忍者ブログ
小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
 その泉を覗き込むと、いつも違う景色が見えた。
 レイニーはその場所のことを、誰にも言ったことがない。だから、確かめようは無いが、そこの存在を知っている村人は彼女のほかに、誰もいないのではないかと思われた。なんせ、鎮守の森の奥深く、獣道とも呼べないよう木々の隙間に分け入って、村から軽く一刻は歩かないと辿りつけない。よほど森を熟知していなければ、すぐに迷って帰れなくなってしまうだろう。森を生業の場にする狩人たちさえも、もっと森の入口近くを猟場にしているものだし、誰も酔狂でこんな奥深くまでやって来はしない。それでなくとも大地の神を祀る、信心深い人々の集まる村だ。必要以上に欲を掻いて、森の奥深くを荒らしてまで豊かに暮らしたいという不埒な者もいなかった。
 彼女は昔から、どれほど大人たちに駄目だといわれても、懲りずにこっそり森に分け入ってはそこを遊び場にしたり、薬草や茸を集めていた。異国の血の混じる彼女の風貌は、閉鎖的な村の中でひどく浮いたし、彼女自身が積極的に人の輪に入ろうという性質ではなかったので、いつでも他の子ども達の間にうまく溶け込むことができなかった。だから、彼女は人のいない遊び場を必要とした。そのうち、薬草の類を見分ける術を覚え、渋い顔をする母親を説き伏せて、堂々と森に出入りするようになった。レイニーには父親がおらず、母娘が二人で作る畑の収穫だけでは、どちらにしても暮らしは苦しかったのだ。
 レイニーは森の地理を覚えながら、少しずつ版図を広げて行った。ときおり狼や熊が出たという話は耳にしないでもなかったが、不思議と彼女自身は行き会ったことがない。あんたには森の守護があるのかもしれないねと、村の巫女家の長がそう言った。それを頭から信じたというわけでもないのだけれど、彼女自身、自分がいつか森の獣に襲われるのではないかという気はまるでしなかったし、事実その後もずっと、彼女の身にその種の災いは及ばなかった。
 そのうちに、彼女は森の奥深くまで平気で出入りするようになり、人がなかなか見つけてくることのできない貴重な薬草や、香木などを探し出せるようになっていった。

 そしてある日、彼女は何者かに導かれるように、その泉にたどり着いた。
 森の奥深くは、背の高い木々が葉を繁らせていて、日が届きにくく、下生えが少ない。足を進めると、落ち葉を踏むがさがさという音に、時おり、細い枯れ枝を踏み折るぱきりという音が混じった。その中を、特に当ても無く歩いていた彼女は、そのつもりもなかったのに、気付くと暗い方へ暗い方へと足を向けていた。
 辺りは薄闇に包まれていて、時おり遠くから鳥の声や、獣の遠吠えが聞こえてくる。それはレイニーにとって恐ろしいものではなかったが、なぜ自分がその方向に向かおうとしているのか、それが分からない。そのことが彼女の心に不安を掻き立てた。だが、どうしてか戻ろうという気持ちは起きない。それに、漠然と胸を覆う不安の底には、どこか正体の分からない期待のようなものが顔を見せていた。
 やがて、暗かった視界がぱっと開ける瞬間がやってきた。
 その一角だけ、森が拓けていた。その中央に、澄んだ泉が湧き出ている。ああ、水の匂いが自分を呼んでいたのだと、レイニーはようやく気付いた。
 太陽の光が、真上から降り注いでいた。これまで辺りが暗かったため、時間を意識していなかったが、まだ真昼なのだ。
 レイニーは水を飲もうと、泉の畔に屈みこんで、はっとした。水面には自分の顔が映っていなかった。
 いや、彼女の顔だけではない。頭上にあるはずの木々の梢や、力強い太陽さえも、そこには映っていなかった。水面には、その代わりのように、どこか遠い国のものと思われる漆喰壁の街並みが、まるで空高くから見下ろすような角度で展望していた。
 思わず彼女がその不思議に見とれていると、映像はすうっと水に溶けるように消えていき、やがて底には微かな波紋だけを残して、当たり前のように彼女の驚いた顔が映し出されているのだった。

