小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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ベランダから身を乗り出してみれば、広い河が足元に流れている。そこからときどき涼しい風が吹き上げてきて、隣の部屋の住人が吊るしているらしい風鈴が、涼やかな音を立てた。
河の向こうには、少しばかり工業地帯が続くが、さらにその向こうに目を向ければ、遠く太平洋が望める。空は少し前から徐々に明るんできていたが、その水平線の上に、ようやくきらりと眩い光が灯った。夜明けだ。
信貴はその鮮烈な輝きに、思わず目を細めた。
朝陽が海から昇るのが毎朝のように見られると、その謳い文句に惹かれて、他のことはろくに検討もせずに借りた部屋だ。いざ住んでみれば、買い物をするにも歩くには遠く、車を出すにも交通量が多くて面倒だった。川沿いにあるぶん、四階だというのに湿気が上がってくる。部屋そのものも手狭だし、日当たりと景色がいいのだけが気に入りで、住み着いてからじき五年になる。
「きれいね」
隣で手すりにもたれていた美玖が、姿を覗かせ始めた太陽を手で掴もうとでもいうかのように、しなやかな腕を伸ばして、暁の空を撫でるような仕草をした。やわらかな白い皮膚の上で、透明の鱗がきらきらと光を弾き、朝の陽射しに染まっている。信貴は若い恋人のその腕に、おもわず見とれた。
西暦二〇一五年のある夏の日、サウジアラビアの辺境に、鱗の生えた女の子が産まれた。それが一連の騒動の始まりだというのが今の通説で、けれどイスラムの戒律きびしい地域だったのが幸いしたのか、それとも災いしたのか、その子の親は産婆にきつく口止めをし、娘の膚をひた隠しにして育てた。だから、世界がその現象に気付くのには、他の発症者が出るまで、さらに数年の時がかかった。信貴がそのニュースを初めて知ったのは、二〇一九年、二十三歳のときだった。ちょうど大学をストレートで卒業して今の会社に入った年だったから、よく覚えている。
はじめのうちは、やれ薬害だ異常気象による突然変異と、世界中で大騒ぎになって、医者だの学者だのが顔色を変え、連日マスコミをにぎわせたが、ほんの二十数年の間に、鱗の生えた人々は急増し、今ではすっかり当たり前の光景になってしまった。何かしら研究が進んで新説が出れば、思い出したように話題にもなるが、世界中の人々は、この鱗を受け入れつつある。
鱗のある子どもらが生まれる地域はじつにさまざまだったが、不思議とそうした身体に生まれつくのは有色人種がほとんどだ。まさか彼らの信じる神々のせいでもあるまいが、白人にはあまり見られない。けれど、遺伝子を調べてみても違いはほとんどないに等しく、彼らと鱗のない人々との間に子どもができないことはないだろうと、当初から言われていたし、実際にそれは何年か前に実証された。じきにどこの国のどのような人種の中でも、当たり前に彼らの姿が見られるようになるに違いなかった。
日本はとくにこうした鱗ある人々の割合が多く、西暦二〇三五年現在、二十歳以下の若者のほぼ半数が、手足と背中とを、色とりどりの鱗に覆われている。鱗の生えない顔や腹や内腿、それから二の腕あたりはやわらかく、他の人と変わらない滑らかな膚をしている。
生物学者が口を揃えて言うには、蛇の鱗というよりは、形や組成は魚の鱗に近いそうだが、その機能は魚とまったく同じということでもなく、べつに人類に鰓ができて水中呼吸が可能になったわけでもない。ただ、その鱗が紫外線をはじくというので、大気汚染がすぎたせいで起きた突然変異なのだという説も出ているが、それにしては、公害のひどい地域ほど鱗のある者が多いということもないようだ。
鱗は当初、そうでない人々に恐れられ、天罰だの薬害だのと、散々に偏見の目で見られたが、絶対数が増えるにつれて、徐々に受け入れる風向きが出てきた。年寄りの中には、いまだに鱗ある人々を忌避する傾向もあるが、むしろ若者たちの目にはそれは羨望の対象として映り、彼らの仲間に入りたいのか、せっかくのすべすべした膚に蛇や魚の刺青を入れる者まで出る始末だった。そこまでする度胸はなくとも、つけ爪のヴァリエーションで、作り物の鱗を腕に貼りつけるのが、ちょっとした流行を生んだりした。
