小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
ご無沙汰しています……ご無沙汰とかいう次元か?
創作系の趣味から数年離れていたので、必然的にこのブログも完全に放置していて、パスワードも怪しかったんですけどどうにかログインできました。Google先生が死んだらもうわたしは何にもアクセスできない気がします。
本題ですが。
「異世界風土記」(http://still-in-noise.a.la9.jp/fudoki/)を運営されているヌー様(@fudokift)が、先日から「クローズド・アクアリウム」の感想を、実況形式でUPしてくださっていました。
異世界風土記様は、風土記系ファンタジーのリンク集を掲載されていて、以前から拙作「とこしえの黄昏の国」をご紹介賜っていました。その節はありがとうございます。この記事を書くために確認しにいって、「マルゴ・トアフの銀の鳥」もご紹介いただいていたことにいまさら気づきました。いや、本当にありがとうございます……。
とても素敵な作品がたくさん収録されているリンク集です。異世界ファンタジーというものを語るときに、本格とかハイ・ファンタジー、ロー・ファンタジーというような分類の意味するところが、どうも年月を追って移り変わってきている状況で、「こういうファンタジーをどうカテゴライズしたら同好の士に伝わるのだろうか……」というのは界隈の共通の悩みだったのではないかと思うのですが、「風土記系」、素晴らしいネーミングですよね。
独自の世界観があるファンタジーがお好きなウェブ小説読みの皆さまは、わたしなどがオススメするまでもなくすでにご覧になっているかもしれませんが、まだの方はぜひリンク集、辿ってみられてください。
クロ・アクですが、数日おきに計画読書という形で感想を上げておられたのをそっとのぞかせていただいていました。一昨日かな、ラストまでお読みいただけたとのことで、最新のツリーを拝見して胸が熱くなりました。
こんな風に物語を丁寧に読み解いていただいて、逐次それを言語化して知らせていただける機会なんて滅多にあることではありませんし、本当に貴重な経験をさせていただきました。感謝……!
もうこの話を書いて十年が経ちます。自分が書いた小説に対してはそれぞれに思い入れがありますが、クローズド・アクアリウムはやはり、自分にとって特別な物語のひとつです。
ある程度は読んでくださった方の解釈に託したい部分もあって、当時、内容の詳細な解説はなるべく控えていたかと思うのですが(と思っているのは自分だけで、普通に垂れ流していたかもしれない)、発表して時間も経っていることもあって、いまの自分が読み返してみたら、当時と違う感慨もあったりしました。それで、いまさらながら思ったところを、わたしも少し言語化して記録しておこうかと思い立ちました。
本当にログなので、未読の方にはこれだけ読んでもそもそも「何のこっちゃ」な話になっているかと思いますが、以下、ネタバレを含みますので、念のため。
アマーリア・ルーの持つ様々な側面について。主要登場人物の中では彼女の視点の章だけがないので、本当の彼女がどういう人だったのかというのは、セオとサーシャが語る彼女の姿から想像するしかないのですが、けして単純な「いい子」ではなかった彼女のしたたかなところやアンバランスさに、なんだろう、ある種の思い入れがあります。
一章の冒頭ではちょっとした喧嘩ですぐ泣いたり怒ったりしていたルーですが、話が進むと、友達が死んでも、あるいは自分の死を予期しても、そういうことでは少しも泣かない。セオの視点からはそうしたギャップがあります。
二章、サーシャの視点で見るアマーリア・ルーが、泣いたり怒ったりしても何にも変わらないと言って、色々なことを諦めてしまっている姿や、センター時代にクラスの友達や教師とうまくやっていたらしい八方美人の姿。そうした側面を踏まえてから、もう一度セオの語る彼女の姿に戻ると、逆に、セオとの関係の中では泣いたり怒ったり、ワガママを言ったりできたんだな、という感慨がありました。
それでもやはり友達が死んだことに対しては、もう涙を流せない。
泣いてもどうにもならないことでは泣かない彼女が、日常の喧嘩では泣いて怒ればセオが言うことを聞くので、対・彼氏限定で女の武器を遠慮無く振り回している。そういうしたたかさが、ちょっと微笑ましくもあるし、怒りや機嫌の悪さを表に出してもいいのだと思える相手をこの子が見つけられたことを、よかったなとも思う。
