小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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本題に入る前に、昨日「姫君の肖像」に拍手してくださった方、ありがとうございます! びっくりしました。すごく嬉しいです。
なんでびっくりするのかって、あまりに出来に自信がなかったので、公開するだけして、このブログ以外では宣伝もしなかったし、いつも投稿している感想批評サイト様にも持っていかなかったんだ。
……いや、下手だから批評してもらうんであって、そこを逃げてちゃしょうがないんですけど!(涙)
そんなもん載せるなっていう話ですよねー。一度はなかったことにしようかと思ったんですけど、日記で執筆状況を垂れ流してたので「やっぱ無し」しづらかったのと、それに原稿用紙90枚書いたのにそのまま捨てるのが勿体無かったという、この貧乏性ぶり。
ふだんが短編書きだから、何気に一番自信ないやつが、このサイトで一番長い話なんだ……何やってるんだろ、私。
ここから本題。
たまには真面目に小説のことを考えてみた。
普段は考えてねえのかよ! ……ごめんなさい考えてません。頭使って書けないです。感覚で書くよ!(威張るな)
一人称の形式について、某氏のお考えが不思議に思えたので、昨晩、某所チャットでお話を伺ってました。こちらをまだご覧になっているか分かりませんが、お付き合いいただいてありがとうございました!(私信)
ということで、いろいろまとめ。長いので、読み流してください。
「一人称の小説の中で説明が入るのが不自然かどうか」という話から「一人称とは独白か、自伝か、語りかけか」というようなお話をしてきました。あまり頭でそういうことを考えて書いたり読んだりしたことがなかったので、すごく新鮮でした。つまり自分の考えをまとめてから話を聞きに言ったんじゃなくて、チャットで喋りながら考えてたんだ。(ごめんなさい……)
文学の勉強、したことないんです。だから形式を踏んで考えてない。たまに専門用語が出てくると、いちいちWikipedia先生に聞くという。うーん、いっぺん文学部出身の人とか捕まえて話を聞いてみたいなあ。
その方が仰るには、一人称が語られるときに説明が入ると、「おいおい誰に説明してんの?」ということみたい。
そこで「え、読者に説明してるんじゃないの? だって、聞く人がいないんなら、何のために話してるの?」と普通に思って、頭にクエスチョンマークが浮かんだので、張り付いて話を聞いてきた。
「語り手が読者の存在を知っているのは、基本的におかしい」ということなのだそうですが、私は別におかしいと思ってなくて。一人称って、主人公が自分のことを人に話し聞かせているものだ、という感覚があるんですね。
例えばノンフィクションの自伝なんかなら、対象読者へ向けて話してあっても普通だけど、「それなら『これは自伝である』と冒頭で示すべき」というお話のようでした。そして、そうすると必然的に過去を語る形式になるから、臨場感が失われる、読者と主人公が分離してしまうということ。
うんうん、確かに。読む方は、主人公になりきるんじゃなくて、あくまで人が語る話を聞いているつもりで読むことになりますからね。
でも私にとっての一人称って、どっちかっていうと、語りかけや自伝の方だったんですよね。自分自身への語りかけや独白というのもありなんだけど、読者に話すつもりで書いてあるものの方が馴染みが深かった。読書体験の初期の刷り込みの問題だと思うんですけど。
考えても見れば、中身を詳しく覚えている小説の中で一番古い記憶が、『フォーチュン・クエスト』なんですよね。ラノベでアレなんですが、主人公のパステル(冒険者)が、副業で作家をしていて、自分たちの冒険譚を出版している、という形。だから彼女は作中で読者にばりばり呼びかけます。この作中での『対象読者』は、主人公と同じ世界に暮らす人々だから、たとえば世界には冒険者がいたり、モンスターが存在したり、魔法があったりというようなことは、読み手にとって既知の事がらという前提で、でもその詳しい暮らしぶりや生態などの、一般人が知らないようなことは、どんどん説明してくれる。
夏目漱石の『我輩は猫である』とか、宮部みゆきの『長い長い殺人』なんかもそうですね。語り手が猫だったり財布だったりして、聞き手が人間という前提での語りかけ。「ねえねえちょっと聞いてよ、うちのご主人さまったらさあ」みたいなノリ。え? 漱石はそんなノリと違う? まあ細かいことはさておき。
自伝的だと基本的には過去のことを語る形になってしまうけれど(現在進行形で語ることもあるけど)、某氏のスタンスとして「今、ここ」を語るべき、という信念がおありで、それで「語りかけ形式ってどうなの?」ということのようでした。
それって読者=主人公(なりきり)が基本ってことですよね。主人公になったつもりで追体験して、そこで何を感じるか、という。たしかに、その形でないと書けないものはある気がする。
でも、過去の出来事を語り聞かされても、私はそれがイコールつまらないとは思わないんですよね。半分方受け売りなんですけど、お話を聞くって、もともとそういうことじゃないかなと。小説という形式が生まれる以前の、子どもが大人から話し聞かされる、物語や言い伝え、それから体験談。
それに私は、主人公が自分の人生を背負って語る言葉を聞きたい、とも思うんです。もちろん感情移入してなりきって読む話も好きなんですけど、それはそれとして。
それをやるなら一から順を追って進行形で書かないと、と言われちゃったんですけど、最初から回想でないと書けないものもあると思うんですよね。
振り返る形で自伝的に書くと、主人公は、読者に聞かせる話を取捨選択できる。カッコ悪い話は隠すこともできるし、自分自身のヘタレぶりを後悔を交えて話すこともできる。やろうと思えば美化も脚色もできるし、自虐的に語るのもアリ。つまり、その人が「何を語りたいのか」ということを抽出できる。一つの体験をしたときに、どこに重点を置いて振り返っているかということですね。
それに、「このときはこうだったけど、あとにしてみれば……」というような話まで聞いて、そこで初めて一人の人間の物語になるんだというのも、ひとつのスタイルとしてアリだと思うんです。こうじゃないと、ということじゃなくて、選択肢として。
ノスタルジー、悔悛、懐しさ、郷愁、振り返り、そういうものを最初から織り交ぜて書くのも、ひとつの手法としてありじゃないかなあって。
それは語り手の勝手であって、そういうのは読んでいて面白くないと言われてしまえばそれまでなんですけど、実際、共感できなければつまらないというのはあるんですけど、私は今まで読んできたそういう話に好きなものが多かったので。
それに過ぎ去りし物語でも、しっかり臨場感がある話もありますしね。それは、大人が暖炉の前で子どもたちに、自分の体験談を(ときに面白おかしく脚色しながら)臨場感たっぷりに語り聞かせる話法と、同じことなんだと思います。だから、そういう形式でもやりようはあると思うんです。私はできてないけど! できてないですけど!(二回言うくらいには自覚がある)
もちろんそういう話とは別に、「説明が続くと読んでいて飽きるので、説明は最低限にして、説明ではなく描写せよ」という話はあるのだけれど。
ということを、チャットから抜けたあともつらつらと考えていた。普段使わない頭を使いました……
以上。長っ! まとめといいつつまとまってないし。
こんなだらだら垂れ流し日記をここまで読んでくださったご親切な方、ありがとうございます。偏った考えかもしれないので、ご意見いただけても嬉しいですし、スルーしてもらっても全然差し支えありません。
なんでびっくりするのかって、あまりに出来に自信がなかったので、公開するだけして、このブログ以外では宣伝もしなかったし、いつも投稿している感想批評サイト様にも持っていかなかったんだ。
……いや、下手だから批評してもらうんであって、そこを逃げてちゃしょうがないんですけど!(涙)
そんなもん載せるなっていう話ですよねー。一度はなかったことにしようかと思ったんですけど、日記で執筆状況を垂れ流してたので「やっぱ無し」しづらかったのと、それに原稿用紙90枚書いたのにそのまま捨てるのが勿体無かったという、この貧乏性ぶり。
ふだんが短編書きだから、何気に一番自信ないやつが、このサイトで一番長い話なんだ……何やってるんだろ、私。
ここから本題。
たまには真面目に小説のことを考えてみた。
普段は考えてねえのかよ! ……ごめんなさい考えてません。頭使って書けないです。感覚で書くよ!(威張るな)
一人称の形式について、某氏のお考えが不思議に思えたので、昨晩、某所チャットでお話を伺ってました。こちらをまだご覧になっているか分かりませんが、お付き合いいただいてありがとうございました!(私信)
ということで、いろいろまとめ。長いので、読み流してください。
「一人称の小説の中で説明が入るのが不自然かどうか」という話から「一人称とは独白か、自伝か、語りかけか」というようなお話をしてきました。あまり頭でそういうことを考えて書いたり読んだりしたことがなかったので、すごく新鮮でした。つまり自分の考えをまとめてから話を聞きに言ったんじゃなくて、チャットで喋りながら考えてたんだ。(ごめんなさい……)
文学の勉強、したことないんです。だから形式を踏んで考えてない。たまに専門用語が出てくると、いちいちWikipedia先生に聞くという。うーん、いっぺん文学部出身の人とか捕まえて話を聞いてみたいなあ。
その方が仰るには、一人称が語られるときに説明が入ると、「おいおい誰に説明してんの?」ということみたい。
