今日、乙嫁語りの4巻を読んでいたら(面白かった!)、ああー、元気な女の子もいいよなあ、とか思いました。元気で、はしっこくて、いたずらで、浅はかで、欲張りで、率直で、楽しいことを追いかけるのにすぐ夢中になっちゃう、天真爛漫な女の子。そういうキャラって、書いたことないや。書けたら楽しいだろうなあと思うし、でも書けるかなあ、とも思います。
自信はないけど、いつかは書いてみたいな。
芸風って、少なかったら駄目ということもないけれど、多ければそのほうがいいですよね。ひとつの芸風を極める(少なくとも、極めることを目指す)というのも、大事なことではあるんでしょうけれど、しかしあまりにもいつも似たようなものばっかり書いてても、飽きがきちゃいますし。(性格の問題か?)
芸風の多彩さって、書けるキャラクターの幅に大きく依存するなあなんて思いました。自分の書く登場人物って、すごく偏ってるというか、狭いなというのが、昔から自覚のある部分で(教えてくれた友達に感謝)、これは長期的に改善したいなと思い続けている課題のひとつ。
豊かな小説を書くために必要なことのひとつとして、ちょっと前に読んだル=グウィン女史の評論の中で、自分の心の中をしっかりと見つめること、というのが挙げられていました。(いま原文を読み返さずに記憶でこれを書いているので、大意ですが/汗)
それって多分、本当に大事なことなんだと思います。面白い小説って、ストーリーテリングだとか構成だとか斬新さだとか、そういう文章技芸や発想の問題よりも、むしろ人間の心の綾を、どれだけ描き出せているか、ということではないかと。(と、これは偏った意見かもしれませんが。読み手の方次第で、いろんな好みがありますから……)
どんなに筋書きが凝った話も、登場人物が舞台回しの人形では、魅力は半減してしまう。作風によって、登場人物がリアルな人間くささを備えているのか、カリカチュアライズされているのか、そういう違いはあるけれど、そのどちらも結局は、人の心を描くための手法ですよね。
だけど、自分の心の中をのぞいているだけでは、書けるのは結局、自分のことだけなわけで。もちろんどんな登場人物にだって、多かれ少なかれ、自己像の投影はあるかもしれないけれど……
人のことをよく見ていて、人の話をよく聴く人。自分の持論があってもそれだけに固執せず、他人のいろんな考え方、自分とは違う意見やものの見方を、極力否定したり枉げたりせずに、まずは聴いて、よく咀嚼して、多くの立場/多くのものの見方を、自分の中に矛盾とともに内包できる人。いろんな人を、いろんなものを好きになれる人。そういう人こそが、多彩で豊かな、面白い小説を書く人なんじゃないかなあ。
……なんて漠然と思っていて、そういう場所に近づきたいなあと思いながらも、ぼうっと生きていると、いつのまにか自分の狭い価値観に凝り固まりがちです。
自然にそういうことをやれる性格に生まれつけばよかったけども、あいにくそうじゃなかったんだし。無意識にやれないことは、意識してやっていかないかぎり、絶対に身に付かないことですしね。
あらためて、自戒を込めて。
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