死期が近いことを隠していたのも、本人がいうとおり、ぎりぎりまで家族から引き離されたくなかったのもあるんでしょう。セオが語るように、彼女はそのことをとっくに覚悟していたのかもしれないけれど、でもそうではなくて、言葉にすることで現実になってしまうようで怖かったのかもしれない。いったんは諦めていたことが、家族を得て、あらためて怖くなっていったのかもしれないとも思うんです。諦念と、やっぱり怖いという気持ちの間で、本当は揺れていたんじゃないかな。
それをセオに対してギリギリまで言わなかったこと、子どもの前ではほとんどずっと楽しそうにしていたことも含めて、そういうところが彼女のいたましさでもあり、強さでもあるなと思う。書いた当時のわたしにとっては、いびつな社会に過剰適応してしまった女の子という認識でいましたが、そのあたりどれくらい読まれる方に伝わるように描写できていたかな、解釈の余地は残せていたのかな。
セオのほうは、委員長から「あんがいクールだよな」と言われてしまうように、自分ではちょっと斜に構えたようなことを言いたがるんだけど、お人好しさというか、根っこの素直さが前面に出てて、客観的にはぜんぜん成功していない。裏表の少ないというか、腹芸ができないまっすぐな男の子です。そういう子だから、アマーリア・ルーもセオには甘えられたんだろうと思っています。
反対にラルフは頭がよく要領もよく、いつも心の中では世の中や友人たち、大人たちを批判的に見ているけれど、普段はそれを表にあまり出さず、如才なく振る舞って、おおむね上手に隠している。だけど芯にはどこかで純粋なところ、不器用なところや年齢なりの未熟さを残してもいる。
サーシャは怒りをもてあまして、触れるもの全て傷つける勢いで露悪的に振る舞うけれど、対照的にラルフのほうは、これまで(少なくとも対外的には)そつなく大人の対応をしてきた。この二人は一見すると真逆のようでいて、芯のところには似たものを抱えている、そういう風に書いたつもりでした。
ストーリー上で直接描写しなかったところでも、結局この二人はあまり多くは語り合わなかったんじゃないかなと思うんですが、互いに明かさない考えや思いが多々ありながら、通じるところもあって、別れるときにはどこか戦友のような感情をお互いに持っていたのかなと思っています。
ラルフにとってのサーシャははじめ、いけすかない相手、理解不能で癇癪持ちで非合理で、愚かな女だった。それが「何かに傷つき苦しんでいる可哀想な女」に変わり、やがて、ただの可哀想な女ではなくなっていく。これまでどこかで周囲を見下していたラルフが、彼女やセオの中に自分にはない種類の強さがあることに気がついていく。
書いてたときはもう必死だったんですけど、「青春小説してるじゃん……こういうの好きだもんなお前……さすが自分のツボは自分がよく知ってるな……」ってなってますね、いま。
サーシャやラルフのその後について、確定的に決めている設定はありません。自分の中でもいろいろなシミュレーションはしましたが、最終的に決めませんでした。そこは読んでくださった方のご想像にお任せしたい。そういうの、ある程度は書いたほうがすっきり読み終われる読者さんも少なくないような気はするけれども……
どうあれ、ふたりの将来にいろいろな困難があるということだけは確かかなと。壁にぶち当たったときや、くじけそうになったときに、お互いのことを思い出して自分を奮い立たせていたらいいなと思います。
サーシャに残された時間がどれくらいかということも明確に決めてはいないんですが、それでも色んな生徒に出会うだろうなというのは当時から思っていました。生き残った女のロールモデルが、彼女にとってはメリルしかいないわけですが、彼女はきっとメリルのように生徒たちの懐に上手に飛び込んだりはできないままだろうなとも。
それでも不器用に、かつての自分のような子や、かつてのイルマやアマーリア・ルーのような子たちに、彼女なりの真摯な言葉を、それからもしかしたら歌うことの喜びなどを、届ける日が来るといい。そのときには素直に受け取れなかった子も、もしかしたら大人になれて、あるいは病と闘う中で、ふと思い出す瞬間が来るといいなと思います。
