小説を書いたり本を読んだりしてすごす日々のだらだらログ。
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風がやけに強いと思ったら、すれ違った熟年の男女が、春一番のニュースを話題にのぼらせていた。
二人連れの姿は一瞬視界の端を掠めただけだったが、夫婦のように見えた。暖かくなるなと、旦那の方が感慨深げに呟いている。
考えごとに耽りながら歩いていたのだが、何となくはっとして振り返り、二人連れの背中を見た。風に舞い上がるコートの裾を押さえる老婦人の、どこか楽しげな横顔。自分のように、風が強くて鬱陶しいなどとは、少しも思っていないようで、そのことにどうしてかショックを受けた。
どこに出かけるのだろう、よそ行きらしい上等の靴、落ち着いた色のコート。ペアルックなどではないのだけれど、どこか調和した二人の服装。どこの風景にでも自然に溶け込むような、肩の力の抜けた立ち姿。
あんな風に年をとることが出来ればいいのにと、頭の片隅で一瞬そう考えて、ため息混じりに首を振る。年をとるにつれて少しずつ丸くなって、他愛のないやりとりを楽しんで、たまに夫婦でのんびり出かける。自分たちのそんな姿なんて、まるで想像がつかなかった。
いつも必死だった。力を振り絞るのが、生きることだと思ってきた。時に衝突しても、それは必要なことだと考えていた。意見が合わなければ、互いに納得のいくまで議論を重ねることが、心を近づけることだと。そして彼女も同じように考えていると、信じていた。
まだ知り合って間もない頃、顔と調子だけはいい後輩が言い寄ってきたとき、彼女は冷静に相手の言い分を論破し、「モットーのない男は嫌い」と一蹴した。別の日、呑みながら「ま、自分のない女は嫌いだね」と鼻で笑ったのは、俺だった。二人とも、人に好かれやすいタイプではないが、会ってすぐの頃から気が合った。どちらも無駄が嫌いで、やる気のない人間が嫌いで、いつも向上心を持ちたいと考えていた。過不足無く互いを高めあうことのできる相手だと思った。
一緒にいる時間、どこか緊張感はあったけれど、居心地はよかった。同じ研究をしていたというのもよかったのだろう。驚くほど映画や音楽の趣味も合った。
食事をしながら、二人で過ごす部屋で、睦みあったあとのベッドの中で、いつだって同じ話題で盛り上がることができた。ずっとそうだと思っていた。ずっとずっと、いつまでもそういう関係でいられると。レストランに呼び出してプロポーズをした瞬間も、式場で誓いを述べた瞬間も、不安なんて少しもなかった。
どこで間違ったのか。彼女が変わったのは、いつからだったのだろう。いや、気付いていないだけで、俺も変わってしまったのだろうか。
「息が詰まるのよ」
彼女の、ただただやるせないような、吐息交じりの呟き。憎々しげに言われたのだったら、まだ分かりやすかったかもしれない。だが、本当はこんなこと言いたくないのにと、彼女の瞳はそう言っていた。
「なんだか、疲れちゃった」
信じていたものが、一度に突き崩されたようだった。通じていると思っていた気持ちが、まるですれ違っていた。それを突如として知らされたあの瞬間の気持ちを、どう表現したらいいのだろう。
彼女が何を考えているのか、まるで分からなかった。結局のところ、女はそういうものだということか。あるいは、年をとったせいだろうか。それともまさか、他に好きな男が出来たのか。そんな下世話なことしか思いつかない自分が、例えようもなくショックだった。
「少し、距離を置きましょう。一度冷静になって、よく考えてみたい」
それは、遠まわしな別れの文句にしか聞こえなかった。その続きに数年間の別居生活があって、郵送される離婚届の用紙が透けて見えるような。だが、彼女の目はごまかしの混じらない本気の色で、言葉通りのことを信じているように見えた。少し距離を置いて頭を冷やせば、二人とも大事なことを悟って、また明るい道が開けるのではないかと、そう思わせる何かがあった。
いや、人間は見たいものを見たいように見るということか。俺の勝手な願望、そうかもしれない。彼女は実はとっくに俺に愛想が尽きて、今ごろ誰か若い男と逢引でもしているのかもしれない。
子どもでもいれば、まだよかったのだろうか。だが、彼女の方が最初に、子どもを作る気はないと言ったのだ。彼女にも俺にも、孫の顔を見たいと期待をかける両親はすでに居なかったし、俺自身は、子どもは好きでも嫌いでもなかった。どちらかというと、彼女の能力を育児に浪費させるのは勿体無いくらいに思っていた。
