がないんだ。
言うと、斗和は困ったように笑って、丸めた辞令で頬を掻いた。そんなA4の紙きれ一枚で、海の向こうに追いやられようとしているこの男の、心が見えなかった。きっと悔しい思いを押し隠しているのだと、そう踏むのが順当だろうに、その表情からは微塵も、憤りや無念の気配は感じられなかった。
斗和はそもそも、部長に嫌われていた。それも、会議中に恥を掻かせたというくだらない理由で。部長自身が勝手に己の無知をさらけ出して自滅した――というのが真相で、別に斗和が意図して恥をかかせようとしたなどということは、全くなかった。会議に参加した誰にとっても、そのことは明らかだった。だから表立っては、部長もその件に触れることはなく、そのかわりに、斗和の仕事にいちいちもっともらしい難癖をつけてまわった。典型的なパワーハラスメントだ。
不当な人事が発表されたその日、部長のところに殴りこみをかけようとした俺を止めたのも、斗和だった。例のせりふを言って。のんびりしたいいところだそうじゃないか、これでもけっこう島暮らしを楽しみにしてるんだと、そんなふうにとぼけて。
一度は辞表を書きかけた。こんな会社で働けるかと、口に出しては誰にも言わなかったが、心のうちを見通したのか、よりによって当の斗和に諌められた。
――どこでもそんなもんさ。短気を起こすなよ、孝一郎。長く居れば、そのうち風向きが変わることもある。
「汀さんって、菅崎さんと、同期なんですよね」
啓子に話しかけられて、はっとした。キーボードの上で、手が完全に止まっていた。
「そうだよ」
頷いて、目頭を揉んだ。手探りで引き出しから目薬を取り出す。「同期で、ついでに高校の同級生だ」
軽蔑するだろ。そんな斗和の手柄を横取りして、蹴落として、そのうえで自分はのうのうと出世しようっていうんだぜ。そう言おうとしたが、やめた。啓子にあたっても仕方がない。
「腹が減ったな」
話を逸らすつもりでそう口に出したが、実際に空腹だった。考えてみれば、朝からろくにものを食べていない。
「もしかして、お昼、まだなんですか」
啓子に変な顔をされて、壁の時計を見上げると、十五時を少し回っていた。感覚的には昼をまわったくらいかと思っていたが、考えてみたら、斗和の乗った船が昼過ぎの出航なのだから、当然だった。あてにならない体内時計にため息をこぼして、上着をつかむ。どこかに食べに出よう。オフィス街の真ん中だから、日曜には開いていない店も多いが、何ならコンビニの弁当でもいい。
「ちょっと出てくるよ」
女性を一人残すのも、物騒といえば物騒かもしれないが、昼日中のことだし、社員証がなければ中には入れない。啓子に断って、オフィスをあとにした。
公園のベンチで、コンビニの握り飯をほおばりながら、しばらく、ぼんやりと空を見上げていた。よく晴れている。風もあまりないようだった。沖はどうだか分からないが、斗和の乗っているフェリーも、この分だとそれほど揺れないだろう。
鳩の落し物だらけの景観の中、昼飯を食べている最中に、斗和から電話がかかってきた。
『引き継ぐのをきれいに忘れてた』
そう笑いながら、やり残した企画案の後始末を頼んできた。頷いて、懐に入れっぱなしになっていた名刺の裏にメモをしながら、思わず苦笑した。そんな電話なら明日以降にしてもいいだろうにと言うと、電話の向こうで笑っていたが、フェリーのエンジンの音だか、波の音だかが轟々と電話の向こうで響いていたから、単に船上が暇だったのかもしれない。
「元気でな。戻ってくるときには、声をかけろよ。飲みに行こうぜ」
ほかに言いようもなく、気の利かない言葉をかけたら、『ああ。お前も、そのうち遊びに来いよ。釣り、教えてやるからさ』と、呑気な笑い声が返ってきた。
なんでもフェリーに乗り合わせた地元の人間から聞き込んだところ、向こうでは船釣りが主流らしく、安い中古漁船なら頑張れば買えるかもしれない、小型船舶免許でも取ろうかな、などと言い出す始末だ。
「骨を埋める気かよ」
『それもいいかもな』
どこまでが冗談でどこからが本気か、よく分からないやつだ。電話を切ると、風が吹いて、鳩がばたばたと飛んでいった。
オフィスに戻ると、人の話し声がした。怪訝に思いながら、社員証をカードスリットに通す。ドアが開くと、席に啓子の姿がなかった。
話し声は続いている。反射的に足音を殺して、声のするほうに向かうと、奥で部長が、啓子の腕をつかんで、肩を抱き寄せようとしていた。