そこで「え、読者に説明してるんじゃないの? だって、聞く人がいないんなら、何のために話してるの?」と普通に思って、頭にクエスチョンマークが浮かんだので、張り付いて話を聞いてきた。
「語り手が読者の存在を知っているのは、基本的におかしい」ということなのだそうですが、私は別におかしいと思ってなくて。一人称って、主人公が自分のことを人に話し聞かせているものだ、という感覚があるんですね。
例えばノンフィクションの自伝なんかなら、対象読者へ向けて話してあっても普通だけど、「それなら『これは自伝である』と冒頭で示すべき」というお話のようでした。そして、そうすると必然的に過去を語る形式になるから、臨場感が失われる、読者と主人公が分離してしまうということ。
うんうん、確かに。読む方は、主人公になりきるんじゃなくて、あくまで人が語る話を聞いているつもりで読むことになりますからね。
でも私にとっての一人称って、どっちかっていうと、語りかけや自伝の方だったんですよね。自分自身への語りかけや独白というのもありなんだけど、読者に話すつもりで書いてあるものの方が馴染みが深かった。読書体験の初期の刷り込みの問題だと思うんですけど。
考えても見れば、中身を詳しく覚えている小説の中で一番古い記憶が、『フォーチュン・クエスト』なんですよね。ラノベでアレなんですが、主人公のパステル(冒険者)が、副業で作家をしていて、自分たちの冒険譚を出版している、という形。だから彼女は作中で読者にばりばり呼びかけます。この作中での『対象読者』は、主人公と同じ世界に暮らす人々だから、たとえば世界には冒険者がいたり、モンスターが存在したり、魔法があったりというようなことは、読み手にとって既知の事がらという前提で、でもその詳しい暮らしぶりや生態などの、一般人が知らないようなことは、どんどん説明してくれる。
夏目漱石の『我輩は猫である』とか、宮部みゆきの『長い長い殺人』なんかもそうですね。語り手が猫だったり財布だったりして、聞き手が人間という前提での語りかけ。「ねえねえちょっと聞いてよ、うちのご主人さまったらさあ」みたいなノリ。え? 漱石はそんなノリと違う? まあ細かいことはさておき。
自伝的だと基本的には過去のことを語る形になってしまうけれど(現在進行形で語ることもあるけど)、某氏のスタンスとして「今、ここ」を語るべき、という信念がおありで、それで「語りかけ形式ってどうなの?」ということのようでした。
それって読者=主人公(なりきり)が基本ってことですよね。主人公になったつもりで追体験して、そこで何を感じるか、という。たしかに、その形でないと書けないものはある気がする。
でも、過去の出来事を語り聞かされても、私はそれがイコールつまらないとは思わないんですよね。半分方受け売りなんですけど、お話を聞くって、もともとそういうことじゃないかなと。小説という形式が生まれる以前の、子どもが大人から話し聞かされる、物語や言い伝え、それから体験談。
それに私は、主人公が自分の人生を背負って語る言葉を聞きたい、とも思うんです。もちろん感情移入してなりきって読む話も好きなんですけど、それはそれとして。
それをやるなら一から順を追って進行形で書かないと、と言われちゃったんですけど、最初から回想でないと書けないものもあると思うんですよね。
振り返る形で自伝的に書くと、主人公は、読者に聞かせる話を取捨選択できる。カッコ悪い話は隠すこともできるし、自分自身のヘタレぶりを後悔を交えて話すこともできる。やろうと思えば美化も脚色もできるし、自虐的に語るのもアリ。つまり、その人が「何を語りたいのか」ということを抽出できる。一つの体験をしたときに、どこに重点を置いて振り返っているかということですね。
それに、「このときはこうだったけど、あとにしてみれば……」というような話まで聞いて、そこで初めて一人の人間の物語になるんだというのも、ひとつのスタイルとしてアリだと思うんです。こうじゃないと、ということじゃなくて、選択肢として。
ノスタルジー、悔悛、懐しさ、郷愁、振り返り、そういうものを最初から織り交ぜて書くのも、ひとつの手法としてありじゃないかなあって。
それは語り手の勝手であって、そういうのは読んでいて面白くないと言われてしまえばそれまでなんですけど、実際、共感できなければつまらないというのはあるんですけど、私は今まで読んできたそういう話に好きなものが多かったので。
それに過ぎ去りし物語でも、しっかり臨場感がある話もありますしね。それは、大人が暖炉の前で子どもたちに、自分の体験談を(ときに面白おかしく脚色しながら)臨場感たっぷりに語り聞かせる話法と、同じことなんだと思います。だから、そういう形式でもやりようはあると思うんです。私はできてないけど! できてないですけど!(二回言うくらいには自覚がある)
もちろんそういう話とは別に、「説明が続くと読んでいて飽きるので、説明は最低限にして、説明ではなく描写せよ」という話はあるのだけれど。
ということを、チャットから抜けたあともつらつらと考えていた。普段使わない頭を使いました……
以上。長っ! まとめといいつつまとまってないし。
こんなだらだら垂れ流し日記をここまで読んでくださったご親切な方、ありがとうございます。偏った考えかもしれないので、ご意見いただけても嬉しいですし、スルーしてもらっても全然差し支えありません。
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無題
ボクも基本的にHALさんの考えと同じで、すべての場面を現在進行形にする必要はないと思っています。
小説ってのは、自由なものだと考えています。書き手一人一人、色々な信念やスタイルがあるはずなんで、一つの型にはまる必要はないと思います。
たとえば、過去を語る場面に入る前に、あんなことをしなければ……、的な文章を入れると、それだけで何があったのか興味がわきますよね。
リアルタイムに語る良さもありますが、過去を語る良さも同様に存在していると思います。
小説ってのは、自由なものだと考えています。書き手一人一人、色々な信念やスタイルがあるはずなんで、一つの型にはまる必要はないと思います。
たとえば、過去を語る場面に入る前に、あんなことをしなければ……、的な文章を入れると、それだけで何があったのか興味がわきますよね。
リアルタイムに語る良さもありますが、過去を語る良さも同様に存在していると思います。
かなた様へ
ありがとうございます。
小説というのは自由なもの。いい言葉ですね。
現在進行形の物語に、上手に回想をはさむのは、いい方法ですよね。メリハリができて。終わった物語と、これからの物語を対比させることもできる。
色んな形式を自在に使いこなして、そのとき取り組むテーマをきちんと輝かせることができるような、そんな物書きになれたらいいなあ(←弱気)
小説というのは自由なもの。いい言葉ですね。
現在進行形の物語に、上手に回想をはさむのは、いい方法ですよね。メリハリができて。終わった物語と、これからの物語を対比させることもできる。
色んな形式を自在に使いこなして、そのとき取り組むテーマをきちんと輝かせることができるような、そんな物書きになれたらいいなあ(←弱気)
No title
右に同じく・・・ではなくて上に同じく、ですかねw
確かに基本の型はあると思いますがそれを使うときには少なからず応用が入って結果その人の「書き方」になると思います。(私の場合は織り交ぜすぎて余計にわからなくなりますがw)
物語を著すやり方は人それぞれ。
所々に共感できる部分があって所々に違いが見える。
共感できるといってもそれは絶対に同じなんてことはないですし(似ているということになりますね)、違いにはその人の個性が見える。
だからこそ面白いと思います。
基本があるからこそ独創性が生まれると思いますしね。
まだまだ未熟な一書き手、一学生の意見ですがw
確かに基本の型はあると思いますがそれを使うときには少なからず応用が入って結果その人の「書き方」になると思います。(私の場合は織り交ぜすぎて余計にわからなくなりますがw)
物語を著すやり方は人それぞれ。
所々に共感できる部分があって所々に違いが見える。
共感できるといってもそれは絶対に同じなんてことはないですし(似ているということになりますね)、違いにはその人の個性が見える。
だからこそ面白いと思います。
基本があるからこそ独創性が生まれると思いますしね。
まだまだ未熟な一書き手、一学生の意見ですがw
紅星 大火様
ありがとうございます。こちらは未熟どころかど素人です……w
私は独創性のあるなしには特にこだわりはないのですけれど、常識や形式に囚われすぎても楽しくないですしね。WEB小説には添削されない良さ、常識や形に縛られない面白さというのもあると思いますし。
しかし、何も知らないで出鱈目を書くのと、一定の形式やその長短を承知の上であえて気にせず逸脱するのでは違いますし、普段あまりそういうことを意識して書いてないものですから、色々考えるいいきっかけになりました。考え込みすぎて書けなくならない程度に、少しくらいは頭でも考えてみようかなと思いますw
私は独創性のあるなしには特にこだわりはないのですけれど、常識や形式に囚われすぎても楽しくないですしね。WEB小説には添削されない良さ、常識や形に縛られない面白さというのもあると思いますし。
しかし、何も知らないで出鱈目を書くのと、一定の形式やその長短を承知の上であえて気にせず逸脱するのでは違いますし、普段あまりそういうことを意識して書いてないものですから、色々考えるいいきっかけになりました。考え込みすぎて書けなくならない程度に、少しくらいは頭でも考えてみようかなと思いますw