サーシャの中で罪の意識はきっと消えないままでしょうが、かつて異質なものとしか見ていなかったシスターたちに同僚という立場で混ざって、あるいは大人の立場で生徒たちを見て、視野の広がるところもあるでしょう。その道程はきっと楽なものではなく、自分と違って十五歳になれずに死にゆく女の子たちを前に、苦しむ日が必ずやってくる。その道行きを歩むための勇気を、ラルフとクローディアが、そしてメリルとシスター・マリアが彼女に手渡したのだと解釈しています。
彼女の償いの旅路が終わりを迎えるときに、生きてよかったと思えるような、輝ける光が、たしかに手渡されていることを願って。
完全に余談ですが、書いていた当時、子どもを持った経験がないどころか弟妹もいないので、「育児の描写がちゃんとできている気がしない……」というのがそこそこ不安だったことも、セットで思い出しました。その後、いい年になって友達や職場の同僚から育児の話を聞く機会もいささか増えた現在、あらためて振り返ると、やはり「子どもの月齢とか発達の段階とか、いろんなことがわからないままあいまいに書いていたな……」と思ったりもします。その他、世界観の細部なども、詰めが甘かったなというところも若干、ひとつ、ふたつ、みっつ……うん。十年経ってもあれこれ言い訳したくなるとは思ってなかった。
体調だの家の事情だの仕事のことだのが重なって、書くことから離れているうちにすっかり体力がなくなり、創作系の趣味人としてはもうすっかり死に体の現状なのですが。自分もWeb小説の一読者として、「好きだった小説がある日ネットから削除されて二度と読めない」という悲しみに何度となく打ちひしがれてきた身ですので、一度UPしたものは下げないポリシーです。なので、投稿サイト自体が消滅しないかぎりはずっとそのまま、自分のサイトも動いてはいませんが、まるっとそのまま残してあります。
そうやって、もうまともに書いてもいないくせに過去作をずっとネットの海に漂わせたままにしていたら、こんなふうにご縁があって、まさかの十年越しに読んでいただけました。しかも丁寧に読み解いていただいて、逐次の感想まで……。ありがたすぎて、いま画面を拝んでいます。
ノリで書いたものから気合い入れて計画的に書いたものまで色々置きっぱなしなんですが、クロ・アクは本当に消耗しながら心身を削って書いていたので、当時の自分に「よかったね!」と言いたい気持ち。
あらためまして、このたびは本当にありがとうございました!
創作系の趣味から数年離れていたので、必然的にこのブログも完全に放置していて、パスワードも怪しかったんですけどどうにかログインできました。Google先生が死んだらもうわたしは何にもアクセスできない気がします。
本題ですが。
「異世界風土記」(http://still-in-noise.a.la9.jp/fudoki/)を運営されているヌー様(@fudokift)が、先日から「クローズド・アクアリウム」の感想を、実況形式でUPしてくださっていました。
異世界風土記様は、風土記系ファンタジーのリンク集を掲載されていて、以前から拙作「とこしえの黄昏の国」をご紹介賜っていました。その節はありがとうございます。この記事を書くために確認しにいって、「マルゴ・トアフの銀の鳥」もご紹介いただいていたことにいまさら気づきました。いや、本当にありがとうございます……。
とても素敵な作品がたくさん収録されているリンク集です。異世界ファンタジーというものを語るときに、本格とかハイ・ファンタジー、ロー・ファンタジーというような分類の意味するところが、どうも年月を追って移り変わってきている状況で、「こういうファンタジーをどうカテゴライズしたら同好の士に伝わるのだろうか……」というのは界隈の共通の悩みだったのではないかと思うのですが、「風土記系」、素晴らしいネーミングですよね。
独自の世界観があるファンタジーがお好きなウェブ小説読みの皆さまは、わたしなどがオススメするまでもなくすでにご覧になっているかもしれませんが、まだの方はぜひリンク集、辿ってみられてください。
クロ・アクですが、数日おきに計画読書という形で感想を上げておられたのをそっとのぞかせていただいていました。一昨日かな、ラストまでお読みいただけたとのことで、最新のツリーを拝見して胸が熱くなりました。
こんな風に物語を丁寧に読み解いていただいて、逐次それを言語化して知らせていただける機会なんて滅多にあることではありませんし、本当に貴重な経験をさせていただきました。感謝……!