 レイニーはそれから、頻々とその泉を訪うようになった。
 行く度に、泉に映る景色は変わっていった。あるときは南国の明るい海が、またあるときは見慣れない食べ物の並ぶ食卓が、小雨に濡れる石畳が、そこにゆらゆらと揺れていた。
 その景色は、動かない絵のように黙っているのではなく、まるで目の前に本物が実際にあるように、滑らかに移ろうのだった。空が映しだされていれば、そこを流れる雲や、力強く羽ばたく鳥の姿が左から右によぎる。賑やかな市場が映れば、商品を値切っているらしい人の交渉する口元の動きまで、はっきりと見て取れる。
 そこに映る景色は、どれも狭い村で生まれ育った彼女の知らないものばかりだったが、にもかかわらず、レイニーは泉に映る遠い国を眺めるたびに、どこか胸を引き絞られるような懐かしさを覚えるのだった。

 ある秋の日、十何度目かにその泉を訪れたレイニーは、泉の水面に、青く晴れ渡った空と、高い尖塔のようなものが突き出た、巨大な建物を見た。人口が五百人もいないような小さな村で育った彼女には、こんな大きな建物があるということがそもそも信じられなかった。人の手がこれだけのことを為し得るのかという驚きが、彼女の心を支配した。距離が遠く、細かい所までは見て取れないが、煉瓦造りのように見える。小さな小さな煉瓦を、一つずつ積み上げて、途方も無い労力と歳月とをかけて、あれを作ったというのか。
 驚く彼女をよそに、泉が映し出す映像は、視点を変え始めた。建物に近づいていったのだ。
 建物の麓には、街が広がっていた。近づいて初めて、豆粒のような家々が見える。段々と近づいていく。石畳のある街並み、通りには多くの人々が行き交っている。不思議な色の肌や髪をした、体躯の大きな人々。
 その中を歩く二人連れを、泉は映し出した。くすんだ金髪の背の高い男と、彼の横を歩く、まだ年若い女性。
 その顔には見覚えがあると、レイニーは思った。そしてその途端、いつものように、映像はすっと水に溶けて消えたのだった。

 その日からレイニーはずっと、泉の中に見た光景が気になって仕方が無かった。村で家の手伝いをして過ごしている間も、尖塔が、二人連れの顔が、心の片隅に居座って離れなかった。なぜか懐かしい風景、見覚えのある顔。自分には縁の無い異国の風景だと思っていた景色は、もしかして、いつかどこかで見たものだったのだろうか。
 だが、彼女はこの村で生まれたし、どこか旅行に行ったという覚えも無かった。知り合いばかりの村人たちと、彼らが飼う家畜、狭い村と、その周りに広がる貧しい畑、そして森。それだけが彼女の知る世界のはずだった。