鱗の色や透明度は人それぞれで、日本で一番多いのは青みがかった銀色だが、他にも真珠のような鈍い白銀、琥珀色に翠に紫、緋色に褐色から桃色まで、実にさまざまなヴァリエーションがあって、きれいな色の鱗を持って生まれたことは、彼らの中で一種のステイタスにさえなっている。
美玖の鱗は透き通ったうす紫で、鱗の生えない部分の膚は抜けるように白い。それなのに、なにかの拍子に剥がれた鱗を見せてもらうと、よくよく見ないと分からないくらい淡い色をしていて、意識せずに眺めると、それは色のない透明に見えた。引っ掛けて鱗の剥がれてしまった下の皮膚は、ほんの少し桜色に赤らんで、爪が剥がれる苦痛ほどではないにせよ、少しばかり痛むようだった。放っておいても、そのうちまた生えてくると、美玖はあたりまえのように言う。
爪の半分ほどの薄さの、少し硬く弾力のあるそれは、触らせてもらうと滑らかな手触りで、何度撫でても信貴はうっとりしてしまう。
信貴さんはあたしの鱗が好きなんでしょうと、美玖はときおりふざけるように絡んでくる。鱗も好きなんだよと、笑ってあしらうけれど、まるきりは否定できない自分がいた。鱗のない美玖だったら、ここまで強く惹かれただろうか。信貴と同世代の女性には、鱗のある者はいない。もう二十年遅く生まれていれば、これほどこの不思議な膚に惹かれることがあっただろうか。
「何回見ても、きれいね。あたし、こっちに住んじゃおうかなあ。どうせ今だって、自分のアパートと行ったりきたりなんだしさ」
美玖は伸びをしながら、冗談めかしてそう言った。低いところから差し込んだ朝日を弾いて、うす紫の鱗がきらきらと光る。
「いいよ。ご両親が、いいって言ったらね」
信貴は答えて、美玖の腕を手にとった。鱗の連なるあたりをちょっと撫でてから、手をつなぐ。手首から先には、鱗は生えていない。
「止めるはずないじゃない、あの人たちが」
美玖の声は、どこか硬く乾いていた。鱗のある子ども達は、今でこそ世間に受け入れられつつあるが、美玖が生まれた当初はまだ数が少なく、そのくせ連日の話題にはなっていたものだから、幼い日には多くの偏見と闘ってきたはずだ。
特に、自分が腹を痛めて産んだ子の手足に、半透明のまだ柔らかい鱗が生えているのを知った彼らの母親たちの反応は、想像するだにいたましい。彼女らとしても、妊娠初期からその可能性を考えつづけてきたにせよ、意思だけでは拭えない嫌悪感が、そこにはあっただろう。もちろん家族のことだけでなく、幼い心を踏みにじるような、世間の歪んだ好奇心や、同じ年頃の子ども達からの苛めもあったと聞いた。けれど、それについては、美玖は笑って話せる程度には、過去を受け入れているようだ。
美玖のご両親にしても、美玖の成長を見守り、世間に理解が広まっていく中で、娘の体質をだんだんと受け入れていったのだと思われる。娘の行く末を案じ、世間から向けられる偏見に満ちたまなざしを警戒し、ときに過保護になり、ときに疲れて心無いことを言って、そうして苦労を重ねてきた夫妻を、信貴は、責める気にはなれなかった。
それでも、美玖の心には、生まれるなり両親に否定されたという思いと、ぬぐいがたい傷があって、今でも彼らと上手く折り合うことができないようだった。同じ両親から生まれた美玖の妹には、鱗など一枚も生えていなかったという、それもまた、家族と美玖の間に溝を作っている、ひとつの原因でもあるのだろう。
「ね、信貴さん。花火したいな、花火」
美玖は朝日を見つめたまま、唐突に言った。
「夜になったら、屋上にバケツ持ってってさあ。あ、ここ、屋上にあがれるんだっけ?」
信貴は頷いて、自分のスケジュールを思い浮かべた。今日は、急ぎの仕事が飛び込んでこない限りは大丈夫、それほど遅くはならないだろう。
「じゃあ、夕方になったら、一緒に買いに行こうか。駅で待ち合わせて、花火を買って、それからどこかで夕飯にしよう」
「仕事、何時に終わる?」
「七……、いや、六時半には終わらせる。きみの講義は?」
「今日は、午後イチのやつだけ出れば、大丈夫。ねえ、せっかくだから大きいの買おうよ、打ち上げるやつ。それと、線香花火」
信貴がいいよと頷くと、美玖は手すりから身体を離した。「中に入ろっか。コーヒー、飲みたいな」
