小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
寒い。
私はコートの襟を引っ張って、肩を震わせた。
暦はもう桃の節句、朝のニュースはひな祭りの特集だったというのに、今日はまるで冬に戻ったかのような気温。ここのところだんだん暖かくなってきていたのに、今夜は吐く息が白い。昼間はそれほどでもなかったのだけれど、日が暮れきった今は、堪らない冷えが足元を這い登ってくる。
三月だからと薄着しないで、冬物を着てくるんだった。最初から残業になる予感はしていたし、朝からどうしようかと迷ったのに、つい冬物はみっともないかと、人目を気にしてしまった。
周囲に視線をめぐらせて見ると、道行く人々も似たようなもので、たいていの人は春物のコートの前を掻き合わせ、足早に歩いていた。平然と背を伸ばしているのは、周到な冬物組と、アルコールに暖められた酔っ払いくらいのもの。
駅までは十五分以上歩く。こんなに寒いのなら、私もどこかで一杯引っ掛けてこればよかった。そう考えはするけれど、思ってみるだけだ。なかなか女一人で飲み屋に入る勇気は出てこない。
「宣伝部の苦労なんて、誰も分かっちゃいないんだあ!」
酔っ払いの一人が、いきなり大声を上げた。私を含め、道行く人々がいっせいに驚いて顔を上げる。どの顔も概ね迷惑そうだが、何人か、少しばかり共感するような苦笑顔が混じっていた。
騒いでいるのは、四十代半ばごろだろうか、くたびれた背広のサラリーマンだった。その部下だろう、若い男が「まあまあ課長」と袖を引っ張っている。
「いい商品を作ればそれだけでいいと思ってる製作部の連中も、コストパフォーマンスのことしか言わない上役も、俺たちの苦労なんて気づいてもいないんだ! 違うか? そうだろ、江藤!」
絡まれている若い方は、「はいはい、そうですよね」とすっかり宥めモードになっていて、どっちが上司なんだか分かりはしなかった。
なんだかなあと苦笑して遠巻きに見ていると、近くのビルの上の方、屋外宣伝テレビの大画面に、有名野球選手の髭面がぱっと映った。ユニフォーム姿で何か言葉少なにインタビューに答えているのに気付いて、部下の方が「あ、ほら、イチローですよ。さすが、一流選手は言うことが違うなあ」と、話を逸らそうとした。だが、残念ながら全く効果はなかったようで、中年の方はむしろ気炎を吐いて、
「何い? イチローだろうが二浪だろうが知ったことか!」
とか何とか言って、いきなり手に持っていた缶コーヒーか何かを大画面に向かって投げつけた。お父さん、酔っ払いすぎです。
缶はさすがにビルの壁面まで届くはずもなく、緩い放物線を描いて地面へ落ち、勢いよく跳ねた。
それがぶつかった不運な人物が「痛て!」と叫ぶのが耳に入った。私はおや、と声の主をまじまじと見つめた。声に聞き覚えがあったのだ。
「おっさん、何すんだよ!」
見覚えのある金髪、じゃらじゃらしたピアス、ひょろ長い背丈。目つきが悪く、眉根にはぎゅっと皺が寄っている。
いとこの亮次だった。
あっちも呑んでいるらしく、顔が赤らんでいる。そうしていると、ただでさえガラの悪い面相なのに、ますますおっかなく見えた。
亮次はつかつかと酔っ払いに歩み寄った。中年男性は、意外と気が小さいらしく、すでに青くなっている。酔いは一瞬で、すっかり醒めたようだ。
「危ねえだろ、おっさん。こんな人ごみん中で中身の入った缶ジュースなんか投げるたあ、あんまり非常識ってもんじゃねえか?」
亮次はもう酔っ払っていない酔っ払いの胸倉を掴まんばかりにして、じろりと睨みつけた。言っていることは普通なのに、どう見ても不良が善良な市民に絡んでいるようにしか見えない。周りの人々も皆、視線を逸らしてそそくさと立ち去る。差し出された生贄の羊の図。
「すいませんすいません、課長、今のは課長が悪いですよ」
