不肖わたくし、まだまだ部下を持つような立場ではありませんが、ちかごろ後輩が徐々に増えてきて、気を遣う場面が出てきました。と同時に、これまで自分がいかに先輩方に気遣われてきたのかということにもようやく思いが至り、ひそかに赤面することの多い日々です。
上司に噛みつくのは、褒められたことではないにせよ、まだしも許される範囲のことですが、部下や後輩につらくあたっていじめるのは、非常にみっともなく、どうにも救いようのないことです。重々わかっているけれど、人間ですので、性格の合う合わないはあります。まあつまり、この子ちょっと苦手かもという後輩がちらちらいます。具体的には、もし同級生で同じクラスだったら近寄らなかったタイプだなという子。(逆にいえばほかの後輩は、先輩を立てていろいろ気を遣ってくれてんだろうなあ。そこに甘えてたらいかんよなあ。)
難しい後輩とどうつきあってゆくかということは、みな頭を悩ませるところなのだろうなあと、あらためて思います。……頼りがいのあって後輩から無条件に愛される先輩だったら、そもそもそんな気を遣うことも多くないかもしらんけど。
振り返ればわたし自身はちょっと、いや、かなり難しい子でした。……と過去形で語りたいところではありますが、いまもいくらかましになったとはいえ、やっぱり扱いづらい部類だろうなと、客観的に思います。
しばしば反省はしているのですが、やはり余裕がなくなるとすぐに忘れて、前にやったのと同じような失敗を色々やらかします。恥と後悔のやたらに多い人生です。
ときおり手を止めて過去を振り返ろうとすれば、目を細めて懐かしむような良い思い出というのは少なく(仕事面では特に)、むしろ忘れてしまいたいような恥ずかしくていたたまれないようなことは、次から次にいやんなっちゃうくらい浮かび上がってきます。自分の駄目なところを素直に受け入れるというのは、難しいことだなと思います。
十代の若者ならまだしも、三十になったいまなお、自分の理想とする自分と現実の自分とのギャップを正視するのが辛いというのは、いかがなものか。いつになったらわたしはモラトリアムを卒業できるのでしょうか。ここまできたら性格の問題なのか。一生こんな感じなのか。
自分の記憶を自分に都合よく改ざんし、都合の悪いことは忘れ、うまくやれたことや、楽しくつきあえている人のことだけを覚えていられれば、自分の精神の健康のためにはそのほうが楽です。
いつもいつも失敗したこと、ひとに迷惑をかけたこと、ひとに嫌われた記憶、自分で自分が嫌いになるような記憶ばかりを反芻するというのは、不健全なことに違いなく、そうやって自己嫌悪に溺れて辛い辛いと思っていれば、しぜん余裕をなくして周りを気遣うどころではなくなります。自分のことだけで手一杯というのは、若ければそういうものだと許してもらえますが、年齢が上がってくれば当然、それだけでは許されなくなってゆく。
だけど、じゃあ精神の安定を図るべく、自分が悪いと思いたくないばかりに、自分の失敗を正当化し、常に周りの誰かのせいにしてしまうのも、それはそれでいかがなものか。そのときの自分の気だけは楽ですが、そんなことばかり続けていればどこかでツケがやってきますね。運命論の話ではなく、あくまで自分の精神衛生上の話です。
人間は、そうそう自分にいつまでも嘘をつき続けられるようには出来ていません。いくら自分で自分を上手にだましたつもりになっていても、思わぬところで揺り返しがくる。忘れたふりをした自分の感情から、忘れたころに逆襲を受けます。その場ですぐに反省して決着をつけた恥と違い、長年目をそらし続けていた恥は、その分重く、強烈に襲いかかってくる。
何か失敗するたびにほどほどに反省し、後悔もし、けれどひとしきり落ち込んだあとは気持ちを切り替えて、次はなるべく同じ失敗をしないように努力しようと思えれば、それが一番いいんだろうというのはわかっているんです。それがなかなかやれないのは、中途半端なプライドが邪魔しているんだなあ。
自覚はあるんです。可能な限りいつでも、自分は悪くないと思いたいっていう。そういう自分の性格の悪さを知っていて、反省もするのに、またいっときするところりと忘れて諸々やらかして、だけど自分のせいではないと思いたがっている。相手が悪いとか、相手との相性が悪いとか、そういう言葉に逃げる。
まったく逃げ道を作らないというのも危なっかしいけれど、自分の弱さを許すことと、自分の愚かさやいたらなさを認めないことは違いますね。少なくとも、自分で自分の行動を正当化しているという自覚は、いつでも心の隅にあったほうがいい。その分だけ、ひとにも寛容になれるように。
自分の取り扱いを学ぶ、ということなんでしょう。口で言えば一言なのに、いざやろうとすると、難しいものだなと思います。