美玖は繋いだままの手をぶんぶんと振った。その指の、細い銀色の指輪が朝日を弾いて、きらりと光る。買い物に行ったときにねだられた、玩具のような指輪だ。安物だけれど、美玖はその日から、ずっと右手の薬指に填めている。自分の娘と言っても信じられそうな年の女の子と、そろいの指輪をするのがどうにも気恥ずかしくて、信貴は同じ指輪を、首から服の下に下げている。そろそろ覚悟を決めて、ちゃんとしたものを買う時期かもしれない。
「なあ、今日の買い物のときにさ」
信貴が言いかけると、美玖が振り返って、きょとんとした顔をした。その表情が、いかにもまだ幼く、どこか汚れを知らないように見えて、たしかに成人と呼ばれる年齢にはなってはいても、まだ世間に出る前の若い女の子なのだということを思いだすと、結論を急がせるのは可哀相な気がしてきた。四十手前にもなってくたびれはじめた男のところに、将来を縛り付けてしまうには。
「いや、やっぱり、今度でいいや」
「何か、買いたいものがあるの? どこでもつきあうよ」
「うん。でも、また別の機会に、ゆっくりね」
信貴が笑ってそう言うと、美玖は気になるという表情になったが、気を使ったのか、ただ小さく首をかしげて、それ以上は追及してこなかった。
「コーヒーだったね。今日は俺が淹れるよ」
美玖は「ほんと? やったあ」と笑って、手をつないだまま背を向けた。緩めのTシャツの襟首から、首の付け根に淡く鱗がのぞいている。それが愛らしいと思う自分は、たしかに少し趣味が変なのかもしれないと、信貴は頭の片隅で考えて、けれど弾むような足取りでフローリングに上がる恋人の、白い足首を見下ろしていると、それもどうでもよくなった。
戸を閉めるときに振り返ると、海の上に完全に姿を現した太陽が、眩しく目を焼いた。朝焼けは雨の前触れというけれど、テレビをつけると、予報では昼前に少し雨が降って、夜にはまた星空が登ると言っていた。花火には、いい日よりになるだろう。
----------------------------------------
必須お題:「鱗」「朝焼け」「線香花火」
縛り:「男女ともに登場すること。(一方のみは不可)」「性別を問わず、中年と青年がともに登場すること。」「何かが光る描写を三回以上入れること(光るものは任意。「光っている」ではなく、「光る」描写で)。」
任意お題:「風鈴」「初めて知った」「踏みにじる」「鶴の一声」
制限時間:60分のところを大幅オーバーして150分程度
河の向こうには、少しばかり工業地帯が続くが、さらにその向こうに目を向ければ、遠く太平洋が望める。空は少し前から徐々に明るんできていたが、その水平線の上に、ようやくきらりと眩い光が灯った。夜明けだ。
信貴はその鮮烈な輝きに、思わず目を細めた。
朝陽が海から昇るのが毎朝のように見られると、その謳い文句に惹かれて、他のことはろくに検討もせずに借りた部屋だ。いざ住んでみれば、買い物をするにも歩くには遠く、車を出すにも交通量が多くて面倒だった。川沿いにあるぶん、四階だというのに湿気が上がってくる。部屋そのものも手狭だし、日当たりと景色がいいのだけが気に入りで、住み着いてからじき五年になる。
「きれいね」
隣で手すりにもたれていた美玖が、姿を覗かせ始めた太陽を手で掴もうとでもいうかのように、しなやかな腕を伸ばして、暁の空を撫でるような仕草をした。やわらかな白い皮膚の上で、透明の鱗がきらきらと光を弾き、朝の陽射しに染まっている。信貴は若い恋人のその腕に、おもわず見とれた。
西暦二〇一五年のある夏の日、サウジアラビアの辺境に、鱗の生えた女の子が産まれた。それが一連の騒動の始まりだというのが今の通説で、けれどイスラムの戒律きびしい地域だったのが幸いしたのか、それとも災いしたのか、その子の親は産婆にきつく口止めをし、娘の膚をひた隠しにして育てた。だから、世界がその現象に気付くのには、他の発症者が出るまで、さらに数年の時がかかった。信貴がそのニュースを初めて知ったのは、二〇一九年、二十三歳のときだった。ちょうど大学をストレートで卒業して今の会社に入った年だったから、よく覚えている。
はじめのうちは、やれ薬害だ異常気象による突然変異と、世界中で大騒ぎになって、医者だの学者だのが顔色を変え、連日マスコミをにぎわせたが、ほんの二十数年の間に、鱗の生えた人々は急増し、今ではすっかり当たり前の光景になってしまった。何かしら研究が進んで新説が出れば、思い出したように話題にもなるが、世界中の人々は、この鱗を受け入れつつある。
