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小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 夜霧の向こう、月明かりに照らされて、大きな門がそびえていた。
 燎原は茫洋とした足取りでその門を目指していた。己が何を求めて歩いているのか、確と分かっていない。ただ気付くとその門の前にいて、そちらへ向かって歩いていた。
 近づいてよく見ると、門にはひどく精緻な彫刻が施されている。龍、蛟、麒麟に牡丹、桃、蔓草、睡蓮。一続きに延々と張り巡らされた装飾の中に、一つとして同じ図案はない。
 きっと堅く閉ざされているのだろうと思った門は、燎原が何気なく手で押すと、音も立てずに開いた。
 夜霧は門の中まで入り込んで、邸の中をも曖昧に霞ませている。足元に綺麗に組まれた石畳が続き、その脇には整えられた背の低い木が並んでいた。
 ――何者か。
 誰何の声が聞こえた。燎原は慌てて周囲に視線を巡らすが、声の主は見当たらない。その声は不思議なことに、空気を震わせていないように感じられた。
 口調に詰問の響きは無かったが、それでも燎原は首を縮めた。己が招かれざる客であるらしいということだけが、彼にも理解できた。
「燕燎原と申します」
 燎原は名乗り、その場で膝をついた。
 ――玄姫様の離宮に何用か。
 声ならぬ声に問われ、燎原は恐縮して頭を垂れた。問われても、己で知らぬことは答えられない。
「気付くと、こちらの門前に居りました」
 仕方なくそう正直に言うと、声は呆れたように一瞬沈黙し、
 ――疾く帰るがいい。
 そう言い捨てた。だが、燎原がその言葉に従って立ち上がろうとしたとき、もう一つの声が響いた。
 ――まあ、待て。急ぐ用がないのなら、中へおいで。
 先ほどのものとは別人の、少し低い女性の声が聞こえた。そちらも、やはり空気を震えさせていないように思われた。その声色は落ち着いたものだったが、語尾に好奇心が滲んでいる。
 ――玄姫様。
 咎めるような声が続いたが、女の声は、笑い含みにそれをあしらった。
 ――よいのだ。どうせ、害意のあるものは此処に入れはせぬ。ほら、おいで。
 燎原は言われるままに立ち上がって、ふらふらと歩み始めた。そうしながら、ふと、夜霧の濃さの割には石畳がまるで濡れていないことに気付いて、首を傾げた。

 長廊下が、伸びていた。灯篭に仄かな明かりの灯る中庭を眺めながら、延々とその廊下を歩くと、やがて大きな扉が立ちはだかる。遠慮がちに押すと、やはり扉は音も無く開いた。
「よく来た。近くに寄るがいい」
 声は、今度こそ生身の声のようだった。先ほど聞いたものと同じ、低く落ち着いた女性の声。
 燎原は跪いて叩頭し、おそるおそる歩を進めた。
 奥の方は一段高くなっていて、やはり精緻な模様の彫られた大きな椅子に、黒い着物の女性が腰掛けていた。燎原は少し離れた所で膝を折った。
 女性のまとう服は、しっとりと落ち着いた意匠だったが、目を凝らせば目立たぬ色で細かな縫い取りが施されて、燻し銀の飾りが幾つも身を飾っている。顔には薄絹を垂らしていて、女性の面相はしかと分からなかったが、僅かに透けて見える唇が、赤かった。
「玄姫と申す。ちょうど、退屈していた。少し話をしてゆけ」
 高貴な身らしい女性は、男のような口調でそう言った。ぶっきらぼうだが、硬いところは無く、耳に心地のよい声であった。
「燕と言ったか。ふむ、学生のように見えるが」
 はい、と、燎原は頷いた。そうだ、自分はまだ学ぶ身だ。これから身を立てようとしているのだと、他人事のようにそう思った。それ以上の感慨は無かった。
「ならば、書も多く読むのだろう。何ぞ面白い書物はあったか」
 燎原は、何か答えようとして、言葉に詰まった。楽しむために本を読んだことなど、これまでの生涯に一度でもあっただろうか。考えても、思い出せなかった。
 仕方なく無粋なもので、と、正直に打ち明けた。玄姫は気を悪くする様子も無く、「そのようだな」と呟いた。
「では、何のために学んでいる」
 何のために? 燎原は思い出せなかった。それどころか、己が普段何をして暮らしているものなのか、まるで分からない。学生かと言われて、はいと答えた。そうなのだろうとは思う。だが、それだけだ。
「――まあ、いい。無理に答えることでもないさ」
 玄姫はそう言うと、話題を変えた。
「外は晴れていたか」
 この問いには、すぐに答えられた。「霞が出ておりました」
「では星は見えなんだか。今の時節、晴れておれば、お前の在所からは何の星が見える」
 奇妙な問いではあったが、これも答えることができる。斗宿(ひつきぼし)が、と、燎原は答えた。
「なるほど、星に呼ばれて来たのだな」と、玄姫はにやりとした。
 ――玄姫様。
 先ほどの声だった。
「ああ、時間か。――今日はもう下がるがよい。またおいで」
 言われて立ち上がるや否や、くらりと立ちくらみに襲われて、燎原はよろめいた。目頭を押さえた途端、意識が暗転して……