あらしと云えば言え無くもないかもしれません。
伝達する相手を想定しない文章ってどういうモノがあるのだろう? 日記にしても自分という読者を想定せずに書く人は珍しいのではないかなぁ、とか。メモだって自分にくらいは分かるように書くし。独り言ですねぇ。頭の中を整理するために吐き出される千々の言葉達。しかしそれをもって小説とは言わないでしょうしねぇ。
つまりは、一人称であれなかれ、読者を想定しない小説というモノが果たして有り得るのだろうかと疑問を投げかけてみましょうか。
さてそうなると、作者の想定する読者なる者を、作中にあって物語を語る「語り」がその存在を意識し得るものか否かというところが論点なのだろうかと推測してみます。技法としてそれが有りか無しかということですね。今回は一人称というところに限った話しなのでしょうか。
読者に対する直接的な語りかけというのは、実は技法として存在いたしまして、こんなふうな用語を上げることが出来ます。参考までに。
「第四の壁を破る」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E3%81%AE%E5%A3%81
三人称語りでは割に良くあることで、歴史物なんかの場合、語りはあからさまに現代の視点で現代の読者に語りかけるスタイルで書かれるものも少なくありません。「当時の?」なんで書き出しはその最たるものですね。あるいは歴史物に限らずとも、作中で何らかの説明を書く場合に「読者諸氏は?」みたいな語りかけも決して珍しくはないと思います。
さて。
一人称の場合ですが、冒頭「俺は八頭大。トレジャーハンターだ」みたいな語り口は良く見かけますが、これって……、誰に言うとんじゃって話しですよね。いやもう、早速から語りかけてくれちゃってます。でまぁこの手の手法ですが、現代にいたって否定され廃れているかというと、そんなことはないように思えます。少なくともエンタメの世界では、むしろ常套的に使われているのではないでしょうか。
それはなぜだろうと考えると、先の話に戻りますが、伝達する相手を想定しない文章――小説は多くは存在せしめないと云うところに因るのではないでしょうか。作者が読者を意識せずに文章を書けないのなら、語りが読者を意識しない言葉を語り続けることが可能なのか。一作の始めから終わりまで。掌編以下ならともかく中編以上の作品で。これは、僕個人の経験と憶測から、そうとう困難であると言わざるをえないように思います。
また、「俺は八頭大。トレジャーハンターだ」というセンテンスに関して言えば、これは暗示と言っても良いでしょう。俺はお前で、俺であるお前は八頭大でありトレジャーハンターなのだ。と云う宣言であり暗示。そういった効果があることも無視できない現実であろうかと思います。
ふむ。
直接の遣り取りを見ていたわけではないので、おそらくはかなりの部分で曲解があるのだろうと思います。そして、やや大袈裟な反論仕立てになってしまっているのではないだろうかという危惧はもう既にこの時点で感じられますね。そんなことにもめげず、続き、行きましょう。
さて。
説明と云うことを踏まえて考えると、掌編以下ならともかく、中編以上で説明をまったく含まない小説というのは書けるモノなのでしょうか。これはなかなかキツイですね。独自の世界観を持つファンタジーなんか、説明なしで書ききったらちんぷんかんぷんでしょう。よほどの腕前の達人でもかなりの苦労を強いられるは火を見るよりも明らかと言って差し支えないと思えます。と云うことは、これら作品では一人称は使ってはいけないと、そう云うことになるのわけなのでしょうか。
ふむ。
極論ですが、「僕は走った」というこの一文も、僕という人物のその時の状態を説明した文章であると言って言えないことはないでしょう。そうなると、一人称文章の完全否定ということにもなりかねないわけなのですが。
さて。
一人称完全否定論ですが、ひと頃僕はそのスタンスだったことがありました。
この文章形式は一体何なのだろう? 正気なのか? こんな文章があって良いのか? 俺ぁとてもこんなもんは書けねぇぞと思っていました。おかしいだろう、不自然だろうよと。若かりしころです。「俺は?した」という文章が受け入れがたかったんですねぇ。
そもそも。
一人称の語りそのものが、そういった不自然さを内包していると云うことはあるのではないかと僕などには思えます。「俺は八頭大。トレジャーハンターだ」なんて声も高らかに宣言する輩が現実にいたら完璧に引きますよね。気でもお狂いになられましたか? みたいな。しかし小説として読むときには不自然さを感じていない、感じていてもそれをそう云うものだと受け入れて読んでいる人は少なくないでしょう。それはなぜか。なぜこんなトンチキな言葉が受け入れられるのか。すなわち、そこにオヤクソクと云う無言のうちに交わされた共通認識=協定が成立していることを示すのではないでしょうか。つまり、こういうものであると云うことを前提にして話しを勧めようじゃないかという不文律ですね。このオヤクソクの一つが件の「見えない壁」という奴でもあるわけです。そう云った論調で突き詰めれば、小説文章の多くが日常に照らすと不自然な文章であると云うことが云えてしまうのかも知れませんね。
で。
この紳士協定なるものを外して考えてしまうと、一人称語りという表現表記方法は、非常に歪んだ不自然な文章であるという風に映ってしまうことも有り得ることでしょう。「僕は走った」……、知るかそんなもんと突っ込んでしまいたくなるかもしれません。しかしそれでは、一人称小説というものは成り立たなくなってしまいます。
さて。
僕についてちょっと語らせていただくと、そんなこんなで僕は一人称小説に対してかなりの偏見を持っていました。三人称小説に対して一段下のものであるかのように思っていたのですね。
一方で読む方はどうかというと、これが矛盾することにけっこう読んでるんですね。はるかな太古の話しですが、リナ・インバースに影響されまくって破天荒な少女を主人公にした冒険アクションコメディを書こうとしてた時期があります。アイリーン・アドラーには実はホームズとの間に子供がいた、とか。ホームズにも知られず成長した少女、シャーリィ・アドラーは、お伴の一見さえないながら剣の達人である東洋人の相棒を引き連れ、世界を股に掛けた冒険を繰り広げる! 的な。ただ、書く方はあくまで三人称でしたが。
で。
今どうかというと、そう云った偏見はかなり薄れました。
一人称語りには一人称語りのメリットがあり、また、一人称語りであるが故の高度なテクニックのようなものもまたありましょう。そんな小理窟は置いとくとしても、自分が読んで面白いならそれはそれで有りなんだろうと、まぁ、極々基本的なところに立ち返ったわけであります。
要するに、面白けりゃ良いのだ。と云う、絶対普遍のエンタメ定理ですね。
さて。
「面白い」て言うのは面白いもので、これがまたなかなかに難しい。何を以て面白いと云うのか。十億人類が揃って面白いと云いきる小説とはなんぞか。そしてその領域に辿り着くための方法論とは? その小説を面白いと評価するのは個人です。個人の評価が募り募って集団の評価となります。集団の中のどれだけの人が面白いと評価したかが集団の評価と云われるわけですね。
確率なわけです。この確率ってのの面白いのは、分母を変えたときに必ずしも分子もそれにあわせて同じ変化をするとは限らない。つまり、20/100の分母を10にしたとして、2/10になるとは限らない。取得するサンプルに拠っては5/10にもなるかもしれないし1/10になってしまうかもしれない。その10の集まりを10集めたときに20/100になったと云うだけの話しです。サンプルが異なれば、それも異なってきましょう。そんな不確定な物なわけです。
こうなってくると、個人の思わくというのは、所詮、「読み」でしかないと言うことになってくるのではないかと思います。どのサンプルの集合に対してどんな反応を見せるか確実に把握し予想することが可能だと考える人はまぁそんなにはいないでしょう。プロの証券マンが100%株の動向を予測しきれるのか。まぁ、そんなところを鑑みてみるまでもなく、「読み」なるものの完璧度がいかほどのものであるかはご承知のことと思われます。
ついで言うと、面白い小説を書くための方法論的主張は、テレビでみるバッティング理論とにも似ているのかなぁと云う感慨があります。それぞれの専門家が彼らの経験なり知識なりを総員して汲み上げた、今現在、その人にとって正しい方法論。それは過去からずっと同じ主張だったわけではなく、未来に置いても同じであるとは限らない。今現在、その人が考え得る最善。しかしながら、これがまた、なかなか10割バッターを生み出すような絶対の理論というのは登場しないものです。環境も一定ではありません。状況が変われば最善もまた変わるのでしょう。そんなことを考えると、ある主張というものを普遍且つ絶対であると云いきることがいかに有り得そうもないことか考えるまでもないことのように思えます。
野球の話しで思い出したのですが、アイシングという言葉があるそうです。筋肉を冷やすんだそうな。しかしながらですね、僕が子供の頃は筋肉は冷やすなと言われたものです。投球後の投手のケアが180度ごろっと変わってしまいました。世の中にはそんなことがごろごろ転がっています。太陽だって動きを止めてしまいますから。
そんなことで、僕の意趣変更を正当化しておきましょうかねぇ。
さて。
物語り中の今なる時間のことですが。