気付けば、老夫婦の姿は無かった。立ち止まってもの思いに沈んでしまっていたことに気付き、ため息を零して足を動かす。さっさと駅に着いて、風の吹かないところで、暖かいコーヒーでも買いたかった。
いま彼女が住んでいるはずの賃貸マンションまでは、ほんの二駅だ。
何が間違っていたのか、何を謝ればいいのか。分かるまでじっくり考えて、それから彼女に会おうと、最初のうちはそう思っていた。だが、何度考えても、何を考えても、分からない。一月が経っても答えが出なかった。
分からないことこそが、問題なのかもしれなかった。だが、このまま時を置けば置くほど、取り返しのつかない溝が広がるだけのように思え始めてきたら、それ以上堪え切れなかった。とにかく謝って、どこを改めたらいいのか、どうすればうまくやっていけるのか、もう一度よく彼女の話を聞こう。そう思ったときには、家を飛び出していた。
行く前に電話を掛けようとして、結局やめたのは、なぜだっただろう。自分でもよく分かっていなかった。単に臆病風に吹かれただけか。あるいは、確かめたかったのかもしれない。彼女が本当にその部屋で、ひとりで過ごしているのか。
訪ねて行って、もしも彼女が居なかったら、俺はどうするつもりなのだろう。いや、留守ならいい。たまたま買い物か何か、ちょっとした用事で出ているだけだと自分をごまかすことができる。
だが、もし、そこに知らない男が居たら、俺はどうするつもりだというのだろうか。
いつの間にか、駅が目の前だった。
ようやく風の吹かない場所に入れると思うと、少しだけほっとした。考えすぎるせいか、あるいは強い風に吹き付けられ続けたせいか、頭がぼうっとしているようだ。
細かいことは後でいい、彼女に会わないことには、何も始まらない。今の場所から一歩も動けない。
財布を出すためにポケットを探ると、なぜか、そこには財布と一緒に、果物ナイフが入っていた。なぜそんなものを持って来たのか、どうしても思い出せずに、俺はどこかぼんやりとしたまま首を傾げた。
----------------------------------------
お題:「モットー」「春一番」「旦那」
縛り:10字以上8000字以内
制限時間:約一日
某所の企画にて。
二人連れの姿は一瞬視界の端を掠めただけだったが、夫婦のように見えた。暖かくなるなと、旦那の方が感慨深げに呟いている。
考えごとに耽りながら歩いていたのだが、何となくはっとして振り返り、二人連れの背中を見た。風に舞い上がるコートの裾を押さえる老婦人の、どこか楽しげな横顔。自分のように、風が強くて鬱陶しいなどとは、少しも思っていないようで、そのことにどうしてかショックを受けた。
どこに出かけるのだろう、よそ行きらしい上等の靴、落ち着いた色のコート。ペアルックなどではないのだけれど、どこか調和した二人の服装。どこの風景にでも自然に溶け込むような、肩の力の抜けた立ち姿。
あんな風に年をとることが出来ればいいのにと、頭の片隅で一瞬そう考えて、ため息混じりに首を振る。年をとるにつれて少しずつ丸くなって、他愛のないやりとりを楽しんで、たまに夫婦でのんびり出かける。自分たちのそんな姿なんて、まるで想像がつかなかった。
いつも必死だった。力を振り絞るのが、生きることだと思ってきた。時に衝突しても、それは必要なことだと考えていた。意見が合わなければ、互いに納得のいくまで議論を重ねることが、心を近づけることだと。そして彼女も同じように考えていると、信じていた。
まだ知り合って間もない頃、顔と調子だけはいい後輩が言い寄ってきたとき、彼女は冷静に相手の言い分を論破し、「モットーのない男は嫌い」と一蹴した。別の日、呑みながら「ま、自分のない女は嫌いだね」と鼻で笑ったのは、俺だった。二人とも、人に好かれやすいタイプではないが、会ってすぐの頃から気が合った。どちらも無駄が嫌いで、やる気のない人間が嫌いで、いつも向上心を持ちたいと考えていた。過不足無く互いを高めあうことのできる相手だと思った。
一緒にいる時間、どこか緊張感はあったけれど、居心地はよかった。同じ研究をしていたというのもよかったのだろう。驚くほど映画や音楽の趣味も合った。
食事をしながら、二人で過ごす部屋で、睦みあったあとのベッドの中で、いつだって同じ話題で盛り上がることができた。ずっとそうだと思っていた。ずっとずっと、いつまでもそういう関係でいられると。レストランに呼び出してプロポーズをした瞬間も、式場で誓いを述べた瞬間も、不安なんて少しもなかった。
どこで間違ったのか。彼女が変わったのは、いつからだったのだろう。いや、気付いていないだけで、俺も変わってしまったのだろうか。
「息が詰まるのよ」