もうこの話を書いて十年が経ちます。自分が書いた小説に対してはそれぞれに思い入れがありますが、クローズド・アクアリウムはやはり、自分にとって特別な物語のひとつです。
ある程度は読んでくださった方の解釈に託したい部分もあって、当時、内容の詳細な解説はなるべく控えていたかと思うのですが(と思っているのは自分だけで、普通に垂れ流していたかもしれない)、発表して時間も経っていることもあって、いまの自分が読み返してみたら、当時と違う感慨もあったりしました。それで、いまさらながら思ったところを、わたしも少し言語化して記録しておこうかと思い立ちました。
本当にログなので、未読の方にはこれだけ読んでもそもそも「何のこっちゃ」な話になっているかと思いますが、以下、ネタバレを含みますので、念のため。
アマーリア・ルーの持つ様々な側面について。主要登場人物の中では彼女の視点の章だけがないので、本当の彼女がどういう人だったのかというのは、セオとサーシャが語る彼女の姿から想像するしかないのですが、けして単純な「いい子」ではなかった彼女のしたたかなところやアンバランスさに、なんだろう、ある種の思い入れがあります。
一章の冒頭ではちょっとした喧嘩ですぐ泣いたり怒ったりしていたルーですが、話が進むと、友達が死んでも、あるいは自分の死を予期しても、そういうことでは少しも泣かない。セオの視点からはそうしたギャップがあります。
二章、サーシャの視点で見るアマーリア・ルーが、泣いたり怒ったりしても何にも変わらないと言って、色々なことを諦めてしまっている姿や、センター時代にクラスの友達や教師とうまくやっていたらしい八方美人の姿。そうした側面を踏まえてから、もう一度セオの語る彼女の姿に戻ると、逆に、セオとの関係の中では泣いたり怒ったり、ワガママを言ったりできたんだな、という感慨がありました。
それでもやはり友達が死んだことに対しては、もう涙を流せない。
泣いてもどうにもならないことでは泣かない彼女が、日常の喧嘩では泣いて怒ればセオが言うことを聞くので、対・彼氏限定で女の武器を遠慮無く振り回している。そういうしたたかさが、ちょっと微笑ましくもあるし、怒りや機嫌の悪さを表に出してもいいのだと思える相手をこの子が見つけられたことを、よかったなとも思う。
死期が近いことを隠していたのも、本人がいうとおり、ぎりぎりまで家族から引き離されたくなかったのもあるんでしょう。セオが語るように、彼女はそのことをとっくに覚悟していたのかもしれないけれど、でもそうではなくて、言葉にすることで現実になってしまうようで怖かったのかもしれない。いったんは諦めていたことが、家族を得て、あらためて怖くなっていったのかもしれないとも思うんです。諦念と、やっぱり怖いという気持ちの間で、本当は揺れていたんじゃないかな。
それをセオに対してギリギリまで言わなかったこと、子どもの前ではほとんどずっと楽しそうにしていたことも含めて、そういうところが彼女のいたましさでもあり、強さでもあるなと思う。書いた当時のわたしにとっては、いびつな社会に過剰適応してしまった女の子という認識でいましたが、そのあたりどれくらい読まれる方に伝わるように描写できていたかな、解釈の余地は残せていたのかな。
セオのほうは、委員長から「あんがいクールだよな」と言われてしまうように、自分ではちょっと斜に構えたようなことを言いたがるんだけど、お人好しさというか、根っこの素直さが前面に出てて、客観的にはぜんぜん成功していない。裏表の少ないというか、腹芸ができないまっすぐな男の子です。そういう子だから、アマーリア・ルーもセオには甘えられたんだろうと思っています。
反対にラルフは頭がよく要領もよく、いつも心の中では世の中や友人たち、大人たちを批判的に見ているけれど、普段はそれを表にあまり出さず、如才なく振る舞って、おおむね上手に隠している。だけど芯にはどこかで純粋なところ、不器用なところや年齢なりの未熟さを残してもいる。
サーシャは怒りをもてあまして、触れるもの全て傷つける勢いで露悪的に振る舞うけれど、対照的にラルフのほうは、これまで(少なくとも対外的には)そつなく大人の対応をしてきた。この二人は一見すると真逆のようでいて、芯のところには似たものを抱えている、そういう風に書いたつもりでした。
ストーリー上で直接描写しなかったところでも、結局この二人はあまり多くは語り合わなかったんじゃないかなと思うんですが、互いに明かさない考えや思いが多々ありながら、通じるところもあって、別れるときにはどこか戦友のような感情をお互いに持っていたのかなと思っています。
ラルフにとってのサーシャははじめ、いけすかない相手、理解不能で癇癪持ちで非合理で、愚かな女だった。それが「何かに傷つき苦しんでいる可哀想な女」に変わり、やがて、ただの可哀想な女ではなくなっていく。これまでどこかで周囲を見下していたラルフが、彼女やセオの中に自分にはない種類の強さがあることに気がついていく。