厳密な話しをすれば、小説、ないし物語というモノは多く過去を書くモノです。それは、それらの多くが「?た」と云う完了の言葉を使っていることで明らかです。「?する」が混じっていたとしても、一度でも「?た」を使えばそのシーンは過去のこととなってしまいます。なぜなら現在は時間の経過によって過去になりますが、一度過去となった時間は現在には成り得ないからです。(「?する」という語調を使うことには、わざわざご丁寧に技法名がついてます)
物語が過去を描くことを論証したことで示されるのは何かというと、それはすなわち物語り世界の時間軸に対して観察者(一人称であれば認識者というべきか)が存在することであり、それは取りも直さず、そこに「主観」が介在するということを示します。
「僕は走った」にさえ、走っている僕を観察(認識)している僕の主観が含まれるのです。主観が含まれるならそこに意図が生じます。否。意図あるものがあるから主観が生じるわけですか。まぁ、どちらでも。「僕は走った」に含まれる意図はなにか。物語り世界が僕らのいることの世界と仮に同等の広がりがあるとすれば、その無限とも云える広がりの中の一点、僕という人物に注目を向けさせてその動向を追わせると云う意図です。
つまり、
一つ、
そこではじめに戻るのですが、結局は、伝達する相手を意識しない文章、取り分けて小説と云うものは、果たしてどの程度存在し得るのだろうかと云うことです。
結論的に云えば、あからさまであるかどうかと云うことはあるに付け、語りが読者に対してその意図を示さないなんてことは有り得ないと思うわけです。なぜなら、伝えたいという意図が観察者である「語り」の中の主観としてそこにあるからです。前述の論説を正と仮定するなら、伝える意図無く書かれる小説は無いと言うことになります。ならば、なにを伝えたいのか。そこにある事象を伝えたいのか、それとも、事象から得た情報を、あるいは事象から得られるであろう情報を伝えたいのか。或いは主観そのものを伝えたいのか。
今一つ、
観察者(認識者)にも「今」はあるということです。
この時間のズレをどの程度と想定するのか。物語り時間の数瞬後に置くか、何十年先に置くか。過去のある時点にあってその時間は現在であるように、過去から見た未来のある時間にあってその時間は現在であるわけです。すなわち、物語にはふたつの「今」が常に存在すると云えるのではないでしょうか。「今」なる「今」はいつの時点の「今」なのか。どちらの時間軸の今なのか。しかしならが、主観である観察者が所属する「今」は物語りの時間軸には存在しない。それもまた、事実と認定して良いのではないかと思います。先の結論に近似しますが、
さて。
そんなこんな考えていると、これだけの字数を使ってなんですが、結局は、作者が何をどの様にどうやって伝えたいかと云うところに行き着くわけです。そのためにどんな方法を採り得るのか。そしてその方法は一つではないと云うことです。上で上げたのは、それを実際に文章書きとして実践するための認識の確認でしかありません。これら認識上の広がりを駆使し応用すれば、多くの手法を繰り広げることが出来るのではないでしょうか。楽観ですはありますけどねぇ。
さて。
個人的見解を一つ。
机上の理論ではありますが、一般的に、リアルタイムに現場にいて行動しているその人と、同じ人の後日様々な経験を得、情報を得、経験したことを反芻することを繰り返してきたのと、どちらがよりその事象を広く深く認識、把握、理解していると推測されるでしょうか?
むろん、リアルタイムにはリアルタイムの良さがあります。しかしながら、それを以て未来の語り部を否定しうるのか。むろん未来といえども、未来の現在なのですが。
こんなところも、ちょっと読み物として……
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E8%AB%96
さて。
最後に蛇足ですが。
物語り中の事象から得られる感慨は読者が読者自身のココロで得るものである。
一方で、
これは、僕も散々っぱら主張してきたことであり、今でも真理であり真実であると信じています。しかしながら、これは、事実としてオオウソであるこということを知ってもいます。なぜなら、語りには、確実に間違いなく主観が籠められているからです。意図が籠められているのです。すなわち意識的であるなしに関わらず、そしてその意味の大きさにかかわらず、確実に必ず情報操作が為されているのです。架空の物語であってもそれは免れません。世界から視点を切り取った時点で情報操作なのです。情報操作があるならば、それはすなわち、受け手の感情を誘導していることになります。演出というのは感情誘導の他の何物でもありませんからねぇ。
このあたりは「報道の欺瞞」という問題と共通するところなのでしょうね。
報道はさておき、物語り書きであれば、読み手に誘導されていることを感じさせることなく、読者の心の動きを誘導していくという自覚があるいは必要なのかもしれません。主観を持つ書き手の書く、主観を持つ語りの、二つの主観を通して書かれた物語にその主観の得た感情が反映されないはずはないでしょう。それらの感情誘導の為される物語を読んだ上で読者がどう感じるか、それは読者自身の問題です。それを否定することは誰にも出来ますまい。例え作者といえども。しかし、読者が結果どういう感情や思想を導き出すかと云うことと、作者や語りがどういう主観の下に物語を紡ぐかは別問題であり、物語りに主観を含ませるべきではないという理論に結びつくものではないと僕は思います。
他方。
人間てのはおかしなもので、感情を共有したいという願望を多くの人が持っています。自分が得た感情を自分一人の中に押し込めておくよりも、他の人とそれを分け合いたいと感じるんですね。
それは、物語り世界の中にも存在します。それは奇妙なことに、キャラとのシンクロだけに留まらず、語りとの共感というのもあるように思えます。逆に言えば語りだけがリアルを持つ主観である故に、もっとも共感をもちたい相手であるとも云えなくはないかもしれません。そんな経験はありませんか? 僕はあるんですよねぇ。
読者が語りという主観を意識していないということはないと思います。そんな考えを持つのは作者の欺瞞、思い上がりでしょう。どんなに語りが存在を隠そうとしても読者は語りの存在を認識していますよ。この場で云う語りというのは前段で云う観察者(認識者)ですね。一人称であっても、僕ではない、別の時間軸に存在する僕を、読者は認識しています。それもまた、オヤクソクの一つなのかもしれません。
共感されたいという欲求を多くの人は持っています。
そして、共感してあげたいという欲求も持っているものと思われます。
その辺を上手に使うのが、読者に共感を持って貰える、読後感の良い小説を書く一つのポイントなんじゃないかなぁと思う今日この頃です。感傷を読者に丸投げでは得られ難い領域なんじゃないかなぁとも思えますね。
りとぅん ばい
TC幻想奇譚倶楽部 お
つまりは、一人称であれなかれ、読者を想定しない小説というモノが果たして有り得るのだろうかと疑問を投げかけてみましょうか。
さてそうなると、作者の想定する読者なる者を、作中にあって物語を語る「語り」がその存在を意識し得るものか否かというところが論点なのだろうかと推測してみます。技法としてそれが有りか無しかということですね。今回は一人称というところに限った話しなのでしょうか。
読者に対する直接的な語りかけというのは、実は技法として存在いたしまして、こんなふうな用語を上げることが出来ます。参考までに。
「第四の壁を破る」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E3%81%AE%E5%A3%81
三人称語りでは割に良くあることで、歴史物なんかの場合、語りはあからさまに現代の視点で現代の読者に語りかけるスタイルで書かれるものも少なくありません。「当時の?」なんで書き出しはその最たるものですね。あるいは歴史物に限らずとも、作中で何らかの説明を書く場合に「読者諸氏は?」みたいな語りかけも決して珍しくはないと思います。
さて。
一人称の場合ですが、冒頭「俺は八頭大。トレジャーハンターだ」みたいな語り口は良く見かけますが、これって……、誰に言うとんじゃって話しですよね。いやもう、早速から語りかけてくれちゃってます。でまぁこの手の手法ですが、現代にいたって否定され廃れているかというと、そんなことはないように思えます。少なくともエンタメの世界では、むしろ常套的に使われているのではないでしょうか。
それはなぜだろうと考えると、先の話に戻りますが、伝達する相手を想定しない文章――小説は多くは存在せしめないと云うところに因るのではないでしょうか。作者が読者を意識せずに文章を書けないのなら、語りが読者を意識しない言葉を語り続けることが可能なのか。一作の始めから終わりまで。掌編以下ならともかく中編以上の作品で。これは、僕個人の経験と憶測から、そうとう困難であると言わざるをえないように思います。
また、「俺は八頭大。トレジャーハンターだ」というセンテンスに関して言えば、これは暗示と言っても良いでしょう。俺はお前で、俺であるお前は八頭大でありトレジャーハンターなのだ。と云う宣言であり暗示。そういった効果があることも無視できない現実であろうかと思います。
ふむ。
直接の遣り取りを見ていたわけではないので、おそらくはかなりの部分で曲解があるのだろうと思います。そして、やや大袈裟な反論仕立てになってしまっているのではないだろうかという危惧はもう既にこの時点で感じられますね。そんなことにもめげず、続き、行きましょう。
さて。