「離してください」
「私は何もね、そういうつもりじゃないんだよ」
部長は気味の悪い猫なで声を出しているが、啓子は明らかに嫌がって、手を振りほどこうとしている。
「――お取り込み中のところ失礼しますが」
「な、なんだ、汀くん。君も出てきていたのか」
「ええ、あいにくと」
言いながら、部長の襟首をつかんで、力いっぱい引き寄せた。部長が息を呑む音がやけに大きく響き、その肩越しに、啓子が驚いて目を丸くしているのが見える。
人を殴るのなんて、何年ぶりだろうか。最後につかみ合いの喧嘩をしたのは、中学生かそこらだったような気がする。頭の片隅では意外と冷静に、そんなことを考えていた。
情けない声を上げて、部長が背中を壁にぶつけた。
頬骨だか鼻だかを殴ってしまったらしく、手が痛かった。慣れないことをするもんじゃないなと、顔をしかめて拳を振っていると、部長は鼻血の出ている顔をさすりさすり、喉を震わせて怒声を上げた。
「な、なんてやつだ、覚悟しておけよ。クビになるくらいのことで済むとでも思っているのか知らないが、いまから病院にいって診断書を書いてもらうからな。場合によっては警察に届け」
「ところで部長」
長口上を遮って、胸ポケットから携帯を取り出した。
「こういうもので撮影した動画に、どれほど証拠能力があるのか、私もあいにくと不勉強なもので、くわしくは知りませんが、事情聴取の際には、警察に提出しても?」
真顔で言うと、部長の顔が引きつった。
「あの――その、ありがとうございました」
逃げるように部長が退社したあと、しばらく居心地の悪い沈黙をはさんで、啓子が頭を下げた。
「別に。ただ単に殴りたかったんだ」
斗和の仇にもならないが。顔をしかめて言いながら、パソコンを改めて立ち上げた。
「あの」
啓子はしばらく逡巡したあとで、思い切ったように口を開いた。
「その、自分でこんなこと言うのも何なんですけど。汀さん、もしかしたら、その動画を使って、その、菅崎さんを……」
自分のセクハラされている動画を脅迫の材料に、斗和を呼び戻させるわけにはいかないだろうかと、啓子はおずおずと申し出た。肝が据わっているというかなんというか、思い切ったことを考える子だ。
「問題がふたつある」
肩をすくめて言うと、啓子は神妙な顔をして、姿勢を正した。
「斗和は意外と本気で、島暮らしを楽しみにしているようだ。下手にすぐ呼び戻すと、恨まれるかもしれない」
その意見には、啓子は反論したそうに顔をゆがめた。そんなの表向きに決まってるじゃないですか。そう言いたそうな啓子に向かって、携帯を差し出す。
「もうひとつ。残念ながら、そんな証拠動画は存在しない。なんなら見てみるといい」
ぽかんとした啓子の顔から視線を逸らして、斗和が作ったプログラムに、データを打ち込み始める。明日から新年度だ。新人も入ってくることだし、気合をいれないといけない。
「だ、だって」
「撮影なんかしている暇が、あったように見えたか?」
「だってそれじゃ、……部長だって、すぐに気づくんじゃないですか? その、はったりだって」
「さあ。まあ、気づくころには怪我も治って、診断書も取れないんじゃないか」
多分。それに、証拠がなくとも証言はできる。第一、本気で警察沙汰にするような度胸は部長にはないし、何となれば、離島にでも飛ばされたって、別に構いはしない。
斗和は、俺と違って家族がいないから自分の場合は気楽なものだと言ったが、どうせ、うちだって子どもはまだいないし、嫁もなんとなれば、喜んで観光気分でついてくる。そういうやつだ。
暴力では何も解決しない、本当にそうだ。しかし、少しは気分が晴れた。
時計を見て、窓の外を見上げる。空は徐々に夕焼けに染まりつつある。そろそろ斗和の船も、向こうの港に着いたころだろう。
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お題:「ふんどし」「A4の紙」「体内時計」
縛り:「主人公の口癖が『その節はどうも』である。」「主人公の口癖が『ふみゅう』である。」「読書好きのキャラを一人出す」「空の描写をする」の中からひとつ選択
任意お題:「参加されない方」「牛乳こぼれた」「うーん、切れが悪いか」(使用できず)
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この記事にコメントする