 目を覚ますと、夜が明けていた。燎原はがばりと身を起こして部屋を見渡すと、溜め息を吐いた。ほんの一寸の仮眠のつもりだったのに、すっかり寝入ってしまっていたようだ。
 そういえば何か夢を見ていたようだと、ふと思い、記憶を探ろうとしたが、既に夢の残滓はどこかへ去ってしまったようで、まるで思い出せなかった。さて、吉夢だったか凶夢だったか。
 燎原は首を振った。悠長に夢占いなどしている場合ではなかった。時間がないのだ。
 科挙の郷試は、もう来年の夏。あと一年を切ってしまった。この機を逃すと、次は三年後になってしまう。悠長に寝こけている場合ではないのだ。競争相手は多いというようなものではない、まさしく星の数ほどだ。
 燎原は立ち上がって、中庭に出ると、井戸から冷たい水を汲んで、顔を洗った。秋口の早朝に吹く風は涼しく、井戸水がひやりとしていて、ようやく目が冴えてきた。

 学府の片隅で黙々と写本に耽っていると、目の前がふと暗くなって、燎原は顔を上げた。誰かが目の前に立ったのだ。
「よう、燎原。精が出るな」
「楊漣」
 学友の一人だった。肥りぎみの体を揺らして、揶揄うような笑みを浮かべている。
「誰でも必死だけどな、郷試が近いから。それにしても、お前は一段と鬼気迫った様子じゃないか」
「俺は頭が悪いから」
 燎原は肩を竦めてそう言った。あながち謙遜でもなかった。科挙を目指そうという者は、並大抵でなく頭の切れる者が多かった。努力だけでどうにかできる世界ではないのだ。
 燎原も幼い頃から周囲に利発な子だと言われてはいたが、その才能は生憎と詩歌音曲の類には開花しなかった。だが、科挙には詩賦があり、そうした方面への知識が欠かせない。他の者の倍、努力せねばどうにもならないと、燎原は常に痛感していた。
「そこまで焦らなくても、もし駄目でも科挙には次があるさ、お前はまだ若いんだから」
 そう言われて、燎原はむっとして眉を寄せた。だが、楊連は悪気があって言ったわけではないようだった。
「焦る気持ちは分かるが、そんなに根を詰めていては、体を壊すぞ」
 小声でそう言う学友の、どこか困ったような顔を見て、燎原は怒気を引っ込めた。
「……生活がかかっているからな」
「息子の一度の浪人くらいで揺らぐほど、燕大人の身代は頼りないのか?」
 養父の名を出されて、燎原は眉を顰めた。
「そういうことじゃない」
「何で、そこまで必死になる? 科挙に一度で受かる奴なんてほとんど居ないし、それに、燕大人だって、何が何でもお前を官吏にしたいっていう訳じゃないんだろう」
 その友の問いに、燎原は答えなかった。どうして楊漣はそんなに呑気に構えていられるのか、それを考えると、腹立たしかった。金持ちの家に生まれて、のんびり学問に専念できる余裕があり、たとえ科挙に通らなくても、一生食っていけるだけの資産が残る。そういう人間の言うことだと思うと、いくら悪気のない言葉だと知っていても、苛立つことを抑えられなかった。
「お前は滑らかに世辞が言える奴でもないだろう。急いで受かっても、それほど出世しないのではないか」
 楊連は重くなった空気を和らげようとしているのだろう、わざと茶化すようにそう言った。燎原もその気遣いが分かったから、怒らず肩を竦めて「早く、安定した暮らしを手に入れたいんだ。小心だからな」と笑った。だが、口元には笑みを浮かべてはいても、心中では少しも笑っていなかった。
 燎原は、北の方の貧しい農村で生まれた。冬は雪に降り込められ、夏の収穫次第では飢えて死ぬ者が出るような土地柄のこと。その上、父親は彼が生まれる前に病没しており、母子二人の暮らしは酷く貧しかった。
 その母も、少ない食べ物の殆どを燎原に与え、己は滋養が足りず病を得て、燎原が八つの年にあっさり逝ってしまった。
 親戚の家の厄介者となり、食い扶持を増やしたことでその家の子ども達に冷ややかな目で見られながら、畑仕事の手伝いに必死だった九つの年。あのときたまたま視察で通り掛かった官吏が、幼い彼の利発なことに目を留め、拾い養ってくれなかったら、今ごろはまだあの貧しい村で凍えていただろう。つい数年前に飢饉があったと聞いているから、ことによっては、とっくに飢えて死んでいたかもしれない。
 あの寒さは、飢えは、お前には分からないだろう。燎原は学友の肥えた安気な顔を見て、声に出さずにそう思った。