自分の失敗を失敗として受け止め、迷惑をかけた相手に謝って、失敗に学びながらがんばる人間に対して、多くの人は優しいです。
一度失敗したから即座に切り捨てる、烙印を押すという人は、あんがい少ない。相手の顔が見えない場合、ニュースの向こう側、テレビや新聞記事の向こう側についてはまた別の話で、そういう顔の見えない他人に対して、人間は厳しいです。あるいは「お店」とか「企業」とか「国」とか、そういう集団に対しても、厳しいかもしれない。
しかし顔の見える個人については、とりわけ後輩の失敗には、人はわりかし優しいものです。わけてもそれが、ちゃんと自分で反省ということをできる、かわいげのある後輩ならば。
まともな大人なら、みな自分もまた失敗をしながら育ってきたことを知っているし、覚えてもいるので。……まあたまにいますけどね。自分の失敗はつごうよく忘れて、「自分の若いころはもっと色々ちゃんとやれてた」としか言わない人。
もちろん、そう感じるのは当然のことなんですが。人の失敗はよく見えるし、自分の記憶から都合の悪いところはほどよく消しちゃうのは、人間の性といよりも、自然な機能です。他人に厳しくて自分に甘いのも。そうじゃないと、生きるのが大変だから。
でも、そういう人間の性質を知っていて、その分を割り引いてものを見るという努力をしないで、頭っから本気で「自分はちゃんとやれていた、この子が駄目なんだ」と決めつけるのは、恥ずかしいことですね。大人としては。
大人か。三十歳って、もっと大人のはずだと思っていたよなあ……。
なんかそういう、先輩後輩とか、上司部下とか、嫌うから嫌われるのか嫌われるから嫌うのかの問題とか、大人ってなんだろうなあとか、諸々日々ぼんやり考えていたのですが、このごろなんとなく、考えたことを文章に落とし込むという習慣から遠ざかっていて、ブログを放置気味にしています。こんなくどくどした愚痴まじりの長文を、いったい誰が読みたいのだという気もするし……(すみません)。
しかし自分のためには書いといた方がいいなと反省したので(このごろ何でもすぐ忘れるし)、思考の痕を残しておきます。
十年後くらいに(うっかり死んでなかったら)思い出して、こっそり自分で読み返して赤面するがいいさ!
な、何もできてない。
小説、ろくに書けてません。厳密にいうとまったく何も書いていないわけではないのだけれど、いま手をつけているのは、公開するかどうか微妙だからなあ。
現代もので、血のつながらない父娘のファザコンな話なんですけども、特に構成とかエンターテイメント性とかわかりやすさとか、まあ要するに読み手の視線とかをまったく考えないで、なんとなく書いています。なんで書いてるのか自分でもよくわからないんですが、書いていると癒やされるので、本当に自分のための文章なんだろうなあ。
それはそれで別にかまわないんだけど、人様に読んでもらうつもりのないものばかりをいつまでも書いていると、そういう姿勢がクセになりそうな気もします。どうなんだろうなあ……何も書かないままよりはましかもしれないけども。でも公開しない小説なんて、自分以外の人にとっては存在しないも同然なのよ朝陽さん。
書き終わって、あとから手を入れて何とか体裁が整いそうだったら、なんとか改稿して公開しようか。
でもそんなこと考えると、またぞろ変に欲が出るからなあ。
欲、出てもいいんですけど。でも、それで面白くしたいとか考え出すと、また筆が止まりそうでおっかないです。このごろ仕事のほうで気疲れすることが多いのもあって、もともと怠け者なのが、ますます意欲に欠けています。困難を乗り越えて何かを頑張ろうとかいう気持ちにならない……
仕事のほうがもうちょっと落ち着くまでは、とりあえず無理なくぼちぼちやろうと思っているのですが、なにせぐうたらなので、のんびりしようと思ったら、いつまでものんびりしていられます。焦るのもよくないけど、危機感が全くないのもいかがなものか。
とりあえず、面白くしようとかそういうのは、先にまず書く習慣をしっかり取り戻してから考えたいなと思うんですけど。単なる逃げかなあ。
そもそもプライベートの時間に仕事の勉強とか職場の人間関係の悩みとか、いっさい持ち込まなきゃいいんですけども。帰りのバスの中でスイッチオフにしてさ。このごろいまいちけじめがついていなくて、いかんなあと思います。
いまの仕事をするにあたってこれくらいは熟知しているべきだ、という知識の水準に、どうもなかなか追いつかなくて、日々腰が据わらないです。だからといって家でオフの時間ずっと仕事の勉強するほどの根性もないしさ(このごろサボりがちです)。
もっときっちりオンオフ切り替えなきゃなあ。
「天眼の鬼」に拍手を頂戴しておりました。ありがとうございます!