説明と云うことを踏まえて考えると、掌編以下ならともかく、中編以上で説明をまったく含まない小説というのは書けるモノなのでしょうか。これはなかなかキツイですね。独自の世界観を持つファンタジーなんか、説明なしで書ききったらちんぷんかんぷんでしょう。よほどの腕前の達人でもかなりの苦労を強いられるは火を見るよりも明らかと言って差し支えないと思えます。と云うことは、これら作品では一人称は使ってはいけないと、そう云うことになるのわけなのでしょうか。
ふむ。
極論ですが、「僕は走った」というこの一文も、僕という人物のその時の状態を説明した文章であると言って言えないことはないでしょう。そうなると、一人称文章の完全否定ということにもなりかねないわけなのですが。
さて。
一人称完全否定論ですが、ひと頃僕はそのスタンスだったことがありました。
この文章形式は一体何なのだろう? 正気なのか? こんな文章があって良いのか? 俺ぁとてもこんなもんは書けねぇぞと思っていました。おかしいだろう、不自然だろうよと。若かりしころです。「俺は?した」という文章が受け入れがたかったんですねぇ。
そもそも。
一人称の語りそのものが、そういった不自然さを内包していると云うことはあるのではないかと僕などには思えます。「俺は八頭大。トレジャーハンターだ」なんて声も高らかに宣言する輩が現実にいたら完璧に引きますよね。気でもお狂いになられましたか? みたいな。しかし小説として読むときには不自然さを感じていない、感じていてもそれをそう云うものだと受け入れて読んでいる人は少なくないでしょう。それはなぜか。なぜこんなトンチキな言葉が受け入れられるのか。すなわち、そこにオヤクソクと云う無言のうちに交わされた共通認識=協定が成立していることを示すのではないでしょうか。つまり、こういうものであると云うことを前提にして話しを勧めようじゃないかという不文律ですね。このオヤクソクの一つが件の「見えない壁」という奴でもあるわけです。そう云った論調で突き詰めれば、小説文章の多くが日常に照らすと不自然な文章であると云うことが云えてしまうのかも知れませんね。
で。
この紳士協定なるものを外して考えてしまうと、一人称語りという表現表記方法は、非常に歪んだ不自然な文章であるという風に映ってしまうことも有り得ることでしょう。「僕は走った」……、知るかそんなもんと突っ込んでしまいたくなるかもしれません。しかしそれでは、一人称小説というものは成り立たなくなってしまいます。
さて。
僕についてちょっと語らせていただくと、そんなこんなで僕は一人称小説に対してかなりの偏見を持っていました。三人称小説に対して一段下のものであるかのように思っていたのですね。
一方で読む方はどうかというと、これが矛盾することにけっこう読んでるんですね。はるかな太古の話しですが、リナ・インバースに影響されまくって破天荒な少女を主人公にした冒険アクションコメディを書こうとしてた時期があります。アイリーン・アドラーには実はホームズとの間に子供がいた、とか。ホームズにも知られず成長した少女、シャーリィ・アドラーは、お伴の一見さえないながら剣の達人である東洋人の相棒を引き連れ、世界を股に掛けた冒険を繰り広げる! 的な。ただ、書く方はあくまで三人称でしたが。
で。
今どうかというと、そう云った偏見はかなり薄れました。
一人称語りには一人称語りのメリットがあり、また、一人称語りであるが故の高度なテクニックのようなものもまたありましょう。そんな小理窟は置いとくとしても、自分が読んで面白いならそれはそれで有りなんだろうと、まぁ、極々基本的なところに立ち返ったわけであります。
要するに、面白けりゃ良いのだ。と云う、絶対普遍のエンタメ定理ですね。
さて。
「面白い」て言うのは面白いもので、これがまたなかなかに難しい。何を以て面白いと云うのか。十億人類が揃って面白いと云いきる小説とはなんぞか。そしてその領域に辿り着くための方法論とは? その小説を面白いと評価するのは個人です。個人の評価が募り募って集団の評価となります。集団の中のどれだけの人が面白いと評価したかが集団の評価と云われるわけですね。
確率なわけです。この確率ってのの面白いのは、分母を変えたときに必ずしも分子もそれにあわせて同じ変化をするとは限らない。つまり、20/100の分母を10にしたとして、2/10になるとは限らない。取得するサンプルに拠っては5/10にもなるかもしれないし1/10になってしまうかもしれない。その10の集まりを10集めたときに20/100になったと云うだけの話しです。サンプルが異なれば、それも異なってきましょう。そんな不確定な物なわけです。
こうなってくると、個人の思わくというのは、所詮、「読み」でしかないと言うことになってくるのではないかと思います。どのサンプルの集合に対してどんな反応を見せるか確実に把握し予想することが可能だと考える人はまぁそんなにはいないでしょう。プロの証券マンが100%株の動向を予測しきれるのか。まぁ、そんなところを鑑みてみるまでもなく、「読み」なるものの完璧度がいかほどのものであるかはご承知のことと思われます。
ついで言うと、面白い小説を書くための方法論的主張は、テレビでみるバッティング理論とにも似ているのかなぁと云う感慨があります。それぞれの専門家が彼らの経験なり知識なりを総員して汲み上げた、今現在、その人にとって正しい方法論。それは過去からずっと同じ主張だったわけではなく、未来に置いても同じであるとは限らない。今現在、その人が考え得る最善。しかしながら、これがまた、なかなか10割バッターを生み出すような絶対の理論というのは登場しないものです。環境も一定ではありません。状況が変われば最善もまた変わるのでしょう。そんなことを考えると、ある主張というものを普遍且つ絶対であると云いきることがいかに有り得そうもないことか考えるまでもないことのように思えます。
野球の話しで思い出したのですが、アイシングという言葉があるそうです。筋肉を冷やすんだそうな。しかしながらですね、僕が子供の頃は筋肉は冷やすなと言われたものです。投球後の投手のケアが180度ごろっと変わってしまいました。世の中にはそんなことがごろごろ転がっています。太陽だって動きを止めてしまいますから。
そんなことで、僕の意趣変更を正当化しておきましょうかねぇ。
さて。
物語り中の今なる時間のことですが。
厳密な話しをすれば、小説、ないし物語というモノは多く過去を書くモノです。それは、それらの多くが「?た」と云う完了の言葉を使っていることで明らかです。「?する」が混じっていたとしても、一度でも「?た」を使えばそのシーンは過去のこととなってしまいます。なぜなら現在は時間の経過によって過去になりますが、一度過去となった時間は現在には成り得ないからです。(「?する」という語調を使うことには、わざわざご丁寧に技法名がついてます)
物語が過去を描くことを論証したことで示されるのは何かというと、それはすなわち物語り世界の時間軸に対して観察者(一人称であれば認識者というべきか)が存在することであり、それは取りも直さず、そこに「主観」が介在するということを示します。
「僕は走った」にさえ、走っている僕を観察(認識)している僕の主観が含まれるのです。主観が含まれるならそこに意図が生じます。否。意図あるものがあるから主観が生じるわけですか。まぁ、どちらでも。「僕は走った」に含まれる意図はなにか。物語り世界が僕らのいることの世界と仮に同等の広がりがあるとすれば、その無限とも云える広がりの中の一点、僕という人物に注目を向けさせてその動向を追わせると云う意図です。
つまり、
一つ、
そこではじめに戻るのですが、結局は、伝達する相手を意識しない文章、取り分けて小説と云うものは、果たしてどの程度存在し得るのだろうかと云うことです。
結論的に云えば、あからさまであるかどうかと云うことはあるに付け、語りが読者に対してその意図を示さないなんてことは有り得ないと思うわけです。なぜなら、伝えたいという意図が観察者である「語り」の中の主観としてそこにあるからです。前述の論説を正と仮定するなら、伝える意図無く書かれる小説は無いと言うことになります。ならば、なにを伝えたいのか。そこにある事象を伝えたいのか、それとも、事象から得た情報を、あるいは事象から得られるであろう情報を伝えたいのか。或いは主観そのものを伝えたいのか。
今一つ、
観察者(認識者)にも「今」はあるということです。
この時間のズレをどの程度と想定するのか。物語り時間の数瞬後に置くか、何十年先に置くか。過去のある時点にあってその時間は現在であるように、過去から見た未来のある時間にあってその時間は現在であるわけです。すなわち、物語にはふたつの「今」が常に存在すると云えるのではないでしょうか。「今」なる「今」はいつの時点の「今」なのか。どちらの時間軸の今なのか。しかしならが、主観である観察者が所属する「今」は物語りの時間軸には存在しない。それもまた、事実と認定して良いのではないかと思います。先の結論に近似しますが、
さて。
そんなこんな考えていると、これだけの字数を使ってなんですが、結局は、作者が何をどの様にどうやって伝えたいかと云うところに行き着くわけです。そのためにどんな方法を採り得るのか。そしてその方法は一つではないと云うことです。上で上げたのは、それを実際に文章書きとして実践するための認識の確認でしかありません。これら認識上の広がりを駆使し応用すれば、多くの手法を繰り広げることが出来るのではないでしょうか。楽観ですはありますけどねぇ。
さて。
個人的見解を一つ。
机上の理論ではありますが、一般的に、リアルタイムに現場にいて行動しているその人と、同じ人の後日様々な経験を得、情報を得、経験したことを反芻することを繰り返してきたのと、どちらがよりその事象を広く深く認識、把握、理解していると推測されるでしょうか?