うんうん。良いですねー。
どうもどうも。忙しくても、作品をドンドン出してますね。さすがです。
シンプルで良い話でした。帰りの電車の中で、携帯からアクセスして読みました。
(感想はこうして家で書いてますが)
仕事帰りに読んで、なんかスカっとしましたよ。
暴力ではなにも解決しない。しかし、気分は晴れた。
確かに暴力は褒められることではないです。しかし、殴らなきゃいけない瞬間って人生に何度かはあるように思います。(男性の場合は特に。でも、賛否両論なのは理解しています)
そんな瞬間を感じさせてくれる作品でした。
ただ、ひとつ気になったのは「部長」のキャラクターが居そうで居ないっていうか、
「まさにセクハラ部長!」っていうキャラだったのが、ちょっと笑いを誘ってしまったかなーって思いました。(笑)
いつも素敵な読書をありがとうです。
シンプルで良い話でした。帰りの電車の中で、携帯からアクセスして読みました。
(感想はこうして家で書いてますが)
仕事帰りに読んで、なんかスカっとしましたよ。
暴力ではなにも解決しない。しかし、気分は晴れた。
確かに暴力は褒められることではないです。しかし、殴らなきゃいけない瞬間って人生に何度かはあるように思います。(男性の場合は特に。でも、賛否両論なのは理解しています)
そんな瞬間を感じさせてくれる作品でした。
ただ、ひとつ気になったのは「部長」のキャラクターが居そうで居ないっていうか、
「まさにセクハラ部長!」っていうキャラだったのが、ちょっと笑いを誘ってしまったかなーって思いました。(笑)
いつも素敵な読書をありがとうです。
恵様へ
わわ、ありがとうございます……! お目汚しをいたしました。
スカっとされましたか。そう言っていただけると、出来の悪さにくよくよしていたのが、救われるようです。出来が悪いと思うたびにこっそりポイ捨てしても、成長の糧にならないからと、お題に振り回された中途半端な作品まで、すっかり開き直ってUPし続けている私です……(冷や汗)
このところさすがに集中できないというか、ぜんぜん満足のいくものが書けなくて、書いていても、なんだかもやっとします……。早いところ、毎日がりがり楽しく書く生活に戻りたいです。
セクハラ部長は、われながら適当すぎです……自分でもくよくよしています。なんていうか、味のある魅力的な悪役がたくさん出てくる話が書きたいです。できればその上で、少年漫画並みに激しいアクションのあるバトルものとかだったらもっといいです。(←言うだけならタダだと思って、そういう手持ちの芸風の中にないものを……)
……うん、でも、ほんとに言うだけならタダですもんね。大言壮語でも何でもいいから、あれも書きたいこれも書きたいと忙しく大騒ぎして、欲張ってかたっぱしから挑戦するのも、趣味のシロート物書きにはいいライフスタイルかも。自分に都合よく、そう思うことにします。
スカっとされましたか。そう言っていただけると、出来の悪さにくよくよしていたのが、救われるようです。出来が悪いと思うたびにこっそりポイ捨てしても、成長の糧にならないからと、お題に振り回された中途半端な作品まで、すっかり開き直ってUPし続けている私です……(冷や汗)
このところさすがに集中できないというか、ぜんぜん満足のいくものが書けなくて、書いていても、なんだかもやっとします……。早いところ、毎日がりがり楽しく書く生活に戻りたいです。
セクハラ部長は、われながら適当すぎです……自分でもくよくよしています。なんていうか、味のある魅力的な悪役がたくさん出てくる話が書きたいです。できればその上で、少年漫画並みに激しいアクションのあるバトルものとかだったらもっといいです。(←言うだけならタダだと思って、そういう手持ちの芸風の中にないものを……)
……うん、でも、ほんとに言うだけならタダですもんね。大言壮語でも何でもいいから、あれも書きたいこれも書きたいと忙しく大騒ぎして、欲張ってかたっぱしから挑戦するのも、趣味のシロート物書きにはいいライフスタイルかも。自分に都合よく、そう思うことにします。
プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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