そういえば、この系統でもうひとつ幽霊話を書きたいなあと思ったっきり、すっかり放置しています。手だけの幽霊の話。
なんかぼやっとしたイメージだけがあって、ぜんぜん話がまとまっていないので、いつ書けるのかわからないんですけども、なんか色っぽい話を書きたいなーと思って。
怖いの苦手なんですけど、怖くない幽霊話は好きです。子供のころにものすごい恐がりで、怪談がとても苦手だったので、たぶん怖くない幽霊のイメージを自分で自分の頭にすり込んで、恐怖を克服しようとしているんだと思います。
幽霊に限らず、この世ならぬ者と上手に折り合うような話、あるいは悪さをしない幽霊の出てくる話が好きです。荻原浩さんの「押し入れのちよ」みたいなの。漫画だと「百鬼夜行抄」とか(これはちょっと怖い回もあるか)、「雨柳堂夢噺」とか。
先日読んだSFアンソロジー「NOVA4」の中に、幽霊の登場する作品があったのですが、これが幽霊とベタな漫才のようなやりとりをしていて(タイトルがまず「ドリフター」)、笑ってしまいました。こういう軽妙なのもいいよねー、とか思います。コメディなんだけどちょっといい話、っていうの好きです。自分じゃなかなかコメディ書けないんだけどさ……。求ム)笑いのセンス。
そういや昨日の話題の続きじゃないけど、落語にもそういう話ありそうだなあ。
いろいろ読みたいし、いろいろ書きたいんだけどなあ。なんかあっという間に時間が過ぎていきます。おかしいよね……実家にパラサイトしてて家事もほとんどノータッチだし、いま残業もそんなに多くないし、時間はあるはずなんです。あるはずなんだけどな……どこに消えて行っちゃうんでしょうね?(ぼーっとしてるんだと思います)
落語といえば、やろうと思えば通勤中にスマートフォンで聞けそうな気もします。横からのぞき込まれたら気まずいでしょうか。しかしそういえば、このあいだ公共交通機関の中で般若心経を書き写している若い女の子を見かけました。渋さでいうならあっちのほうが渋い。盗み見るつもりじゃなかったんだけど一瞬ガン見してしまった……
そもそも、わたしのスマホってイヤホン刺せたっけ? 何か取り付けないといけないんだっけ? 買うとき何も気にしていませんでした。一番割引がきいて安いのを買ったのです。ツールを活用するということがまったく出来ていません。現代人なのに!