むろん、リアルタイムにはリアルタイムの良さがあります。しかしながら、それを以て未来の語り部を否定しうるのか。むろん未来といえども、未来の現在なのですが。
こんなところも、ちょっと読み物として……
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%AA%9E%E8%AB%96
さて。
最後に蛇足ですが。
物語り中の事象から得られる感慨は読者が読者自身のココロで得るものである。
一方で、
これは、僕も散々っぱら主張してきたことであり、今でも真理であり真実であると信じています。しかしながら、これは、事実としてオオウソであるこということを知ってもいます。なぜなら、語りには、確実に間違いなく主観が籠められているからです。意図が籠められているのです。すなわち意識的であるなしに関わらず、そしてその意味の大きさにかかわらず、確実に必ず情報操作が為されているのです。架空の物語であってもそれは免れません。世界から視点を切り取った時点で情報操作なのです。情報操作があるならば、それはすなわち、受け手の感情を誘導していることになります。演出というのは感情誘導の他の何物でもありませんからねぇ。
このあたりは「報道の欺瞞」という問題と共通するところなのでしょうね。
報道はさておき、物語り書きであれば、読み手に誘導されていることを感じさせることなく、読者の心の動きを誘導していくという自覚があるいは必要なのかもしれません。主観を持つ書き手の書く、主観を持つ語りの、二つの主観を通して書かれた物語にその主観の得た感情が反映されないはずはないでしょう。それらの感情誘導の為される物語を読んだ上で読者がどう感じるか、それは読者自身の問題です。それを否定することは誰にも出来ますまい。例え作者といえども。しかし、読者が結果どういう感情や思想を導き出すかと云うことと、作者や語りがどういう主観の下に物語を紡ぐかは別問題であり、物語りに主観を含ませるべきではないという理論に結びつくものではないと僕は思います。
他方。
人間てのはおかしなもので、感情を共有したいという願望を多くの人が持っています。自分が得た感情を自分一人の中に押し込めておくよりも、他の人とそれを分け合いたいと感じるんですね。
それは、物語り世界の中にも存在します。それは奇妙なことに、キャラとのシンクロだけに留まらず、語りとの共感というのもあるように思えます。逆に言えば語りだけがリアルを持つ主観である故に、もっとも共感をもちたい相手であるとも云えなくはないかもしれません。そんな経験はありませんか? 僕はあるんですよねぇ。
読者が語りという主観を意識していないということはないと思います。そんな考えを持つのは作者の欺瞞、思い上がりでしょう。どんなに語りが存在を隠そうとしても読者は語りの存在を認識していますよ。この場で云う語りというのは前段で云う観察者(認識者)ですね。一人称であっても、僕ではない、別の時間軸に存在する僕を、読者は認識しています。それもまた、オヤクソクの一つなのかもしれません。
共感されたいという欲求を多くの人は持っています。
そして、共感してあげたいという欲求も持っているものと思われます。
その辺を上手に使うのが、読者に共感を持って貰える、読後感の良い小説を書く一つのポイントなんじゃないかなぁと思う今日この頃です。感傷を読者に丸投げでは得られ難い領域なんじゃないかなぁとも思えますね。
りとぅん ばい
TC幻想奇譚倶楽部 お
お様へ
私のこのまとまりのない駄文にもったいないような詳しい考察。ありがとうございます!
内容もですけれど、教えていただいたWikipediaの記事も、すごく勉強になります。第四の壁、錯時法なんていう言葉も全然知らなくて、感心しきりです。私はほんと、もうちょっと勉強するといいよ……。
ふたつの「今」、かあ……。意識したことなかったです。
この記事のお話をチャットで議論したときは、一人称限定での話題でした。なるほど、「お約束」かあ。言われて見れば、そういうことなのか。それを意識させないのは、ひとつの上手な書き方なんですね。なるほど……
読者を意識していないように上手く見せかける書き方、ということですね。成功していれば、主人公=読者に近いところまで持っていくことができるような。
私が「読者に語りかけるんじゃなきゃ、誰に向かって話してるの?」とお聞きしたところ、相手の方は、「心の内での独白をそのまま書いているような形式もありだし、一人称は、自分に語りかけるというのもあり」と仰ったんですよね。確かにそれはそれでありだなあと思いながらも、「読者に語りかけるのはよくない」という感覚が分からなくて。
そういえば議論中、お約束、という概念が無かったです。ご説明を読みながら「ああ! なるほど!」という感じです。お恥ずかしい。
それにしても、リナ・インバース。なつかしや……もしかして前にチャットでもお話したかもしれませんが、私、最初に書いた小説は「それなんて『スレイヤーズ!』のパクリ?」みたいな話でした……w 『フォーチュンクエスト』が読書デビュー(?)で『スレイヤーズ!』が執筆デビューなら、そりゃ一人称のお約束にも抵抗がないわけですよね。ラノベ育ちな自分の感覚を、文学一般の話をするときに信用してはいけなかった……w
まあでも、ラノベはよりその傾向が強いにしても、一般図書でもある程度はお約束ということなんでしょうね。
さておき、私も「読者への語りかけ」擁護の立場で色々書いてはみたものの、たしかに、「あからさまに作者の存在を感じさせると、醒めてしまうことがある」というような感覚は、それはそれで分かるんですよね。物語であるということを忘れて没入したいときには、作者や読者の存在を意識させるような表現が邪魔になることがある。
そうやって、完全に入り込んで楽しむ本もあれば、語り手の語りを少し離れた距離感から心地よく読むこともある。一対一で語りかけられている感覚で読んだり、語り手の気持ちにぴったり寄り添って読むこともあるように思います。
そういうことを、たまにはきちんと意識して読んでいかないと駄目だなあ……。
たしかに、一般に三人称をきちんと書ける人の方が上手いみたいな話は聞く気がします。(仰るように、一概には言えないのでしょうけれど。)
一人称は、逆に読者への語り掛け技法でこそ、活かせるような場面もあるんじゃないかなあとか思ったりするときもあり。というのが、ちょうど今読んでいる小説がめちゃくちゃメタ的で、主人公がガンガン別次元にいる読者に話しかけてくるんですよね。私のような下手なやつが書けば興ざめかもしれないけれど、その作者さんが書くとすごく面白いんです。ちょうど、友だちが面白おかしく体験談を話すのを、ツッコミを入れて笑いながら聞いているような感覚。
普段はクールな三人称を書かれる方なので、書き分けられる技量にビックリしています。そんな風に使いこなすことができればいいんだけどなあ。
結局は、語りたいものに合っているかどうかと、書き手の腕前次第なのかな。
それにしても、色々とありがとうございました。頭が悪くて理解が追いついていない部分もあるかもしれませんが(汗)、大変お勉強になりました。大感謝です。
内容もですけれど、教えていただいたWikipediaの記事も、すごく勉強になります。第四の壁、錯時法なんていう言葉も全然知らなくて、感心しきりです。私はほんと、もうちょっと勉強するといいよ……。
ふたつの「今」、かあ……。意識したことなかったです。
この記事のお話をチャットで議論したときは、一人称限定での話題でした。なるほど、「お約束」かあ。言われて見れば、そういうことなのか。それを意識させないのは、ひとつの上手な書き方なんですね。なるほど……
読者を意識していないように上手く見せかける書き方、ということですね。成功していれば、主人公=読者に近いところまで持っていくことができるような。
私が「読者に語りかけるんじゃなきゃ、誰に向かって話してるの?」とお聞きしたところ、相手の方は、「心の内での独白をそのまま書いているような形式もありだし、一人称は、自分に語りかけるというのもあり」と仰ったんですよね。確かにそれはそれでありだなあと思いながらも、「読者に語りかけるのはよくない」という感覚が分からなくて。
そういえば議論中、お約束、という概念が無かったです。ご説明を読みながら「ああ! なるほど!」という感じです。お恥ずかしい。
