先週、「火の国より来たる者」に拍手をいただいていました。ありがとうございました!
きのうの土曜は休日出勤しておりまして、夜まで粘ったところで、終わりの見えない仕事が嫌になり、諦めて帰宅しました。本日、日曜日にいたっては、朝昼ご飯食べて昼寝していただけで一日が終わりました。なんてことだ!
驚くほど何もできてません。悔しいです。ほんとに早く終われ、繁忙期。
しかし細々と通勤読書は続けており、先週はアガサ・クリスティの「春にして君を離れ」を読んでいました。初のクリスティです。
タイトルから漠然と、ロマンチックな恋愛系文学を想像していたのですが、まったく違いました。重くて、苦しくて、皮肉な話でした。
独善ということについての話でした。人が、自分のありのままの姿を直視し、それを受け入れるということが、いかに困難であるかという話です。
主人公の女性は、悪い人ではありません。彼女はあくまで勤勉かつ善良たろうとしており、己の価値観に基づいて、家族のためにふるまおうとしています。しかし、それと同時に独善的で、自分の価値観でのみ物事を判断しようとする癖があります。自分の価値観の外のものを理解しようとはせず、目に入るもの、耳に届くものの全てを、自分のつごうのいいように解釈してしまう。そういう自分の影を、見ないように、見ないようにして、彼女は生きてきました。
これはわたしにとっては生々しく、とてもおそろしい話でした。
人間の目はしばしば、己にとって都合のいいものだけを見、その耳は、都合のいい言葉だけを拾って聞こうとするものです。わたしはまだ二十代の若輩者ではありますが、それでも、これまで人々のそのような側面を、多く見てきたと思います。その代表は、わが母です。
母はとても楽天的な人であり、天真爛漫ともとれる性格をしています。それは家族にとって、いい方向に働く場合も多々あるのですが、わたしにはときどき、母のいう言葉が恐ろしくてなりません。彼女は家族のどんな言葉も、他人の語る話も、テレビのニュースも、なにもかもすべて、自分の価値観と理解に合うようにしか受け取らず、どこまでも、自分にとって都合のいいように拾ってゆきます。
理解できない物事に出会うと、彼女はすぐにその対象を、理解の外のもの、間違っているもの、あってはならないものとして、切り捨てます。この人は頭がおかしい、人間というものがおかしくなってきている、どうして世間の人というものは○○ばかりなのだろう、母がそんなふうに他者を拒絶し、自分の考えで決めつけて一方的に哀れみ、貶し、偏見の目で見つめるたびに、わたしはぞっとします。
否定にしてもそうですが、肯定的な感情についても、母にはそういう癖があります。母はわたしの顔を見ようとせず、自分の求める娘の像を、わたしの上に重ねて、それだけを見ている。そんなふうに感じる瞬間がある。それを不幸だというつもりはありません。自分をちゃんと見て、理解してほしい、と思うことだって、わたしが理想の親の像を母に押し付けることに、ほかならないのだから。
ときに母の謂いに反発し、声を枯らして違うものの見方を伝えようとしても、母はそのほとんどを、「わたしには理解できない」の一言で切って捨てます。頑ななほど、それ以上のことを考えようとはしません。
自分の世界だけで生きようとしている母との口論に疲れ、ふと振り返ると、母を諭せるような何ものも、わたしは持ってはいないのだと、そういう気にもなります。そもそも彼女の考え方を変えさせようと思う、そのわたしの意思そのものが、独善ではないのか。わたしのものの見方を、母に押し付けようとしているだけではないのか……。
それに、母の言動に、しばしばわたしがぞっとするのは、おそらく、わたしが自分自身の姿を、そこに見出しているからです。自分の心の中にもある、独善の影を。
母には母の筋があり、論理があり、それを、あなたは間違っていると決めつけるほど、わたしはいつから偉くなった?
家族とはいえ、他者が人ひとりの考え方を変えさせようとするのは、そもそもが無理なことであり、本人が自分の意思で変わろうと思わない限り、人は変わりません。諦めて、我慢できないことは聞き流し、母のいいところをもっと認めて……。そんなふうに暮らすべきだということも、口論のたびに考えます。他人なら、ちょっと考え方の偏った人だというだけで、たまに嫌な思いをすることもあるかもしれませんが、それなりに流して我慢できるようなことです。家族だから、そうした考え方の齟齬が苛立たしく感じるというだけで。
それに、独善ということが、必ずしも悪なのかというと、難しい部分があるなとも思います。誰にでもそういう側面が、大なり小なりあるものだし、そもそも、人が自分の都合のいいように物事を見て解釈するのは、己の心の健康をたもつためにしていることでもあります。
目に入ってくる物事のすべてを、何もかもすべて疑ってかかり、ひとつずつ真実を見極めようとすること、起こった悪い出来事の全てを、真摯に自省的に受け止めようとすることは、とてもパワーのいることです。
そういうことを、出来たらいいのにと思いはしますが、しかし人生のすべての場面でそこまで真面目に自省していては、自己嫌悪の海に溺れてしまう。懐疑的、悲観的ということもまた、別の弊害のあるものです。
人がときに物事を自分の都合のいいように考えるのは、生きるための知恵であり、やむなき防衛反応でもある。
それをやめさせようとすることが、間違いなのかもしれない。
もう少し、ほんの少しでいいから、ほかの人の心を思うこと、自分とは違うものの考え方を受け入れることを、してみてほしいと思う、自分の独善を理解して、たまに振りかえって人の言い分について考えてみてほしいと思う。そう思う一方で、母の考え方を理解して受け止めることが難しいと感じている自分は、そもそもが矛盾している。
わたしはこの小説に、そういう、自分の周りにある独善の影を投影して、そのぶんだけ読んでいて苦しかったし、ラストが皮肉に思え、悲しくもありました。
あるいは、「春にして君を離れ」のテーマは、西洋的な時間の観念についての、皮肉でもあったかもしれません。時間を節約し、効率的に使い、努力してよりよき暮らしを目指さなくてはならない。人類は建設し、発展せねばならないというようなことへの。
そうした暮らしによって、ひとびとが忙しくなり、時間に追われて、精神が疲弊している。あくせくと気ぜわしく暮らす中で、足を止めてゆっくりとものを考える時間を失い、己の心を見つめることが下手になっている……。
読み終えて爽快な話ではなかったけれど、たしかに名著と思える一冊でした。
まだしばらく仕事が多忙な時期が続きますので、更新がとぎれとぎれになりそうですが、なんとかかんとか働いています。これを乗り切ったら、夏の閑散期にはびっくりするくらい早く帰ってやるんだ、私。
あと、「これを乗り越え切れたら、自分へのご褒美にちょっといい万年筆とか買っちゃってもいいんじゃない……?」とかいう悪魔のささやきが胸の隅っこに居座っています。ゆ、誘惑に負けそう。
拍手コメントをいただいた場合は、お名前をださずにブログ記事内で返信させていただいております。もしも返信がご迷惑になる場合は、お手数ですがコメント中に一言書き添えていただければ幸いです。
ラノベ棚