彼女の、ただただやるせないような、吐息交じりの呟き。憎々しげに言われたのだったら、まだ分かりやすかったかもしれない。だが、本当はこんなこと言いたくないのにと、彼女の瞳はそう言っていた。
「なんだか、疲れちゃった」
信じていたものが、一度に突き崩されたようだった。通じていると思っていた気持ちが、まるですれ違っていた。それを突如として知らされたあの瞬間の気持ちを、どう表現したらいいのだろう。
彼女が何を考えているのか、まるで分からなかった。結局のところ、女はそういうものだということか。あるいは、年をとったせいだろうか。それともまさか、他に好きな男が出来たのか。そんな下世話なことしか思いつかない自分が、例えようもなくショックだった。
「少し、距離を置きましょう。一度冷静になって、よく考えてみたい」
それは、遠まわしな別れの文句にしか聞こえなかった。その続きに数年間の別居生活があって、郵送される離婚届の用紙が透けて見えるような。だが、彼女の目はごまかしの混じらない本気の色で、言葉通りのことを信じているように見えた。少し距離を置いて頭を冷やせば、二人とも大事なことを悟って、また明るい道が開けるのではないかと、そう思わせる何かがあった。
いや、人間は見たいものを見たいように見るということか。俺の勝手な願望、そうかもしれない。彼女は実はとっくに俺に愛想が尽きて、今ごろ誰か若い男と逢引でもしているのかもしれない。
子どもでもいれば、まだよかったのだろうか。だが、彼女の方が最初に、子どもを作る気はないと言ったのだ。彼女にも俺にも、孫の顔を見たいと期待をかける両親はすでに居なかったし、俺自身は、子どもは好きでも嫌いでもなかった。どちらかというと、彼女の能力を育児に浪費させるのは勿体無いくらいに思っていた。
気付けば、老夫婦の姿は無かった。立ち止まってもの思いに沈んでしまっていたことに気付き、ため息を零して足を動かす。さっさと駅に着いて、風の吹かないところで、暖かいコーヒーでも買いたかった。
いま彼女が住んでいるはずの賃貸マンションまでは、ほんの二駅だ。
何が間違っていたのか、何を謝ればいいのか。分かるまでじっくり考えて、それから彼女に会おうと、最初のうちはそう思っていた。だが、何度考えても、何を考えても、分からない。一月が経っても答えが出なかった。
分からないことこそが、問題なのかもしれなかった。だが、このまま時を置けば置くほど、取り返しのつかない溝が広がるだけのように思え始めてきたら、それ以上堪え切れなかった。とにかく謝って、どこを改めたらいいのか、どうすればうまくやっていけるのか、もう一度よく彼女の話を聞こう。そう思ったときには、家を飛び出していた。
行く前に電話を掛けようとして、結局やめたのは、なぜだっただろう。自分でもよく分かっていなかった。単に臆病風に吹かれただけか。あるいは、確かめたかったのかもしれない。彼女が本当にその部屋で、ひとりで過ごしているのか。
訪ねて行って、もしも彼女が居なかったら、俺はどうするつもりなのだろう。いや、留守ならいい。たまたま買い物か何か、ちょっとした用事で出ているだけだと自分をごまかすことができる。
だが、もし、そこに知らない男が居たら、俺はどうするつもりだというのだろうか。
いつの間にか、駅が目の前だった。
ようやく風の吹かない場所に入れると思うと、少しだけほっとした。考えすぎるせいか、あるいは強い風に吹き付けられ続けたせいか、頭がぼうっとしているようだ。
細かいことは後でいい、彼女に会わないことには、何も始まらない。今の場所から一歩も動けない。
財布を出すためにポケットを探ると、なぜか、そこには財布と一緒に、果物ナイフが入っていた。なぜそんなものを持って来たのか、どうしても思い出せずに、俺はどこかぼんやりとしたまま首を傾げた。
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お題:「モットー」「春一番」「旦那」
縛り:10字以上8000字以内
制限時間:約一日
某所の企画にて。
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プロフィール
HN:
朝陽 遥(アサヒ ハルカ)
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
朝陽遥(アサヒ ハルカ)またはHAL.Aの名義であちこち出没します。お気軽にかまってやっていただけるとうれしいです。詳しくはこちらから
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