 それからも、彼女は何度となく泉を訪れた。その度に、やはり違う景色が見えた。
 季節が巡り、やがて年が明けて間もないある日、巫女家の者が人を集め、触れを出した。近く、何者かがやってきて、そして、村の中から誰かを連れて去っていくだろうと。
 その託宣から一月と少しが経った後、一人の旅行者が村を訪れた。
 じきに春になろうかという頃の、風の強い日だった。森が風に弄られ、ざわめいていた。空は晴れていたが、吹き付ける風はまだ冷たかった。
 その男がやってきたことに、真っ先に気付いたのは、レイニーだった。森から香木を拾い集めた帰り道だった。村の入口までまだ少し歩かなければならないという辺りで、遠くからとぼとぼと歩いてくる人影に気付いたのだ。巫女の託宣を思い出し、彼女は思わずその場で立ち尽くした。
 男は、明らかに異国の人間らしい顔立ちをしていた。長く旅をしていたのか、くたびれた格好で、しかしその割には、荷物が少なかった。これまでにも村を訪ねてきた旅行者はいたが、彼らはたくさんの荷物を抱えていたから、男の身軽さは、レイニーにとっては意外なものだった。
「ああ、この村の人ですか……、」
 男は立ちすくんでいるレイニーにそう声をかけて、そして、目を瞠って棒立ちになった。何かにひどく驚いている様子だった。
 レイニーもまた、驚いていた。男の顔立ちに、見覚えがあったのだ。
 男は、くすんだ金髪をしていた。森の泉に映った、あのときの人物に、違いなかった。
「レイニー、なのか」
 男は彼女の名を呼んだ。レイニーは更に驚いて、それでもどうにか頷いた。男は顔をほころばせて、疲れなど吹き飛んだように、軽快に近づいてきた。
「大きくなった」
 男は感慨深げに頷いて、「ユウカのところに、連れて行ってくれるか」と言った。
 ユウカは、彼女の母の名だった。彼女はよく状況が飲み込めないままに、圧されるように頷いて、黙り込んだまま男と並んで村に入った。村人達の驚いた顔が、彼らを遠巻きにしていた。
 家の前に着くと、何かの予感があったのか、母親が家の前で待ち構えていた。落ち着かないようすであたりを見渡していた母親は、近づく二人に気付くと、はっとして目を瞠ったようだった。
「ユウカ」
 男が大声で叫んで、走り出した。母親が目を潤ませて、口元を手で覆ったのが、レイニーにも見えた。
 こんな知り合いがいることを、レイニーは母親から訊いていなかった。だが、彼らの表情で、悟ってしまった。そうしてみると、瞬く間に線は繋がった。異国の風貌の混じる自分の顔。父親のことを話したがらない、だけど時々遠い目をする母。
 この人物が、物心ついたときにはいなかった彼女の父親。男に抱きすくめられて、その胸で泣いている母親を見て、レイニーはそれを確信していた。

 男は落ち着くと、すぐにまた旅立たなければならないのだと言った。その説明は要領を得なかったが、何か、どうしても果たさなければならない役目があるらしかった。それは、母娘を置いて長く姿を消していた理由と、同じものであるらしかった。
 彼が口にした行き先の地名は、レイニーには聞き覚えのないものだったが、遠く離れた異国の地であることはたしかだった。
 その旅にレイニーを連れて行きたいと、男は言いにくそうに口に出した。
 それは、何年かかるか分からないような旅路らしかった。だが、レイニーは悩まず頷いた。男には何の親近感も覚えなかったが、それでも行かなければならないという、形にならない予感があった。
 村人の誰も、母親も、レイニーの旅立ちを止めなかった。男は自分で言い出しておいて、そのことにひどく驚いていた。小さな村で長年にわたって託宣をもたらし、村を導いてきた巫女家の言葉が、どれほどの重みをもつものか、外から来た者には分からなかったのだろう。だが、レイニー自身は、巫女の予言など関係なく、初めからそうするつもりだった。
 母親は一度だけ涙を見せたが、何かを決意する顔で、静かに二人を見送った。

 何かに、導かれるような旅だった。
 不便はあっても、本当に困難なことは向こうから避けてくれるような。夜盗にも会わず、獣にも襲われず、飢えても必ず、行き倒れる前には口にするものに行き当たる、そんな道行きだった。
 彼女を導く役目のはずの父親は終始、その幸運が腑に落ちないというような様子で、怪訝そうにしていた。ともに旅を続けるうちに、彼らは少しは打ち解けたが、レイニーは森の導きなどということは父親に一言も話さなかった。ただ、これまでの生活のことなど、言葉少なに話しながら、淡々と足を進めた。馬を手に入れるような身分でもなかったが、たとえ馬や馬車を使う余裕があったとしても、この足で大地を踏みしめて進むことこそが求められているのだと、そういう確信がレイニーにはあった。
 村や町々を転々とし、冬の寒さが厳しい一時期だけを逗留して、二年と半の旅の果てに、彼らはそこに辿り着いた。