それにしても、リナ・インバース。なつかしや……もしかして前にチャットでもお話したかもしれませんが、私、最初に書いた小説は「それなんて『スレイヤーズ!』のパクリ?」みたいな話でした……w 『フォーチュンクエスト』が読書デビュー(?)で『スレイヤーズ!』が執筆デビューなら、そりゃ一人称のお約束にも抵抗がないわけですよね。ラノベ育ちな自分の感覚を、文学一般の話をするときに信用してはいけなかった……w
まあでも、ラノベはよりその傾向が強いにしても、一般図書でもある程度はお約束ということなんでしょうね。
さておき、私も「読者への語りかけ」擁護の立場で色々書いてはみたものの、たしかに、「あからさまに作者の存在を感じさせると、醒めてしまうことがある」というような感覚は、それはそれで分かるんですよね。物語であるということを忘れて没入したいときには、作者や読者の存在を意識させるような表現が邪魔になることがある。
そうやって、完全に入り込んで楽しむ本もあれば、語り手の語りを少し離れた距離感から心地よく読むこともある。一対一で語りかけられている感覚で読んだり、語り手の気持ちにぴったり寄り添って読むこともあるように思います。
そういうことを、たまにはきちんと意識して読んでいかないと駄目だなあ……。
たしかに、一般に三人称をきちんと書ける人の方が上手いみたいな話は聞く気がします。(仰るように、一概には言えないのでしょうけれど。)
一人称は、逆に読者への語り掛け技法でこそ、活かせるような場面もあるんじゃないかなあとか思ったりするときもあり。というのが、ちょうど今読んでいる小説がめちゃくちゃメタ的で、主人公がガンガン別次元にいる読者に話しかけてくるんですよね。私のような下手なやつが書けば興ざめかもしれないけれど、その作者さんが書くとすごく面白いんです。ちょうど、友だちが面白おかしく体験談を話すのを、ツッコミを入れて笑いながら聞いているような感覚。
普段はクールな三人称を書かれる方なので、書き分けられる技量にビックリしています。そんな風に使いこなすことができればいいんだけどなあ。
結局は、語りたいものに合っているかどうかと、書き手の腕前次第なのかな。
それにしても、色々とありがとうございました。頭が悪くて理解が追いついていない部分もあるかもしれませんが(汗)、大変お勉強になりました。大感謝です。
書かないといけないよね
見つけてしまったので、とりあえず。
斜め読みした面もあるので、誤解しているところもあると思いますが、一応。
フォーチュンなんて、懐かしいフレーズがいくつか出ていて楽しいかったんですけどね。
作者が読者を意識するとのは、当たり前というよりも不可能と思いますので、省きます。なので、一人称の話ということに絞って話します。
大抵のことはおさんが私以上に話してくださってますので、出る幕はあまりないのですが。
まず語り手の問題ですが、ようは、語り手が読者を意識した語りをしていいのか、ここに尽きてしまうわけです。
で、私は基本的にそれはやらないほうがいいと思ってます。プロがやっているからいいじゃないか、という理屈は横に置いて、語り手が読者を意識して語らないと分からないことより、読者が読みながら自然と分かる方が良くないですか? 前者を否定するつもりはないですが、極力ないほうが、いいと私は考えます。
「私は走った」と説明しなくても、走ったことが分かる方が良いことが多いですよね。
私が言いたいのは、単純にそういうことだったりします。
で、次に、振り返りについてですが、私はやはり基本的には作中の「今、ここ」を書くべきだと思います。読者は「今、ここ」で、何が起こっているのか、どうなっていくのか、を読者は知りたいと。私は考えています。逆にその「今、ここ」があるのであれば、それでいいわけです。
それが、一人称で振り返られると、淡々と語られてしまって、振り返って気が付いたことも、過去のこととして語られて、決定的にその「今、ここ」が抜け落ちていることが多いわけです。要するに、「今、ここ」に乏しい物語は、動きに乏しいことが多いです。逆に、話としてはまとまっていることが多くなりますが。
こうなると「今、ここ」を書くための技術だったり、構成の問題になります。さらには、書きたいものは何かということが問題になります。なので、ここは誤解されるとちょっと困ってしまうわけだけども。
つまり、HALさんの言われる振り返りのある作品を否定するつもりはないです。ものすごい技術なり、構成が必要だと思います。そのあたりがないと結局、作者が書きやすいスタンスを取っただけで、書きたいものを追求したように映らないことが多いです。だったら、時系列に並べて書いたほうが、読者としては面白かったんじゃないか、そういう批評は多々書いたことがあります。このあたりは、粗筋にしてみると分かりやすいと思うんだけど。
一人称に限ることではないですが、「今、ここ」で振り返るのであれば、「今、ここ」で何かしらの動きが起こるはずですよ。そういうのが臨場感だったりするんじゃないでしょうか? 一人称で振り返るとどうもそのあたりが難しいだろうから、読者として時系列で、ってことを言っていることが多いわけです。
作品がないところでいろいろ言うのは、難しいので、この辺で。
内容にまとまりがなくてすいません。
斜め読みした面もあるので、誤解しているところもあると思いますが、一応。
フォーチュンなんて、懐かしいフレーズがいくつか出ていて楽しいかったんですけどね。
作者が読者を意識するとのは、当たり前というよりも不可能と思いますので、省きます。なので、一人称の話ということに絞って話します。
大抵のことはおさんが私以上に話してくださってますので、出る幕はあまりないのですが。
まず語り手の問題ですが、ようは、語り手が読者を意識した語りをしていいのか、ここに尽きてしまうわけです。
で、私は基本的にそれはやらないほうがいいと思ってます。プロがやっているからいいじゃないか、という理屈は横に置いて、語り手が読者を意識して語らないと分からないことより、読者が読みながら自然と分かる方が良くないですか? 前者を否定するつもりはないですが、極力ないほうが、いいと私は考えます。
「私は走った」と説明しなくても、走ったことが分かる方が良いことが多いですよね。
私が言いたいのは、単純にそういうことだったりします。
で、次に、振り返りについてですが、私はやはり基本的には作中の「今、ここ」を書くべきだと思います。読者は「今、ここ」で、何が起こっているのか、どうなっていくのか、を読者は知りたいと。私は考えています。逆にその「今、ここ」があるのであれば、それでいいわけです。
それが、一人称で振り返られると、淡々と語られてしまって、振り返って気が付いたことも、過去のこととして語られて、決定的にその「今、ここ」が抜け落ちていることが多いわけです。要するに、「今、ここ」に乏しい物語は、動きに乏しいことが多いです。逆に、話としてはまとまっていることが多くなりますが。
こうなると「今、ここ」を書くための技術だったり、構成の問題になります。さらには、書きたいものは何かということが問題になります。なので、ここは誤解されるとちょっと困ってしまうわけだけども。
つまり、HALさんの言われる振り返りのある作品を否定するつもりはないです。ものすごい技術なり、構成が必要だと思います。そのあたりがないと結局、作者が書きやすいスタンスを取っただけで、書きたいものを追求したように映らないことが多いです。だったら、時系列に並べて書いたほうが、読者としては面白かったんじゃないか、そういう批評は多々書いたことがあります。このあたりは、粗筋にしてみると分かりやすいと思うんだけど。
一人称に限ることではないですが、「今、ここ」で振り返るのであれば、「今、ここ」で何かしらの動きが起こるはずですよ。そういうのが臨場感だったりするんじゃないでしょうか? 一人称で振り返るとどうもそのあたりが難しいだろうから、読者として時系列で、ってことを言っていることが多いわけです。
作品がないところでいろいろ言うのは、難しいので、この辺で。
内容にまとまりがなくてすいません。
RYO様へ
長文です……。お忙しいと仰っているのにごめんなさい! 読み流しOKです!
色々とお手をわずらわせてしまってごめんなさい。ありがとうございました!
チャットも楽しいですけれど、やはり文字だけの会話だと、細かいニュアンスのやりとりに苦労しますね。
コメント拝読していて、どうも私が総論と各論を混同したのが、途中で話が混乱した原因だったんじゃないかという気がしています……(汗)いまいち理解力が鈍くて。ごめんなさい!