鱗のある子どもらが生まれる地域はじつにさまざまだったが、不思議とそうした身体に生まれつくのは有色人種がほとんどだ。まさか彼らの信じる神々のせいでもあるまいが、白人にはあまり見られない。けれど、遺伝子を調べてみても違いはほとんどないに等しく、彼らと鱗のない人々との間に子どもができないことはないだろうと、当初から言われていたし、実際にそれは何年か前に実証された。じきにどこの国のどのような人種の中でも、当たり前に彼らの姿が見られるようになるに違いなかった。
日本はとくにこうした鱗ある人々の割合が多く、西暦二〇三五年現在、二十歳以下の若者のほぼ半数が、手足と背中とを、色とりどりの鱗に覆われている。鱗の生えない顔や腹や内腿、それから二の腕あたりはやわらかく、他の人と変わらない滑らかな膚をしている。
生物学者が口を揃えて言うには、蛇の鱗というよりは、形や組成は魚の鱗に近いそうだが、その機能は魚とまったく同じということでもなく、べつに人類に鰓ができて水中呼吸が可能になったわけでもない。ただ、その鱗が紫外線をはじくというので、大気汚染がすぎたせいで起きた突然変異なのだという説も出ているが、それにしては、公害のひどい地域ほど鱗のある者が多いということもないようだ。
鱗は当初、そうでない人々に恐れられ、天罰だの薬害だのと、散々に偏見の目で見られたが、絶対数が増えるにつれて、徐々に受け入れる風向きが出てきた。年寄りの中には、いまだに鱗ある人々を忌避する傾向もあるが、むしろ若者たちの目にはそれは羨望の対象として映り、彼らの仲間に入りたいのか、せっかくのすべすべした膚に蛇や魚の刺青を入れる者まで出る始末だった。そこまでする度胸はなくとも、つけ爪のヴァリエーションで、作り物の鱗を腕に貼りつけるのが、ちょっとした流行を生んだりした。
鱗の色や透明度は人それぞれで、日本で一番多いのは青みがかった銀色だが、他にも真珠のような鈍い白銀、琥珀色に翠に紫、緋色に褐色から桃色まで、実にさまざまなヴァリエーションがあって、きれいな色の鱗を持って生まれたことは、彼らの中で一種のステイタスにさえなっている。
美玖の鱗は透き通ったうす紫で、鱗の生えない部分の膚は抜けるように白い。それなのに、なにかの拍子に剥がれた鱗を見せてもらうと、よくよく見ないと分からないくらい淡い色をしていて、意識せずに眺めると、それは色のない透明に見えた。引っ掛けて鱗の剥がれてしまった下の皮膚は、ほんの少し桜色に赤らんで、爪が剥がれる苦痛ほどではないにせよ、少しばかり痛むようだった。放っておいても、そのうちまた生えてくると、美玖はあたりまえのように言う。
爪の半分ほどの薄さの、少し硬く弾力のあるそれは、触らせてもらうと滑らかな手触りで、何度撫でても信貴はうっとりしてしまう。
信貴さんはあたしの鱗が好きなんでしょうと、美玖はときおりふざけるように絡んでくる。鱗も好きなんだよと、笑ってあしらうけれど、まるきりは否定できない自分がいた。鱗のない美玖だったら、ここまで強く惹かれただろうか。信貴と同世代の女性には、鱗のある者はいない。もう二十年遅く生まれていれば、これほどこの不思議な膚に惹かれることがあっただろうか。
「何回見ても、きれいね。あたし、こっちに住んじゃおうかなあ。どうせ今だって、自分のアパートと行ったりきたりなんだしさ」
美玖は伸びをしながら、冗談めかしてそう言った。低いところから差し込んだ朝日を弾いて、うす紫の鱗がきらきらと光る。
「いいよ。ご両親が、いいって言ったらね」
信貴は答えて、美玖の腕を手にとった。鱗の連なるあたりをちょっと撫でてから、手をつなぐ。手首から先には、鱗は生えていない。
「止めるはずないじゃない、あの人たちが」
美玖の声は、どこか硬く乾いていた。鱗のある子ども達は、今でこそ世間に受け入れられつつあるが、美玖が生まれた当初はまだ数が少なく、そのくせ連日の話題にはなっていたものだから、幼い日には多くの偏見と闘ってきたはずだ。
特に、自分が腹を痛めて産んだ子の手足に、半透明のまだ柔らかい鱗が生えているのを知った彼らの母親たちの反応は、想像するだにいたましい。彼女らとしても、妊娠初期からその可能性を考えつづけてきたにせよ、意思だけでは拭えない嫌悪感が、そこにはあっただろう。もちろん家族のことだけでなく、幼い心を踏みにじるような、世間の歪んだ好奇心や、同じ年頃の子ども達からの苛めもあったと聞いた。けれど、それについては、美玖は笑って話せる程度には、過去を受け入れているようだ。