部下が横で、必死で頭を下げる。中年男性も青い顔でこくこくと頷いた。その腰があまりにひけていて、ちょっと情けない気もするが、まあ、気持ちは分かる。亮次の見た目はかなり怖い。
だが、「キレやすそうな兄ちゃんに絡まれたから、とにかく謝っておけ」といわんばかりの二人が、亮次は気に入らなかったらしい。ますます眉を吊り上げて、中年男性の背広を掴んだ。
「んだよ、ちゃんと反省してんのかあ? 頭にでも当たったら、打ち所が悪けりゃ死ぬかもしれねんだぞ!」
声が大きかった。私はさすがに見かねて、大股に近づき、亮次のジャンパーの袖を引っ張った。
「あ? ……んだよ、ユーコかよ」
亮次は振り返って、バツが悪そうに唇を曲げた。そうすると途端に幼い顔になる。子どもの頃を思い出して苦笑しながら、私はその肩をぽんぽんと叩いた。
「謝ってるじゃない。もうよしなよ」
亮次はまだ何か言いたげな顔をしたが、結局「ふん」と鼻息を残して、背広から手を放した。サラリーマン二人が逃げるように、そそくさと去っていく。
亮次はそれをもうひと睨みして、踵を返し、駅の方に歩き出した。私もそれに続きながら、機嫌の悪い背中に話しかけた。
「あれじゃ、難癖つけてカツアゲしてるようにしか見えないよ」
亮次は歩きながら、ちらりと私の方を振り返った。ぶすっとむくれた横顔。
「違げーよ」
「分かってるよ」
私は笑って言った。長い付き合いだ。
昔から体裁をつくろうことが苦手で、口が回らなくて、つい手が先に出る子だった。遠巻きにされる問題児。そういう目で見られることで、本人も引っ込みがつかずに、そういう役割を自分から演じているようなところがあった。体ばかり育っても、変わっていない。
「あんたさ。もうちょっと話し方とか、覚えなよ。損してるよ」
亮次は今度は振り向かなかったが、白い息が流れたことで、何か言いかけて黙るのが分かった。
私は歩きながら、何も言わず、亮次の返事を待つ。こいつの話を聞くときは、急かしてはいけないのだ。
「得とか、損とかって問題かよ」
長い沈黙の後の言葉は、怒っているような口調だった。それが妙に子どもっぽくて、私はなんだか可笑しいような、苦しいような、不思議な気持ちになる。
大人になれないことは、いいことだろうか、悪いことだろうか。
「あんた、真面目すぎ」
「うるせー。お節介」
亮次はぼそっと言ったが、口ほど怒ってはいないようだった。歩く速さで分かる。
あとは二人とも無言のまま、五分ほど歩いて、ようやく駅についた。
亮次は切符を買いながらも、まだむすっとしたままだった。本当に、いつも怒ってばかりいるやつだ。
構内に入ってからも何となく一緒に歩いていたが、ホームが違うから、ここまででお別れだ。私は定期を取り出しながら、挨拶のつもりで軽く手を挙げた。
「じゃあね」
亮次は「ああ」と言って、背を向けた。
だが、その足が迷うように止まって、すぐに振り返った。
「お前、こんな時間に、一人で歩いてんなよ」
歩きながらずっと不機嫌に黙りこくっていると思ったら、どうもそれが言いたかったらしい。不器用なやつだ。思わず頬が緩む。私のにやけた顔を見て、亮次はますます機嫌を悪くしたようだった。
「心配してくれて、ありがと」
亮次は口の中で、もごもごと何か言った。それはどうやら、うるせえとか、いいから気をつけて帰れとかいう類のことのようだった。
今度こそ去っていく亮次の、どこか猫背の背中を、私は立ち止まったまま、ぼけっと見つめていた。角を曲がって、姿が見えなくなるまで。
---------------------------------
お題:「生贄」「イチロー」「ひな祭り」
制限時間:60分(20分ほどオーバー……)
某所の企画で書いたものでした。ちょっとだけ端々を手直し。
私はコートの襟を引っ張って、肩を震わせた。