お約束云々はおいておいても、初めから主人公が読者に向けて語ることを前提にするやりかたについては、色々考えてみたんですけど、やっぱり私は肯定派です。プロでもやっているからどうこうというより、私が読んだ中で、そういう語り口が活きていてすごく面白いと感じた小説があったので、まずそこが念頭にあったんですよね。
でも確かに、仰るようにそれを「面白い」と思わせるのは、進行形で書くときよりも技術が必要で、難しいんだと思います。
ただそれは、例えば「二人称を使いこなすのは難しい」とかいうのと同じようなレベルの話で、やったらいけないとか、そういうものは全般に面白くない、というのとは違うんじゃないかなとも思うんですよね。(読む方の好き嫌いはあるにしても。どうしても『そういうのは興ざめだ』と感じられる方はいらっしゃるでしょうから……)
この辺が私が総論と各論を混同したところなのかなと。
あとは、単に私が節操のない読み手で、わりと「面白ければお約束だろうとご都合だろうとバッチコイ」的な体勢だというのもあるんですけど……w
「私は走った」と書かずに走っていることが分かるほうがいい、というのは、確かにそうですよね。できるだけ説明じゃなくて描写を、というのは、大賛成です。説明が多いと、不自然かどうかをとりあえず置いておくにしても、とにかく読んでいて退屈しますしね。全体の構成や語るべきポイントによっては、いちいち長々と描写するよりも、簡単に説明で済ませた方がいい場面もあると思いますが、基本的には説明はなるべく控えるべきだと。これは一人称に限らずですね。
そこが不自然、と仰るのがすんなり理解できなかったのは、私が「お約束」にどっぷり漬かっているからなんだなあと、お様のコメントで本気で目から鱗でした。ふだん何にも考えずに読んでます……。お恥ずかしい。
「なるほど、それを避けて書けるならその方がいいのかもしれないな」と思うと同時に、実は今も同じ頭の片隅で「まあ、そこはお約束ということでもいいんじゃないかな」とも思っています。節操なしです。これは単に読み手として、そこにこだわってせっかくの小説を楽しめないくらいなら、丸ごとどんと来いな体勢で読みたいからです。
ただ、書くときには「そこが受け入れきれない」という方がいらっしゃることは、知っておかないといけないなと。その上で、なるべく避けるか、開き直ってお約束にのっかるかは別として。
「下手でない小説」と「面白い小説」はまた別ものだと思うのと、あとは、色々と気にしすぎて書けなくなるくらいなら開き直っちゃおうかなあとか……w 姿勢がゆるすぎるかな……。
小説に関しては、できるだけこだわりたくないんですよね。こだわらず固まらずに色々読みたいし書きたいというか。まだ未熟ゆえに、ポリシーを持つに至っていないだけかもしれませんが。それに色々やるにしても、ただだらだらと手当たり次第に書くんじゃなくて、仰るように、何かと工夫しないといけないんですけど(汗)
「今、ここ」の部分は……そうですね、過去の物語と一口にいっても、色々ですよね。例えば、全体としては主人公の回想で、最後のシーンで現在の主人公に追いつくとか。過去語りだけれど、クライマックスは臨場感たっぷりに語ってあるとか。あらかじめ結末が分かっていても、そこを逆手にとったどんでん返しがあったり。あるいは語り口が上手かったりして、冒頭で結末が示されていたにも関わらず、思わず手に汗握って読んでしまう面白いという作品も、少数ながら確かにあって。
過去形で語る面白い作品というのは、色々な工夫と語り口の技術があるとか、あるいは語られる内容が魅力的だったり、語られる心情がすごく良かったりと、そういうところがあるからこそ面白いんですよね。
あとは、たとえば、主人公が過去の自分をすごく後悔していたり、あるいは懐かしく振り返っていたり、そういう振り返っている「その人の今」を描くというのも、実は今でもアリだと思ってるんですけど。成長したり、年を取ったり、出会いがあったり何かを経験したりして、その結果、過去の自分を少し違う見方で見つめることが出来るようになる。人のそういう部分を書きたいときってあるんですよね。
しかし、仰るように、それを読んで「まるで物語が動いていない」と感じられてしまうなら、それは確かに失敗ですよね。退屈ですもんね。過去形でもきちんと動きのある物語を書けるかどうかということは、ちゃんと考えないといけないなあ。
とと、まだ理解が追いついていなかったらごめんなさい(大汗)
普段、あまり頭で考えて書いていないので、色々考えるいい契機になりました。ありがとうございました!
そして長文失礼いたしました……!
色々とお手をわずらわせてしまってごめんなさい。ありがとうございました!
チャットも楽しいですけれど、やはり文字だけの会話だと、細かいニュアンスのやりとりに苦労しますね。
コメント拝読していて、どうも私が総論と各論を混同したのが、途中で話が混乱した原因だったんじゃないかという気がしています……(汗)いまいち理解力が鈍くて。ごめんなさい!
お約束云々はおいておいても、初めから主人公が読者に向けて語ることを前提にするやりかたについては、色々考えてみたんですけど、やっぱり私は肯定派です。プロでもやっているからどうこうというより、私が読んだ中で、そういう語り口が活きていてすごく面白いと感じた小説があったので、まずそこが念頭にあったんですよね。
でも確かに、仰るようにそれを「面白い」と思わせるのは、進行形で書くときよりも技術が必要で、難しいんだと思います。
ただそれは、例えば「二人称を使いこなすのは難しい」とかいうのと同じようなレベルの話で、やったらいけないとか、そういうものは全般に面白くない、というのとは違うんじゃないかなとも思うんですよね。(読む方の好き嫌いはあるにしても。どうしても『そういうのは興ざめだ』と感じられる方はいらっしゃるでしょうから……)
この辺が私が総論と各論を混同したところなのかなと。
あとは、単に私が節操のない読み手で、わりと「面白ければお約束だろうとご都合だろうとバッチコイ」的な体勢だというのもあるんですけど……w
「私は走った」と書かずに走っていることが分かるほうがいい、というのは、確かにそうですよね。できるだけ説明じゃなくて描写を、というのは、大賛成です。説明が多いと、不自然かどうかをとりあえず置いておくにしても、とにかく読んでいて退屈しますしね。全体の構成や語るべきポイントによっては、いちいち長々と描写するよりも、簡単に説明で済ませた方がいい場面もあると思いますが、基本的には説明はなるべく控えるべきだと。これは一人称に限らずですね。
そこが不自然、と仰るのがすんなり理解できなかったのは、私が「お約束」にどっぷり漬かっているからなんだなあと、お様のコメントで本気で目から鱗でした。ふだん何にも考えずに読んでます……。お恥ずかしい。
「なるほど、それを避けて書けるならその方がいいのかもしれないな」と思うと同時に、実は今も同じ頭の片隅で「まあ、そこはお約束ということでもいいんじゃないかな」とも思っています。節操なしです。これは単に読み手として、そこにこだわってせっかくの小説を楽しめないくらいなら、丸ごとどんと来いな体勢で読みたいからです。
ただ、書くときには「そこが受け入れきれない」という方がいらっしゃることは、知っておかないといけないなと。その上で、なるべく避けるか、開き直ってお約束にのっかるかは別として。
「下手でない小説」と「面白い小説」はまた別ものだと思うのと、あとは、色々と気にしすぎて書けなくなるくらいなら開き直っちゃおうかなあとか……w 姿勢がゆるすぎるかな……。
小説に関しては、できるだけこだわりたくないんですよね。こだわらず固まらずに色々読みたいし書きたいというか。まだ未熟ゆえに、ポリシーを持つに至っていないだけかもしれませんが。それに色々やるにしても、ただだらだらと手当たり次第に書くんじゃなくて、仰るように、何かと工夫しないといけないんですけど(汗)
「今、ここ」の部分は……そうですね、過去の物語と一口にいっても、色々ですよね。例えば、全体としては主人公の回想で、最後のシーンで現在の主人公に追いつくとか。過去語りだけれど、クライマックスは臨場感たっぷりに語ってあるとか。あらかじめ結末が分かっていても、そこを逆手にとったどんでん返しがあったり。あるいは語り口が上手かったりして、冒頭で結末が示されていたにも関わらず、思わず手に汗握って読んでしまう面白いという作品も、少数ながら確かにあって。
過去形で語る面白い作品というのは、色々な工夫と語り口の技術があるとか、あるいは語られる内容が魅力的だったり、語られる心情がすごく良かったりと、そういうところがあるからこそ面白いんですよね。
あとは、たとえば、主人公が過去の自分をすごく後悔していたり、あるいは懐かしく振り返っていたり、そういう振り返っている「その人の今」を描くというのも、実は今でもアリだと思ってるんですけど。成長したり、年を取ったり、出会いがあったり何かを経験したりして、その結果、過去の自分を少し違う見方で見つめることが出来るようになる。人のそういう部分を書きたいときってあるんですよね。
しかし、仰るように、それを読んで「まるで物語が動いていない」と感じられてしまうなら、それは確かに失敗ですよね。退屈ですもんね。過去形でもきちんと動きのある物語を書けるかどうかということは、ちゃんと考えないといけないなあ。
とと、まだ理解が追いついていなかったらごめんなさい(大汗)
普段、あまり頭で考えて書いていないので、色々考えるいい契機になりました。ありがとうございました!
そして長文失礼いたしました……!
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