 暖かい土地だった。そこには、淡い緑色の海があり、大きな港町があった。漆喰壁の街並みが続き、活気に満ちた市場が集まり、人々が通りを所狭しと行き交っていた。そのどれもが、レイニーには見覚えがあるものだった。
 予感は彼女を裏切らなかった。町の中央には、大きな尖塔を持った建物があった。道行く人々が交わす異国の言葉は、レイニーには理解できないものだったし、何をすればいいのか具体的に聞かされていたわけでもなかったが、不思議と迷いはなかった。
 レイニーは男の案内を受けて、まずは服を買いあらためた。街で一晩の宿を取って身を清め、翌日の朝、日の出とともにその建物に入った。

 かつて森の中で想像したとおり、恐ろしい数の小さな煉瓦を重ね、組み上げ、接着して、その建物は築き上げられていた。内部には金銀を使い、石を刻み、あるいは絵を施して、実に多様で壮麗な装飾が施されていた。どれほどの信仰が、あるいは権力が、これを作り上げたのか。
 だが、レイニーがそんなことに思いを巡らせていられたのは、ほんの僅かの時間のことだった。広間の中央まで歩みを進めたとき、見えない何かが、レイニーの中から奔流のように流れ出した。彼女の体の中、血の中に、呼吸とともに取り込まれ、自然に溶け込んでいた何か。あの大地の神を祀る小さな村で暮らし、鎮守の森を駆け回るうちに身の内に蓄えられていた何がしかの力が、この大きな大きな神殿に吸い取られていくのが、彼女には分かった。
 それは上へ、上へと昇っていった。壮麗な広間を吹き抜け、尖塔の天辺まで上り詰めて、更にその先へ駆け上がっていったように思われた。
 広間に居た他の誰も、何かが起きたことに気づかないようだったのに、父親だけが、何かを感じたように、呆然とレイニーを見つめていた。
 レイニーは体の力を抜き、大きく息を吸った。そうすると、空になった器に新たな水が注がれるように、運んできたものとは異なる力が、体に満ちてゆくのが分かった。
 やがて金糸の刺繍の入った衣裳を身につけた、年経た男が姿を見せた。老人はにこやかに彼女の肩を叩き、何がしかの祝福を与えるような仕草をした。この老人はきっと、彼女の村でいう巫女と似たような役割を担っているのだろうと、レイニーはぼんやりと考えた。
 老人は更に、優しげな語調で何か長い言葉を告げたが、この国の言葉の分からない彼女には、意味のないことだった。父親が横で慌てたように何か答えていたが、レイニーはもう興味がなかった。自分の役目はもう終わったのだと、彼女には分かっていた。
 あの森の奥の泉に見た光景が、どういう力によってもたらされたものだったのか、結局のところ彼女には分からずじまいだった。未来を覗き見たということなのか、それとも、かつて繰り返されてきた過去の光景だったのか。何らかの意思が働いてレイニーに見せたものだったのか、彼女自身が望んで見たものだったのか。レイニーは急に疲労を覚え、よく回らない頭でしばしそんなことに思いをめぐらせていたが、やがて考えるのをやめた。
 今の彼女はただ、役目を果たし終えたことに安堵している。急激な眠気に襲われて、ふらつく体を父親に支えられ、眠りの海に意識を飲み込まれながら、故郷の森の奥の、清冽な泉を思い出している。新たに吹き込まれた息吹をあの泉に持ち帰る日を、そうと意識しないまま、茫漠と思っている。

-----------------------------------------

 某所の企画で、写真+タイトル指定で書いたものでした。

拍手

PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
E-Mail
URL
Comment
Password   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
TrackbackURL:
プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
拍手コメントをいただいた場合は、お名前をださずにブログ記事内で返信させていただいております。もしも返信がご迷惑になる場合は、お手数ですがコメント中に一言書き添えていただければ幸いです。
twitter
ブクログ
ラノベ以外の本棚

ラノベ棚
フォローお気軽にどうぞ。
最新CM
[01/18 スタッフ]
[05/26 中村 恵]
[05/04 中村 恵]
[02/04 隠れファン]
アーカイブ
ブログ内検索
メールフォーム
約1000文字まで送れます。 お気軽にかまってやってください。
カウンター
忍者ブログ [PR]