暦はもう桃の節句、朝のニュースはひな祭りの特集だったというのに、今日はまるで冬に戻ったかのような気温。ここのところだんだん暖かくなってきていたのに、今夜は吐く息が白い。昼間はそれほどでもなかったのだけれど、日が暮れきった今は、堪らない冷えが足元を這い登ってくる。
三月だからと薄着しないで、冬物を着てくるんだった。最初から残業になる予感はしていたし、朝からどうしようかと迷ったのに、つい冬物はみっともないかと、人目を気にしてしまった。
周囲に視線をめぐらせて見ると、道行く人々も似たようなもので、たいていの人は春物のコートの前を掻き合わせ、足早に歩いていた。平然と背を伸ばしているのは、周到な冬物組と、アルコールに暖められた酔っ払いくらいのもの。
駅までは十五分以上歩く。こんなに寒いのなら、私もどこかで一杯引っ掛けてこればよかった。そう考えはするけれど、思ってみるだけだ。なかなか女一人で飲み屋に入る勇気は出てこない。
「宣伝部の苦労なんて、誰も分かっちゃいないんだあ!」
酔っ払いの一人が、いきなり大声を上げた。私を含め、道行く人々がいっせいに驚いて顔を上げる。どの顔も概ね迷惑そうだが、何人か、少しばかり共感するような苦笑顔が混じっていた。
騒いでいるのは、四十代半ばごろだろうか、くたびれた背広のサラリーマンだった。その部下だろう、若い男が「まあまあ課長」と袖を引っ張っている。
「いい商品を作ればそれだけでいいと思ってる製作部の連中も、コストパフォーマンスのことしか言わない上役も、俺たちの苦労なんて気づいてもいないんだ! 違うか? そうだろ、江藤!」
絡まれている若い方は、「はいはい、そうですよね」とすっかり宥めモードになっていて、どっちが上司なんだか分かりはしなかった。
なんだかなあと苦笑して遠巻きに見ていると、近くのビルの上の方、屋外宣伝テレビの大画面に、有名野球選手の髭面がぱっと映った。ユニフォーム姿で何か言葉少なにインタビューに答えているのに気付いて、部下の方が「あ、ほら、イチローですよ。さすが、一流選手は言うことが違うなあ」と、話を逸らそうとした。だが、残念ながら全く効果はなかったようで、中年の方はむしろ気炎を吐いて、
「何い? イチローだろうが二浪だろうが知ったことか!」
とか何とか言って、いきなり手に持っていた缶コーヒーか何かを大画面に向かって投げつけた。お父さん、酔っ払いすぎです。
缶はさすがにビルの壁面まで届くはずもなく、緩い放物線を描いて地面へ落ち、勢いよく跳ねた。
それがぶつかった不運な人物が「痛て!」と叫ぶのが耳に入った。私はおや、と声の主をまじまじと見つめた。声に聞き覚えがあったのだ。
「おっさん、何すんだよ!」
見覚えのある金髪、じゃらじゃらしたピアス、ひょろ長い背丈。目つきが悪く、眉根にはぎゅっと皺が寄っている。
いとこの亮次だった。
あっちも呑んでいるらしく、顔が赤らんでいる。そうしていると、ただでさえガラの悪い面相なのに、ますますおっかなく見えた。
亮次はつかつかと酔っ払いに歩み寄った。中年男性は、意外と気が小さいらしく、すでに青くなっている。酔いは一瞬で、すっかり醒めたようだ。
「危ねえだろ、おっさん。こんな人ごみん中で中身の入った缶ジュースなんか投げるたあ、あんまり非常識ってもんじゃねえか?」
亮次はもう酔っ払っていない酔っ払いの胸倉を掴まんばかりにして、じろりと睨みつけた。言っていることは普通なのに、どう見ても不良が善良な市民に絡んでいるようにしか見えない。周りの人々も皆、視線を逸らしてそそくさと立ち去る。差し出された生贄の羊の図。
「すいませんすいません、課長、今のは課長が悪いですよ」
部下が横で、必死で頭を下げる。中年男性も青い顔でこくこくと頷いた。その腰があまりにひけていて、ちょっと情けない気もするが、まあ、気持ちは分かる。亮次の見た目はかなり怖い。
だが、「キレやすそうな兄ちゃんに絡まれたから、とにかく謝っておけ」といわんばかりの二人が、亮次は気に入らなかったらしい。ますます眉を吊り上げて、中年男性の背広を掴んだ。