 今夜は夜霧は出ていなかったが、その代わりのように細雪が降りしきっていた。燎原は空を眺めたが、当たり前のことに、星は見えなかい。門の屋根には、雪がすでに積もりかかっていた。
 前に訪れたとき、また来いと言われたように思う。燎原は思い出した。あの女性は何と言ったか……そう、玄姫。
 燎原は躊躇いながらも、静かに門を押した。すうっと、音も無く門扉が開く。前と同じだ。
 ――よく着た。中に入るといい。
 声が響いた。燎原は誰も居ない奥に向かって一度膝を折ると、立ち上がって奥に向かった。
 前にも通った長廊下から中庭をのぞくと、灯篭に雪が積もりはじめていた。それを計算して作られたわけでもあるまいが、灯篭の小さな明かりが雪を照らして、雅やかな風情を醸し出している。
 降りしきる雪を見ていると、何かを思い出しそうになって、燎原は首を傾げた。何か雪にまつわる思い出でもあっただろうか、思い出しそうとしてみても、記憶は茫洋として、確たる像を結ばない。だが、何やら胸苦しいような気がした。
 広間にたどり着くと、やはり玄姫は其処に居て、「久しいな」と声を掛けて来た。
 燎原は御前に膝をついて、頭を下げた。
「どうした、疲れているようだな」
 玄姫はそう言って、薄絹の奥から燎原の顔をまじまじと見つめるようだった。
「は……」
 燎原は、曖昧に頷いた。確かに、酷く疲れているような気がした。肩や腕が重く、頭の芯が痺れるようだ。だが、どうして自分が疲れているのか、燎原には思い出せなかった。それどころか、普段自分が何をして暮らしているのかも、頭には浮かんでこなかった。前の謁見のときも、似たようなことがあったような気がする。
「亡霊のような顔色だ。無理をしているのではないか」
 労わるというよりは興がるような声で、玄姫は重ねて訊ねてきた。
「郷試が迫っておりますゆえ」
 口からするりと返答が漏れ、それでやっと燎原は、自分が科挙に備えて日々学んでいることを思い出した。あれだけ毎日必死になっているのに、どうして忘れていられるのだろう。一度思い出してみると、不思議でならなかった。
「いったい何故、官吏になどなりたいのだ」
 玄姫は静かにそう聞いてきた。
「――西の、」
 燎原は、言葉が勝手に口をついて出たのに驚いた。自分が何を喋ろうとしているのか、自分で分からなかった。
「西の国には、作物の品種を改良して、寒い土地でもよく育つ種を作る技術があるそうです」
 何故自分がそう話しているのか分からないまま、燎原は言って俯いた。だが、それが出任せではなく、ずっと頭の片隅にあったことだと自分で気付く。玄姫はただ小さく頷いて、続きを促すようだった。
「あるいは、北の方では、巧みに石組みの家に塗りを重ねて、外の冷気をうまく絶つ術に長けていると」
 どこで聞いた話だったか、これもずっと頭のどこかに居座っていたことだった。
「私は、北の方の小さな農村で生まれました。そこでの暮らしは、寒く、ひもじくて、いつも苦しかった……」
 燎原は勝手に口から溢れる言葉を、自分では止められなかった。玄姫も口をはさまず、じっと興味深そうに彼の顔を見つめている。
「今の私は、街で安楽に暮らす身。私を拾ってくれた養父のおかげで、この歳になっても働きもせず、学業に専念することが許されています。寒さを凌ぐには充分すぎる衣服を与えられ、ここ数年、飢えた覚えがございません。暖を取る炭にも事欠かない。ですが、そうした暮らしを送っているのは、ほんの僅かな者ばかりです」
 玄姫はふむ、と相槌を打った。それで、ようやく燎原の口から零れ続けていた言葉の本流が止まった。
「それで、官吏になって国を変えたいのか」
 改めてそう問われると、そんな立派な理由ではないという気もしてきて、燎原は頭を振った。
「――分かりません。どの道、私は科挙に通らなければ、何の役にも立たぬ身です。それでは養父への顔向けもできません」
 燎原が項垂れてそう言うと、玄姫はふと笑った。
「まあ、そのままでは受かるまいよ」
 容赦ない言葉に、燎原は力を失って、床にへたり込んだ。気落ちしていると、玄姫はそんな燎原を宥めるように、
「今のような顔色では、試験の前に倒れるに相違あるまい。まずはしっかりと食って寝ることだ。それができなければ、通るものも通らん」
 顔を上げて玄姫を見ると、薄絹越しにのぞく唇が、柔らかく苦笑していた。その笑い方には見覚えがあると、燎原は思った。どこで見たものだったか……。
 記憶を探るうち、学友の人の良い顔が、ふと燎原の脳裏に浮かんだ。もしかすると、あいつはこれが言いたかったのだろうか。
「まあ、無茶をして自ずから体を壊して倒れでもしなければ、そうだな、何とかなろうよ。何せ、斗宿に導かれて此処を訪れたくらいだからな」
 燎原は訝しく眉を顰めた。
「何だ、知らないのか。斗宿は成功を司る星なのだ」
 玄姫は笑い含みの声で、そう言った。星占いなど、普段なら信じる気にもなれないが、その言葉はどういうわけか、すんなりと燎原の中に沁みた。ただ都合よく信じたかっただけかもしれないが。
「さて、そろそろ夜明けだ。帰るがいい」
 燎原は咄嗟に礼を言おうとしたが、玄姫の声に答える間もなく、すっと意識が遠のいた。