美玖のご両親にしても、美玖の成長を見守り、世間に理解が広まっていく中で、娘の体質をだんだんと受け入れていったのだと思われる。娘の行く末を案じ、世間から向けられる偏見に満ちたまなざしを警戒し、ときに過保護になり、ときに疲れて心無いことを言って、そうして苦労を重ねてきた夫妻を、信貴は、責める気にはなれなかった。
それでも、美玖の心には、生まれるなり両親に否定されたという思いと、ぬぐいがたい傷があって、今でも彼らと上手く折り合うことができないようだった。同じ両親から生まれた美玖の妹には、鱗など一枚も生えていなかったという、それもまた、家族と美玖の間に溝を作っている、ひとつの原因でもあるのだろう。
「ね、信貴さん。花火したいな、花火」
美玖は朝日を見つめたまま、唐突に言った。
「夜になったら、屋上にバケツ持ってってさあ。あ、ここ、屋上にあがれるんだっけ?」
信貴は頷いて、自分のスケジュールを思い浮かべた。今日は、急ぎの仕事が飛び込んでこない限りは大丈夫、それほど遅くはならないだろう。
「じゃあ、夕方になったら、一緒に買いに行こうか。駅で待ち合わせて、花火を買って、それからどこかで夕飯にしよう」
「仕事、何時に終わる?」
「七……、いや、六時半には終わらせる。きみの講義は?」
「今日は、午後イチのやつだけ出れば、大丈夫。ねえ、せっかくだから大きいの買おうよ、打ち上げるやつ。それと、線香花火」
信貴がいいよと頷くと、美玖は手すりから身体を離した。「中に入ろっか。コーヒー、飲みたいな」
美玖は繋いだままの手をぶんぶんと振った。その指の、細い銀色の指輪が朝日を弾いて、きらりと光る。買い物に行ったときにねだられた、玩具のような指輪だ。安物だけれど、美玖はその日から、ずっと右手の薬指に填めている。自分の娘と言っても信じられそうな年の女の子と、そろいの指輪をするのがどうにも気恥ずかしくて、信貴は同じ指輪を、首から服の下に下げている。そろそろ覚悟を決めて、ちゃんとしたものを買う時期かもしれない。
「なあ、今日の買い物のときにさ」
信貴が言いかけると、美玖が振り返って、きょとんとした顔をした。その表情が、いかにもまだ幼く、どこか汚れを知らないように見えて、たしかに成人と呼ばれる年齢にはなってはいても、まだ世間に出る前の若い女の子なのだということを思いだすと、結論を急がせるのは可哀相な気がしてきた。四十手前にもなってくたびれはじめた男のところに、将来を縛り付けてしまうには。
「いや、やっぱり、今度でいいや」
「何か、買いたいものがあるの? どこでもつきあうよ」
「うん。でも、また別の機会に、ゆっくりね」
信貴が笑ってそう言うと、美玖は気になるという表情になったが、気を使ったのか、ただ小さく首をかしげて、それ以上は追及してこなかった。
「コーヒーだったね。今日は俺が淹れるよ」
美玖は「ほんと? やったあ」と笑って、手をつないだまま背を向けた。緩めのTシャツの襟首から、首の付け根に淡く鱗がのぞいている。それが愛らしいと思う自分は、たしかに少し趣味が変なのかもしれないと、信貴は頭の片隅で考えて、けれど弾むような足取りでフローリングに上がる恋人の、白い足首を見下ろしていると、それもどうでもよくなった。
戸を閉めるときに振り返ると、海の上に完全に姿を現した太陽が、眩しく目を焼いた。朝焼けは雨の前触れというけれど、テレビをつけると、予報では昼前に少し雨が降って、夜にはまた星空が登ると言っていた。花火には、いい日よりになるだろう。
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必須お題:「鱗」「朝焼け」「線香花火」
縛り:「男女ともに登場すること。(一方のみは不可)」「性別を問わず、中年と青年がともに登場すること。」「何かが光る描写を三回以上入れること(光るものは任意。「光っている」ではなく、「光る」描写で)。」
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プロフィール
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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