「んだよ、ちゃんと反省してんのかあ? 頭にでも当たったら、打ち所が悪けりゃ死ぬかもしれねんだぞ!」
声が大きかった。私はさすがに見かねて、大股に近づき、亮次のジャンパーの袖を引っ張った。
「あ? ……んだよ、ユーコかよ」
亮次は振り返って、バツが悪そうに唇を曲げた。そうすると途端に幼い顔になる。子どもの頃を思い出して苦笑しながら、私はその肩をぽんぽんと叩いた。
「謝ってるじゃない。もうよしなよ」
亮次はまだ何か言いたげな顔をしたが、結局「ふん」と鼻息を残して、背広から手を放した。サラリーマン二人が逃げるように、そそくさと去っていく。
亮次はそれをもうひと睨みして、踵を返し、駅の方に歩き出した。私もそれに続きながら、機嫌の悪い背中に話しかけた。
「あれじゃ、難癖つけてカツアゲしてるようにしか見えないよ」
亮次は歩きながら、ちらりと私の方を振り返った。ぶすっとむくれた横顔。
「違げーよ」
「分かってるよ」
私は笑って言った。長い付き合いだ。
昔から体裁をつくろうことが苦手で、口が回らなくて、つい手が先に出る子だった。遠巻きにされる問題児。そういう目で見られることで、本人も引っ込みがつかずに、そういう役割を自分から演じているようなところがあった。体ばかり育っても、変わっていない。
「あんたさ。もうちょっと話し方とか、覚えなよ。損してるよ」
亮次は今度は振り向かなかったが、白い息が流れたことで、何か言いかけて黙るのが分かった。
私は歩きながら、何も言わず、亮次の返事を待つ。こいつの話を聞くときは、急かしてはいけないのだ。
「得とか、損とかって問題かよ」
長い沈黙の後の言葉は、怒っているような口調だった。それが妙に子どもっぽくて、私はなんだか可笑しいような、苦しいような、不思議な気持ちになる。
大人になれないことは、いいことだろうか、悪いことだろうか。
「あんた、真面目すぎ」
「うるせー。お節介」
亮次はぼそっと言ったが、口ほど怒ってはいないようだった。歩く速さで分かる。
あとは二人とも無言のまま、五分ほど歩いて、ようやく駅についた。
亮次は切符を買いながらも、まだむすっとしたままだった。本当に、いつも怒ってばかりいるやつだ。
構内に入ってからも何となく一緒に歩いていたが、ホームが違うから、ここまででお別れだ。私は定期を取り出しながら、挨拶のつもりで軽く手を挙げた。
「じゃあね」
亮次は「ああ」と言って、背を向けた。
だが、その足が迷うように止まって、すぐに振り返った。
「お前、こんな時間に、一人で歩いてんなよ」
歩きながらずっと不機嫌に黙りこくっていると思ったら、どうもそれが言いたかったらしい。不器用なやつだ。思わず頬が緩む。私のにやけた顔を見て、亮次はますます機嫌を悪くしたようだった。
「心配してくれて、ありがと」
亮次は口の中で、もごもごと何か言った。それはどうやら、うるせえとか、いいから気をつけて帰れとかいう類のことのようだった。
今度こそ去っていく亮次の、どこか猫背の背中を、私は立ち止まったまま、ぼけっと見つめていた。角を曲がって、姿が見えなくなるまで。
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お題:「生贄」「イチロー」「ひな祭り」
制限時間:60分(20分ほどオーバー……)
某所の企画で書いたものでした。ちょっとだけ端々を手直し。
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朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
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