マンガ「昭和元禄 落語心中」が面白いっていうので友達に勧めてもらってこのごろ読んでるんですが(早く続き出ないかなー)、書店でふと落語家の方のエッセイを見かけて買ってみました(柳家喬太郎「落語こてんパン」。もとはウェブマガジンで連載されていたようです)。
これはこれで面白かったのだけれど、解説ではないのですべての話のオチまできっちり書かれているわけではないし、そもそも落語は耳で聞く芸というので、本であらすじを見てなんとなく知った気になっているっていうのもどうかなあ。というので、思い立って探してみたら、ありました。
いくつか聞いてみたけれど、「動画」と銘打ってはあるものの、動画のものと音声のみのものと、混在しているようです。とはいえ本来なら寄席に行ってお金払って聞かせてもらうはずの芸を、ウェブで無料で聴けるなんて、思えば贅沢な時代ですよね。しかしみんながみんなウェブ動画で見てタダで楽しんでも商売にはならないですし、動画はあくまで入門編として、ハマったら実際に出掛けて生で聴くのがいいんでしょう。本来なら。
お金を払うという意味でもそうだけど、しぐさや表情も込みでの芸ですから、生のほうが楽しいですよね。
こういうとき、地方民にはなかなかチャンスがないなあと思います。大阪や東京にひょいと行けるあたりに住んでないと、敷居が高いですね。よっぽどのめりこめば遠征するかもしれないけど、そこまではなかなか……
本にはラジオ番組の話題も載っていたんですけど、そういえばラジオもあんまり聴かなくなってしまったなあ。語りの調子のよさというのが、活字を読むのとはまた別種の楽しさだなと思います。でも若い人で落語を聞きにまめに通う人なんて、どれだけいるんだろう。(大阪にはけっこういそうな気もする、というのは勝手なイメージで言ってますが)
後々まで続いてほしい文化のひとつだけどなあ。それとも媒体や形式を変えて、それこそウェブなんかで、ずっと残ってゆくでしょうか。
古くから続く形式をどこまで残せるか、というようなことを別にすれば、何かの形では残るんでしょうけどね。物語にせよ、笑いにせよ、どんな時代にも求められるものだし。
「河岸の月」に拍手コメント頂戴しました。ありがとうございます! 例によって末尾に返信ございますので、ご確認いただければ幸いです。
平常運転といいつついきなり近頃ネットから消えがちですが(言行不一致)、別に忙しすぎてパソコンの電源を入れる暇がないとかいうわけではなくて、なんとなくぼけっとしているうちに時間が過ぎています。
何かしら毎日文章を書く習慣を、というので、日々感じたことなど書きとめてもいるのだけれど、いざここに書こうとしてエディタに入力していたら、九割がた仕事の愚痴になったので、結局消しました。別に身バレするような話題ではないんですけど、まあ他人の仕事の愚痴なんか長々と読まされてもなあ、というので。(まあわかっててもちょいちょい愚痴るんだけど)(働きたくない)
それでも書いておけば、もしかしたら同じようなことで悩み中の人が読まれたりするかもしれないので、あんまり悩まず思ったこと片っぱしからUPしたっていいんだろうとも思うんですけど。自分のブログなんだし。
結果的にUPはしませんでしたが、UPするつもりでぐだぐだ書いたら、なんとなく気持ちの整理はつきました。日記の効用ってこういうことなんだろうなあ。
昨日は朝から土砂降りの雨でしたが、出勤中、スズメが一羽、斜めに傾ぎながら目の前に下りてきました。それがいかにも雨の勢いに圧されての不時着という様相で、着地してからも二、三歩よろめいていたので、鳥は大変だなあと思いました。
野良猫なんかはたいていそれぞれ雨宿りスポットを持っているけれど、鳥ってどうしてるんだろうなあ。たまに電線の上で雨に打たれて顔を上げている鳥を見かけるのですが、もしかしてみんな雨に打たれっぱなしなんでしょうか。鳥に雨宿りという概念はないのか。それともわたしが見たのがたまたまで、普通はどこかの木陰でじっとしているものなのか。
水浴び? 鳥が水たまりでばしゃばしゃしてる映像なら見たことあるんですけど。
ちょっと前から、なんとなく鳥に興味があるのだけれど、所詮はなんとなくなので、手元の野鳥図鑑を眺めてみても、なかなか往来で見かける鳥と一致させることができません。だいたい見かけるといっても、距離が遠いしね……シルエットしか見えなかったりするし。「これかな……いや違うような気もする……あっ、こっちか? いやでも大きさがなあ」みたいな感じです。バードウォッチャーの人はすごいなあ。
その道に本格的に踏み入ろうとすると、結局は装備を背負って山登りせざるを得なくなりそうで、思いとどまっています。(運動きらい)
双眼鏡のいいやつを持って鳥に会いにゆく旅、というのも楽しそうだなあとは思うんだけど、最終的には行軍だろうし、車で近くまで行けるとしても、その車道がまず間違いなく運転しづらい道だしな……
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