書いてたときはもう必死だったんですけど、「青春小説してるじゃん……こういうの好きだもんなお前……さすが自分のツボは自分がよく知ってるな……」ってなってますね、いま。
サーシャやラルフのその後について、確定的に決めている設定はありません。自分の中でもいろいろなシミュレーションはしましたが、最終的に決めませんでした。そこは読んでくださった方のご想像にお任せしたい。そういうの、ある程度は書いたほうがすっきり読み終われる読者さんも少なくないような気はするけれども……
どうあれ、ふたりの将来にいろいろな困難があるということだけは確かかなと。壁にぶち当たったときや、くじけそうになったときに、お互いのことを思い出して自分を奮い立たせていたらいいなと思います。
サーシャに残された時間がどれくらいかということも明確に決めてはいないんですが、それでも色んな生徒に出会うだろうなというのは当時から思っていました。生き残った女のロールモデルが、彼女にとってはメリルしかいないわけですが、彼女はきっとメリルのように生徒たちの懐に上手に飛び込んだりはできないままだろうなとも。
それでも不器用に、かつての自分のような子や、かつてのイルマやアマーリア・ルーのような子たちに、彼女なりの真摯な言葉を、それからもしかしたら歌うことの喜びなどを、届ける日が来るといい。そのときには素直に受け取れなかった子も、もしかしたら大人になれて、あるいは病と闘う中で、ふと思い出す瞬間が来るといいなと思います。
サーシャの中で罪の意識はきっと消えないままでしょうが、かつて異質なものとしか見ていなかったシスターたちに同僚という立場で混ざって、あるいは大人の立場で生徒たちを見て、視野の広がるところもあるでしょう。その道程はきっと楽なものではなく、自分と違って十五歳になれずに死にゆく女の子たちを前に、苦しむ日が必ずやってくる。その道行きを歩むための勇気を、ラルフとクローディアが、そしてメリルとシスター・マリアが彼女に手渡したのだと解釈しています。
彼女の償いの旅路が終わりを迎えるときに、生きてよかったと思えるような、輝ける光が、たしかに手渡されていることを願って。
完全に余談ですが、書いていた当時、子どもを持った経験がないどころか弟妹もいないので、「育児の描写がちゃんとできている気がしない……」というのがそこそこ不安だったことも、セットで思い出しました。その後、いい年になって友達や職場の同僚から育児の話を聞く機会もいささか増えた現在、あらためて振り返ると、やはり「子どもの月齢とか発達の段階とか、いろんなことがわからないままあいまいに書いていたな……」と思ったりもします。その他、世界観の細部なども、詰めが甘かったなというところも若干、ひとつ、ふたつ、みっつ……うん。十年経ってもあれこれ言い訳したくなるとは思ってなかった。
体調だの家の事情だの仕事のことだのが重なって、書くことから離れているうちにすっかり体力がなくなり、創作系の趣味人としてはもうすっかり死に体の現状なのですが。自分もWeb小説の一読者として、「好きだった小説がある日ネットから削除されて二度と読めない」という悲しみに何度となく打ちひしがれてきた身ですので、一度UPしたものは下げないポリシーです。なので、投稿サイト自体が消滅しないかぎりはずっとそのまま、自分のサイトも動いてはいませんが、まるっとそのまま残してあります。
そうやって、もうまともに書いてもいないくせに過去作をずっとネットの海に漂わせたままにしていたら、こんなふうにご縁があって、まさかの十年越しに読んでいただけました。しかも丁寧に読み解いていただいて、逐次の感想まで……。ありがたすぎて、いま画面を拝んでいます。
ノリで書いたものから気合い入れて計画的に書いたものまで色々置きっぱなしなんですが、クロ・アクは本当に消耗しながら心身を削って書いていたので、当時の自分に「よかったね!」と言いたい気持ち。
あらためまして、このたびは本当にありがとうございました!
PR
プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
拍手コメントをいただいた場合は、お名前をださずにブログ記事内で返信させていただいております。もしも返信がご迷惑になる場合は、お手数ですがコメント中に一言書き添えていただければ幸いです。
拍手コメントをいただいた場合は、お名前をださずにブログ記事内で返信させていただいております。もしも返信がご迷惑になる場合は、お手数ですがコメント中に一言書き添えていただければ幸いです。
ブクログ
ラノベ以外の本棚
ラノベ棚
ラノベ棚
フォローお気軽にどうぞ。
リンク
アーカイブ
ブログ内検索
カウンター