 目覚めて、燎原は体を起こした。ここのところずっと重かった頭が、不思議と軽くなっている。よほど深く眠ったのだろうか。
 起き上がると、陽が昇りかけていた。ああ、また眠りこけていたのか。燎原は頭を掻いた。ほんの少しの仮眠のつもりだったのに。
 郷試が近いというのに、困ったものだ。だが、それだけ疲れていたのだろうと、燎原は中庭に出て顔を洗いながら、反省した。詰め込みすぎて効率を落としているのでは世話はない。
 冷たい水で顔を洗い終えたとき、ふと何かを忘れているような気がして、燎原は顔を上げた。何を忘れているのか、じっと考えてみるが、思い浮かばない。深く眠ったつもりが、夢でも見ていたのだろうか。
 忘れごとの正体は分からなかったが、記憶を探るうちに、燎原は別のことを思い出した。肥り気味の学友の、人のいい顔。
 そう言えば、この前は心配してくれていたようだったのに、迫る郷試に焦るあまり、冷たい態度をとってしまったと、燎原は自省した。学府で会ったら、詫びておかなければなるまい。
 顔を上げると、中庭にちらりと一片の雪が落ちてきた。それを見ているうちに、また何かを思い出しそうになって、燎原は首を捻った。

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 某所の企画にて、タイトル指定+写真つき+原稿用紙20枚以内で書いたものでした。

 何もかも適当です。ほとんど資料を調べていません。中国文化、歴史にお詳しい方、設定が致命的におかしくてもどうかご容赦ください(大汗)

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